表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
桜ん坊と百合の花  作者: 畑々 端子
2/12

深夜に木霊す桃色狂走曲

 私は仁王だってその世界を凝視していた。いいや睨み付けていたと言っても過言ではない。


 駅前にある書店の中に入っているレンタルビデオショップで私はすでに半時ほど精神をすり減らしながらその是非を問い続け、半ば我が愛しのジョニーにその主導権を渡すまいと不毛なる抗争を繰り広げていたのである。


 汗ばんだ手には洋画作品が2本。いずれも恋愛モノであることを付け加えたならば、私の可愛らしさが少しばかりは理解してもらえようかと思う。


 その私が人恋しさに誰にも打ち明けられぬ願望と乙女の肌を求め、カモフラージュ作品を2本も借り、その散財を糧に果たして本丸に迫ろうとしているのだが、天王山への扉は容易にくぐれそうでありながら、どうしても私はその一歩を踏み出せずにいた。


 店員を確認するに、今晩に限って全てが男子であることはすでに調査済みであり、今晩を逃すとまた一週間と時を待たねばならない。果たして、このささくれ立った心中でもって後一週間、情緒不安定なジョニーを縛り付けておける自信が私にはない。


 断固としてない!!


 図書でもって窘めようかとも思ったが、図書は窘めた後の処分に困る。捨てるに捨てられず、かといっていつまでも部屋に据え置くと言うのもどうかと思う。その点レンタル作品であれば堪能の後、閉店後の回収BOXに放り込んでおけば万事問題はなく、後顧の憂いも皆無であるとお墨付きをもらっているようなものなのだ。


 だから私は今まさに桃色天国の扉をエアコンの冷風に揺らめく蛍光ピンクの暖簾と言う扉をこの手で開き、目眩く官能の境地へ!男子にのみ味わうことを許された桃源郷へ!悦楽の園へ!夢と浪漫のみが詰まった大きくも柔らかいお乳の世界へ!


 踏み込もうと試みているのである。


 私はついに咆哮をあげるジョニーに押し負け、従順なる欲情の僕として生唾を飲み込むと共に大きなそれは大きな一歩を踏み出したのであった。


 いざ行かん!桃色の世界へ!


「やっほー。恭君何してんの」


 暖簾に手を伸ばしたところで、私の背中に冷や汗が走った。それはもはや悪寒に似ていたかもしれない。


「先輩こそ、こんな夜更けに何をやってるんですか!」


 私が狼狽しながら、必死に平静を保ちつつ、振り返ってそう言うと、「DVD借りに来たんだよ」真梨子先輩はそう言いながらアクションものの新作を1本私に見せてくれた。


 レンタルビデオ店にビデオを借りに来ずして何をしにくるというのだろうか……我ながら阿呆な質問をしたと思った矢先。


 年の頃ならば私と同世代であろう男が桃色天国の扉をくぐって現実世界へ帰還を果たした。にやついた表情からすれお目当ての女神に出会えたのだろう……だが、真梨子先輩の姿に気が付くや、タイトルを見られまいと慌てて手にしたDVDを後ろ手に隠した所行はなんとも殊勝な心懸けである。私は同士としてこれには敬意を表した。

 

「そう言うことかあ。恭君も借りるんでしょ?」


「借りません」私は即答した。


 『もちろん借りますよ。借りるに決まってるじゃないですか。その為にだけ来たんですから』と私の心中を代弁してくれるヒューマノイドがいたならば、今すぐここに召喚したい。


 つまり……自分ではそんなことを口が裂けても言えるわけがないのだ。


「えっと……もしかして、私のせいかな」


 DVDの納められてあるケースを口許にやりながら、真梨子先輩はいらぬ気遣いを披露してくれた。


 たとえ、そうであっても『そうです。先輩が来なきゃ、今頃は桃色天国でうはうはでしたよ』などとも口が裂けても言えないし、さすがにそこまでは思っていない。


 私は泣く泣く桃色の世界に背を向けて、レジカウンターへ向かうことにした。このまま立ち尽くしたところで、何がどうなるわけでもなければ、好転するはずなど微塵も期待できないのである。それならば、さっさと家に帰ってふて寝をするか、布団に飛び込んで涙を瀑布のように流して心中を清らかにした方が良いに決まっている。


