顛末は全国放送で
楽しくも切ない聖夜を過ごした翌昼、実家から帰省の有無を問うメールがあったので、年が明けてから帰る旨を返信しておいた。すると、お土産は三笠が良い。と続いてメールが届いた。土産を持って帰るという前から土産の催促ならぬ、土産の指定をしてくるとは……さすがは我が両親。それを見越してすでに三笠を郵送し終えている私は、三笠については触れず「帰省する交通費がない」とだけ書いて返信しておいた。
すると、その日の夕方にはに「交通費振り込んでおいたから」とメールが届き、専業主婦のフットワークの軽さと軍資金の供与に感謝した。三笠がもう届いているだろうから、それも良い方向へ作用したと私は確信している。
実を言えば、帰りの交通費くらいは残っていた。けれど、31日までに色々と物入りとなってしまった私は嘘をついて臨時の仕送りをお願いしたのだ。
今朝方、私は男を見せた。
毎年先輩は年末までバイトをしていて実家には年明けに帰郷する。今年も例年通りであると聞いた私は、思い切って「一緒に初詣に行きませんか」とメールを送ってみたのだ。
返信までに2時間ほどあったから、至極ドキドキとしたが、後輩から恋人へ昇華した私と先輩の関係上。そんな臆病に構える必要もなかったのだろうと思う。
何せ慣れていないもので……
やがて先輩から「うん。行く!東大寺に行こう!」と凝った絵文字をふんだんに用いた返事が帰って来たのでほっとした。続けて待ち合わせなど細かい内容のメールのやりとりを何通かした。
作戦決行日時が決定した私は、首周りが伸びきったTシャツやら穴の開いたジーンズを正すため、奈良に来てはじめて衣類の買い物へ出掛けたのである。懐はいつになく暖かかったのでつい、日用品の買いだめを……などと即行で目的を見失いかけたが、すぐさま今進むべきレールを思い出した。
三条通りを歩きながら、あれやこれやと見て回って疲労が溜まってくると、ペガサス号の修理にくらいは必要経費にしても良かったのかも知れないと後悔した。何せ、すっかり慣れた三条通りとは言えど、目的が違えば歩き方も大きく異なるもので、遊びに来ることに終始していた私は、古本屋やゲームセンターに映画館など娯楽施設は網羅していても、衣料品を取り扱う店舗に関してはまるで素人であったのだ。古平にメールをしても電話をしても梨の礫で、頼りになんぞとなりもしない。
聖夜から徹夜でゲームをすると言っていたし、限定DLエピソードがどうのと話していたから、未だに引き籠もってゲームに興じているのかもしれない。
その後、何日かに分けて奈良町の方面へ行ってみたりして、なんとか、可もなく不可もなく無難な服装を購入することが出来た。よく考えれば、この寒空の下、活躍すべきは上着なのだから、まず上着を買うべきだったと後悔をした。
何せ、上着と言えば、着古したダッフルコートしか持っていない私なのである。
その翌日、まだ日が昇りきらない時間帯に、古平から返信が来た。眠た眼でメールを見た私は、あまりのショックに現実逃避の二度寝を敢行した。昼前に起き出した私は、もう一度メールを読んで怒りに我を忘れ「もっと早く教えろ!」と書き殴った文面を返信した。諸々後悔しようとしていた矢先、携帯の画面に送信に失敗した旨を伝えるメッセージが出力されたので、ほっとした。
古平曰く
「
三条通りに服なんて買いに行きませんよ。僕なら、イトーヨーカドーに行きますね
」
だそうだ。
イトーヨカドーは近鉄大和西大寺駅と近鉄新大宮駅の間にある大型ショッピング施設で『そごう百貨店』が撤退した後に建物をのままに営業をはじめた、メガストアである。
立地的には新大宮駅寄りにあるものの、流々荘からはそこそこ距離があるため、あまり行った事がなく、ましてペガサス号が使えない今となっては、完全に買い物圏外であり、私の中ではその存在さえも忘却してしまっていた……
普段であれば、諦めてしまうところなのだが、今回の作戦は初戦にして天王山であるのだから手加減は出来ない。だから私は久しぶりにイトーヨーカドーに行くことしたのである。
なるほど、古平の言うとおり、ブランド品は少ないながら、手頃な価格でそれなりの物が手に入り且つ、種類が豊富だった。だが、すでに内着は買ってあるので、後ろ髪を引かれながら、ジャケット売り場に出掛けた。
「むぅ」
並んだジャケットにジャンパーにコート、品定めをしていて、私は顔を顰めるしかかなかった。何せ、どれもこれも予算オーバーだったのだ。三条通り行った事を、激しく悔やんだが後の祭りである……結局、私は昼飯代わりのあんパンを買って家路についたのだった。
悔やんでいても仕方がないので、なんとか今ある装備で当日に備えるべく、先輩と初詣に着て行く服に着替えてみた。値段のわりに……と思ってみても、最終的に、ダッフルコートで覆ってしまうからまるで意味がない。
鏡に写る冴えない自分を見ていると、結局の所、何を着ても代わり映えなど期待もできないだろう。そう思うと、せめて残った軍資金を真梨子先輩の為に使おう。私は見掛け磨きを諦めて、中身で勝負をすることに決めたのであった。
○
師走は特に忙しいと言うが、ここ数日間は本当に早く過ぎて行ってしまったように思う。どうせ怠けて過ごすのだろうと思っていたのだが、隣で大掃除に勤しむ皐月さんと神原青年に触発されて大掃除をしてみたり、そのゴミを出しに行って大家さんと出くわして、流々荘の大掃除も手伝う事になったり、そのお礼に美味しい天丼をご馳走になったり、町内会の鏡餅つきを手伝ったり、何かと予定が横入りをしてきて、気が付けば大晦日になっていた。体は疲労していたが、精神的にはなぜか清々しかったしとても充実していたから摩訶不思議である。
「10時に行基前ね」とハートの動く絵文字が添えられたメールを読み返して、約束まで5時間以上あることを確認して畳の上に寝そべる。いやはや、こんなに大晦日が待ち遠しいのはいつくらいぶりだろうか……お年玉がほしさにもういくつ寝ると、を歌っていた小学生くらいまで遡らなければいけないだろうか。
待ち遠しい5時間。
何かしようと思えばできる5時間。
けれど何もせずにじっと早く経って欲しい5時間。
この時間をとりあえず私は初詣のシュミレートに費やすことにした。まず、30分程前に近鉄奈良駅前にある行基像前に到着しておく。10分前くらいに先輩が来て……
「何を話そうか」挨拶はするとして……
困った。待ち合わせた直後に躓くとは……
「夏目恭一!お前はすでに包囲されている。大人しく我が文芸部主催の年越し鍋パーティーに参加しろ!」
私が難問に取りかかろうとした矢先。ドアの外からそんな声が聞こえて来た。
「ったく……」流々荘まで押しかけて来るとは思いもしなかった。
阿呆に盆暮れ正月は関係ないのだろうな……
「何のつもりですか。今夜は予定がもう入ってるんです」
