聖夜に集いし愛すべきクソ野郎どもと共に
自分の身に起こって欲しくないことは思っても口に出してはいけない。亡くなった祖母の口癖でした。クリスマスにそれを深く思い出すことになるとは思ってもみませんでした。
クリスマスの昼下がり、私と小春日さんは三条通りを近鉄奈良駅方面に登って行く途中にある洋菓子店を目指し、木枯らしの吹く中を歩いていました。町並みも街路樹もすっかり冬の装いですが、今日と言う
1日だけは師走の終わりにあって、心だけほっこりと暖かいのです。
「クリスマスを恋人同士で過ごすとか信じられないわよね。家族と過ごしなさい家族と。爆発しちゃえ」
向かいの道を歩く男女を睨みながら小春日さんはずっと毒を吐き続けています。
試験前に「葉山さんなんてクリスマスには独りの寂しさをとことん味わってしまえばいいのよ」と私に言った小春日さんの顔をよく覚えています。もちろん、私には恋人はいませんし、実家にも帰りませんから1人で普通の日常としてクリスマスを過ごすつもりでいたのですが、なぜか、先輩と小春日さんと女子3人で過ごすことになってしまいました。
先輩は、家庭教師をしている女の子の家のパーティーに招待されてしまって、断れなかったそうです。
「先輩も先輩よね。彼氏が出来て初めてのクリスマスだって言うのに、バイト優先しちゃうとかって」言葉の節々に棘のある小春日さんです。
昨日から機嫌の悪い小春日さんには……理由を聞くことなんてできません……
「なんでも、お父さんがアメリカ人らしくって、クリスマスはアメリカ風に盛大にパーティーをするらしいよ」
「おっきなツリー飾ったり、サンタの格好したりするのかな」
「そこまではわからないけど……」
確かに、アメリカのクリスマスと言えば、家の中に大きなツリーを飾って、お父さんやなんかがサンタの格好をしてと言うイメージしかありません。このイメージだって子供の頃にみたホームアローンと言う映画で見たそのままのイメージですから。
「公衆の面前で手を繋いだり、腕組んだりとか信じられない!恥を知りなさい!」会話が途切れるとすぐさま、噛みつきはじめる小春日さんなのです。
「まぁ、ほら、試験の打ち上げと言うことで、女子会です女子会」
「だね。試験の打ち上げ!そうよ打ち上げよ!」
妬みが一周りした空回りな感は否めませんでしたけれど、通りすがるカップルに噛みつくよりは余程ましだと思う私でした。
○
先輩が予約をしておいてくれたケーキを受け取ってから、その洋菓子店でもう一つホールのケーキを買いました。
それと言うのも、
「先輩さ、このケーキ完全に夏目君と2人で食べるために予約したよね」な大きさだったので、急遽、後2人分を買い足したのです。
「そう言えば、昨日、夏目君を見かけたよ」
帰り道、JR奈良駅前の交差点で信号待ちをしていると、ふっと斜向かいにあるケンタッキーのお店が目に入り、そのことを思い出しました。
「どこで?」
「そこのケンタッキーに駆け込んで行って……」
「今日のために予約してたチキンでもキャンセルに行ったのかな」
「それはわからないけど、脱げた靴もお構いなしに駆け込んでて」
その日私は、丁度今立っている場所に立って信号待ちをしていました。そうしたら、三条通りから疾走してきた夏目君が信号無視をして交差点を駆け抜け、歩道との段差で躓いてその時に靴が宙を舞ったのです。でも夏目君は気にもせずに店内に入って行ってしまいました。
「えぇっ。そんな必死にキャンセルに行ったって、一日前じゃ無理でしょ……そう言えば、葉山さんはその……イブに出掛けてたんだ、誰かと一緒とか……?」
「1人で実家に送る三笠を買いに行ったの。三条通りにある桃佳堂に」
「はぁ?」露骨に小春日さんは私の顔を見てそう言いました。
小春日さんが聞いたので、話したと言うのに、『はぁ?』だなんてなんとも酷い小春日さんです。
「三笠って、あのどら焼きみたいなやつでしょ?」
「うん。普通のどら焼きよりも一回りくらい大きいかなぁ」
三笠とはどら焼きの別名です。外見が奈良にある三笠山に似ていることにちなんで、奈良や京都ではどら焼きの事を三笠と言います。私もつい先日、お歳暮に贈りたい和菓子の特集番組を見ていて知りました。
「なんで、三笠なの?他にも………」小春日さんはそこで目を閉じて考えに考えて「奈良ってそう言えば観光地の割りに名物とかってないよね」と言いました。
「えっと、奈良漬けとか柿の葉寿司とか鮒寿司とか名物がないなんて言うと奈良の人に怒られるよ」
正直、小春日さんが大きな声で『名物がない』と言うので、私は思わず周りを気にしてしましました。確かに、古都奈良と言えば歴史的には京都よりも古い観光地です。けれど、住んでみて知ったのですが、決め手になるような名物や特産の美味しい物が見あたらないのです。
「あー確かにそうだけど、奈良漬けとか柿の葉寿司、お土産に持って帰ってもねぇ」
「よっ、喜ばれるに決まってるよ!」私は声を少し大きくして言いました。隣の人がこちらを見ている気がしてたものですから。
「そうかなぁ」
「一昨日、母から電話があって、帰郷の話しをした時に、和菓子が食べたいから、帰って来る前に実家に送るように言われて。実家は山間にあって近くに和菓子店とかないから」
「へぇ。私も今年はお土産買ってかえろうかなぁ。鮒寿司とか」
青信号を渡りながら小春日さんが悪戯な笑顔を浮かべてそう言うので、私は冗談だと思い「それはお土産じゃなくて罰ゲームになるね」と言うと「うわっ。名物を罰ゲーム扱いとか、葉山さん今奈良県民をみんな敵に回した!」と言われてしまいました。慌てて周りを見回して見ると、隣を歩いていたお爺さんが私を睨んで居ることに気が付いて、さらに慌てて「そんなっ、冗談に決まってるじゃない。私は好きだよ鮒寿司」と言い繕いましたけれど、罰ゲームだなんて我ながら小春日さんよりも酷い言いようです。
好きと言いましたけれど、私は鮒寿司を食べたことがありません。奈良県民の皆様そして鮒寿司さんごめんなさい。
◇
イブの昼下がり私は逃げていた。
先輩と過ごす生クリームよりも甘ったるいクリスマスの1日前のイブの昼下がり、実家に送る三笠を手配しに三条通りにある老舗和菓子店の桃佳堂に出掛けた帰り道、丁度、古本屋から出て来た部長とその取り巻きに出くわしてしまった。
彼らは私の行く手を遮って「クリスマスは部長の部屋で闇鍋やるから空けておけよ。って予定なんてないか」と私を罵った。
「無理ですごめんなさい。本当にごめんなさい。行きたくありません」つい最後に本音が出てしまった。
去年ならば、同じ穴の狢と愛のある罵り合いをしただろうが、今年に関しては彼らに比べて私には万里の長城よりも遙かに長い心神的優位性がある。だから素直に謝った。
もちろん、従順なる真梨子先輩の崇拝者である部長に先輩と私のことは話すわけにはいかない。部長に知れるや、クリスマスに犯罪に手を染めかねない。
「予定もない君に救済の手を差し伸べているって言うのに、素直になれよ夏目君」
クリスマスと救済をかけたらしい。笑えないし笑う気もない。
「新作のゲームも持って行くし、クリスマスに相応しい神アニメも持って行くからさ」
部長と愉快な仲間達の1人がそう言って、親指を立てた。
グッジョブ。と……
どこがグッジョブなんだ。大体、ゲームとアニメに釣られてほいほいと行く阿呆がどこに居るのか。
ただでさえ部室で毎日のようにむさ苦しい面々と顔を合わせていると言うのに、どうして神聖なる恋人達の恋人達による恋人達の為の愛に満ちた聖日を、よりにもよってむさ苦しい連中と鍋を囲まねばならんのか。
今年のクリスマスは忙しいのである。まず、朝から真梨子先輩と出掛けて、プレゼントを買い合いっこをして、先輩の予約したケーキを二人で取りに行って、先輩の部屋で先輩の手料理でもってシャンパンを片手に乾杯をするのだ。だから私は忙しいのである!