「ねえ」 


 すれ違おうとした私の腕を取って、真梨子先輩はそう言うと「一緒に行こうよ」と事もあろうに先陣を切って、女人禁制、男子の園へ堂々と入って行ったのであった。


「私はじめて入ったけど、なんか色々とすごいね」


 先輩は嬉しそうに喜々として手に取るとパッケージ裏などを見ては「へえ」「えぇ」と感想を漏らしていた。


 一方の私は、目のやり場に困った挙げ句、今にも眩暈を催しそうに気分を悪くしていたのであった……本来は逆の立場であるべきが健全であろうと思う。思いたいのであるが、どこに眼をやっても妙齢たる婦女があられもない姿を露呈しているのであるからして、私の視線は最終的には地面に向かわざるを得ない……


 そして「恭君はどんなの借りるの」とあっけらかんと聞いて来る先輩を見て私は早々と、桃源郷から脱出したのであった……


 暖簾をくぐって、思わず手に取っていたのはパッケージに筋肉隆々のマッチョが輝かしいポージングをしている映画であり、それをまじまじと見て、私はどこかほっとしてしまった。日頃、真梨子先輩の姿を見ているだけに、真梨子先輩が1枚2枚脱いだだけだろう。と安易に先輩に対しては失礼極まりない考えでいたのだが……その1枚2枚の差は歴然としていた。口の中に爆竹を押し込まれたようである。


 どうしたの。と言いながら真梨子先輩が出てきたのだが……


「恭君って大きな胸が好きなんでしょ」と大きなお乳のみをセレクトした作品を2枚私に突きだしたのである。


「古平君が前に言ってた」と小さく続けて……


「私にはそんな趣味はありません。それは古平の趣味です」


 私はきっぱりそう言うと、今度こそレジカウンターへ小走りに向かった。これ以上真梨子先輩に弄ばれてたまるか。大きなお乳の真梨子先輩がそんな卑猥なDVDを手に持っているだけで私のジョニーはお腹一杯なのだ!


「えっ、先輩……」  


 私が早口にレンタル日数を伝え精算の後、専用のバッグにDVDが納められるのを待っているとその隣で真梨子先輩が「2泊3日でお願いします」と小銭入れを手に桃色DVDも含めてレンタルしていたのである……その光景に私も唖然としてしまったが、アルバイトだろう私よりも年下の男子店員は職務を淡々とこなしながらも、2度「タイトルにお間違いはありませんか」と微笑みを浮かべる真梨子先輩に問いかけ「はい」と2度答えた先輩の顔をちらちらと幾度も見ていた。最後の目線は明確に先輩の胸元に向いていたと私は断言したい。


 先輩は何を考えているのだろうか……

 

「そう言えば先輩。こんな夜更に一人で出歩くなんて危ないじゃないですか」


 書店を先輩と一緒に出た私は、人通りもまばらな夜道を歩調を同じく歩き出してすぐそう言った。


 確かにこの都市とも田舎とも言い難い界隈であれば人の集いがまばらな分、夜中の1人歩きの婦女を後ろから押し倒すような不埒漢もそうそういないだろう……けれど、万が一と考えたならば……やはり危なっかしいことこの上ない。


 男子と違い年頃の女性は万が一に、その一度に失うモノが多すぎる。


「参考……えっと雑誌でも買おうかなあって」


 DVDの入った専用バッグを後ろ手に、夜空を見上げながら言う先輩であったが、

私が「小銭入れで雑誌を買いにですか」と言うと「するどいね」と少し舌を出して、戯けた表情をつくったの あっさりと白状した先輩は「実はね……」と話し出し、眉間に皺を寄せ、腕に鳥肌を並べながら『G』が台所に出現したのだと語った。


