葉山さんの気になるOOセレクチョン
初秋の頃。法事で帰郷した私は、十五夜が迫る夕暮れ時に下宿へ戻って来た。つまり一人、オーバー夏休みを堪能していたのである。
とは言え、明日は履修登録の最終日とあって、その日は日付が変わる時分まで履修予定を画策しては、勉学に怠けるか青春を謳歌するかを天秤に……あるいは来年を見据えて、悩んだあげく。どっち付かずの妥協点でめでたく合意に至った。優柔不断と言うか、わざわざ危ない橋も渡らなければ、叩いて橋も渡らない。私らしい決断と言える。
翌朝、イの一番に混み合うでもない事務局へ赴くと、昨夜、知恵熱むんむんに書き上げた履修登録申請書を提出し、火曜日の欄が1コマずつ枠がずれていることを指摘され、泣く泣く書き直してようやく受理された……昨夜、懇切丁寧に清書したと言うのに……それが破棄され、その場しのぎと言わんばかりに書き殴ったそれが受理されると言うのも素直に腑に落とせない。
講義は軒並みオリエンテーションであり、すでに履修登録を提出した私にとってしてみれば受講するだけ野暮と言うものである。ゆえに私は事務局から直接、本館からグラウンドを挟んだ先にある部室棟へ向かったのだった。
文芸部の薄っぺらい木製のドアの前に立つと室内から忙しなくキーボードを叩く音が耳に痛い……端的な私への嫌がらせではなかろうかとも訝しんでみながらも、私はそっとドアを開けて部屋の中に入った。ドアを閉める私に気が付いたのはフィギュアのスカートを弄んではその中身に浪漫を見出す偏執部長だけであり、その他の構成員は軒並み文芸誌に掲載する自分の作品を必死に執筆中のご様子であった。
私は、空いている席に腰を降ろし、リュックから真梨子先輩に借りているノートPCを出すとコンセントに電源を入れる前にスイッチボタンを押した。
使用できるようになるまで数十秒の間、両隣を見ればそれぞれに神話辞書やら、武具辞典など、作品に応じて資料集めも抜かりはないらしい……その点、私ときたら……
「夏目君。ちょっとちょっと」
そろそろHDDも落ち着く頃合いだろうとマウスの上に手の平を置くと、急に部長のお気に入り『フランソワーズちゃん』が突然私の顔の横に現れたので驚いた。
それはいつもの部長の手口であり、安易に予見できて然るべきだと言うのに、2週間のブランクがすっかりその勘を鈍らせてしまったらしい……
「大丈夫ですよ。入稿までには原稿あげますから」
上座に据えられた部長席まで部長の後塵を拝して私は表情だけは真面目にそう言った。
この時季だけ部長兼編集長になる部長は、作品こそ書かないのだが、顔に似合わず画像編集ソフトをものの見事に使いこなす腕の持ち主で、文芸誌の表紙やカラー刷りのスポンサーページなど、とにかく眼を惹かなければならないページと言うページを担当していたりする。顔に似合わず、インテリなのである。
編集長のくせに、執筆の進まない者に激励することもなければ尻をひっぱたくこともせず、すると言えば、指の止まっている者をフィギュアのスカートの中を覗く時と同じ視線でなめ回すことくらいだろうか……精神的にはこちらの方が辛いものがある。だから、ごく少数ながら図書館で執筆している女子部員もいたりする。
表だっては口に出さないながら、部長の存在が気色悪いのだろう……
「君ってその……同性愛者って本当かい?」
「はい?」
いきなり何を言い出すのかと思いきや……よりにもよってどうして同性愛者なのだろうか……
「真梨子さんの部屋に真梨子さんの部屋に上がり込んだくせに。上がり込んだくせに!真梨子さんの………真梨子さんの裸を見て逃げ出したそうじゃないか!」
何と言う妄言を公衆の面前でそれも大声で吐き散らかしてくれているのだろうか。そして、どうして、部長が鼻を啜りながら目頭を押さえているのですか……
「誰がそんなことを言ったのか知りませんが、そんな事があるはずないでしょ!ありえません!天地神明に誓ってありえません!」
私は涙を拭う部長に背を向け、聞き耳を立ててすっかり静まりかえった部屋中に、いいや。廊下まで届く声量でもってこれを完全否定してみせた。
まあ、確かに似たような出来事はあったが、決して『裸』ではない。その一歩手前であった。
「そうかい。そうだよね。真梨子さんが君なんかをね。そうだよね。そう言えば最近、真梨子さんは?」
窒息寸前のフナが水に戻されたように、部長は急に鮮やかな口臭と共に、私の肩を何度も叩いた。
「知りませんよ。何で私が知ってるんですか」