「君、何をにやにやして居るんだい。気色の悪い奴だなぁ。そのうち逮捕されてもしらないよ」
毛虫でも見るような目で私を見ながら部長はそう言って笑った。愉快な仲間達も続いて笑った。つい、先輩との甘いクリスマスを想像してしまってそれが顔に出てしまったことについては何も言うまい。ただこれだけは言いたい、
「2次元の女子にしか興味のない阿呆どもと一緒になんて過ごせるか!」
私は言ってやった。すると、ショックか図星か、動揺した愉快な仲間達の1人が古本屋の袋を落とし、中身が半分ほど露出すると、それは二次元キャラが印刷された同人誌であった。
「なっ!フランソワーズちゃんは3次元だぞ!こいつらと同じにするな!」間違った所で激高する部長である。
思わぬ部長の裏切り発言に愉快な仲間達が俄にざわついた隙を見逃さなかった私は、更に何かをがなり立てる部長の言葉に聞く耳を持たずに踵を返すと猛然と逃げたのである。
もちろん追っ手が掛かるのに時間はかからず、後ろを見ればすでに数名の愉快な仲間達が私を捕まえんと足に鞭を打っている。クリスマス色に染まる三条通りを善男善女の群れをかき分け、時にはその間に割って入りながら私は必死に逃げ続けた。
韋駄天走りで三条通りを駆け抜けた私は、運悪くJR奈良駅前の交差点で信号に捕まってしまった。奈良市街では大動脈であるこの道路が私に対する要害として立ち塞がるのであれば、逆にこれを乗り越えてしまえばこの要害は私に与し、彼らにとっての要害として有り続けるだろう。
私はもう一度後ろを振り返り、着実に迫り来る追っ手を視認すると、虎穴に入る覚悟で横断歩道の上に躍り出たのである。盛大にクラクションの雨を受け、解れた足下は歩道へ上がるステップを上がりきれず、思い切りけつまずいた拍子に右足の靴が脱げて歩道に転がったがそれをも気にとめず、そのまま眼前のケンタッキーに転がり込んだのだった。
トイレに籠城することに決めた私は便座に腰掛け額の汗を拭うと、彼らが本物の阿呆であることを神に願った。
今日はイブである、クリスマスではないがその前夜祭にも奇跡は起こるはずだ。
「夏目、出てこいよ。靴がどうなっても知らないぞ」
奇跡は果たして起こらなかった……
即座に万策尽きて雪隠責め一辺倒なわけだが……そもそも私には策もなければ、右の靴もない。体力の限界から流々壮まで走行は不可能と判断しての横断とトイレへの籠城だったのだが……
「お店にも迷惑だろう。早く出てこいよ」
「この同人誌みせてやっても良いからさ」図太い声が消えた。例のオタクの彼は腹回りの脂肪からして走るに向いていない。その彼が居るということは……
「もう観念したまえ。出入り口は一つしかなく窓もないだろう」部長も到着していると言うことだ。
「別に何もしないし、何なら、他にも同人誌見せてあげるか出ておいでよ」
なんで、基本的に同人誌を餌に使うのだろうか。ここで出て行けばまるで私が同人誌を見たさに出てきたみたいではないか。尚のこと出にくいわ!
それはさておき、部長の言う事は確信をついていた。出入り口は一つだけ、加えて窓はなく、唯一外に通じているのは天井にある小さな換気口だけ。
私は今更ながらに戦慄した……これは……これこそ、世に言う絶対絶命であると。
◇
「あなたもバカですねぇ。部長達とケンタッキーで騒いだらしいじゃないですか」
「どうしてお前が知っているんだ」確かに、騒いだ。厳密に言えば騒いだのは部長と愉快な仲間達であって、私はトイレに入っていただけだが。
「大学に苦情が来たらしいですよ。お宅の学生がトイレ前で騒いで迷惑したって」妙に似合うエプロンをしながら、野菜を切る古平はいつにも増して不気味である。
確かに『オタク』がトイレ前で騒いだのは事実であるが、それとてほんの10分程度の事で、大学に苦情を訴える程ではないと私は思う。過剰防衛だ。
「もうすぐ、ケーキも到着するから、準備いそいでくれよ」
フランソワーズちゃんを片手に現れた部長は、すでにサンタ帽を被ってクリスマスを謳歌している様子だった。
「もう終わりますよ」
「そうかい、今年のケーキは期待しておいてくれて結構だからね」
そう言うと部長は愉快な仲間の1人が持ち込んだ、魔女っ子モノのアニメを昼前から鑑賞している。全24話を網羅する気でいるらしい。
どこを見てもフィギュアとアニメのポスターが目に入る、部長らしい部屋だと言えば聞こえは良いが、そこに、むさ苦しい男だらけ計6名が入り浸っているのだから、混沌空間と言って然るべきだろう。男臭いったらありゃしない。
本来なら、今頃、真梨子先輩と先輩が予約してくれたケーキを取りに行っている頃合いだったろうに……私は玉葱を切りながら、思わず溢れて来た涙を拭った。
「玉葱で泣くとか、そんなベターやめて下さいよ」
「うるさい。玉葱とはそう言うものなんだ」そう反論しつつ、目頭を押さえる私である。
先輩との甘い時間を考えれば考えるほどに、男子の肥溜めたる部長の部屋に居る現状を嘆かずにはいられようかっ!