 夜ごと徘徊して家から家へと渡り歩く流浪モノにして、突然思わぬところから出現してはその俊足をこれ見よがしに披露して冷蔵庫の下などに姿をくらます。


 鮮やかな容姿であれば、その身とて虫網で捉えて観賞用にしないでもないが、闇に目立たぬ焦げ茶色の体からしても、丸めた新聞紙かはたまた蠅叩きでこれに応戦して最終的には文明兵器によってこれを撃退しなければおちおち眠れやしない。それがGなのである。


 私はそんなGを現代の忍びである。そう思っている。


 大袈裟に語ってみたが、別段私は気にもせず出たら出たで迎え撃つだけであると年中大きく構えている。だが、婦女の中にはこれを気持ち悪しと迎え撃つこともできなければ、姿が見えなくなってなお『この家のどこかに居る』と言う現実的な恐怖に恐々として眠ることもままならないと聞いた事がある。


 きっと真梨子先輩もこのタイプの婦女であるに違いない。しかしながら、真梨子先輩のようなタイプの方が可愛らしいではないか。G一匹に驚いて助けを求めないながらも、危ない夜中に家を出てしまうのだ。あくまでも個人的な意見である事を明瞭に言っておきたい。もしもこれが、G出現と共に何を思うでもなく手頃な得物を携え、逃げまどうGを追い回すアマゾネス的な勇猛さを持っていると言うのも婦女の可愛らしさに欠ける。


「そう言うことだからさ………」

 

 フェミンにかつ品格良い腕時計を見てから真梨子先輩は私に申し訳なさそうにそう言った。


「わかりました。誰あろう先輩の一大事とあっては、仕方がありません」


私は胸を張ってそう言ったのであった。


「ありがと!恭君はやっぱり頼りになる!」


 そう言いながら安堵を顔に浮かべた先輩は黄色い雰囲気を醸しながら両腕を広げたので、私は次に先輩がとる行動を予測してなんとなくこれに備えることにした。


「なんでファイティングポーズ?」


とりあえず拳を顔の前に並べてみた私に、先輩が心外と言わんばかりのアヒル口でもって言う。


「なんとなくです」

 

 本当に何となくなのであるからして、『なんとなく』としか答えようがなかった。もしかしたら……いいや、きっと備えなければ今頃は先輩の髪の毛の香りを嗅ぎながら、胸の辺りにある果実の感触を文字通り胸一杯に味わいながら、そのまま昇天していたか……はたまた桃源郷が遠くに見えていたかもしれない。


 そう思えば至極残念であったと後悔こそしたいと思う。


 

 ◇

 


 最後に「絶対に来てよ。私あの触角がダメなのよ」と念を押した先輩と別れて、私は一散に部屋に帰ると早速、Gに有効と思われる得物を探した。まずは蠅叩きである。後は……残量わずかな殺虫剤と新聞紙……並べて見ても、なんとも頼りがいのない顔ぶれである。特に新聞紙に至っては、先輩の部屋で現地調達が叶う品であって、わざわざ私が持って行かなくとも良い。そう考え直した私は丸めた新聞を元に戻すことにした。するとその途中で新聞の間から、切った爪がパラパラとふりかけのように畳みの上に四散した。であった。


 私は黙って新聞紙を放り投げると、蠅叩きと殺虫剤のみを携えて部屋を飛び出し、駐輪場に止めてある。我が愛車、ペガサス号に跨ると、備え付けられた前カゴに得物を納め、力強くペダルをこぎ出したのであった。


