いつか憧れたいつか夢見たあの日へ
私とすれ違うように廊下を歩いて行く葉山さんの背中を一度だけ見て。私は大きな深呼吸を2度ほどした。
違う意味で鼓動は早かったが、これから目の当たりにするであろう事柄については別段心臓が高鳴ることはなかった。事前に葉山さんから話しを聞いた効果だろう。これなら、冷静に真梨子先輩と会話をすることが出来るはずだ。
私はドアをゆっくりと開けた。
舞い上がる埃、それが差し込んだ西日に照らされ、まるで雪のような錯覚を見せる。いつもと同じ長テーブルの並びに、並べられたパイプ椅子……いつも通りの文芸部室なのに、今日だけは全く別の空間に思えた。
陽の差し込む窓辺に先輩は静かに佇んでいた。
「遅れてすみません」私は入室者に気が付いてこちらを向いた先輩に深々と頭を下げて謝った。
「いいの。おかげで考える時間もできたし」
真梨子先輩は朗らかに笑顔を作ると、目元だけ少し困った様な表情になって私の方へ歩み寄った。
陽の光に艶めく長髪の黒髪に、紅いカーディガン、その下のワンピースは純白で丈が短め、露わとなるはずの素足には髪の色と同じニーソックスがしっかりと露出を防いでいる。そして、忘れられるはずがない……私がプレゼントをした白いヘアバンド。
女性に対してはじめてのプレゼントだった……
顔にかかる髪の毛を耳元へ掻き上げながら、ゆっくりと歩いて来る先輩の姿を見るにつけ、入学してまもない頃、文芸部屋を見学しに訪れたあの瞬間へ忽ち遡ってしまったような感覚に囚われてしまった。
見学に訪れた時も部室には真梨子先輩1人しかおらず、部室に入ってすぐ立ち尽くしていた私に優しく声を掛けてくれた、
「ちょっと外歩こうか」っと。
「はい」私もあの時と同じように短く返事をすると、先輩の後塵を拝して部室棟を出たのだった。
私が文芸部に入部を決めたのは、真梨子先輩が文芸部員であると部長であると勘違いしたところが決め手だった。こんな素敵な先輩と一緒に大好きな創作が出来るのであれば、それは私にとっては至福の時間と言って他ならなかったからだ。
現文芸部部長がそうであったように、他部の部員がそうであるように、私も一目で真梨子先輩の虜になってしまっていたわけである。
そして、何かと世話を焼いてくれる先輩に、感謝の形と言う建前でヘアバンドをプレゼントした。その後の絶望が当時の記憶を片隅へ追いやって居たのか、今の今まで忘却の彼方にあった記憶だ……ヘアバンドのプレゼントを受け取った次の日から、先輩は別人になってしまった……
あの時、先輩は私を学食へ連れて行き、当時の文芸部部長を紹介してくれた。だが、今日の先輩の足は食堂の方角ではなく、部室棟と平行して設けられてある裏門のその先へ向けられていたのである。
裏門を出て左に2度曲がって、いつか先輩と歩いた佐保川沿いの道へ入った。小春日和にも関わらず、往来する人影はない。散歩するには遅すぎるし、犬の散歩には早すぎる……そんな時間帯なのだろう。
「あの、先輩」
桜並木を後塵を拝しながら歩きはじめてすぐに私から先輩に声を掛けた。いつもよりずっと歩調が早い先輩を呼び止める意味も込めて。
「……」ぎこちなく振り返る先輩。油ぎれのロボットみたいで可笑しかった。
「先輩も葉山さんから聞いたんですよね……その……色々と」
私が葉山さんから先輩の事を告げられたように、先輩も葉山さんから何かしら告げられているはず。否定したい気持ちもあったが、現実に連絡が葉山さんから来ている限りはきっと、何らかの接触があったと考えるのが普通だろう
「うん。実は昨日の夜聞いたばっかし。と言うか、言い合いになっちゃった」
「言い合いですか……」私の隣に落ち着いた先輩は無邪気を装った笑みを浮かべながらそう話した。
どうして言い合いになったのか?葉山さんが何をどう話したのかについて、とても気になったが、それを今聞くのはどうかと思ったのであえて聞かずにおいた。私が先輩の事を好きだ。と伝えたのではないのだろうか?てっきりそう思っていたのだが……
「ねえ。葉山さんのどこが好きになったの?」
桜の大樹が近くに見えてくる頃合いで先輩は急に私の少し前に駆けると、振り向き様にそんな質問をするのである。