ケンタッキーで繰り広げられた攻防は、予想外の形で呆気ない幕切れを迎えた。
絶対絶命の中、私は虎視眈々と強行突破の機会を窺っていた。そんな時、真梨子先輩から電話がかかって来た。取ってみると、先輩の口から、まず謝罪の言葉があり次ぎに、明日のクリスマスは家庭教師先のパーティーに出席しなくてはならない旨と、クリスマスは振り替えで行う提案、そして最後に何度も何度も謝罪の言葉があってから「あぁ。丁度、明日はこっちも都合が悪くなったから、また日を改めて」と私は嘘をついた。感情を込めて言えたかどうかは覚えていない。
「どうせ、こんなことになると思ったさ」その瞬間、私の何もかもが燃え尽きた。
夢も希望もクリスマスの予定も何もかもが燃え尽きた私は、意気消沈したてほやほやで解錠すると、自らドアを開けて部長ので力無く座り込むと「明日、闇鍋参加します」と無条件降伏したのであった。
そして、今まさに闇鍋の材料を古平と一緒に切っている最中と言うわけだ。
「闇鍋と言う割りに、普通の具材だな」
すでに切り終えた具材とこれから切る予定の野菜。中でも部長の実家から送ってきたと言う、ズワイガニはとても立派で目を引く。
「まあ、さすがに消しゴム入れたり絵の具いれたりなんてしませんよ。」と手際よく蟹をさばいて行く古平は「去年、懲りましたから」と続けた。
「やったのか……絵の具を……」
やっぱり阿呆だ。
いつの間にか、魔女っ子アニメ全24話を見終わり号泣をしながら、早々に格闘ゲームをはじめた愛すべきクソ野郎どもを見ながら私は届いたばかりのピザの箱を注視しながら呟いた。
「ピザを入れるなよ」と……
◇
宵の口を過ぎて、ケーキを取りに行って帰って来た部長は大凡ケーキの箱には似つかわしくない大きさの荷物を持ち帰り、鍋の準備の終わったテーブルの上でわざわざ設置した鍋とコンロをどかしてケーキを披露した。
部長がケーキを慎重に取り出すと、浪漫を共有できる愉快な仲間達から悲鳴にも似た完成が沸き上がった。
「これ、咲良オト子ちゃんじゃないっすか!神クオリティぱねぇっ!」
「テンションあがりまくりですよ。立体とか反則ですって部長!」
「そうだろう。ネットでイメージ画像を送って、3Dプリンターで立体化!そして、それを洋菓子店に持ち込んで、特注のケーキを作ってもらってからの、さらに表面プリント加工を施した世界に一つしかない特注10号の愛の形なのだよ!DVDBOX並みの出費だったがねっ」
「マジですか!部長の愛半端ないです」
「レジェンドっす部長、ついにその高みへ!」
鼻高々と説明する部長と、携帯で写真を撮りまくる仲間達。同じ場所、同じ時を共有しているはずなのに、場に生まれたこの温度差は一体なんなのだろうか……
部長達が騒いでいるのは今絶大なる人気を誇っている、擬人音声ソフト『咲良オト子』が満面の笑顔でもって胸元に大きなハートのオブジェを抱きしめているフィギュアが乗った大きなホールのケーキである。ケーキの表面一面に同キャラの顔が大きくプリントされてある懲りようで、こんなふざけた仕様であるにもかかわらず、目の細かいホイップで装飾が施されてあり、ケーキ自体はプロの仕事がうかがい知れた。
人の価値観はそれぞれと言うが、こんなところに情熱と財産を惜しげもなく全力を注ぐ部長の執着心には呆れてしまったが、オタクの底力を見たようで……オタクって怖い。私は素直にそう思ってしまった。
「10号って、食べきれるのか」
私の見たことのあるホールケーキの3倍の大きさはある。
「あれ食べる気ですか?殺されますよ」
「はぁ?」
食べるために買ったケーキを食べたら殺されるってそれは理不尽と言うものだ。
「あれはしばらく観賞用で置いておくんですよ。食用はもう冷蔵庫に入ってますから」
エプロン姿の古平があまりにもしれっとして言うものだから、私は冷蔵庫を確認してみた。すると、通常サイズである6号程度のホールケーキが出てくるのだから笑えない。やっぱり、オタクは阿呆だ、いや部長が阿呆だ。
古平の言う通り、ひとしきり撮影と感想を言い合った面々は、予め用意されていたかのようにフィギュアの避けてあるスペースにケーキを運ぶと何事もなかったかのように、闇鍋パーティを開始したのである。
「アイマスクしたかぁー。電気消してから持ち寄った一品入れろよ」
部長が音頭をとって、アイマスクが配られそれを全員が装着したところで部屋の電気が消された……らしい……何せアイマスクをしているからわからない。それどころか、手元も見えず、どこに鍋があるのかさえもわからない。
そもそも、一品を持って来ていない私は、ズボンのポケットの中にあった10円玉を握ると、なんとか鍋の中に放り込んだ。
私と違い闇鍋の楽しみ方を知っている周りの面々は、
「気をつけろ!爆発するぞ、危険が危ないんだぞ」とか、
「煎じてから入れれば良かったかなぁ」とか、
「わぁ臭っ!ちょっ、噛むな噛むな」とか、
「3秒ルール、3秒ルール」とか、
意味深なワードを大きな声で言いながら、各々『何か』を鍋の中に投入している。無駄に場を楽しませるコツを心得ている奴らである。
蓋が閉じられてから、部長が明かりのスイッチを押した。コンロに火をつけてから、冷凍庫に入れてあったビール缶を出してきては手際良く、全員に行き渡らせ、それを確認してから立ち上がった部長はビールを高々と掲げると、
「諸君!今年も同士が誰1人欠けること無く!この聖戦の夜に集えたことを私は誇りに思う。さあ、祝杯をあげよう、我ら文芸騎士団の栄光に!そして、聖夜に列する愛すべきクソ野郎どもに!」
「「「「愛すべきクソ野郎どもに!」」」」
多分、乾杯の代わりだと思うのだが……見事にハモるところが意味不明である。
「今夜の0時に恋愛シュミレーションのPSβ版ソフトの特装限定版が販売するらしいです」
「聖夜に並んでる、オタクの同士にってところか」
「ええ。今夜の特装限定版には大手サークルの人気同人作家の同人誌がついてくるって言うんで、昨日辺りからネットでは偉いことになってますよ」
「その情熱は理解も同情もできんな。古平、さっきからしれっと話しているが、お前やけに詳しいな」