私は本当の事を言った。
「うそつけ!うそをつけ!君はっ君は今夜真梨子さんと初詣に行くんだろ!そうなんだろ!誤魔化したって駄目だからな、もうネタは上がってるんだ」
「そうですが何か」
私はまた本当のことを言った。
「嘘だとは……言ってくれないんだね……」
「はい」
「なんでだよ……なんで君なんかが‼僕じゃなくて君なんだよぉ」
まさか泣いてるんじゃないだろうな……大声で叫ばれても迷惑だが、ドアの前で泣かれるのも迷惑だ。
幸いにして、お隣さんは数日前に帰省しているから良いとしても。ご近所迷惑なことにはかわりない。
「君には何が何でも、今夜はパーティーに来てもらうからなっ!」
「嫌です。クリスマスの惨劇を繰り返すだけですよ」
「土下座なのか……土下座なのかぁぁ‼」
「部長にはフランソワーズちゃんがいるじゃないですか」
「フランソワーズちゃんを今夜だけ君に譲るから、僕に真梨子さんを譲ってはもらえないだろうか」さも、当然のように意味不明な提案をして来たかと思えば、聞いたこともない真面目そうな声で部長は「最大の譲歩だ」と付け加えた。
「アホですか。そんな人形いりません」
「にっ!人形とは何だよ‼人形とは‼フランソワーズちゃんに謝れ‼この野郎‼」
フランソワーズちゃんを人形呼ばわりされた部長はついにドアを何度か蹴りつけた。
古いベニア板のドアは本当に壊れそうな勢いで軋んでいたが、何とか持ちこたえてくれた様子だった。薄くて頼りないドア1枚が今の私にとっては頼みの綱なのだから……
私は面倒くさいことになった。と思いつつ窓の外を覗いてみると、愉快な仲間達の何人かが見あたった。てっきり部長は単独で来ていると思っていたから、大晦日の夕暮れに時に本気の包囲戦をしかけてきた親愛なる暇人どもに感嘆した。
「立て籠もるつもりなら、新年まで包囲し続けるからな。夏目恭一!君に逃げ道はない!」
いちいちフルネームで呼ぶのをやめてほしい。
包囲すると言っても、ただ外で待っているだけなのだから、私が何をせずとも、冬将軍がひ弱な部長の体温を奪ったあげく、風邪のプレゼントにてもれなく寝正月のフルコースを味わってもらえればと思う。だから、私は大きく構えて、その後2時間ほどを万年床で微睡んで過ごし、まだ3時間もある。と頭を掻きながら、ドアの覗き穴から外を覗くと、震えながら読書をしている部長の姿があった。
窓の外にはポータブルゲームに勤しむ愉快な仲間達の姿が見える。
もう少しくらいは……と万年床に入って微睡む準備をしたところで、私は上体を起こし胴震いをしたのである。
駅前までの移動時間も加味して厳密には後、2時間と15分後には部屋を出なければならない。この時間の間に部長一味が霧散すれば問題はない。しかし、もしもそうしなければ……
親愛なる阿呆どもは、包囲を突破してみたところで、必ず追いかけて来ることだろう。残念ながら私に彼らを置いてけぼりにするだけの脚力はない。ましてや一味を率いて駅前には行くことなど絶対にできない。ならば、
私がするべきは包囲の突破&追っ手を撒くことだ。
手段は選ばないとしても、どのタイミングで突破するかだ。一味の混乱に乗じて姿をくらまさなければならない。地の利は同等程度。ならば多勢に無勢で私が不利だし、援軍は帰省の煽りを受けて期待できない。ペガサス号は使えないし、走るにしても体力的に限界がある。
思案に暮れていると、携帯電話が震るえていることに気が付き、手に取ると、未知の番号だった。部長の嫌がらせかと思ったのだが、とりあえず出てみると、電話口に意外な人物が立っていたので束の間返事をすることができなかった。
着替えを済ませ、冷蔵庫から弾薬を手に一つ。残りはダッフルコートのポケットに忍ばせた。約束の時間まで1時間……
やるかやられか、今年最後にして、私史上最大の大一番。
遠からん阿保は音に聞かせ、近くば寄って目にも見せてやる。
腕時計の長針が午後9時を回った直後、私はドアを勢いよく開け放つと、座り込んで震えていた部長の顔に変色した生卵を投げつけた。部長は間一髪読んでいた本でこれを防いだが、本で防ぎきれず飛び散った破片に「ふへぇ」と飛び上がった。部長は本を投げ捨て、慌ててズボンに垂れた青銅色の黄身を手で払っていた。見た目よりも強烈な悪臭が最悪だった。
私は次弾をコートのポケットから装填しながら階段を駆け下りて一階に躍り出た。
「逃げたぞ!」部長の怒鳴り声に、手にゲーム機を携えたままの一味が私の前に立ちはだかる。
私は足を止めることなく、卵爆弾を一味に足下に投げつけるた。すると、一味は「あげぇ」と忽ち立ち上る悪臭に、体を仰け反らせる。私は続けざまに爆弾を一味の胸と太腿に炸裂させてから、大学とは反対方向にある近鉄新大宮へ向けて全速力で見通しの良い坂道を走りはじめたのであった。
『小春日さんから連絡があって、古平君が文芸部の部長さんに今夜の事を話してしまったみたいなんです』
電話の主はなんと葉山さんだった。生涯ではじめて、振られた女の子からの突然の電話に困惑したことは言うまでもなかった。
『音無さんが車で行基前まで送ってくれるそうなので、9時30分くらいに新大宮駅のタクシー乗り場に向かってください。夏目君。先輩を、真梨子先輩をよろしくお願いします』
そして、私を振った女の子は私にとっての救世主の手配までしてくれたのである。
「わかった。ありがとう」
『真梨子先輩をよろしくお願いします』と言うフレーズが電話を切った後もやけに耳に残ったいたのだが、あの台詞には一体どういう意味が込められていたのだろうか。
近鉄線に対して横切るように引かれたJRの踏切を渡った私は、何度か後ろを振り返えざるえなかった。何せ住宅街に入るまでは見通しの良い緩やか坂道が続いている。後ろを見れば、打ち漏らした一人を荷台に載せ、今にも部長がペガサス号を漕ぎ出そうとしているところが見えた。
自殺行為だ。私はすでに噎ぶ呼吸に焼けそうな心肺に鞭打って走り続けた。
「逃がすかぁあ!」
案の定、坂道を降るペガサス号はすぐに私の背中へと迫った。坂道に加えて、荷台の過重に部長渾身の立ち漕ぎであるから、その速度は安易に想像できる。想像できるからこそ自殺行為なのだ。
ゴミ同然にアパートの駐輪所に放置されてあったペガサス号を大家さんから借りた当時からブレーキが壊れていて、騙し騙し使って来たのだが、いつか先輩を荷台に載せて走った時に完全にブレーキが壊れてしまった。
私ですら使用を控えているレベルでブレーキは大破しているのだ。
「マジかぁあ!」
止まりたいタイミングでその事実に気が付いた部長は、声色を涙色に染め、私の尻に前輪を突き刺したまま一緒に柊の垣根に突っ込んだのだった。
ペガサス号に追突された私は垣根に突っ込み、さらに激しく垣根に突入した部長は側溝に体半分が嵌まっていたし荷台のもう一人は、前輪が変形してしまったペガサス号の下敷きになって倒れていた。