そう言えば、ここのところ真梨子先輩からなんの連絡もない……とは言え、友人でもなければ恋仲でもあるまいし、必要以上に連絡を取り合う必然性は皆無。だから、連絡がなかろうとも不自然なことは微塵もない。
「だって、いつも夏目君は真梨子さんに磯巾着してるじゃないか。だから知ってると思ってさ」
夏休み明けてから一度も来て無いんだ……部長はそう言うとキーボードの上に突っ伏して嘘泣きを演じていた。
ディスプレイに出力される『あああああああああああああああああ』の文字が部長の心情を表しているようで面白かった。
今更ながらであるが、部長は真梨子先輩のことに好意を寄せている。だから真梨子先輩と私が気さくに会話をしていたり、時には共に昼食や帰宅の途についている様子を随分と妬ましく思っているようで、私への言動にいちいち棘があるのはそのためだ。
もしも、真梨子先輩へ対して部長が抱く想いが純粋な恋心であったなら、私とて応援することは吝かではない。
だが、お乳に括れにお尻にと到底、純粋を遥か遠くに置き忘れてしまったのか、初めから持ち合わせていなかったのか……とにかく部長の抱く想いは邪なること最悪のごとし。『真梨子先輩』ではなく明瞭に
『真梨子先輩の体』を愛しているのであって、そんな変態の一手を酒の席で語る男を応援する阿呆は世界を探してもどこにも見つかるまい。
もしも、現れたのならば、片っ端から私が蠅叩きでもって百叩きにしてくれる。自分で言うのもなんだが、正義うんぬんなど知ったことではない。
私は乙女にのみ味方なのである!
胸に湧き上がる高揚感と目前に並ぶ情けない『あ』の文字。この温度差に耐えられなくなった私は何を言うでもなく、部長をほったらかして、座席に戻ると真梨子先輩のノートPCをかたかたと打ち始めた。
部長からすれ、私が真梨子先輩の所有物を使っていることすら気に食わないらしく、私がPCを借用する以前は部屋中に珈琲の芳しい香りが漂っていたと言うのに、私が珈琲を飲んでいて、誤って真梨子先輩のPCにこぼしては取り返しがつかないと、部長による独断と偏見のみで『飲食禁止令』を発令し、なぜか私が白い眼で見られ……これには真梨子先輩も苦笑しているしかなかった。
私も一様執筆の体を保っているが、実際には伊呂波歌を打っては消しを繰り返しているだけだった。だからこそ、部長の一方的な真梨子先輩への愛情劇を語る余裕があるわけである。
部長に呼ばれすっかり言い損じてしまった。実のところ、私は作品の何もかもの準備も出来ていなければ、一字一句として筆が進んでいなかった。そのうち何か思いつくだろうとか……最悪、過去の作品を使い回そう……そんな悠長に考えていての結果である……まさに本末転倒。
しかしまあ、私が同性愛者と指をさされる日が来ようとはお天道様でもこればかりは予見できなかっただろう。婦女を愛してやまずお乳の大好きな私をどこからどう見れば同性愛者に見えるのだろうか。確かに、部長のように『俺の夢は真梨子様のお乳を揉むことだ!』と本人のいる席で叫んだり、露骨に『健全な男子です』と口に出すこともなければ、部長のようにフィギュアのスカートを捲って喜んだりと行動にも表さない。そんな私であるが、だからと言って同性愛者とは些か飛躍しすぎだと思う。
人の噂も75日。日数にして2ヶ月少々を知らぬ存ぜぬと肯定も否定もせずに涼しい顔をしてさえいれば、噂なんぞと言うものは無為自然と下火になってゆくものだ。下手に騒ぐと古平辺りが面白がって火に火薬を注ぐことにもなりかねない。だから、変に手を加えず自然風化を待つが上策なのだ。流れのまにまに焦ることのない自分を賞賛しつつ、だが、どうして全ての例が部長なのだろうか……私の基本は部長なのか……と軽い吐き気をもよおして、それこそ有り得ない。と部長を見やると、丁度、部長が私をなめ回している最中だったので、さらに気分が悪くなってしまった…………
○
夏休みを実家に帰らずに、下宿先で……いいえ、ほとんどの時間を真梨子先輩の部屋で過ごしていた私は、その日も今晩の夕食は何にしようかな。と考えながら大学と真反対にあるスーパーマーケットで野菜やら総菜を物色していました。するとまさにその時に「今から来れる?」と先輩からメールが入ったのです。だから私は「今スーパーにいるので、すぐに行きます」と返信をしました。
ちょっとしたお菓子と飲料をお土産に買って、真梨子先輩のアパートへ向かいました。