大手サークルのあたりから、部長と話しているみたいだったぞ。
「僕はもう並んでもらってるんで、0時過ぎてから取りに行けばいいだけですから」
そんなことは聞いていない。
「いや……ってお前買うのかよ!古平お前……」
古平にそんな趣味があったなんて知らなかった。3次元に彼女まで居るくせに2次元の女の子に思いを馳せるなんて……
「別に今夜買わなくてもネットでも予約すれば手に入るんですけどね。ネットだと、明日の朝発送だから手元に届くのは聖夜販売の2日後になるんですよ。2日のラグとか中古買ってプレイしてるのと変わりませんからね。聖夜販売は聖夜に買って朝までプレイするのが製作サイドへの礼儀ってものです」
いやだから、そんなことは聞いてないってば。
「うん。その通りだよ!よく言った古平君!君は我々の鏡だな」鍋が煮える以前にできあがりつつある部長である。
「夏目君も飲んでおかないと、食べられないよぉ」
その忠告の意味とは……
そう言えば、普段あまり酒を飲まない古平も缶ビール2本を飲み干し、すでに3本目に突入している。なんだこの罰ゲームのような飲酒の早さは……と周りの酒気に疑念を抱いていると、鍋の煮え立つ音と共にその理由が判明した。
「これは……」
鍋蓋の孔から吹き出す蒸気によって拡散される、異臭が私の鼻腔を襲撃したのである。強い芳香剤と干物を発酵させたようなとにかく、悪臭を超越した異臭であった。
私は急いで残りのビールを胃袋に流し込むと、飲みきらないうちから携えておいた缶び蓋をあけて、続けざまに飲み込んだ。
するとどうだろう。瞬く間に鼓動が激しくなり耳の芯まで熱く火照りはじめ、目の前の空間が揺れはじめたかと思うと、あれほどの異臭を一切感じなくなってしまった。そして私は誘われるままに、漆黒の世界へと沈んだのである。
「下戸のくせに、一気に飲んだりするから。鍋はじまる前に潰れるとかウケる」
刺すような寒さと背中の痛み、そして古平のそんな皮肉を聞きながら立ち上がろうとすると、目の前の世界が酷く回転するので、仕方がなくその場に座り込んだ。
「ここはどこだ」
「部長の部屋のベランダですよ」
「そうか、にしても寒いな」
「外だし、それに雪も降って来ましたからね」
私は手すりにもたれかかり黄昏れる古平を尻目に、部屋の中に入ろうと硝子戸を開けた。すると、精神を病みそうな臭いと温い空気が漏れ出てきたので、即座に戸を閉めて古平に向き直った。
「今回の犯人は僕ですかね。練り芥子を入れた巾着と練りワサビの巾着を入れてみたんですけど。まさか溶け出すなんてね」と古平はケタケタと乾いた笑い声をあげ、そして咽せた。
「生産者と製造者に謝れ。このクソ野郎」
「あなたにクソ野郎呼ばわりされる筋合いなんてないですね。一口も食べないで失神してただけなんだから」
「うるさい。中で何してるんだ」
「ちょっと前に全員が白旗あげたので、今はアニメ見ながら酒盛りです」
「お前は行かなくて良いのか、隠れオタクの古平君が」
「やめて下さいよ。僕はオタクであってオタクではない。アニメには興味はありません。ギャルゲー専のオタですよ」またケタケタと笑う古平……どうやら酔っているらしい。
「そう言えば、小春日さんはどうした」
認めるのも悔しい気もするが、古平には小春日さんと言う彼女が居る。そもそもクリスマスの夜にこいつがここに居るのかと言う疑問はあった。だが、聞いてどうなるものでも、興味も無かったので聞かなかったのだが……
「そりゃ、こっちの方が楽しいからに決まってるでしょ。3次元の女なんて面倒くさいだけですよ。誕生日だのクリスマスだの口実を作っては1日拘束したがるし。約束に1時遅れたら怒るし、泣くし。俺のセルビアさんなんて寝落ちして一晩放置してても笑顔のままだし、束縛しないし。それに言ったでしょ。今夜は朝までプレイするのが礼儀だって」
私は目を細めて、さも当然と意味不明なことを喋る古平を見ていた。私が言えた口ではないが、1時間も待たされれば怒るし、記念日は一緒に過ごそうと思うのが普通だ。
「お前、まさかそんな理由の為に彼女を蹴ったのか」
私は唖然として聞いた。酔った上での言葉であることを加味すれば、それが本音でない可能性だってふんだんに残されているはずなのだ。
だが、
「クリスマス嘗めんな!今夜限定配信される特別ストーリーがどんだけあると思ってるんだ。ミニスカサンタコスのセルビアさんは今日一日だけなんだよ。新作ゲー持ち帰ってからハードディスクパンク寸前までDLするのは大変なんだよ、今すぐ帰ってやりたいんだよ!時間との勝負なんだよ」血走った目で私の胸ぐらを絞り上げて古平は吠えたのである。
私の言葉のどの辺りが逆鱗に触れたのかは定かではないが、地雷を踏んだことだけは間違い無いらしい。
前言を撤回する。古平は本気だ。そしてセルビアさんって誰なんだよ!
「そう言えば、そう言うあなたこそ、真梨子先輩とどうなってんです。クリスマスだってのに、こんな所に居てさ」
十分に楽しんで居るくせに、こんな所呼ばわりとは酷い奴である。
「先輩は家庭教師先のパーティーに出ないといけないらしい。でなければ降伏なんてするもんか」
「付き合って間もない最初の記念日に蹴られるあなたの方が蹴った僕よりも、悲しいですよね」
またケタケタと笑おうとしたので、その前に私は唾を吐きかけてやった。「ぶわっ、汚ったね」と慌てて飛び退く仕草はなかなか面白かったのだが「夏目。その件について、詳しく聞かせてもらおうか」顔だけを戸から覗かせてそう言う部長の顔は面白くなかった。
障気の渦巻く室内に引きずり込まれた私は混沌とした鍋の中を覗いて、唖然としてから、部長に無理矢理、公開裁判に出廷させられてしまった。「付き合って間もないって、誰と誰のことかな」腕を組んで見下ろす部長。ズボンのチャックが全開なのが気になって仕方がなかった。
私は考えた。ここで下手に嘘をつけば、それが忽ち命取りになりかねない。意味不明な執着心はすでに知りおいている。
だから私は「セルビアさんとに決まってるじゃないですか!セルビアさんのミニスカサンタコス万歳!」と言って万歳をしたみた。
毒には毒をもって制する。オタクにはアニメネタを持って誤魔化す!