もちろん私は即答出来なかった。優しい所とか笑顔が……とか、そんな無難且つ適当な薄っぺらい理由を並べるつもりがないからである。
「わかりません」
事実だった。葉山さんに振られる少し前から、私は葉山さんのどこに惚れているのだろうと悩んだ。こういうものは考える前に感じるものだから、どこがどうのと言う問題ではない!と結論づけたのだが……現実的にも先輩にはじめて紹介された時、葉山さんの雰囲気に一瞬見とれただけで……その後は暗示のように葉山さんの事を好きだ好きだと繰り返し思い続け振られる日に至ったのだ。
いずれにしても、回答としては最低な回答だ。
「それ多分、すごい最低なこと言ってる。さすがの葉山さんも怒ると思うよ」
「ですよね」
きっと、葉山さんでも怒ると思うし、自分でも最低なことを言っていると自覚もある。けれど、先輩に『最低』と言われた刹那、私の胸の中に気泡が浮きあがるみたいに怒りの感情が生まれた。
いつだってそうだった。特に先輩と2人きりで居るときは特にそうだ。どうしてこんなに息苦しく思うのだろう。私よりも背が低い先輩が私よりもずっと大きく感じられて、気が付いたら背伸びをしている自分がいる。本当の感情を殺して、素知らぬ顔をしてみたり平気を装ってみたり。1年前は、何でも相談できて素直に言いたいことが言えていたのに……
先輩は怒ったのか、それから無言で私の前を歩き続け、桜の大樹に到着するや、あの日と同じく大樹の横から続く川原への道を1人で降りて行ってしまった。
階段の下。風が吹いて、洋服が揺ると、思った以上に華奢なその人は私が見下ろしてやっと、肩を並べられたようなそんな気がする。
枯れ枝のような桜越しに、悪戯な風に眉を顰めながら髪を耳に掻き上げるその人が居る風景は、えも言われぬ文学的な純景だった。
先輩に遅れて、川原に降りた私は、すでに腰を降ろしている先輩の隣に控えめに腰を落ち着けた。
「さっきの質問ですけど」
「葉山さんの事?」
「はい。きっと、雰囲気が1年前の先輩に似ていたからだと思います」
ぶり返す話題でもなかったが、何も言えなかった事も悔しかったし、先輩に対しても腹が立ったので、今更、無意味な事を口走ってしまった。
「そん……やっぱり、最低だよ……」
1年前の先輩の事を持ち出したのは、ささやかな嫌味であり事実であった。火に油とわかっていたのに、再び先輩に『最低』と言われ、加えて、それを呟くように言われた私はついに我を忘れてしまった。
「最低なのはどっちだよ……俺が最低なら先輩は最悪だよ!」
「え」
こんなに驚いた先輩の顔を見たのはいつくらいぶりだろう……そうだ、私がバレンタインのお返しと格好つけてプレゼントを贈った時以来だ。
「1年前、俺がプレゼントを渡した次の日に髪も服装も変えて別人みたいになって、やっと諦めがつきはじめたのに、なんで今頃そんな格好してるんだよ!」
そう。はじめて葉山さんを見た時、雰囲気が先輩に似ていると感じた。『最低』だ。葉山さんに頬を叩かれても文句は言えまい。
先輩以外の誰かを好きになれば、忘れられると思った。拒絶されたと思いたくなくて、でも現実は残酷で、苦しくて……本能的にそうあるようにと求めていた。そして、あの日、先輩に葉山さんを紹介されて、完全に希望と期待を打ち砕かれた私は控えめな服装に垢抜けない顔付きにあの日に見た初恋の人を思い出して、この人に心を奪われようと努めた。無理矢理美化して好きになった。
「そうしてってお願いしてきたの、そっちじゃない!みんなの前で土下座までした!」
「それは!っだからって、そのヘアバンドしてこなくても良いだろ!大体なんでまだ持ってるんだよ……」
「そんなの私の勝手でしょ!」潤んだ瞳は真っ直ぐ私を見つめていた。
なんて幼稚なんだ。まるで子供じゃないか。節度もなければ遠慮もない……これじゃ嫌われても仕方がない。私は、我に返ると先輩の顔を直視できず、視線を水面に逃がしてしまった。
「恭君は最低よ。私の前だといつも大人ぶって言いたいことも遠慮するし、声を掛けても避けるし」
「最初にそれをしたのは先輩です」
「それは悪いと思ってる。だから……」