別に私の方から「行ってもいいですか」と連絡したこともなければ、毎度、真梨子先輩からお誘いがあって、足を向けるのです……と先に言っておきます。先週は毎日のように通っていましたから、さすがに控えなければ……と思ったりしてみたのですが、今週も先週同様に今日で5連続となってしまいました。
先輩の部屋は居心地も良いですし、先輩の料理は美味しいし……今では一緒に料理をしたりもするまでになりました。真梨子先輩は交友関係に苦労はしていないでしょう。それなのに、私ばかりを可愛がってくれるのでお誘いを無碍にもできません。
だから5連続なのです。
それに……私は先輩と違って、親密と呼べる友人もいませんし……部屋にいても、ただ怠惰に日々を過ごすだけですから…………その証拠に先輩の家に通いはじめた当初、その帰り道では口の周りの筋肉がすっかり疲れてしまっていました。日頃、よほど私は表情がないのだろうとこれほど思ったことはありません。ですが、今日ではそんなこともすっかりなくなり、美術部の先輩方からも「最近よく笑うようになったね」と言われるまでになりました。それだけ真梨子先輩と一緒に過ごす一時は面白愉快なので、お誘いをされてしまうと、どうしても行かずにはいられないのです!。
「いらっしゃい」
そう言ってドアを開けてくれた先輩の姿も5回目です。
「この前、先輩が言ってた長靴スナック買って来ましたよ。ついでにデロリンソーダもちゃんと買いました」
廊下を先に歩きながら私がそう言うと、先輩は「わあ、楽しみ」と音符を飛ばしています。
「その前に夕ご飯食べましょう」
「頂きます」
私は食器が伏せて並べてあるテーブルの下にお菓子の入った袋を、飲料は冷蔵庫へと持って行きます。
今晩のメニューは素麺ですね。桐の箱に納められた細く無垢色のそれはまるで真珠のようです。そして、一束一束黒い帯で結ばれているのですから、普段私がスーパーで買っているものとは一味もふた味も違うのだろうな。と一目見てそう思える一品なのでした。
「これね、三輪素麺って言ってとっても美味しいのよ。お中元でもらったのを実家から送って来たのよ」
「でも、先輩は食べ慣れてるんですよね」
「毎年送られてくるから、その時だけね」
ぐらりぐらりとする鍋の中に次々と真珠素麺が流し込まれて行きます。パスタ麺よりもずっと細い素麺はお湯に浸かるなり瞬時に波に揺れる昆布のようにふにゃふにゃになってしまいます。
「これなんの映画ですか」
調理は先輩に任せて私はテーブルの傍らに腰を降ろしてテレビの画面を見ると、そこには傷だらけの男性が、ぼろぼろのドレスを身に纏った女性をお姫様抱っこで抱え仁王だっているシーンでした。停止しているのでしょうね。ずっとそのシーンなのですから。
「なっちゃんはどんな映画が好きかな。テレビの前にまだ見てないのあるから好きなのかけて良いわよ」
「でもこの映画はどうするんです」
もうラストだもん。先輩はそう言ってから、鍋を持ち上げると、ザルの上にお湯を流し込みます。途端にもわもわと噴き上がる蒸気とお決まりの………私が楽しみにしていると、蒸気が一段落したその時にベコンッとシンクが鳴きました。この音がしなければいまいち湯切りをした感が物足りません。
滝のような水道の音を聞きながら、私はテレビの前に置かれたレンタルバッグを開いて、面白そうなタイトルがないか探します。私は別に映画に関して偏った趣味はありません。ただ、できれば派手な爆発や銃撃戦に血みどろは見ていて面白いと感じません。ですがら、ホラーやスプラッター映画は見ようとも思わないのです。
幸いと言いますか、先輩の趣向はそう言ったものではありませんで、アクションモノだろうタイトルが一本ともう一つのバッグには、恋愛モノでしょうタイトルが2枚収まっていました。
気になったのが『OOセレクチョン』と可愛さをこれ見よがしにピンク色の丸文字で書かれた2枚のDVDでした。興味こそありませんでしたが、これではタイトルから何のセレクチョンなんのかがわからないではありませんか。そう思ったのでした。
とりあえず、恋愛モノをプレイヤーに入れた私は迷うことなく再生ボタンを押しました。
「なんだあ、なっちゃんって恋愛モノ好きなんだ。乙女だねぇ」
小粋なおっちゃん気取りなのでしょうか。先輩は硝子皿に盛りつけられた素麺をテーブルの上に置きながら、低い声で言うのです。
「いいえ。先輩が好きなのかなと思って」
恋愛経験のない私にとっては、恋愛映画もドラマも今ひとつ感情移入しきれず『はてな?』と首を傾げているうちに終幕を向かえてしまうのが常です。それなら、単純なアクション映画にすれば良い。そう言われてしまうとその通りです。ですが……少し……真梨子先輩がどんな恋愛模様を好むのか気になってしまったのだろうと思います。きっとこれが本心なのでしょう。