「それだけでは許されないぞ!」
「えっマジですか」酔っているから誤魔化せると思っていたのだが……
「今夜のセルビアさんはなっ!サンタビキニ仕様なんだ!有料アイテムだが、愛あるお布施と喜んで課金すべきだ」
「そんなの当たり前じゃないですか。そのほかサブヒロインのアイテムもフルコンプは基本でしょ」
「古平君。君の愛は我々共通の愛だ!」
古平が私に助け船を出したとは考えにくく、ただのオタク魂の共鳴だと私は分析する。けれど、結果的に私は解放されたわけだからこれで良しとしよう。
その後は、アニメを見ている者にメインヒロインを熱く語る2人。そしてそれを見ている私と、三者三様に無駄な時間を過ごし、22時を回った所でいつにない統制のとれた機敏な動きで、大方の片づけが行われ。23時前には部長の部屋を出発していた。
その頃には雪は止んでいた……
いよいよ本格的な愛すべきクソ野郎どもへと化して行くわけである。今夜発売されると言うゲームの販売に並ぶ為に三条通りへと向かう集団から後れて歩いていた私は、頃合いを見て離脱すると流々荘へ舵を切ったのである。
「こんばんは、夏目さん」
「こんばんは、皐月さんと神原君」
流々壮に帰って来ると、丁度、皐月さんと神原青年が階段を降りて来た所に出くわした。
「クリスマスのお料理作りすぎたので、お持ちしたんですよ」
お酒でも飲んだのだろうか、皐月さんの頬がほんのり紅い。
「ありがとうございます。今夜は部活のメンバーで飲んでたんですよ」
「そうだったのね。そう言えば、綺麗な女の子が夏目さんの所に来ていましたよ。お酒を買いに行って帰って来たときに丁度、いてらしてね。お留守みたいですよって教えて差し上げたんですけど」
思い出すように言った皐月さんは続けて、「夏目さんの彼女さんはとっても綺麗な人なんやね」と口元に手をやって少し笑った。
「もう、皐月さん!ごめんなさい、皐月さん久しぶりにお酒飲んじゃって」慌てて神原青年が皐月さんの着物を引っ張りながら言った。
「だって、お友達ですか?って聞いたら「いえ、彼女です」って。うふふ」確かに、皐月さんは少し酔っているようで、すっかり目元が緩んでしまっている。
「そうですか……」
皐月さんを送る神原青年と別れて、階段を上がりそのまま右手の端のドアまで歩く。みすぼらしいドアノブに触れながら、先輩も触れたのかな。などと考えながら鍵を差し込んで捻って見ると、簡単に鍵が開いてしまった。
温度も音もない室内は、とても簡素で広く見えて、そして灰色をしていた。明かりをつけてみても、心ここにあらずと、無性に部長達と一緒に家電量販店に並んで居れば良かった。そんな幻聴のような心の叫びも聞こえて来るようで……12月25日、何気ない一日であるにも関わらず、人一倍独りで居ることが精神的に答える日。
先輩を恨んではいない。愛すべきクソ野郎を自負する部長と愉快な仲間達との闇鍋もそれなりに楽しかった。
それに、クリスマと言えど、労働に勤しんでいる学生も居れば1人でぼんやりと過ごしている学生だって山ほど居るわけで、その辺りを加味すれば、例え愛すべきクソ野郎どもであっても、バカ騒ぎをして過ごせる相手がいた私はそれなりに幸せだったのかもしれない。
私はエアコンのスイッチを入れてから、押入を静かにあけた。
中にはがらくたの中に混じって明らかに場違いなリボンが掛けられた箱が一つ入っている。試験一週間前の友引の日、偶然見つけて買った先輩へのクリスマスプレゼント。本当なら、今頃先輩の手の中にあるはずのプレゼントだった。
吐く息が白く天井へ向かって伸びては薄引として消えて行く。先輩の事を恨んではいない。恨んではいないけれど、やっぱり少し寂しい。
「真梨子先輩……来てくれたのか……」寂しさも小さじ一杯の幸福で……
その事実だけでなんだかお腹が一杯、幸せな気持ちになった。
○
「彼氏が居るのに、なんでどうして、羨ましく思わないといけないだろうね」準備もそこそこにベランダで黄昏れる小春日さんです。
先輩から予め預かっておいた合い鍵を使いって部屋にお邪魔しました。御呼ばれに行っている先輩も帰って来てからそんなに食べられないと思いましたので、「ビーフストロガノフ買おうよ!」と言う小春日さんをなだめて、サンドイッチやフライドポテトなど、軽食を帰り道にある惣菜屋さんで買ってきました。ですから準備と言っても、惣菜をお皿に移すだけで、準備と言う程の作業もありません。なので、一度それぞれ家に帰ってから19時頃に先輩の家に再集合することしました。
「小春日さん、寒いです」私はマフラー巻き直しながら言いました。
先輩の部屋ですから気を遣ってエアコンは掛けていません。なのに、小春日さんは硝子戸を開けたまま、ベランダで眼下を行き交うカップルを見つけては、恨み節を呟くのです。
「だってさ。だってさぁ!何で今日がクリスマスなのよぉ」
「寒いです」私は硝子戸を閉めました。
「ちょっと、葉山さんの薄情者っ」
炬燵のスイッチを入れて独りで入っていると、やがて小春日さんが寒さに耐えかねて入って来ました。
「今日はテレビ禁止ね」小春日さんはそう言いながら、炬燵の上に置いてあったテレビのリモコンをテレビ台の上に置きに行きます。
「別に良いよ。あまりテレビは見ないから」
そう言うと、私はポーチの中から文庫本を出して読み始めました。試験勉強の最中に見つけた読みかけの小説です。
電車の中で暇だろうと、見送りに来てくれた幼なじみがくれた本です。
舞台は京都にある大学で、その大学の学生である主人公とヒロイン、その友人達がが巻き起こす恋愛模様がコミカルに描かれてある作品で、ひょいっと現れて一言だけ残して消えて行く脇役がとても重要な役回りだったり、台詞がとても深かったり。伏線がふんだんに織り込まれていて、しかも、それをちゃんと物語の中で拾って行くので、何度もページを戻って読み返してしまいます。お陰で今日も寝不足です。
「今日のテレビは一年で一番悪意に満ちていると思うのよ。どの番組もクリスマス、クリスマスばっかし」
「そうだねー」
「大体、キリスト教徒でも無いのにクリスマスを祝うなんておかしいわよね」
「うんー」
「明日、世界が滅ぶとしたら、最後に何食べたい?」
「そうなんだー」
「……」
「……」
「私が悪かったです。ごめんなさい。だから無視しないで」
「えっ?」
いつの間にか向かいに座っていた小春日さんが、身を乗り出して言います。顔を上げた時、思いの外小春日さんの顔が近くにあったので驚きました。