「だから、罪滅ぼしに葉山さんを紹介したんですよね。そんな事、望んでもないに、勝手なことして葉山さんまで巻き込んで。最悪だよ」
「罪滅ぼしのつもりなんてない。私は恭一君に変わって欲しかった……一歩手前で臆病になる性格を……」
「なんだよそれ。変われるわけない!好きな人に拒絶されたと思ったら、それ以上嫌われないようにするしかないだろ。臆病にだってなるさ。あの時、俺には先輩しか居なかったんだ‼」
思わず立ち上がってしまったことも、口から出した言葉にも後悔をした。
「拒絶なんてしてない!髪の色も服装も変えたのは……距離を保ちたかっただけ。気持ちに気が付くのが怖くて……別人になれたら……失望されたら、恭一君の気持ちが自然消滅すると思っただけ」
「ずるいよ。そんなのずるい!俺の気持ちに気が付いてたくせに、告白もさせてくれないなんて……そんなのって……」
「違う。恭君の気持ちには何となく気が付いてた……気が付きたくなかったのは私自身の気持ちよ……本当に好きな人には本当の私を見られたくなかったの。大学での私を好きになってくれた人には……知られたら、嫌われてしまうから……それが怖かったのよ……」
先輩も俺と同じ臆病者なんだ。私はその言葉を飲み込んで、先輩の事を思い出すように考えた。映画のフィルムが送られるように、色々な先輩が蘇ってくる。
「見栄っ張りで、言い出したらきかなくて、いつも大人ぶってて平気な顔して、でも本当は寂しがりやで恐がりで、虫が大嫌いで人見知り。その癖に面倒見が良くて、優しくて、料理が上手くて、良い匂いがして、真面目で、笑顔が良くて、お酒が弱くて、恥ずかしがりや……」
この1年で、色々な先輩の素顔を目の当たりにしてきた。俺は最低だ……葉山さんに心を奪われていたはずなのに……思えば、いつも先輩のことばかり見ていたのだから……
先輩は驚いた顔をしていた。
「俺は先輩の言う通り、最低な男です」
「違う、恭一君は最低なんかじゃ……」
「違わない。俺は葉山さんに気があるように見せかけて、ずっと真梨子先輩を見てました。誰かに向けたかったんです、去年からくすぶり続ける気持ちを」
「それは……どんな気持ちなの……」
もしかしたら、と期待と絶望を繰り返しながら、それでずっと胸の奥に燻り続けたこの気持ちに嘘はない。ひょっとしたら、こんな気持ちのことを真心と言うのかも知れない。
「俺は……俺が真梨子先輩の事を好きだって気持ちです!」
やっとまた全てが動き出した気がした。たった一言。この一言が言えないまま、この言葉を胸の奥に縛り付けたまま1年と言う時間を過ごして来た。1年越しに解き放たれたそれは、とてもとても重い想たいものだった。
言ってしまえば、あれだけ迷って躊躇をして恐れて苦悩した事がまるで嘘のように思えてくるから不思議だ。俯いてしまった先輩の姿をみれば、返答を待つ必要もない。
例えこの後に絶望が待ち受けてようとも、私はとても清々しい気持ちで一杯だったのだ。
「すみま……」
「駄目!謝らないで……」
先輩をこれ以上困らせまいと、口を開くと。先輩は即座にそう言って私に喋らせなかった。
「私も恭一君の事が好きです」
先輩の小さな唇が動きを止めた一瞬、その瞬間だけ満開の桜が彩る風景が私には確かに見えた。肩を振るわす先輩の後ろに桜吹雪が……
「私は怖かったの。恭一君がもっと私の事を知って、嫌われてしまうのが……だから逃げたの。今のままの方が良いって自分に言い聞かせて……私も苦しかったんだよ」
「すみません」
「どうして謝るの」
「いえ、さっきは言い過ぎました……色々と」
「いいの。久しぶりに胸の所に響いたよ。1年前の恭君はさっき以上にズケズケ言ってたよ。それも含めて好きになったんだから」
「え、そんなにズケズケ言ってましたっけ……俺……」
「うん。スカートの丈が短いとか、白は太って見えるとか。好きじゃないならはっきり言わないと男は勘違いする生き物だ!とか他にも……」
「良いです言わなくて。お願いしますから言わないで」
そんな事を言っただろうか……そんなお母さんみたいな事を俺は先輩に言ったのか……
「嘘」零れそうになっていた涙を拭いながら先輩は無邪気に微笑むのである。
「えっ!」反省をして損した。