垣根から脱出した私は、強打した臀部をさすりながら損傷は軽微、と自己診断をしてから歩き出したのだが、動かしてみるとあちことがじんじんとして脈打つように痛んだ。
ふと足下を見やると、一味が携えていたゲーム機が見あたったので、ペガサス号の下から私を見上げている一味に視線をやってから、最後の爆弾を取り出すと、「頼むやめてくれ!部長に脅されて仕方なくやったんだ!」と安い命乞いをする一味を尻目に、目の前でゲーム機を青銅色の黄身で染めてやった。
「やあぁぁぁ!」
その直後、断末魔の叫び声が新年を待つ静まりかえった住宅街に響き渡ったことは言うまでもない。しかし、私からすれば当然の報いだ。人の恋路を邪魔する者は犬にでも噛まれてしまえばいいのだ。
走るに走れず、額に脂汗を浮かべて新大宮駅前に到着すると、タクシー乗り場から少し外れた路肩に車外に出て待っていてくれた音無さんを見つけることができた。
「大晦日にすみません。お世話になります」私は呼吸を整えながら頭を下げて言った。
「気にしないでよ。夏目君には甘美祭で協力してもらったし、親友の真理ちゃんの為でもあるしね」そう言うと、音無さんは屈強なボディとデザインを併せ持つSUVの運転席に乗り込んだのである
「なんか、イメージないですね。こんな大きい車って」
音無さんと言う女性はどちらかと言えば華奢な体躯とおっとりした雰囲気を漂わせる人であったので、こんな厳つい車に乗ってしまうと、どうしてもそのギャップを口に出さずには居られない……イメージでは、可愛らしいピンク色の軽自動車に乗っていそうなのに……
「家の車だからね」とカーナビを操作する音無さんはナビに表示された真っ赤に染まった地図を見て「うわぁ、初詣に狙いの車かな。大晦日なのになんでこんなに混んでるのよ」と独り言のように呟いた。
ナビの情報通り、近鉄奈良駅方面に続く幹線道路は大渋滞しており、それに脇道からの横入りが多発するので、一向に進む気配がなかった。
「なんか臭くない?」
ラジオを聞きながら、音無さんは渋滞に苛立つこともせず、小さい鼻を私の方に向けてひくひくさせて言うので、
「気のせいですよ」と私は誤魔化し、内心では約束の時間まで15分を切っていることに苛立ち、焦っていた。
約束の時間まで10分を切った頃、ようやく高天交差点にさしかかった。絶品パスタが懐かしいコンビニを横目に見ながら、タイミング良く信号が赤になったので「音無さんここで降ります。本当にありがとうございました」言いながら、車のドアを開けた。
「ん、そだね。走った方が早いかも」
「先輩。良いお年をお迎え下さい」
「夏目君も。グットラック!」
もう一度、音無さんに頭を下げてから車のドアを閉めると、点滅しはじめた歩行者用信号を間一髪でかわして、コンビニ前まで走り、次の信号は無視をしてさらに駆けた。臀部にズボンが擦れるたびに何とも言えない痛みが走る中、真冬の風も何のその、私は額に汗しながら、力の限り走り続けた。行基像の見える場所で、息をついた私は、腕時計を見て、後1分残っている奇跡を八百万の神々に感謝した。
そして、行基像の前に真梨子先輩の姿を見つけた時は倒れ込んでしまいそうなくらいに脱力してしまった。
「ごめん…遅刻した…」
「後1分あるからセーフだよ」
少しカールさせた黒髪には白いヘアバンドがあり、首もとにはバーバーリーチェックのマフラー、品のある薄桃色のフレアトレンチコートに足下は黒いストッキングと明るい皮色のロングブーツ。控えめな化粧に、いつものふんわり甘い香り。
どこからどう見ても……香りに至るまで、いつかの私が初恋に心が揺れた、その人が私の前に立っていた。
「間に合った……」だと言うのに、その感慨に浸りきれない現状はどうしたものだろうか……
なんとか約束時間に遅刻せずに到着することができた私は、しばらく、放心して気遣ってくれる先輩の言葉にあやふやな言葉で返事をしていた。
東大寺の方面に流れる人の数はまだ疎らで、時刻的には少し早かったこともあり、近くの喫茶店に私達は入った。待ち合わせたそばから満身創痍の私への労り以外の何者でもないと理解していたから、長居はするつもりはなかった。
「なんで、そんなに汗かいてるの?」ダッフルコートを脱いだ私に先輩がハンカチを渡してくれた。
「ありがと」ハンカチを受け取りながら、こんなに早くコートを脱ぐことになろうとは予想してなかったと思いながらも、コートの下の装いにこそ自信はあるのだから、その点での備えは盤石だった。
「なっちゃんから恭君の電話番号教えてくれって電話あったんだけど?」カフェオレを注文してから先輩が言った。
「電話あったよ。そのお陰で今ここに居るわけで、葉山さんと音無さんには感謝しないと」私はアイスコーヒーを注文した。
「どうゆうことなの?」
私としては、葉山さんからの電話があればこそ、部長とその一派の魔の手から逃れることができた。だから彼女の功績を先輩に話して聞かせたかったのだが、その、先輩と彼女と私の間には、つい最近まで複雑な人間構図があった。だから、ここで彼女を賛辞してしまっては先輩は不安に思ってしまうことだろう……すでに、先輩の表情には不安の色が見え隠れしているし……
私は、私がこの行基前に到着するまでを部長が部屋に押しかけた所から子細丁寧に事実だけを話した。ペガサス号の最後、葉山さんが音無さんに連絡をしてくれたこと、音無さんの家の車が厳つかったこと、そして、走って走って首皮一枚間に合った事を全部。
「そんなことがあったんだ。みんなに迷惑かけちゃったね」
運ばれてきたカフェオレにシロップを入れながら先輩が言った。
「うん。でもだからこそ、待ち合わせの時間に間に合って良かった」私はもちろんブラックである。
結局の所、先輩と合流できたならそれで万事問題はない。しかし、多方面の人達の尽力を得た限りは、より最高な形で報告が出来た方が良いに決まっている。もちろん、葉山さんや音無さんには先輩から今日の話しが行くのだろうけれど……
それにしても、諸悪の根元である古平にはどんな鉄槌を下してやろうか。
◇
喫茶店の外を行き交う人の数が目に見えた頃、私達は喫茶店を出て、東大寺を目指して歩きはじめた。目指すは、年跨ぎの0時に開門する大仏殿の中門である。普段は閉門しており、新年に合わせてのみ開門される。
すでに混雑を見せる参道を歩いていると人の群れを割いて歩いてくるモノがあった、それは大きな雄鹿だった。
「鹿って夜行性だっけ」と言いながら真梨子先輩は鹿の写真を撮っていた。途中地下道を通るのだが、今夜に限っては出口が見えない程の混み合いだ。まさか中門からここまで並んで居るんじゃないだろうな。そう思ったくらいだった。