 白い車体に、ハンドル中央部分に傘を固定するための器具が取り付けられてあるこのペガサス号は私の下宿するアパートの大家さんから借りている自転車である。なんでも、代々この自転車を借りる学生はこの自転車に名前をつけると言うので、私は所々錆びの浮いた自転車にペガサスと優美にも雄大な名を与えた。傘の器具を一角に見立てて名付けたのだが、後にそれではペガサスではなくユニコーンではないか……と気が付いたことには気が付いたのだが、ユニコーンよりもペガサスの方がしっくりくるので結局ペガサスのままにした。


 そのついでにもう一つ間抜けな話しを急遽しなければならなくなった。カゴの中で転がる殺虫剤を信号待ちの時に見やると、その外装には『ハエ・蚊に一撃!!』と大きな赤文字で書かれてあったのである。殺虫剤であるからして、どんな虫にも人間にとっても有害であろうとは思う。だがしかし、生命力が半端ではないGに果たして効果が期待できるのだろうか……缶にここまで、でかでかと『ハエ・蚊に一撃』と歌っているからには、蠅と蚊には絶大なる効力を有しているのだろう……だからと言ってその他の虫にも効果が絶大であると言う汎用性に期待はできない。何せ相手はGなのだ。発見したその刹那に命を絶たねば、次ぎにそのチャンスが訪れるのはいつになるかわからない。私は色々と考えを巡らせた後に、やはり物理的に攻撃するべきであろう。と100円均一で購入した蠅叩きに並々ならぬ期待を寄せたのであった。

 

「遅いよ恭君!」

 

 蠅叩きを主力に携え、いちよう殺虫剤をポケットに先輩の部屋の前に立つと呼び鈴を鳴らす前にドアが開き、玄関にはサンダルを履いたまま、私の分のDVDが入った専用バッグを持った先輩が私を迎えてくれた。

 「絶対に来てよ。絶対よ。」と何度も念を押す先輩は最後には「じゃあこれ預かっとく」と私のバッグを引ったくったのであった。


 そこまで信用されていないのか、と落胆する一方でなぜだかそんな仕草が可愛らしく思えてしまった私は、きっと、誰かに頼られると言う喜びに歯を浮かせてしまっていたのだろう。これも男子の嵯峨というものである。


「これでも急いだんですよ。台所でしたよね」


 お邪魔します、と先輩の横を通って部屋にあがった私は、地下迷宮にてミノタウロスの襲撃を今か今かと待ち構えるテセウスのように、蠅叩きを振りかざしたまま台所へ向かった。


 「恭君、これ使おうか」と小さな声で言う先輩に振り返ってみると、どこから持ち出したのか先輩の手には、春時、活動を開始した家の中に潜む虫どもを一網打尽にすべく使用する、家中殺虫タイプのブタンガスの入れ物のような……肉まんのような形の缶であった。ちなみに足踏み式であり、一度踏んでしまえば、約3時間は家の中に入ることはできない。


 そんな最終兵器をこの真夜中に使用することはできませんよ先輩……と私は何度か首を横に振ってみせた。


 G相手に声を潜めると言うのもなんだかおかしな気分であるが、小声で話しかけられると、なぜだか小声か無言で返事をしなければならないように思えて思わず声を潜めてしまうのは摩訶不思議な反射行動である。

 

 居間側にある柱には湯沸かしだろう、リモコンのような物が備え付けられてあり、蛍光グリーン色が現在の時刻が深夜であることを再認識させてくれた。

 台所は整理整頓されてあったが、まな板の上にはプラスチック製だろう赤いボールが置いてあり、鶏の唐揚げでも仕込んでいたのだろうか、ニンニクと生姜の匂いのする黒いタレの中に丁度良い大きさに切られた鶏肉と思しき肉の塊が沈められたあった。包丁も出しっぱなしなところを見ると、肉を投入したまさにその瞬間にGが現れたらしい。  


 とは言え、大凡台所のどこにもそれらしい姿が見当たらない。姿がなければどうしようもない。そしてGは鳴き声を上げないのである。私は随分と長丁場を覚悟しなければなるまいと臍を固めて事に当たることにした。