「あ、でも最後のは本当。あの時、丁度、野球部とサッカー部の人に告白された事を恭君に話したばっかりだったから」
「男って生き物は勘違いと下心で出来てるんです」
今更ながら大人げなかった昔の自分を思い出して恥ずかしくなってしまった私は、視線を明後日の方向へ投げてからそう言ってお茶を濁したのだった。
○
「遅刻とか意味わかんないよ。葉山さんから先輩の気持ち聞いといて、遅刻だよ。やっぱり、意味わかんない」
近鉄奈良駅地下にあるスターバックスに移動した私達は、先輩と夏目君が今頃どうしているだろう。そんな事を考えながら、迫り来るレポートの山と後期試験の対策を話していました。けれど、小春日さんは夏目君が遅刻して来たことがよほど気に入らないらしく、5分に1回は夏目君を悪く言うのでした。
「今日の今日で呼び出したのも悪かったんですよ」
「でも、レポの提出期限とか試験のこととか甘美祭の反省会とか諸々考えたら、今日しかないんだもん」
それは小春日さんの言う通りです。なので、無理は承知で夏目君に急遽メールをしたのです。
本当は、あのメールをもってキューピット役は終わるはずでした。けれど、先輩から、「どうしよう。恭君来ない……」と言うメールをもらって、小春日さんと急いで文芸部室へ向かいました。文芸部室で先輩はとても不安な表情で窓の外を見ていました。
「もう一度、連絡してみたら」と小春日さんは何度か言いましたけれど、私は考えるところがあって連絡できず、加えて先輩も「連絡しないで良いよ。恭君、不器用なんだよ。こんな日にかぎって寝坊してるのかも……大丈夫。きっと来てくれるよ」
その強がりな笑顔は……とても悲しく私の目に映りました。
3人で半時ほど文芸部室で待ちました。でも、夏目君は一向に現れず……連絡の一つもありません。やがて、しびれを切らせた小春日さんが「外見てくる」と文芸部室を出て行ってしまい、それに煽動されるように私も文芸部室前の廊下に出ました。
確かに、もう一度メールをした方が良かったのかもしれません。けれど、この局面では『来ない』と言うのも明確な意思表示だと私は思ったのです。夏目君はすでに私の出しゃばりで先輩の気持ちを知っているのですから……どんなに鈍感な人であっても、この呼び出しがどのようなものであるかなんて事は、わかりきってしまっていることでしょう。
部室を出るなり弾丸のように駆けて行った小春日さんがそのまま夏目君の家まで押しかけないでしょうか。と玉響心配になりました。けれど、小春日さんは部室棟の入り口辺りを行ったり来たりを繰り返しているだけでしたので、私は胸をなで下ろしました。
皮肉な事に、2階に居る私には飛び出して行った小春日さんよりも遠く、本館までも見渡せてしまいます。けれどどこにも夏目君の姿はありません。
そして1時間が過ぎ。先輩の悲しむ姿を見たくなくて部室にも入ることができず、かといって立ち去るわけにもいかず。私はいつの間にか祈るように本館を駆け抜けてやってくる人影をさがしていました。
「約束します」夏目君は確かにそう言いました。私は、その言葉をこの三竦みを円満解決すると言う意味で受け取りました。だから私の中には今日のこの日に夏目君が必ず来ると言う自信がありました。でも、それが今揺るぎつつあります。
夏目君。あなたが約束してくれた円満な解決方法はこんな結末なのですか。先輩1人を泣かせてしまう。こんな結末が……。だとしたら私は夏目君のことを絶対に許しません。
目を閉じて携帯電話を握って握りしめて私は祈り続けました。
それから、どれくらいの時間が経ったでしょうか。体感では数分程度だと思います、俄に外が騒がしくなったかと思うと、息せき切った夏目君が階段を駆け上がってきたのです。
私は「遅い!」と憤る前に、心からの安堵と先輩に対する使命の達成を感じ得ずにはいられません。紆余曲折はありましたけれど、これで揃うべく所に揃うべき登場人物の全てが揃ったのですから。
「すみません。遅れてしまって」
手を膝にやって、息も切れ切れに夏目君は言います。
「よかったあ……もう来ないのかと思ってました」
本心です。本当にもう来ないのかと思いはじめていましたから……