春日野町の交差点はもはや歩行者天国となっており、交通整理の警官がいなければ、年が明けてもこの交差点は車で通ることは至難の技だろう。そもそも、この年の瀬が迫った時刻に車でこの交差点を通ろうと思うこと自体が荒唐無稽であると私は言いたい。
いつもは午後8時を過ぎれば露天も土産物店も閉まり、閑散とする参道も今夜ばかりは道を狭しと出店が軒を連ね。土産物店も木刀やら背中に『奈良』とプリントされた、だんだら羽織を仕舞って、甘酒やおでんを振る舞うスペースにしているようだった。
春日大社へ向かう流れと袂を分かつからか、交差点を渡った辺りから混雑の中にも普通に歩く程度には支障をきたなさい。
奈良で迎える大晦日と初詣ははじめてで、もちろん、東大寺にはゼミと個人的にを含め何度も足を運んでいたが、それは何の事もない平日の昼間の話し。夜の、まして大晦日の東大寺ははじめてだった。そもそも私は大晦日の夜から初詣に行ったことがなかった。だから余計に新鮮に感じたのかもしれない。混雑は嫌いだし並ぶのはもっと嫌いだった。
けれど、今夜は嫌な気がしない。隣に先輩がいるからだろうか。無論、それこそが明瞭な理由たり得る。もう一つ理由らしい理由を挙げるとしたらなら……幻にも似たこの独特で不思議な雰囲気だろう。見慣れているはずの風景がまるでそれとは異なっているように思えてならない。
「大晦日の0時を過ぎると、町も人も新しく生まれ変わるんだよ」私が幼少の頃、祖母がよく言っていた言葉を思い出した。
「出店はお参りしてからね」これも祖母によく言われた言葉だ。
私が狐に抓まれているようにただ歩いていると南大門をくぐった辺りで、先輩が立ち止まり「もし迷子になったらここで待ち合わせね」と言った。
「迷子にならないから大丈夫」私はそう言うと先輩の手を握って再び歩き出したのであった。正直、自分でも藪から棒に何をしているのかわけがわからなかった。先輩も最初はとても驚いた顔をしていたが
「こっちの方が温ったかいね」と言ってわざわざ私と繋いでいる方の手袋を外して再び手を繋ぎ直した。
先輩の手はもっと柔らかくてつるつるしていると思っていた。私の中に居た真梨子先輩はもっと餅のように弾力があって蒟蒻のようにつるつるとした手をしていた。けれど、今繋いでいる手は所々がざがざとしていて、指先にはペンだこがあって……
手はその人を顕著に且つ正直に表す。私はやっぱり、ずっと先輩のことを誤解していたのだと改めて確信した。
先輩の手を労るように強弱をつけて握ると、先輩も同じように握り返えしてくる。まるでモールス信号のようだ。
「なんか楽しいよね」私の顔を見上げて言う先輩に「うん。悪くない」と私は返事をした。我ながら素っ気ないと思った……何せ、私自身とても楽しかったのだから。
大仏殿の中門が見えはじめると、ゆっくりと進んでいた人の波が滞るようになったので、私と先輩は詰まる所まで歩き、ようやく初詣の列に並んだ、もう少し端に陣取った方が良かったかと思ったが、中門の近く、鏡池で行われているとんどの炎が見える限りは、そんなに後ろの方と言うわけでもない。開門と同時に列が乱れるだろうがそれさえ乗り切ればスムーズに初詣を済ませることができるだろう。
私の頭の中は至って冷静であった。例え周りが仲睦まじく新年の詣でを待ちわびるカップルの中に居たとしてもだ。
「恐い顔してどうしたの?」
「えっ、いや、もう少し端の方がよかったかなって」
「大丈夫だよ。はぐれないし、もっと大丈夫」先輩はどこまでも愉快そうである。そんな姿を見ているだけで、私までも幸せな気分になってくるから不思議だった。
独り身たるはなんとする!と現実が充実している男女を禍々しく見つめて続けて来た観察者にして哀れな阿呆どものメシアであると自覚していた私は、すっかり独りでいることに慣れてしまっていた。だが今夜は違う。いいや、これ以後私は観察者でもなければメシアでもない。むしろ、観察され禍々しく思われる側に回ることになるだろう。
写真を撮りまくっている先輩の姿をさりげなく見てみる。すると一層、頭の中に冷たいものが吹き抜けて静謐と冴えわたって行くような感覚が強くなった。
冴えわたっても、この感覚の原因はようとして知れなかった。けれど、一つ気が付いたと言えば、何があっても先輩を守らなければと言う気持ちである。はじめて手に入れた大切にするべきモノを、私は何を犠牲にしても守り抜かなければ。と……
「(そうか)」
私は理解した。これは紛うことのない自己犠牲の正義なのだ。やっと気が付いた。今まで私は手にしたことがなかったから、はじめて手にして芽生えたモノの正体がわからないでいたのだ。
愛の力とは誠に恐ろしい。狡兎のように生きようと決めていた堕落した私を、瞬く間に騎士道に則り死へすら勇ましく身を躍らせる正義漢へと生まれ変わらせたのだから。
「あ、そうだ」思い出したようにそう言った先輩は携帯をコートのポケットに仕舞まうと、たすき掛けにしている大きめのポーチから、リボンで包装された包みを取り出した。
「はいこれ、クリスマスプレゼント。遅くなってごめんね」
「え、あぁ。ありがとう」受け取ると、とても柔らかい。「開けてみて」と言う先輩の言葉に「わかった」と丁寧に包装をとくと、キルトチェック柄のマフラーが入っていた。
「これ、マフラー……」
「恭君マフラーとかしないから、いつも首元寒そうだなぁ。って思って」先輩は「かして」と感動に耽る私からマフラーを取ると、すぐさま私の首に巻いてくれた。先輩が巻いてくれたマフラーはとても軽くて肌触りが優しく、そして暖かかった。
「これ、全然チクチクしない。実はマフラー苦手で、敏感肌っていうか、チクチクするあの感じが嫌いでさ……」事実だ。だから私は真冬でもマフラーを巻いた事がなく、毛糸のセーターも着たりはしない。
「よっかったぁ。ウールかカシミヤか悩んだんだけど、カシミヤにしといたんだぁ」
どうして先輩はこんなに嬉しそうなのだろうか……ウールもカシミヤもどこがどう違うのかわからなかったけれど、少なくとも毛糸よりは上等な品であることは私の肌が証明してくれている。
この暖かさこそ、先輩からの贈り物だ。
「あぁ、しまった」マフラーの感触を確かめていると、先輩へのプレゼントを持って来るのを忘れてしまった事を思い出した。
「どうかしたの?」
「プレゼント忘れてきた…何せ、切羽詰まってたもので……言い訳ですごめんなさい」
先輩には申し訳ないと思った。けれど、あの状況を考えれば、今夜持ち出さなくて正解だったのかもしれない。仮に壊れなかったとしても包装は台無しになっていただろうから……
「謝るのは私の方。クリスマスごめんね。付き合いはじめて初めてのクリスマスだったのに……」
そんな顔しないでくださいよ先輩。
「それについて、喧嘩をしてもいいですけど、それはまたに機会にしよう」
「どういう……こと?」