 

「いた?もう終わった?」と廊下からは声はすれども姿は見えず、先輩が相変わらず小声でそう聞いてくるので「もう少しです」と答えておいた。


 私は考えた、そして殺虫剤を使おうと決めた。兎を巣から追い出す時は煙であぶり、巣から飛び出したところを捉える。Gにもこの手しかあるまい、家具や家電の隙間に殺虫剤を吹き込んで驚いて……はたまた苦し紛れに飛び出して来たGを蠅叩きで……常套手段だろうと思ったのである。


 名付けて『飛んで火にいる夏の虫作戦』である。 


 だが、私の部屋ならばいざ知らず、繊細な先輩の部屋で殺虫剤を振り回すはどうかと思う。なので、とりあえず私は得物をシンクの上に置くと、ボールにラップで蓋をし、念のためにその上に鍋の蓋でもって唐揚げの保護処置を施してから、作戦を遂行することにしたのであった。


 事態が動いたのは「ねえ、まだなの?」としびれを切らした先輩の声が平常時の大きさに戻りつつあった頃合い……


 丁度、廊下から台所に繋がる廊下沿いに置かれてあった冷蔵庫と床の隙間に殺虫剤を噴射した時であった。


 小さき忍びがついにお出ましたのである。


 見事な成虫にして、その瞬発力のすさまじいことと言ったら、噴射と同時に重力から脱するスペースシャトルのごとく、音速の勢いで飛び出したかと思うと、左右にフェイントで私の振り下ろす蠅叩きをひらりと身かわしながら、縦横無尽に台所中を駆け回る。私も負けじと左手の殺虫剤を噴射し続けながらこれを追撃し、要所では蠅叩きを振り下ろす。廊下からは先輩の声が聞こえた気がしたが、それに応じている余裕などありはしない。


 こいつだけは、余裕をかましていては私がやられる!そんな気概でもって全力で望まなければなるまい、何せ忍びなのである!


 そんな攻防が数十秒ほど展開されてから、私とGは見交わしながら対峙するかたちとなって、膠着状態となったいた。


 殺虫剤の効力にて、弱ったのかはたまた疲れたのか……もしかして私の出方を窺っているのか……それはあまりにもばかげているにしても、もどかしくは私の持つエクスカリバーこと蠅叩きの間合い外にGが陣取っていることである。加えて、手の平一枚分で届くのだからもどかしいことこの上ない。


 Gは少しの間、触角を上下左右に気持ち悪く動かしていたが、やがて、意気消沈したかのように、それを地面にだらりと垂らしてしまった。


 好機!とばかりに私は妙齢たる婦女を夜中道へ追い出した悪しき忍びに天誅を振り降ろすために半歩踏み込んで蠅叩きを振るった。


 刹那にはその決着はつくだろう。私はGの成れの果てを見下ろしては、この部屋に忍び込んだ根本を彼岸の彼方で後悔しくされ。と薄気味悪い微笑みを浮かべ、先輩から賞賛の弁とともに、熱き抱擁を賜るのである。

 

 この一撃に私の淡い桃色の夢が詰まっているのである!


「ほぎゃ」


 もちろん、Gの発した声ではない。恥ずかしながら私が人生ではじめて発した声でであった……


 私の夢をのせた一撃は、Gが突如と広げた羽によって床のみを叩き、羽音が鮮明に聞こえるほどに私の顔の近くを飛び過ぎたGを避けるために私は無理矢理な体勢のまま、パスタやら小麦粉やら乾物が並べられた収納に体当たりをし、上から落ちてきたごま油の瓶に横腹を強打されてしまった。