「あぁ、つい夢中になってて」
「その本、そんなに面白いの?」
「うん。本当は荷物の中に埋もれてしまってて、試験勉強中に見つけて、また読み始めたんだけどね」
「ふーん。葉山さんは本を選ぶときって、カバーで選ぶ?それとも少し読んでから買うの?」
「うーん。自分で本を選ぶ事は少なくって、友達に進められた本とかが多いかな。この本も見送りに来てくれた幼なじみにもらった本だし」
「へぇ。そうなんだ。幼なじみが居るんだ、なんかそう言うのいいね」
「小さい時は、お互いの家に泊まりに行ったりしてたんだけど、高校で彼が部活に入ってから、あまり口も聞かなくなっちゃったけどね」
高校生になって、弓道部に入った彼は去年はインターハイに出場を果たし、それなりの成績を残したそうです。確か、スポーツ推薦で弓道の強い大学へ通っていると母から聞きました。
「ふんぎゅ」
私がまた文字に視線を移そうとすると、小春日さんは炬燵に突っ伏すと、額でぐりぐりをはじめてしまいました。
「えっと……」
「葉山さんの裏切り者ぉ。うぅぅぅ、イケメンの幼なじみとか、幼なじみ羨ましいぃ」
「携帯の連絡先とかも、全然知らないし……」それにイケメンだなんて一言も言っていませんし……
「わざわざ見送りにくるとか、絶対脈ありじゃんか。その本の最後のページとかに『好です』って書いてあるんだよ。その為の本なんだよ」
「あーっと」
好きも嫌いも……従兄弟なんですけど……
小春日さんの痛い視線に促され、渋々、最後のページを見た私は思わず「おぉ」と小さく驚いてしまいました。
「嘘!」慌てて小春日さんが私の所に駆けてきました。
「見てください、発行が21年1月11日第二版の発行日が11月11日です!」
これはもう編集さんがお茶目さんとしか言いようがありませんね。私が『1』の並びに喜んでいると、「なーんだ。ラブレターとかかと思ったのにぃ」と小春日さんは大層落胆をした様子で炬燵の向かいまで帰って行きました。
「先輩遅いね」
「そうだね」掛け時計はすでに20時を過ぎてしまっています。
私はまた額で炬燵ぐりぐりをはじめた小春日さんを見ながら、小説をポーチの中にしまって、「連絡してみようか」と言いました。
「うん。葉山さんお願い。今日私は携帯を見たくないの、持ってきてるけど」
「それはまたどうして……」いつもなら、私が読書をするように、小春日さんは携帯に夢中になって私の話も上の空だと言うのに、珍しくも今夜に限っては携帯を取り出しさえもしていません。
「昨日ね……寂しくってさ……待ち受けをね。去年クリスマスにこうちゃんと撮った写真にかえたの。そしたら、余計に寂しくなっちゃって……だから、今日は一日私の携帯は呪われているの。彼女をほったらかしにするこうちゃんが悪いの……」とさらにぐりぐりを加速させる小春日さんでした。
「どうしたの?メールくらいなら良いと思うけど」
携帯を持ったまま、指を動かせないでいる私に、小春日さんは首を捻りながら言いました。
「もしかしたら……先輩、夏目君の所にいってるのかも……」
先輩にとって、今年は夏目君との記念すべき最初のクリスマスです。バイトの延長ですから、仕方がないですよね。と比較的軽く考えていた私なのですが、小春日さんの恨み節を聞いている内に、もしかしたら、先輩も小春日さんに近しい気持ちなのではないでしょうか。そう思えてきてしまったのです。夏目君の心境まではわかりません。でも、夏目君だって先輩と……いいえ、恋人と過ごすクリスマスを楽しみにしていたはずですから、きっと先輩は罪悪感を抱えていることでしょう……なら、帰りに夏目君の所へ向かっても不思議はありません。
今、先輩が夏目君と会って居るかもしれない。なら、メールを送ることさえも憚らねばなりません。
「あぁ、かもしれないね。バイトだから仕方が無いって言っても、男の子って根に持つからなぁ。事あるごとに持ち出すのよ」
それは小春日さんでは……と思いましたけれど、私は決して口に出して言うことはしませんでした。
○
「知恵熱で魘されそう……」
20時を半時過ぎた頃、先輩はとても疲れた顔をして帰ってきました。リボンで装飾された大きなテディベアのぬいぐるみを傍らに置いて、ハイヒールを玄関に力無く脱ぐと、「一生分の英語喋った気分」と玄関で膝を抱えてしまいました。
米国のクリスマスパーティーには米国人のお客さんも多く、ほとんどが英語で会話をしなければならず、聞き取るのにも話すのにもとても苦労をしてあげくに、語学力への自信を無くして精神をすり減らして帰って来た先輩なのでした。
「お疲れ様です。先輩、大丈夫ですか?」
小春日さんは台所にある、お湯張りボタンを押してから、玄関に駆けて来ました。
「うん。ごめんね待たせちゃって。代わる代わる、財布の中からクリスマスイブに撮った家族とか恋人の写真を見せてくれるもんだから、抜けられなくって」
むくんだ脹ら脛を揉みほぐしながら、先輩はそう言うと、ようやく立ち上がり台所で水を一杯飲みます。「ふう」先輩らしからぬ煙草の臭いが先輩の疲労を色濃く思わせているようでした。
私は小春日さんが浴室に居ることを確認してから「夏目君の所へは行かなかったのですか」と小声で聞きました。どうしても気になってしまって、我慢ができませんでした。
「うん。帰りに直接行ったみたんだけど……留守だった」虚空を見つめるように天井を仰ぐ先輩。きっと、玄関で膝を抱えたのはパーティのことではなくて、それが原因だったのでしょうね。
「夏目君もわかってくれますよ。連絡もしたんですから。先輩の夏目君は優しい男です」
「ありがとう。多分、怒ってないと思うけど……自信ない……」力無く、コップをコンロの手前に置くと作り笑顔で「早くお風呂入らなきゃ」と言い残して寝室へ着替えを取りに行ってしまいました。
私は、先輩が残したコップを洗いながら、とてもクリスマスを祝う気分にはなれないと思っていました。先輩の心中を察すればこそ、楽しく祝うことにさえ罪悪の念がつきまとうからです。
「お湯張り終わりましたー」腕まくりをした小春日さんが台所まで跳ねるようにして帰って来たかと思うと、弾んだ声でそう言うのです。
「ありがと。まずはスッキリしてくるね」小春日さんの声に寝室から現れた先輩は、
そう言い残して、着替えとともに浴室に入って行きました。
急に元気になった小春日さんを、吹っ切れたのでしょうか?と見ていると、小春日さんは私にだけ聞こえる声で言ったのです、
「楽しく騒ぐ気分じゃ無いけど、先輩、独りにできないもんね」と。