「えっと……つまり、怒って無いってことで、だから、喧嘩するのは次の機会にってことで」
自分で何が言いたいのかわからなくなってきてしまった……つまり、私が気にしていないと言うことを伝えたかっただけなのだが……
「変な恭君」伝わったのか伝わっていないのか、とにかく先輩はそう言うと俯いてしまった。
想定と予想を巡らせていても、実際にその場に立ってみると、それは想定と予想を軽快に裏切ってくれる。私にはそんなイレギュラーを矯正することも出来なければ、順応することもできない……情けないかぎりである。
それから、しばらく二人の間には会話が生まれることはなかった……私は話し掛けなかったが、その代わりに先輩の手を握る手を強めた。すると、先輩もそれに呼応するように強く握るのである。本来であればもっと愉快な話をしながら過ごすものなのだろう……でも、私にはそれだけで十分だった。
先輩の手の温もりが感じられるだけで……
周りの雑音が一層大きくなるにつれ、開門の時が近づいているのだと気が付いた。腕時計も携帯も、先輩と手を繋いでいたので、見ることも取り出すこともできなかったが、それくらいの事は窺い知ることくらいはできる。
「もう今年も終わるね」白い息を吐きながら空を見上げて言う先輩。
「そうだな。色々ありすぎて、わけのわからない1年だったなぁ」
本当に色々あった、色々あり過ぎて、年の締め括りにこうして先輩と一緒に居るのが不思議で仕方がない。どこをどうねじ曲げればこんな結末にたどり着けるのだろうと。
澄んだ空には相変わらず、こぼれんばかりの星々がその身を燃やして輝いている。オリオン座を象る一角に青白く輝いているシリウスを見上げて私は「シリウスって知ってる?」と先輩に聞いた。
先輩は「聞いた事あるけど……オリオン座の近くで一番光ってる星だっけ」と夜空を指さしながら自信なさげに言った。
「恭君、天体とか好きなの?」
「オリオン座とか有名なのしかわかんないけど、シリウスだけは名前が格好良いから昔から好きなんだ」
星座早見表と言うのを小学校の時にもらった当時はよく天体観測に出掛けた。早見表だけを持って行っての天体観測だったが……クラスでの一番人気は北極星で、次いで北斗七星とカシオペアだった。けれど、捻くれていた私は、名前の格好よさからシリウスだけを見上げ続けてきたのである。
「格好良いって、恭君らしいね。私はやっぱり、北斗七星かなぁ、小学生の頃ね、あの柄杓の形がとっても不思議だったんだよね。こんなに星が一杯あるのに、ちゃんと柄杓の形に見えるのって不思議だと思わない?」
「そう言われれば……」
そう言われればそうだ。こうして何千何万とある星々の中にあって、柄杓の形をちゃんと認識出来るのは、とても不思議で面白い。明度の違いだと言ってしまえばそれまでだが、それを言い切ってしまわない所にこそ浪漫があるのではないだろうか。
そんなことを考えていると「今、変なこと言ってるって思ったでしょ」と先輩が体を寄せて顔を見上げて来るので「いや、それは浪漫ってやつなのかなって」とつい言ってしまった……
もちろん「変な恭君っ」と先輩に言われてしまったことは言うまでもない。
◇
やがて、その時はやって来た。
誰がはじめたとも知れないカウントダウンの合唱がいつしか始まり、それがゼロを迎えた時、場の盛り上がりは最高潮に達し、場を埋め尽くす新年の歓喜に染まった。
実際、私と先輩も合唱に混じってカウントダウンをして「開けましておめでとうございます」と言い合った。
中門の開門がアナウンスされ、大きな門が開かれると、堰を切ったように人混みが列を乱して進み始める。不規則にうねる人の波に私と先輩は終始翻弄され、何度か手が離れそうになったが、その度に私が先輩を引き寄せてこれを凌いだ。そんなことも踏まえて、いつの間にか先輩は私の腕を抱きしめ体を寄せるようにして進むようになっていた。
「あのカメラ、行く年来る年かな?」
先輩が指さす先には、中門の端に組んだ足場の上に大きなテレビカメラが据えられてあった。
「行く年来る年って、今年の干支にちなんだところが映されるんじゃなかったっけ?」
「そうなの?じゃあ、奈良テレビかなぁ」と少しがっかりしたように言う先輩。全国放送と地域ローカルとでは仕方がない。
思った通り、中門を過ぎた辺りから数名のガードマンが誘導を行っていたので、無軌道な混雑は解消され、スムーズにお参りを済ませることができた。後が支えているからと、願い事もそこそこに帰りの順路を進みかけて、先輩がやけに長く手を合わせていることに気が付いたので、私もそれに付き合って手を合わせなおしたりした。
中門から離れた出口から出て、中門を見やると、嫌になるほどの人混みだった。自分達もあの中に居たかと思うと吐き気すら催すほどである。
「ねぇ、2人で写真撮ろう」
帰りには林檎飴を先輩に買う事を決めていた私は、早々に林檎飴の出店を探していた。すると、先輩がそう言って私の袖を引っ張った。
「撮るから、携帯かして」
「2人でないと意味無いの!」
そう言うことか……無神経なことをした。と頭を掻いていると、先輩が通りすがった老夫婦を呼び止めて、写真をお願いしていた。
旦那さんだろう、白髪の男性は難しい顔をしていたが、奥さんの方がのり気で、先輩が「初めてのデートなんです」と付け加えると、気前よく3枚も写真を撮ってくれた。
ふと思った、あんなに難しい顔をしている男と私が女であったから絶対に一緒になるようなことはしない。けれど、もしかしたら、家では奥さんに甘えっぱなしなのかもしれない。甘えないにしてもそれに準ずるものがあるはずだ、でなければ結婚などしないし、こうして幾星霜と連れ添うわけもない。そんな風に考えてみると、難しい顔を無理矢理作っているように思えてきて、つい私は口元を緩めてしまった。
「何が可笑しいの?」老夫婦にお礼を言ってから、携帯を操作していた先輩は1人でにやにやしていた私の顔を見上げながら不思議そうな表情でそう言うので、
「なんでもない。それより林檎飴を買いに行こう」と私は言う事にした。
「いいね林檎飴。おっきいの買って2人で食べよう‼」
新年を迎え、厳かだった雰囲気が一変して明るく軽く、そして賑やかになった参詣道を私達は歩きはじめた。
「そうだ、恭君の携帯貸して」
林檎飴を買ってからすぐに先輩がそう言ってきたので、素直に携帯を渡した。「んー使い方が違うからなぁ」と何やら悪戦苦闘をしているようだったの「鯛焼き買いに行ってくるから」と先輩を残して鯛焼きを買いに行った。
「もう、置いていくのなし!吃驚したじゃない。急に居なくなるんだから」と口をとがらせて追い掛けて来た先輩に私は間髪入れず「はい、これカスタード。ちゃんと行くときに言ったよ。鯛焼き買って来るって」と言うと「うそおぉ」と目を細める先輩だった。
「あっこれこれ、携帯返すね」