「桜んぼ、なっちゃん食べて良いからね」
映画のCMの間、ちゃっちゃと夕食の準備を済ませて、私の対面に腰を降ろした真梨子先輩は、盛りつけられた素麺の頂上にちょこんと乗せられた薄赤の果実を指さして、にっこりと微笑みます。
「遠慮なく頂きます」私は先輩と声を揃えて『いただきます』をしてから、一番に桜んぼをひょいと摘むとそのまま口の中へ運びました。果肉をかみ砕くと、途端に広がる甘酸っぱさと水っぽい甘さ……美味しい!と言い切れないのが正直に悲しいところでした、けれど白の中に紅一点と夏の趣を醸す果実は、味覚とは違った意味で十二分に味わい深く頂くことができたのでした。
先輩お勧めの三輪素麺は確かに喉越しもよく、口の中でごわごわとしませんで、私が普段買い求める素麺とはワンランク上ですね。と私は北大路魯山人のように素麺を味わっては何度も頷いては美味を噛み締めていたのでした。
一方、先輩はと言うと、お行儀悪く、素麺を啜りながら横を向いて映画を見ています。
私もお行儀が悪いのを覚悟して横を向きます。すると、画面の中では丁度、若い男女が熱い抱擁を交わしているところでした。そして、流れのまにまに、濃厚にも熱烈で激しい口づけを交わすのです。私は俳優も女優さんもよくここまで演技できるものだな。と素麺を啜っていたのですが、先輩はついに啜るのを途中でやめて、その愛のシーンを食い入るように見つめているではありませんか。私としては、とりあえず、口から垂れ下がる素麺を口に入れてからにした方が良いと思いました。けれど、少女漫画の主人公の瞳のようにキラキラと瞳の奥を煌めかせて恍惚とする真梨子先輩には、決してそんな野暮ったいことは言えるはずもなく、まるで、停止ボタンを押されたように固まっている先輩を上目遣いに見ながら、さらに素麺を啜るのでした。
素麺の半分以上を私の胃袋に納めて、映画一本分の時間を夕食に費やした私と先輩はエンドロールの間に食器類をシンクにへ持って行き、さっさと片付けを終えると、プレーヤーから出したDVDを見つめながら先輩が「恭君こんなの見るんだ」と呟きました。
「それ夏目君が借りたDVDなんですか」
うん。と短く答えた真梨子先輩はもう一枚のDVDをプレーヤーの中に入れると、台所に居た私に「デロリン飲もうよ、長靴も食べよ」と悪戯に微笑むのでした。
「がってんです」
待ってましたと私は冷蔵庫から赤色と青色に分離したデロリンソーダーを取り出すと、先輩の分をテーブルに置き私は手に持ったデロリンを床に置きました。
そして、テーブルに下に置いた長靴スナックを取り出してテーブルの中央に置きました。
「開けるよ」先輩は袋を手に取ると、身を乗り出してテーブルの中央で両方から引っ張り封を開ける準備をします。「はい。いつでもどうぞ」そう言った私は身を乗り出して袋の真上に顔を持って行くのです。すると、真梨子先輩と私の額がぴったりとくっついてしまいました。仄かに香る甘い先輩の髪の毛が……これから毒されてしまうようでなんとも複雑な気持ちでしたけれど、楽しみにしていたのですから、どうしようもありません。
「せーのっ」
先輩はそう言うと幾ばくか腕に力を入れ力みます。そして、その次の時には袋の封は爽快とばかりに大きながま口を開けたのです。
「わあ」「臭っ」
横一文字ががま口に変わった途端に、吐き出された口臭のごとく何とも言えない匂いが私と真梨子先輩の鼻腔を汚染し、ぴったりとこずき合わせていたおでこは同極の磁石のように瞬時にして互いを退け合い、それぞれに床に転がると鼻を摘んで手足をじたばたとさせました。
長靴スナックと言うお菓子は正式には『高原のコーンスナック』と言うお菓子で、味自体はとうきびの粉をベースに香辛料を混ぜて揚げたシンプルな味わいのお菓子なのです。味も別段、不味くもなければむしろ美味しいのです。ですが、なぜだか、袋を開けたまさにその瞬間だけ、汗びっしょりの足で長靴を履いて、さらにランニングをし、数日おいた後に電子レンジでチンしたような、とにかくゴムの匂いと醗酵した汗臭ささを思わせる激臭を発するのですから不思議です。
そして、そんな噂が噂を呼んで、ついたあだ名が『長靴スナック』なのです。