「うん。そう、今日の先輩には私達が必要!」私は奮起をして小春日さんに返事をしました。
小春日さんの言葉に、我に返った私は濡れた手をタオルで拭いてから、お皿に移しておいた料理をレンジに入れました。
「やっぱし、ビーフストロガノフ買えば良かったのにぃ」頬を膨らまして小春日さんが言いました。
「残ったら、困ると思うよ」
「葉山さん、お母さんみたいー」子供なのは小春日さんだと思いますけど……
独りじゃない。それを確かめることが今日に限っては大切なことなのです。もしかしたら、クリスマスとはそれを再確認するための日なのかもしれません。いいえ、きっとそうなのです。
出遅れてしまったものの、惣菜の量もそんなにありませんから、浴室からドライヤーの音が聞こえはじめた頃には準備が整いました。
「葉山さん。これ」悪戯な笑みを浮かべながら、小春日さんがクラッカーを差し出しました。
「わぁ、懐かしい、私これ久しぶり」
私は子供の頃は、このクラッカーの音が苦手で、誕生日やクリスマスの時は、クラッカーが終わるまで両手で耳を塞いでいました。
「私も子供の頃以来!スーパーで見つけて買っちゃった」
「なんだかワクワクするね」
私はそう小声で言いながら、先輩に見えないように台所に角に隠れて、先輩が来るのを今か今かと待ちました。
そして「うーん。良い匂いねぇ」とティディベアを抱き抱えてリビングへ入って来た先輩目掛けて、一斉にクラッカーを鳴らしたのです。
パンッと乾いた破裂音が二つ重なったかと思うと、飛び出した紙吹雪やカラーテープが尾を引いて、先輩に向かって飛んで行きました。
「もう!吃驚するじゃない!」髪に被さったカラーテープや顔についた紙吹雪をそのままに、尻餅をついた先輩は眉を顰めて言います。
先輩を怒らせてしまったように、ドキリとした私でしたけれど「クリスマスっぽいねぇ」とすぐにケラケラ笑いはじめた先輩を見て私も小春日さんも一緒になって笑いました。
もちろん内心ではすごくほっとしていた事は秘密です。
○
「これねぇ、プレゼント交換で当たったのよ」ティディベアの縫いぐるみに顔を埋めたりしながら先輩が言います。
「アメリカのクリスマスって派手なんですか?」
「そんなイメージあるけど実は違うの。ほら、クリスマスって向こうじゃ宗教行事の一貫だから、イブは特に家族とかと過ごして、今日は教会に行ったり親しい人達とパーティーしたりするみたい。もう、お開きになってるんじゃないかな?」
掛け時計をみると、もう22時を回っていました。
「あっ、でもプレゼントのスケールはアメリカ大陸って感じだったわよ。これよりももっと大きなスノーマンの縫いぐるみもあったもん。後はね、ジェイソンの仮面と玩具の斧のセットとか、誰が喜ぶの?っていうのもあったわね」
「それって、すでにネタに走っちゃってますよね」
「だよね。それ当たった人、早速、仮面つけて絵真ちゃん追いかけてたもん」冷えてしまったフライドポテトを抓みながら先輩はそう言うと続けて「絵真ちゃんって私が家庭教師してるお宅の娘さんね」と捕捉をしました。
「先輩、ワインって結構おいしいんですね。私はいままで苦手意識でした」
コップにつがれたシャンパンを飲みながら小春日さんが言います。まだ数杯なのですが、すでに目が据わってしまっていて……それで私をずっと見るので、正直、不気味です。
「小春ちゃん、これシャンパンだから」
クラッカーを鳴らしてから、すぐに先輩は冷蔵庫の野菜室から、シャンパンを二本出して来ては「あんまり良いお酒じゃないけどね」と言いながら金属製のキャップを
開けて、私達に注いでくれました。
シャンパングラスが無かったので、みんな硝子のコップに注いでの乾杯でした。
「シャンパンとワインなんて親戚みたいなものですよ。そう言えば、先輩聞いてください」
言葉尻が怪しくなって来た小春日さんは、また炬燵に額をぐりぐりし始めます。
「小春ちゃんは飲み過ぎ禁止だからね。前科あるし」
と言う先輩の言葉を無視して「葉山さん実は裏切り者だったんですよお。だってね、涼しい顔して地元に彼氏が居るんです。しかも幼なじみでイケメンなんですよ。反則よお」ふやけたような口調でそんなことを言うのです。
となれば「えぇ、そうだったの!」と耳の先まで紅くなってしまっている先輩も食いつき「なんでよ。どうして言ってくれないのぉ!」と私の所へ詰め寄って来ます。
まぁ、そうなりますよね……
「いえ、小春日さんに話した幼なじみは彼氏ではなくて、従兄弟なんです」イケメンかどうかは私の判断に余ります……
「従兄弟なの?幼なじみなのに?イケメンなのに?従兄弟なの?」
「はい。母の妹の息子さんです」
先輩も小春日さんもイケメンイケメン言い過ぎだと思います……
「なんだぁ。だってさ、小春ちゃん」
アヒルのように尖らせた唇を、向けた先には炬燵に突っ伏したまま動かなくなった小春日さんの姿がありました。
どうやら、眠ってしまったようでした……それにしても器用な寝相です。
「ねぇ、なっちゃん」
小春日さんが眠ってしまった事を確認してから、先輩がまるで素面のように深刻な表をして私に言います。
「なんですか先輩?」
乾杯の時に注いだ分さえもまだ飲み干していない私は、もちろん酔っていませんから、次ぎに先輩の口から何がとびだすのでしょうと内心ではしっかりと身構えることができました。
「本当に恭君のこと良かったのかな」
「良いも何も、私は夏目君に自分の気持ちをちゃんと伝えましたよ」
『好き』と言うのも気持ちであれば、『嫌い』と言うのもちゃんとした気持ちです。ただ、私の場合は『好きではない』と言うのが実のところでしたけれど。
「ありがとう。これで、何もかもがんばれそうな気がする。やっぱり、気になっちゃってたから」
「それにしても、夏目君も鈍感ですよね。パソコンを貸してくれた時点で気が付くと思いますけど」
「うーん。パソコンを貸した時はね。実はまだ好きじゃなかったのよ」
「えっ、そうだったんですか?私の早合点でした」てっきり私は、夏目君の気を引くためにパソコンを貸したのだと思っていました。
「でもどうなんだろ。好きだったのかなぁ。どう思う?」先輩のとろけそうな目元で言います。
「先輩。ベットに行って下さいね」
「大丈夫……な気がするの……でもね。黒ビールが悪いの、ドイツのビールがパーティーでね。みんなすっごい飲むのよ。麦茶飲むみたいに……」
小春日さんと同じように、気持ちだけは起きているつもりなのでしょうね。先輩もついに横になるとテディベアを抱いたまま寝息を立ててしまいます。