 言葉にならない痛みに腹筋を痙攣させながら、Gの行方をさぐると、スローモーションにてその所在が明かとなる。


 右肩あがりに曲線を描いたGはまず、廊下の壁に頭から突撃し、壁にへばりつくことなく、重力にのみ従って間抜けにも背中から廊下の床に落ちると、大して藻掻くこともせずに、反動にて身を起こすと、玄関へ向かって猛スピードで疾走をはじめたのである。


 事もあろうに廊下にはGを一番忌み嫌う真梨子先輩がいる……脇腹の痛みも忘れて、起きあがった私は、クラウチングスタート風に転びそうになりながら何とか体勢を立て直し、廊下へ向かおうとしたのだが、その前に「キャー」とわかりやすい先輩の悲鳴が聞こえたかと思うと、廊下から肉まん型の缶が床を飛びはねながら、居間の方へ姿を消し行くではないか、そして、居間には白煙が上がり始めるのである。

 

「おい!」


 Gと一緒に薬にまみれるのはごめん被る。仕方がなく手をついて、玄関へ向かおうとしていた下半身を捻りあげて従わせ、テレビの斜め向かいテーブルの横で白煙を激しく噴射する缶を手に取ると、無呼吸のままベランダへ飛び出して、手投げ弾を投げ返す映画の主人公のように力の限り、背高泡立草に蹂躙された空き地へ投擲したのであった。


 眼が染みたし、服も薬品臭かった……喉も心なしか、いがいがする……それでも、最悪は脱したと思いたい。窓を全開にしたまま、換気扇を回しに部屋の中へ戻ると、先輩の悲鳴がもう一度聞こえてから廊下の途中にあるドアが勢いよく閉まった。



 ◇



「先輩、大丈夫ですか」 


 とりあえずトラウマになっていなければ良いのだが……と思いつつ、ドア越しに私がそう言うと「37度にして!早く!」とえらく反響する真梨子先輩の声が聞こえた。


「何をですか」


「台所の湯沸かし!」


 どうやらそこが風呂場へと通じるドアであったらしい。


 私は台所へ向かうと柱の湯沸かしの『運転』と書かれたオレンジ色のボタンを押した。すると、時刻のみを刻んでいた蛍光グリーンが『40』に表示を変えるではないか。後は『ぬるい』と書かれた水色のボタンを何度か押して設定温度を『37』にしてから、再びドアの前に行き「37度にしました」と先輩に声を掛けた。

 

すでにシャワーの音が微かに漏れているかぎりは肝心な先輩には聞こえていないだろう。


「そう言うことか……」 


 そして、私は玄関に落ちているDVD入りのバッグを回収に向かい、玄関前でものの見事に煎餅状になっているGの残骸を発見して、先輩がどうして急に風呂場へ駆け込んだのか……現在進行形でシャワーを浴びているのか……その全てを悟った。


 皆まで言うのは酷と言うものであろう……Gにとっても先輩にとっても……


 私はGの残骸をテッシュに拭い取ると、その足でベランダへ行き、未だ若干白煙の漂う空き地へそれを放り投げた。


 Gよ。どうせ叩き潰されるのであれば、力任せに振り下ろされる私の蠅叩きの手に落ちるよりも、真梨子先輩の足の裏で引導を渡された方が結果は同じであっても幾ばくかは救われたはずだ。来世ではもっと可愛がられる猫かハムスターにでも生まれてほしいと思う。いかに忌み嫌われようとも一寸の虫にも五分の魂と言うからには供養の心がなくてはならない。ゴミ箱に投げ入れず、土に還ることのできる空き地へ放ったのは私からの最後の手向けでもあったのだ。


 さて、Gの弔いは終わった。だがしかし、それはそれは深いにも不快な傷を心に負ってしまった先輩になんと言葉を掛けたものだろう……結局のところ、私は何をしに来たのだろうか……まずは項垂れるべきだろうか……何にしてもGを駆除したの先輩であり、私はと言うと殺虫剤からこの部屋を守ったことと、後処理をしたに過ぎないのである……