少しの間「臭い」だの「やだぁ」だのと二人してきゃいきゃいと悪臭の余韻に浸っていたのですが、真梨子先輩よりも先に復活をとげた私は、恐いモノ見たさで今一度、ゆっくりと袋の口に顔を近づけて鼻をひくひくさせてみました。けれど、もうあの眼が冷める悪臭はどこへやら、BBQソースのような香ばしい香りがして、どうにも美味しそうではありません。本当に摩訶不思議です。
「次ぎデロリンデロリン」
涙を拭きながら起きあがった先輩はテーブルの上に置いてあるペットボトルを両手で持つと「何色になるかなあ……虹色になれ!」と念じながらペットボトルを上下左右に全力で振りはじめます。その際、ボトルと一緒に上下左右に跳ねる髪の毛がなんともお茶目さんです。
私も先輩に続いて、ボトルを両手に持つと「いきます」と一呼吸おいてから、必死になってペットボトルを振りはじめます、平均的に2分間激しく降り続けると、分離していた色同士が完全に混ざって、一色に完結するのがこのデロリンソーダと言う飲料です。なんでも、ラベルには決まったパターンはなく、振り方によって色合いが変わると書いてありますから、振り方と言うよりは混ざり具合が大きなポイントなのでしょうね。
そうでした。忘れてはいけません。このデロリンはごく稀に色が上手く混ざりきらず虹色になることがあるとか無いとか……
真梨子先輩が言うにはそれはそれは狂ったように振れば虹色になるそうなんですが、
一生懸命にこれでもかと髪の毛を踊らせて、デロリンを振る先輩を見ていた私は、どこか中途半端にしか振っていませんでした。
これで、もし私のデロリンが虹色になったならどうしようと思うくらいです。
「どうだ!」
と息を荒くしてデロリンを机の上にどすんと置きます。その衝撃で長靴スナックの粉が少しテーブルの上にこぼれてしまいました。
「残念。緑色。なっちゃんは?」
「私は赤色でした」
もしかしたら……なんて一瞬でも淡い期待を抱いた私ですから、何だか恥ずかしいです。
「先輩、冷蔵庫に入れますから貸してください」
私は立ち上がると、真梨子先輩にそう言いながら手を差し伸べます。「ごめんね、お願い」と先輩は前髪をかき揚げながらデロリンを私の手の上に乗せます。
そうなのです。デロリンは炭酸飲料ですから、思いっきり振って色を変えてからすぐに蓋を開けてしまうと、内容量の約半分程度が三鞭酒のように吹き出してしまうので、振った後はしばらく寝かしておかなければ落ち着いて飲むことができないのです。
購入した私が言うのもなんですが、どうしてこんな面倒くさい飲み物を考えたのでしょうか。
○
コーンスナックとデロリンを交互に賞味しながら恋愛映画を鑑賞して、それから、もう一本のアクション映画を見ていました。
前者は主人公が幼少の頃に海に流した手紙入りの小瓶がテーマとなっており、お隣さんの荷物を預かったことから、ヒロインと出会い……そのラストではそのヒロインが、主人公の流した小瓶を拾っていた。と言うストーリーでした。
最後のシーンで「小瓶の手紙、何度読もうと思っても、最後の文字が滲んじゃってて……なんて書いてあったの?」とヒロインが聞きます。主人公はもうそのことをととっくの昔に忘れているのですが……「君のことを愛しています。って書いてあったんだよ」と照れながら言うのです。
ヒロインは、その言葉と主人公の優しい眼差しに瞳を潤ませて「嬉しい」と呟ながら、ヒロインから主人公の胸にすがっての二人の長い抱擁。後にシルエットでのキスが行われて……エンドロールがはじまりました。
画面の前では真梨子先輩がその様子を食い入るように見つめては、何度も頷きながら同じく瞳を潤ませていました。
当の私はと言うと……「嘘つき」とそれだけ、ただそれだけを思っただけだったのです。
もちろん手紙に『君のことを愛しています』と書かれてあった。と言う部分ではありません。それは遡ること序盤も序盤、小学校低学年ほどの主人公が祖母の墨を使って書いた手紙を小瓶に押し込んで浜辺から海に投げ込と言う場面に遡ります。
何せ、私は主人公と同じ年頃に同じことをしたことがあったのです。その時は、寝る前にトムソーヤの絵本を読んでもらって、翌朝、トムソーヤの冒険に興奮冷めやらぬ私は、その絵本の中で登場する『SOS』と言う文字を新聞に入っていた広告に赤いマジックで大きく書いて……父の空けたブランデーの達磨瓶に押し込み、そして、心をときめかせながら、浜辺まで走って行くと、海に向かって力一杯に投げ込んだのです。
なぜだか嬉しくて嬉しくて、スキップをして……いいえ、この時はまだスキップはできませんでしたから、スキップもどきをしながら家に帰ったと思います。