私は、泳ぐように気泡漂うコップの中を見ては、それを一息に飲み干しました。炭酸の刺激がのど越し良く、それでいてフルーティーな味わいです。鼻の奥から抜けて行く甘い香りを余韻に、思わずもう一杯飲みたくなる。そんなお酒でした。2杯目を頂くことはしませんでしたけれど、直に私も眠くなってしまってどうしようもなくなるのですね。
そんな風に思って、玉響眠くなるまでの間、先輩の部屋を見回してみたりしていました。小春日さんがいて先輩がいて、食べかけのお菓子と惣菜があって。ゴミ箱の場所を知っていて、冷蔵庫にはケーキが入っていて……今年の上旬、はじめてこの部屋にお邪魔したとき、私は借りてきた猫のように小さくなっていました。今ではそれがとても懐かしく感じられます。
「ケーキどうしよう……」私は手を後ろに投げ出して大きく息を吐きました。
円満解決が難しい方の三竦み。私も同じように考えていましたから、一時はとても落ち込みました。
一歩違えていたら……と思うと今でも悪寒が走ります。この空間に自分が居られなくなってしまった未来があったのですよ。こんなに楽しくって愛おしい場所に私だけ居られないのはとても不幸なことですよね。
去年の私であれば、何のこともなく、何気ない一日としてクリスマスを過ごすことが出来たと思います。けれど、一度この暖かい場所を知ってしまったなら、孤独にクリスマスを過ごすなんて、私には自信がありません。
最初から居なければ寂しくはない。けれど、居たのに居なくなると狂おしい程寂しくて仕方がない。
しみじみと感じています。私は今幸せなのだと。
そんな風に私が1人で悦に浸っていると、
「私、寝てないから」と言いながら小春日さんが急に顔を上げたので、私は驚きました。
「おはよう」
「私寝てないから、ちゃんと起きてたから」体を乗り出して強く主張します。
「えっと、うん。そうだよね」
私は、真っ赤になっている小春日さんのおでこを見ながら、苦笑をして言います。けれど、どうして、そんなに寝ていた事実を認めたがらないのでしょうか?
「うぅ」
「気持ち悪いなら、早い目に言ってよね」あの惨状はあまり思い出したくありません。
「気持ち悪くはないの。ワインとかは結構平気なの私。焼酎と泡盛は駄目なんだけど」
「そうなんだ」
相変わらず目元が据わっているのがとても気になるのですが……
「そう言えば、葉山さんは実家にいつ帰るの?」
「私は28日に帰省する予定。小春日さんは?」
「私は古平君次第かなぁ。その、一緒に過ごすっていうのもありだと思うのよ、2年目だし……そろそろ、色々あっても良いと思うのよ!」お酒が入ると饒舌になる小春日さんです。
「葉山さんは大晦日って紅白派?それとも格闘技派?」
「私はどちらでもないけど、祖母と祖父が紅白を見るから毎年、紅白を見て行く年来る年を見てから、友達と初詣に行くかなぁ」
「へぇ、家はお父さんが格闘技大好きだから。でも私はテレビ自体あんまし見ないで、お節作るのお手伝いしたりしてるかな」小春日さんはコップに残っているシャンパンを飲みながら、ますます饒舌になって「あんな殴り合い何が面白いのか理解に苦しむわ」と続けて言いました。
「お節のお手伝いするんだ」
今時こういう事を思うのもどうかとも思いますけれど、同じ女の子として恥ずかしい気持ちになりました。何せ、私と言ったら炬燵に入って寝ころびながら本を読んだりうたた寝をしたりしているだけで、台所に行くと言えば、お手洗いのついでにつまみ食いに寄るだけなのですから……なんだかとっても恥ずかしいです。
「すごくなんてないよ、だって私つまみ食い専門だもん」してやったりと小春日さんはとても楽しそうに笑っていました。
「それなら私も専門」私も一緒になって笑いました。どうしてもとても楽しい時間です。
「そろそろ、お開きにしないとだね。肝心の先輩は寝てしまってるけど」
柱時計を見ると、もう日付変更の時刻を過ぎてしまっていました。楽しい時間は過ぎるのはとても早いですね。
「何言ってるのよ。今日はお泊まりする気まんまんです。私。」
「えぇ、でも先輩に迷惑じゃ……」
「想像して見てよ。『ただいま』を言う相手も居ない冷え切った部屋。誰かに電話したくなって携帯をみたら、恋人と幸せに写ってる去年の私がいてさ……泣いちゃうよ私?それでも良いって言うの……葉山さんは鬼だよ……」
「えっと……」明日、予定があるかもしれない先輩に迷惑だと思っただけなのですけれど……
「先輩だって、こんな真夜中に可愛い後輩を帰すようなことはしないわよ」
「そうだと思うけど……」
先輩のことだから『泊まっていって』と言うと思います。けれど、親しき仲であれば余計に礼儀を重んじなければなりませんから、先輩に甘えっぱなしになるのもどうかと思うのですよ。
「泊まるのは泊まるにしても、せめて、片付けくらいはしておきましょうよ」
そう言いながら、私は、炬燵の上に散らばっているお菓子の小袋や開いているお皿などを持って台所へ向かいます。
「お酒は私にまかせといて!」小春さんは瓶に半分ほど残ったお酒をコップに注ぎながら、勇ましく親指を立てています。
「よろしくお願いします」
お酒は別にやっつける必要はありません。ですが、酔っている小春日さんに手伝ってもらった方が余計に手間が増えそうな気がしたので……私は1人で片付けることにしました。
先輩を起こさないように、洗い物をしていると、カウンター越しに突っ伏してしまっている小春日さんの姿が見えます。今度は片手にコップを握り、もう片方は瓶に手を掛けたまま……とても器用な小春日さんなのです。
「また、寝てないって言うのかな」
起きたなら、また「寝てないから」と言い張るのでしょうか、と起きがけの小春日さんを思い出しながら私は1人で笑っていました。どうせ、私しか起きていないのですから、笑うくらい恥ずかしいこともありません。
小春日さんを見ていて思いました、「それにしても、ビーフストロガノフ買わなくてよかった」っと。
洗い物を終え、残った惣菜にラップを掛けていざ、冷蔵庫へ入れようとして「あぁ」スペースの大半を占拠しているホールケーキの箱を2つ見つめながら私はそんな声を出しました。小春日さんが起きている間に先輩が予約した小さい方の1箱分だけでも食べておけば良かったと後悔するも後の祭りです……
私は両手に、惣菜をまとめたお皿を持ちながら、
「ケーキどうしよう……」途方に暮れてしまったのでした。