 そこまで考えて、私は思い出したようにいがいがする喉と涙が止め処なく流れる眼を洗うことにしたのであった。


 換気扇によって窓から引っ張り込まれる微風を涼やかと感じながら、台所に佇んでいた私は、妙な衝動に駆られてしまった。衝動と言うよりは気が付いてしまったと言うべきだろうと思う。


 それは隣の部屋とを仕切る壁に背をぴったりと合わせたクローゼットであった。きっとこの中には、真梨子先輩の妖艶たる衣類が数多と納められていることだろう……本来であるならば、そう思ってこれを開けて中を見てみたいと言う衝動に駆られることは皆無なのである。なのであるが、真梨子先輩についてある種の疑問を抱いていた私は、どうにもこうにもこのクローゼットの中身が気になって仕方がなかった。クローゼットの前に立って、私は思案した。この行為は大凡先輩への裏切り行為にあたるやもしれない。しかし、私の考えが正しければ、私は大手を振って先輩を敬い接することができるようになるのだ。


 真梨子先輩は普段、それは露出度の高い衣服を纏い、これ見よがしに自分のプロポーションを餌に男子どもの視線を一点集めている。だが、私は気になっていたのである。真梨子先輩は一見して、ただ生地の少ないを身だしなみと無駄に衣類を選んでいるように見える。しかしながら真梨子先輩の身に着けている靴はいつみても、垢抜けているのである。色合いは派手な赤や黄色であれども、くすんだそれらの色は安っぽい派手さを微塵も感じさせず、風合いや気品だけを兼ね備えている。ブランドの有無こそ、疎い私には皆目見当もつかなかったが……


 それでも、靴はその人間性がありありと現れると言う。それを信じて疑わない私は、慎み深くもそれでいて存在感をしっかりと残して行く、そんな良い作りの靴を履きこなす先輩の真の姿が、噂に沿うような淫乱婦女であろうとは俄に信じることができないでいたのだ。


 私は溜息の後にクローゼットの扉に手を掛けた。本人の居ぬ間に勝手に家具に触れる心苦しさと罪悪の念は常に私の胸をずきずきと突き刺した。だが、希望をこそ願えばこの中を私は見なければならないのである。先輩を人として尊敬できるようになるためにも!


 己の器量の小さきを言い訳に、または大義名分にして私はついに扉を開いたのである。


 時間にして数秒の後、私は溜息と共に静かにクローゼットの扉を閉めた。マグネットを使用していないクローゼットであるからして、そこそこの代物なのだろう。そう思ったのはどういう心境によるものなのだろうか……安堵の余裕か、逃避のための逃げ道なのか……


 やはり開けるべきではなかった。虚しさと罪悪感だけが私を支配しているようで、なんとも申し訳ない気持ちである。


 信じるために。信じようとして意を決したと言うのに、良きも悪きも、いずれの確信が得られようとも、罪悪の念のみが残されるのは理不尽な話しだと私は私自身にいいたい。


 傘で空を飛べることを試したくて、己の身を持って世紀の実験を行ったと言うのに、飛んだ後すぐに後悔するような……そんなやるせなさである。 


 真梨子先輩は私が勝手にクローゼットの中を見たことは知るよしもない。だから、黙っていれば一生先輩に私の不届きな所行が知れることはあるまい……なのに、先輩に謝らねばなるまい。そう思ってしまうのは私のどうしようもない不器用なところ………自ら火中の栗を拾いに飛び込まんでも良いだろうに………


 私はそんなことを考えながら、玄関に落ちたままになっているDVDが納められてあるバッグを拾いあげると、居間のテーブルの上に置くため、廊下を往復した。


 バッグをテーブルの上に置き終えたまさにそのタイミングで「恭君」と呼ぶ声がしたので「なんですか」とドアの前まで小走りに向かった。


 先輩はその私に、


「下着取って来てくれない?」と軽く言うのである。


「無理です」私が即答したことは言うまでもない。


 トラウマの件では、私もかなりの責任を感じている次第であり、少しばかりの使いっ走りであれば喜んで拝役するつもりであったが、下着を取りに行けと言われても、純然に困る。まだ下着を買ってこいと言われた方が幾分ましである。