焼きたての鯛焼きを思い切り頭から囓って、口の中で頭を弄んでいる先輩を尻目に、私は何をしたのだろうかと携帯を見てみると待ち受け画面が先ほど撮った二人の写真に設定されたあった。
「もしかして、真理さんの待ち受けもこの写真にしてるとか?」私は待ち受け画面を見せながら先輩に聞いた。
「初ペアルックってことで」としてやったりの先輩であった。
「年明け、春日大社にも行こう」
「いいけどどうして?」
「先輩の就職成就のお守りも買わないといけないし、まだおみくじ引いてないから」
「あぁ、就活がんばんないと。考えただけで鬱になる。おみくじで大凶とか引いたらどうしよう」
露骨に落ち込む先輩……
「俺に出来ること限定だけど応援するから。おみくじは大吉が出るまで引けばいい!」
神様なのであるからして、正月くらい、おみくじ運勢の上書きをこそっとしておいてくれるに違いない。
「うん。私がんばるよ。頑張って内定もらえたら、お祝いしてくれる?」
「もちろん、それは盛大に‼」
「自信ないけど必死に頑張る。内定とってみせる!」
林檎飴を持った手を突き上げ、そう宣言する先輩を傍らに、私は今年も1年慌ただしい1年になることを予感して胸を高鳴らせた。
やはり、私はシリウスにはなれまい。誰かが傍に居てくれないと、すぐにダメになってしまう。誰かに光を当ててもらわなければ、一片も光ることができない。
そうだ。私は月で良い。いいや。月が良い。
つかず離れず美しい地球を見守ろうではないか。そして、地球を脅かす隕石が近づこうものなら、私が身を呈してこれを守りたいと思う。
私と言う男は臆病な上に無駄な肉もついていなければ筋肉もまた同じ。けれど、一生に一度くらいは、愛おしい人の為にこそ、花と散りたいと思うわけだ。もちろん、むざむざと散るつもりはない。
何度だってビックバンを起こして不死鳥の如く復活を遂げて見せようではないか!
○
光陰矢の如しと1年は瞬く間に過ぎてしまいました。特に、真梨子先輩と知り合ってからは過ぎゆく毎日がとても早く感じられました。とても楽しくて愉快で、きっと日々が輝いていたのでしょうね。明日が待ち遠しくて仕方がありませんでしたもの。
実家に帰省してからは独り暮らしの緊張感も緩み、家事の一切を母に甘えてしまっています。地元の友人と忘年会にも出かけたり、純然と遊びに行ったりもしました。けれど、それ以外は、寒さにかまけて炬燵の番をしているのが常でした。
洗濯に買い物、掃除も料理もしなくて良いと言うのはなんて幸せなことなのでしょうか!
特に何もせずに大晦日を迎え、友人と初詣に出掛ける約束の返信を書いていると、突然小春日さんから電話がかかって来たので出てみると、
「大変なの、私、古平君に先輩と夏目君が付き合いだしたって話したの。古平君も協力してくれたからいいよねって思って。そしたら、古平君、気に入らないってふて腐れちゃって、文芸部の部長さんにも教えちゃって……」
電話口の息づかいからも、ものすごく慌てて居ることはわかりました。わかりましたけれど……
「教えただけなら、大変じゃないと思いますけど?」その通りだと思います。
「古平君が言うには、今頃、夏目君のアパートを襲撃してるだろうって……」
「えっ!」私は思わず、炬燵から出て大きな声を出してしまいました。
「真梨子先輩に連絡したら、今夜、夏目君と初詣に行くって」
「そんなっ、もう7時を回ってますよ」
「約束は22時らしいんだけど……私、帰省しちゃってるのよ……」
「私も今実家です……」
「あっ!音無先輩ならまだ奈良にいるかも!年末年始は実家が忙しいから年明けゆっくり帰るって言ってたし」
「でも、音無先輩に頼んでもどうにもならないんじゃ……」
例え音無先輩にお願いをしたとしても、事態が好転するとは思えません。私は家族の目を気にして冷え込む廊下に出て小春日さんに呼びかけました。けれど、電話はすでに切れてしまっていたのです……
私はどうしたら……と考えました。考えに考え、とにかく夏目君に襲撃計画の旨を伝えることを考え至りました。
夏目君に電話をしようと思いましたが私は夏目君のメールアドレスしか知りません。確実に夏目君の電話番号を知っているのは……と玉響考えてから、台所へペンを取りに戻ってから、着信履歴から電話を掛けました。
「はい。どうかしたの?さっき小春ちゃんからも電話あったんだけど?」
先輩は外に居るのでしょうか、車の走行音が聞こえています。
「すみませんが!夏目君の電話番号を至急教えて欲しいんです!」
事は急を告げています。ですから、不躾にも私の要件だけを押し通しました。
「うん。わかった、言うよ」少しの沈黙があってから先輩はさも当然と夏目君の電話番号を暗唱します。
私はそれを、手の甲に書き、さすがですねと感心しながら「ありがとうございます。必ずこの訳はお話しますから」と言葉少なく先輩に伝えると、先輩の返事を待たずに電話を切りました。事は急を告げているのです。私は先輩には後から謝ることにして、早速電話を掛けようとしたその時、知らない電話番号から着信がありました。
「はい!」この忙しい時に!と思いながら出てみると、
「えっと葉山さんの携帯で良いのかな? 私、音無なんだけど」なんと音無先輩からだったのでとても驚きました。
「小春日さんから、全部聞いた。実はもう実家に帰ってるんだけど、車出せるからどこに行けばいいかな?」
「本当に良いんですか……そんな、大晦日なのに……」
「いいの、いいの、家に居たって手伝いさせられるだけだし。それに、夏目君や葉山さん達には甘美祭でお世話になったしね。夏目君をお姫様の所へ届けたげるよ」
「ありがとうございます本当に。先輩はどの辺を待ち合わせ場所にしたら都合が良いですか?」
私は免許をまだ持っていませんので、大学に入ってから一度も車で移動をしたことがありませんから、その辺りの感覚はまったくわかりません。
「うんとね、大宮駅のタクシー乗り場近くでどうかな?あそこで拾えれば奈良まで一本で行けるし」
「わかりました。場所は新大宮のタクシー乗り場で伝えます。時間的なものはどうですか?」
「うーん。道路混んでなかったら9時くらいにはつけるけど……大晦日ってどうなんだろう」
「私にもわかりません……それなら、9時30分で夏目君に伝えておきます」
「あっうん。それなら確実に間に合うと思う!」
「すぐに夏目君に連絡します。すみませんが、よろしくお願いします」
「私が好きでするんだから、気にしないでね。私一度こういうのやって見たかったんだ、恋のキューピットみたいなの!」
「じゃあねっ」
音無先輩ははしゃいだ声を残して電話を切りました。一方の私は依然としてドギマギの真っ直中です。クリスマスも2人で過ごせなかったのに、初詣まで邪魔をされてしまったとあっては真梨子先輩と夏目君があまりにも浮かばれないではないですか!