私は子供ながらに、あの小瓶は果たしてどこに流れて行くのだろう。誰が拾ってくれるのだろう。終わりが見えないほど広い海なのだから、ひょっとしかた外国に流れ着くかもしれない。そしたら、どんなお返事をくれるのだろう。瓶を投げ込んでからと言うもの、心のわくわく上昇気流が私の身体をいつだってふわふわと空へ浮かせてくれるようでした。
1週間ほど経った休日に私は浜辺へ行きました。もちろんスキップもどきをしながら。だって、その週はずっと投げ込んだ瓶のことしか頭になかったのですから……学校の授業中も、お風呂に入っている時も、食事の時も……浜辺に返事が流れ着いていることを夢にまでみたくらいでした。
浜辺に行ってみると、丁度引き潮時。私は浜辺を色の濃くなった普段は歩けないところを歩きながら『返事』を探していました。
すると、浜辺と磯野との境目に、恰幅の良い瓶が転がっているではありませんか。しかも、中には手紙とは言えないながらも、何やら紙が入っているのです。私は鼓動を高鳴らせながら瓶を抱きかかえると、猪のように家に走って帰りました。縁側に座って足をぶらぶらさせながら、瓶の蓋を捻りあけて、中の紙を取り出そうとしました。けれど、この手紙の送り主はおっちょこちょいのようで、取り出す時のことを考えて手紙を入れなかったようなのでした。
無理矢理押し込んである紙は、瓶を逆さにしようとも振ってみようとも一向に出てこず、困った私は蛇の生殺しとはこれいかにと恨めしく瓶を見つめると、次の瞬間には瓶を頭上に持ち上げ、大きな庭石にこれを投げつけていたのです。
私の思惑通り……と言うか……とりあえず瓶は木っ端微塵となり、くしゃくしゃになった紙が乾いた土の上に落ちたわけです。私は四散した瓶の破片に気を止めることなく、紙を拾い上げました。その時手の甲に何かが触った気がしたのですが、早く返事を読みたい一心でその時は気になりませんでした。
その紙は近くのクリーニング店の広告でした。
広げてみると、
『SOS』と赤い文字で大きく書かれてあったのです……
『SOS』の意味も知らず、そもそも、ローマ字もわからない私でしたし……その頃には『パパチのクゥちゃん』と言う絵本に心を躍らせていましたから、トムソーヤのこともしっかり忘れてしまっていたのだと思います。ただ、返事の事だけを覚えていたのです。
顔を顰めていると、今さら、手の甲が痛がゆく、そして熱いことに気が付きました。紙を左手に持って、手の甲を見やると、なんと血が出ていました。それも中指に滴るほどに……血が大嫌いで、クラスの誰かが鼻血を出した時など、一緒になって泣いてしまう私でしたから、私はもれなく大泣きをしました。それはもう喉が焼けるほどに叫びましたとも。
そもそも、瓶を割った時点で「何してるの、なっちゃん?」と台所から母親の声がしてましたから「あらあら、どうしたのなっちゃんは、そんなに泣いて」と言いながら、すぐに母が来てくれたのですが………
「うぅ」
私はそこまで思い出して、頭を抱えました。
手の傷は深くなく、洗面所で洗っていつもポッケに入れてあったクマちゃんの絆創膏を一枚貼って事足りてしまいました。
でも、母はその後、帰って来た父に大笑いしながら私の携えていた『SOS』とかかれた広告を見せて、父と一緒にさらに大笑いをしていました。庭で手に怪我をして、泣き叫びながら、もう片方の手には『S0S』が、文字通り『助けて』と書かれた紙を私が持っていたことが、可笑しくて仕方がなったそうなのです。
私からすればとても嫌な記憶です。未だにお正月など親戚が揃いますと、毎度毎度、母はこの話しをするものですから、その度に私は笑われてしまうのです。
結局、何が言いたいのかと言うと、浜辺から瓶を投げ込んでも波に打ち返されて浜辺に戻って来てしまうと言うことが言いたかったのです。
だから「嘘つき」と私は思ったのでした。
「これから、DVD返しに行くけど、どうする?なっちゃん帰る?」
物語の中盤、ヒロインが息絶えてしまったところで、DVDを取り出して、ケースにしまいながら先輩が言います。
私は「いいえ、お供します」と言ってからテーブルの上に残されたコーンスナックの袋やらデロリンのボトルをゴミ箱へ、台所へと簡単な片付けをしてから、バッグを携えた先輩と一緒に玄関へと向かったのでした。
晩夏の頃を思わせる虫の音を聞きながら、静かな夏夜を歩きます。昼間よりはずっと涼しくなったからでしょうか。夜空の大三角形も気持ちよく見上げることができるのです。
「そう言えば、どうして映画途中でやめちゃったんですか?」