 さすがに、先輩の桜花の園をまさぐるわけにもいかなければ、そもそも、私は下着の納められた場所を知らない。


「じゃあ、出るから恭君、眼つむってて」


 案外トラウマなどはないのかも知れない。人間も動物であるからして、いかに恐怖意識を抱いていようとも、順応能力が備わっているかぎり、これを克服することとて有り得ない話しではない。直に踏みつぶしたことによって、むしろ荒療治なれども先輩は、すっかりGを克服したのやも………


「ちゃんと掃除もしておきましたから、私は帰ります」


 考えてみれば、Gの一件が解決を見た時点で私が先輩の部屋に胡座をかいている必要は無い。


「ありがと。お茶でも飲んでいきなよ」


 そう言う先輩の軽い声を聞きつつ、下着が無いと言うことはタオルを捲いて出てくるのだろうか。と想像した私は、鼻の下を伸ばすことなくベランダの戸を閉め、カーテンを引っ張っておいた。これで外から部屋の「それでは先輩おやすみなさい」


 そっとドアの前を通り過ぎ、玄関で靴に足をねじ込みながら私は言った。


 すると、


「うそ、本当に帰っちゃうの!」大きな声でそう言いながらなんと真梨子先輩が脱衣所から出て来たのである。


 想像通りにバスタオルを一枚捲いた姿であった。結い上げた髪と湯上がりの頬は仄かにピンク色で艶々しくそれはそれは、私の欲情を騒ぎ立てた……


「わっ‼」


 唖然とそんな姿をしっかりと見てから、おくらばせな声を出した私は、狼狽のあまり先輩のサンダルに踵を取られ、尻餅をつきながら外に転がり出ると、追い剥ぎに終われる旅人のように階段を駆け下りたのだった……


 これでは先輩も追うに終えまい。そう思えたのは階段の前に止めたペガサス号に跨り、がむしゃらに少しの間ペダルを回転させたところでの話しである。もはや、先輩の姿に鼓動を高鳴らせたのか、心肺機能において呼吸が激しくなっているのかさえ定かではなかった。



 ◇



 今夜は後悔ばかりである。


 ようやく冷静になれた私は、坂道の前にペガサス号を押してゆっくりと歩いていた。時刻で言うなればそろそろ日付も変わる頃だろうと思う。


 結局、クローゼットの件を謝ることも、不甲斐なさを詫びることもしなかった……と言うかできなかった。


 そればかりか、真梨子先輩に欲情して一目散に逃げ出してしまった始末である。今度先輩に会った時になんと言えば良いだろうか……

『風呂上がりの先輩は色っぽかったですよ』と一様褒め言葉に聞こえなくもない台詞を言えば………もれなく殴られるだろう……先輩が苦笑でこれを流したとしても、外野がこれを聞き逃すわけもなく、はたして私は誰かに殴られることになる。


 反省をしてるのか、していないのか……またも先輩の妖艶たるバスタオル姿を思い出しては、恍惚とする私がいる……私も男子の端くれであるがゆえに、これも正常且つ当然の反応であるのだが、やはり婦女の体に興味があり、特にお乳が好きな私であれども、それを真っ向から表に出しては人としての品格が問われてしまう。


 猫を被っても犬を被っても、それはひた隠しにしたいのである。 


 先輩には部屋に残してきたDVDと蠅叩きで許してもらうことにしよう。殺虫剤は恐らく空っけつであろうと思う。


 アクション好きな先輩だが、女性であれば恋愛モノとてお口に合うだろう。それに、私があのDVDを部屋に持ち帰ったところで意味がない。


 何せ私の部屋にはDVDプレーヤーがないのだから………


 

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