もうとっくの昔にキューピット役は終わったと思っていたと言うのに……私は、そんな事を考えながら夏目君に電話をしました。
「夏目君?葉山です」
確かに『通話』状態になっているのに、返事がなかなかなく。私は間違えてしまったのでしょうか?と手の甲に書かれた番号と画面に表示されている番号を確認しました。
「え、どうしたんですか⁉」番号は間違っていませんでした。
「小春日さんから連絡があって、古平君が文芸部の部長さんに先輩との初詣を話してしまったみたいなんです。手遅れかもしれませんが、部長さん達は今夜夏目君の所へ襲撃に行くみたいなんです」
「え、あ、なんで、古平が…」
夏目君は要領を得ないばかりか、酷く困惑している様子でした。無理もありません。自分の知らない所で話しが筒抜けて、思わぬ邪魔者に今夜を台無しにされようとしているのですから。
「音無さんが車で行基前まで送ってくれるそうなので、9時30分くらいに新大宮駅のタクシー乗り場に向かってください!夏目君。先輩を、真梨子先輩をよろしくお願いします‼」
捲し立てるように私は言いました。とても早口になってしまっていたと思います。
けれど、最初は大切なのです。最初のクリスマスを逃してしまった先輩の為にも、夏目君には何が何でも部長さん達の魔の手を掻い潜って音無さんの車に、真梨子先輩の元へたどり着いてほしい……出来ることなら、奇跡が起こって……願わくば、約束の時間までに辿り着いて欲しい……私は祈るように言いました。
「わかった。ありがとう」
私の願う気持ちがそう聞こえさせたのでしょうか、夏目君はとても精悍とした返事を返してくれました。全てを言わなくても『任せておけ』と語気にそう聞こえて来てしまうくらいに……
○
紅白に去年一昨年と出場していなかった、演歌の大御所が今年は出場しているらしく、祖母と祖父はその話題でとても盛り上がっていましたけれど、私は夏目君が約束の場所に到着できたのかどうかが気になってしまってそれどころではありません……それ以前に私はその大御所を知りません。
「夏美もすっかり携帯っ子になったね。そんなに見なくても、鳴るんでしょう?」
私が携帯をしきりに気にしているのを見ていた母が、お節料理の下準備を終え、炬燵に入りながら言いました。
「別に携帯っ子ってほどじゃないもん」母が言うのは正しいです。連絡があれば着信音が鳴ります。だから、いちいち画面を確認しなくてもいいのです……でも、気になるものは気になるのです!
母に携帯っ子と言われて、へそを曲げた私は携帯を炬燵の上に置くと、携帯を気にしながら紅白を見ていました。
液晶画面の中では男性ばかり6人のグループが歌っていました。
「夏美、これなんて言うアイドルグループか知ってる?」
「知らない。これアイドルなんだ」私はそう言う話題にまったく興味がありません。小春日さんにつっこまれて、ジャニーズがジャニーズと言うグループでないことを知った私ですから……
「6doorって言うのよ、知らないの?」信じられと言った風に母は言います。
「興味ないもん」興味がないのだから仕方がありません。
「6人とも名前に『戸』って入ってるんだって、それくらい知っときなさいよね」そんなどうでもいい情報を鼻高々と言われて反論出来ないのも、なぜか悔しい気持ちになります……当然、
「ワイドショーばっかり見てるから太るんじゃないのー」と嫌味の一つも言いたくなります。
炬燵の上にあった、三笠を取ろうとした手を止めて「何その言い方」と言った母は、伸ばした手をばつが悪いように引っ込めて炬燵の中に入れると「連絡待ってるの、男の子?」とあからさまに興味本位で聞いてきます。
「お節の準備はいいの?」その手の話題に捕まると、母はいつだって言うのです、
「私が夏美くらいの年にはもうボーイフレンドがいたけどねぇ」と……
「はいはい」アイドルグループの名前と同じくらいにどうでもいい情報です。
「大体、夏美は……」
母が続きを言おうとした時、携帯が鳴りました。私は母の話しを無視して、携帯をひったくると急いで廊下へ出たのです。
「ありゃ、奈良ん残してきた恋人やろ」お婆ちゃんがお母さんに言う声が聞こえました。ですが、それを否定しているだけの余裕がありません。
「葉山です。小春日さん、どうなったの……」
電話の相手はもちろん小春日さんです。音無さんから連絡あるかもと思っていたのですが、やはり小春日さんからでした。
「音無先輩に連絡したんだけど、夏目君間に合ったっぽいって」
「ぽいっ……?奈良駅まで送ってもらったんじゃないの?」
「それがね。道が大渋滞してて、間に合いそうにないからって、コンビニがある交差点あるじゃない?あそこで夏目君降りたんだって」
「あの交差点なら、奈良駅まで走れば5分もかからないよね……」
「うん。だから、大丈夫だと思うんだけど……もしも、待ち合わせ時間までに逢えてなかったらどうしよう。私のせいだよ……先輩になんて言って謝ろう……」
「大丈夫。夏目君は真梨子先輩の為なら光の速さで歩ける人だから」我ながら意味不明なフォローだと思います……
ですが、私には底知れない自信がありました、電話口で聞いた夏目君の最後の言葉。根拠はありませんが、なぜか私には自信があったのです。
「確かに、夏目君は真梨子先輩の為なら何でも出来そうだけど、さすがに光の速さは……」
「えっと、とにかく、もう私達に出来ることは全部やったと思うから」
「うん、そうだよね。でももし……」
「もし、逢えなかったのなら、私も一緒に謝る。同じキューピットじゃない」
「ありがと。あぁ、逢えてる思うんだけどなぁ」