まだ途中だったのに、私が言います。
「だってヒロイン死んじゃったもん」
「え、ヒロインですか……」
「誰にも言っちゃダメだよ」
レンタルバッグを後ろ手に回した先輩は踵を返し、暫し後ろ向きに歩きながら私の瞳に言います。
私は「誰にも言いません」と2度頷いて見せました。
「なんかさぁ。頼もしい男の人に守られてるヒロインっていいなあ。って思っちゃうのよねえ」
お姫様抱っことかされちゃって!照れ隠しでしょうか、真梨子先輩は弾んで見せました。
「だから私が来た時、お姫様抱っこのシーンで止まってたんですね」
「何度も見返しちゃった」と悪戯な笑みを浮かべる先輩は本当に可愛い女の子だと思いました。
私はてっきり、派手な爆発や激しい銃撃戦。加えて、多勢に無勢を何のその、やたらと強い主人公が爽快に悪の組織を打ちのめす様に興奮していたのだとばかり思っていました。ですから、先輩のアクション映画の見方には意外と言うか……目から鱗だったのです。
「でも、第2のヒロイン登場の可能性もあったじゃないですか、最愛の人の命を奪われて、荒れる主人公を癒して、やがて正義に導く……みたいな第2のヒロインですよ」
「良くあるパターンです」私は続けて言いました。
「それはそうだけど……」
第一に、後半はむさ苦しい男だけの熱すぎる汗臭い戦いなんて、見ていて誰も面白いとは思えません。だから、紅一点と第2のヒロインが……死んだヒロインよりも美人でグラマラスな女性の登場がかかせません。
「なんか、浮気してるみたいで嫌じゃない?愛してる。って言ってたくせに、死んだら終わりって言うか……すぐ次ぎに乗りかえたみたいで」
この時は振り返りもしなかった先輩でした。だから、私が歩調を早めて先輩の横に並ぶと。どこか遠くを見つめて憂鬱な雰囲気を醸す先輩の横顔があったのでした。
「先輩は乙女チックなんですね。死んでしまっても一途にずっと愛し続けられたいなんて」
「私ならそうするよ。だって、そうされたいもん」
無表情で言った私に、視線だけをくれてそう言った先輩でした。
レンタルビデオ店の入っている書店の自動ドアをくぐったところで「私が返して来ます」と先輩に申し出た私に先輩は「じゃあ、私はDVD見て回ってるね」と頷きと一緒にバッグを渡します。返却の受付カウンターに持って行くと店名の入った萌葱色のエプロンをした男性が対応をしてくれました。
「確認しますんで、少々お待ちください」
髪の毛を茶色に染めた男性はきっとアルバイトでしょう。エプロンの下に着ている青いTシャツと首周りには肩が凝ってしまいそうな、ネックレスがぶら下がっていましたから。
そうです。真梨子先輩をよく知らなかった頃の私は、真梨子先輩の友人はこんな格好をした男性ばかりだと思い込んでいました。
でも、実際には……と言うか、まだ、男性のお友達は一人として見たことがありません。携帯で連絡を取っている姿も見かけませんし……
先輩も携帯をあまり使わないのでしょうか。かくゆう私は『携帯を携帯しなさい』とゼミの友人に言われてもなお、ポケットにはお財布と家の鍵しか入っていません。私の携帯電話は今頃充電器の上でぬくぬくと寝息を立てていることでしょう。
「あの、歳のわかるもの見せてもらって良いですか。成人DVDが入ってますんで」
バーコードリーダーでDVDケースに貼られたバーコードを読ませる作業を黙々と続けていた店員さんが、とあるDVDケースで手を止め、腕を動かすたびにじゃらじゃらとなるネックレスに視線を向けていた私は急に目が合ってしまって、とても驚いてしまいました。
「学生証でいいですか」
慌てて視線を白いカウンターに写すと、ズボンの後ろポケットに入れていた財布を取り出して、学生書を店員さんに見せました。
どうも。と義務的に私が見せる学生証を一瞥してから「ありがとうございました」とそっけなく言うと、店員さんはさっさとDVDをカウンター内のテーブルの上に、置くと、そのまま書籍コーナーへ行ってしまいます。
私は今更顔をゆでだこのように熱を宿して、学生証をお財布にしまいながら、早歩きで先輩の姿を探したのです。
DVDコーナーを一通り歩破した私は、蛍光ピンクの暖簾がかかった入り口の前で『まさか』と思いながら、目元をぴくぴくさせていました。
「(OOセレクチョンだ。OOセレクチョンに決まってる!)」
私は胸の中で、何度も何度も反芻して言います。OOセレクチョン以外の作品は真梨子先輩と一緒にこの眼でしかと鑑賞したのですから……後は未見なのはOOセレクチョンだけではありませんか!
そう言えば、真梨子先輩は『夏目君って~』と夏目君が借りたDVDがあることを話していましたから……絶対に夏目君が借りたに違いありません。私はまだ、真梨子先輩の口からしか聞いたことしかない、夏目君を早々と恨みました。
人生ではじめて成人DVDを返却した私なのです……
ですから………とっても!とっても恥ずかしかったんです!
「ごめんごめん、今日発売の本が探してたの」
私はお腹の中で、お腹の虫を煮込んでいると、真梨子先輩が小走りに私の背中に声を掛けたのです。
「先輩!成人DVDが入ってました!学生書で年齢確認までされました!」
私は先輩に詰め寄ると「恥ずかしかったです!」と言うかわりに、そう言いつつ、言い終わった後に周りに誰もいなかった幸いに安堵の息を吐きました。
「うん」詰め寄る私に先輩はまるで「それがどうかしたの?」と言わんばかりにあっさりとそれだけを言ったのです。
「うんじゃありませんよ。夏目君は最低です。先輩にそんなDVDを返させるなんて!」
夏目君は真梨子先輩に何という恥をかかせるつもりだったのでしょう。そう思っただけでも、腹が立ちます。実際は私が返してしまって、私だけがとてつもない恥ずかしい思いをしただけでしたけど………
ちがうちがう。先輩は憤る私を窘めるようにそう言うと、
「私が借りたのよ。恭君は恋愛映画だけよ。でも、おかしいなぁなんで返却の時に年齢確認なんてするんだろ?普通は借りるときじゃない?」と言うではありませんか。
「へっ」私は本当に『へっ』とだけ言いました。これも生まれてはじめてのことです……今夜はなんだかはじめて尽くしですね。
先輩は唖然とする私に「帰ろっ」と言うと、何を言うでもなく書店を後にしました。
幾分涼しくなったとは言え、冷房の効いた店内からでると、蒸しタオルの上を歩いているような蒸し暑さに、露出度の高い服を着ている先輩が少し羨ましくなりました。
この暑さでは頭は冷えませんでしたが、確かに言われて見れば返却する時に年齢確認をするのはおかしいです。
だとしたら……私は掻かなくても良い恥を掻いたことになります……
「ちなみにですけど、あのDVDは何のセレクチョンだったんですか」
どんな色の箱であったとしても、中身が気になってしまうのはパンドラ以来、人間の性だと思います。
「気になる?」
いやん、なっちゃんたら。と眼を細めて戯けてみせる先輩は、どうしてこんなに楽しそうなんでしょうか。
「ちなみにです」
「うーん。おっぱいじゃないかな。それも大きいのばっかり」
細くて長い人差し指を顎に当てながら、思い出すように話す先輩です。
私は先輩の隣で尽かさず周りに誰も、特に男性がいないかを確認します。隣にいる私がどうして羞恥心に駆られなければならないのかはとても不思議なのですが、その……何というか……胸の辺りに大きな果実を実らせて、容姿端麗な先輩が『そう言うこと』を言うと、どうしてでしょうか、とても卑猥に聞こえるのです。
いいえ。卑猥とは言葉が少々悪すぎます。なんと言えば良いのでしょうか。筆舌するに困る感覚なのですが、苦し紛れにでも例えるとするならば……私が持つと汚い色でも、真梨子先輩が持つと忽ち桃色に早変わりしてしまう……やはり苦しいですね……
「ほら、夏目君って大きいの好きらしいから」
口元を痙攣させる私の頬を突きながら言う先輩。これはスレンダーな私への当て付けなのでしょうか。と刹那に黒い私が感受したのですが「そんなの知りません。それにしても先輩。よくそんなことを堂々と口に出して言えますね」とますます嬉しそうに口端を釣り上げる先輩に言ったのでした。
「そんなことって?なになに?」
確信犯なのか、それとも本当にわかっていないのか……こういうところが真梨子先輩の摩訶不思議な……私にもよくわからない性分なのです。
「だから……その……」
『おっぱい』だなんて私は口が裂けても言えません。今日は色々とはじめてのことがありましたから、これ以上のはじめては結構です。
私は頬を赤くして、先輩の盛り上がった胸元を恨めしく見つめていると「おっぱいのことね」とすんなりと、また言うのです。
なので私は、慎みについて先輩にお説教をしてあげなければと思い。「だから!」とまで言ったのですが……先輩のあまりの我関せずっぷりに私は言及するをすっかり諦めてしまいました。
「……先輩、また言っちゃいけないことを堂々と言いましたね………」
私は溜息混じりに項垂れては、いつまでも首を左右に振っていたのでした。