最後まで小春日さんは不安を拭いきれない様子でした。その気持ちは痛いほどわかります。自分の行いのせいで誰かの幸せを台無しにしてしまったとしたならば……考えるだけで胃がキリキリと痛みます……人事尽くして天命を待つ。意味合いとしては少々違いますが、遠地に住まう私にはもうどうすることもできないのです。
私は少し薄情なのかもしれないと後ろ髪を引かれつつも、初詣の準備しに自室へ戻り、上着とポーチを持って再び居間に戻って来ると、ポーチから試験勉強の時に見つけた読みかけの小説を取り出して炬燵に入って読み始めたのでした。
今年は紅組が勝利したようです。読み終えた小説を炬燵の上に置いた私は、コートに袖を通し、マフラーを巻いて出掛ける準備をしました。『行く年来る年』を少し見てから初詣に出発しようと思っていたからです。
炬燵の上に置いた小説……物語の結末から言うと破局的な展開で幕が降りました。私としては、大団円が好みでしたので、どうもお腹のところがスッキリしません。大団円でも終わる物語は読み終えた後に残る快哉の心地がほこほことして好きなのです。だから、破局的であったり、中途半端な終わり方は好みではありません……
そう言えば、私の恋のキューピット物語も、中途半端に年を跨いでしまいそうです。
新年まで後3分。こんな気持ちで新年を迎えるのは嫌だなぁ。と私は極力楽しいことを考えるように努力をして、初詣の帰りに、おっきな林檎飴を買って帰ろうと心に決めたのでした。
「あ、東大寺……」
『行く年来る年』に今年は東大寺が映し出されていました。丁度、中門が開門されようとしている所で、アングルから言えば中門の斜め上くらいから撮影しているのでしょうか?中門を通って参詣する様子が写るようになっているようです。
「あら、東大寺じゃない。あそこって干支関係あるの?」
「知らない。鹿年なんてないし……」行く年来る年は毎年、次の年の干支にちなんだ寺社仏閣から放送します。けれど、今年はなぜか東大寺からなのでした……
新年まであと1分。
『今年は耐震補強などを含めた大規模修繕作業が終わり、美しく生まれ変わった東大寺大仏殿から新年をお届け致します……』
「へぇ」奈良市内に住んで居ましたけれど、大規模改修をしていたのは知りませんでした。
「へぇって、あんた奈良に住んでるんでしょ」
「奈良に住んでたって、いつでも行けるから奈良公園とか東大寺とかあんまり行かないもん」
その通りです。行こうと思えばいつでも行けてしまうので、つい足が遠きがちになってしまいます……
テレビではNHKのアナウンサーが東大寺の歴史を説明していました。けれど、参詣を待つ人達が一斉にカウントダウンをはじめると、忽ち画面が中門に切り替わりました。
やがてカウントがゼロを刻み『新年明けましておめでとうございます』アナウンサーがそう言う声に混じって、今夜一番の盛り上がりの声がカメラのマイクを通して盛大に聞こえていました。
「それじゃ、初詣行って来るね」
台所でお節料理を作っている母にそう行って私は部屋を出ようとしました。そして、携帯を炬燵の上に忘れていることに気が付いて取りに言った時に、私は見つけてしまったのです……参詣客の中に……中門を進む牛歩の人波の中に!
「あ……あぁっ!」私はあからさまに大きな声を出しました。そうです、出さずにはいられなかったのです。
「夏美どうしたんね、そげな大きな声出して」
立ち上がろうとしていた祖母が驚いて固まったまま私に言います。
「気にせんで!」私は、そう答えると、急いで廊下に飛び出しました。
逸る気持ちを抑えて携帯を操作します。こんな時に限って変な場所を触ってしまったりして、使ったこともないアプリが起動してみたりするのです。それでも、私の心は弾んでいました。大晦日を曇天気分で過ごし、そのまま新年を迎えました。けれど、けれど!明けて新年5分と立たずに、こんなに嬉々として友人に電話をかけられるのですから!今年の一年は良いことがあるに違いありません。たとえ、この後、おみくじで大凶を引いたとしても、忽ち大吉に変えてしまう自信さえもありましたもの。
「あっ!小春日さん、行く年来る年見た⁉」電話を掛けると、ワンコールで小春日さんが出ました。
「今電話かけようと思ってたとこ!見たよ見たよぉ~。ばっちり2人写ってた。良かったぁ」今にも腰が抜けてしまいそうに小春日さんの声はふやけてしまっていました。あれだけ心配していましたから、喜びも一入でしょう。
「先輩ってば、腕にすがりついちゃって、もう。見てられなかったよ」
「それくらい良いじゃない。クリスマスの分もあるんだし」
行く年来る年の中継に果たして、夏目君と真梨子先輩が映し出された時は、本当に驚き過ぎて瞬間だけ呼吸を忘れてしまいました。仲睦まじく、夏目君の腕にしがみつく真梨子先輩は私の知る、真梨子先輩ではありませんでした。寂しがり屋でやっと好きな男の子とデートをすることが叶った女の子。もしかしたら、それこそが本当の真梨子先輩の姿なのかもしれませんね。
「キューピット成功だね」
「うん。キューピットって本当大変……もう懲り懲り」
本当にキューピットが終わった……小春日さんと頷きあってはじめてそう実感することができました。
「ねぇ、私、緊張し過ぎてお蕎麦吐きそうになったもん。あーでも私はまだキューピットしなきゃだから」
「えっ?誰の?」
私は、玄関でブーツに足をねじ込みながらそう聞きました。他に誰が居たでしょう?知り合いの顔を思い浮かべていました。思い当たるとしたら……音無先輩でしょうか?
「葉山 夏美ちゃんの」
果たして、私の物語は……いいえ、夏目君と真梨子先輩の物語は大団円にて、ひとまず終幕を終えることができました。
2人の物語はこれから先もまだまだ続きます。けれど、それは私が読むことを許された物語ではないと思うのです。
それはまた、他の誰かが綴る別の物語なのですから。
おわり