これを持ちまして本当に私のキューピット役は役目を終えます。もう一言二言余計な助言を言ってしまいそうになりましたけれど、それは蛇足と言うものですから、すれ違い様に、
「先輩は、必ず来るって信じてましたよ」とだけ伝えたのでした。
その後、私は一度も振り返らずに部室棟を出ました。夏目君はきっと、私に視線を向けたことでしょう。私が夏目君だったら、そうしたと思いますから。
「あの葉山さん?聞いてる?」
「あぁ、えっと何だっけ……?」
実は小春日さんが夏目君の事を悪く言う度に、私も何度も今日の出来事を思い出しては、何度でも「良かった」と安堵していたのです。ついそちらに気を向けすぎてしまっていました。
「消費者行動論のレポートよ。あれノート見ても資料読んでも、書ける気しないのよね」
「それなら、図書館に参考書があって、それを読んだら結構楽に書けたよ」
「えっ!もう書いたの」
「えっと、今日の午前中に……まだ読み返して推敲しないとだけど」
「あぁ。憎っくき二日酔いぃ」
小春日さんはそう言いながらテーブルに突っ伏すと額で広告の印刷されたテーブルクロスをぐりぐりとしました。
「ごめんね。でも、あこまで飲ませてってお願いしたわけじゃなかったんだけど……」
「いいの。珍しく古平君が2人きりで2次会しようって言うから、はしゃいで飲み過ぎたのは私だから……だってさぁ。付き合ってるのに付き合い悪いんだもんこうちゃん」
「あぁ……」私は返す言葉思いつきませんでした。
付き合ってるのに付き合いが悪い彼氏……相思相愛の形は色々あるものですね……
「はい。幸せな時間でした。酔っぱらって押しかけて……そして、ほとんど何も覚えてなくてごめんなさい。だから色々ごめんなさい」
さらに額でぐりぐりしながら小春日さんが言います。
「もう済んだことだから。それに先輩だって逆に心配してたし……」私は苦笑しながら言いました。一番迷惑を被った先輩が怒っていないのに、私が目くじらを立てるのも変な話しです。
それに、先輩にせよ私にせよ。小春日さんのあのタイミングでの登場には救われた感も否めませんから。
「今日だって、顔出すって言ってたのに来ないし……約束ねってメールに書いたのに……来ないし……そう言えば、夏目君、寝癖のまんまで来てたよ。目充血してたし、絶対寝てたよあれ」
どうやら夏目君を悪く言うのは、古平君に約束をすっぽかされた八つ当たりだったようです。
痘痕も靨。一度好きになったら、どんなに嫌な所も愛らしく見えるてしまう。恋の魔法ですね。私は自分で思って恥ずかしくなってついにやにやしてしまいました。
「ぶー。人の不幸を笑うなんて性格悪いなぁ」ひとしきりにやにやした後、視線を戻すと頬を膨らませた小春日さんの顔がありました。
「小春日さんのことじゃなくて、その、思い出し笑いと言うか、なんと言うか……」
「いいですよーっだ。葉山さんなんてクリスマスには独りの寂しさをとことん味わってしまえばいいのよ」
「はい。しっかりと味わいたいと思います」
私はすっかり困ってしまって居たので、そう言いつつ困った顔をするしかありませんでした。
結局その日、先輩からは何の連絡もありませんでした。
○
大学の付属図書館に缶詰になってレポートや試験勉強をしていると、甘美祭の準備にキューピット役にと奔走していたことがまるで幻だったように思えて仕方がありません。最初は自室で勉強をしていたのですが、自宅だとつい、テレビを見てしまったり、読みかけの小説を引っ張り出してみたり、掃除がしたくなってみたりと誘惑が多くて、勉強に集中できませんでしたので、こうして付属図書館で勉強をしています。と書けば、雑念を振り払って集中できている様に思えますが、実際には参考書の隣に図書館にある文庫が数冊置いてあるのですっかり本末転倒状態です。
誘惑には抗いがたし……です。
あの日以来、先輩とは連絡も取っていませんし、姿も見かけていません。私も図書館に家にと籠もりっきりですから姿を見かけないのは当たり前ですし、勉強の邪魔になると思って、先輩も連絡を取ることを遠慮しているのだと思います。
小春日さんとは履修している講義が大体同じなので、試験についてやレポートについて連絡を取り合っていますけれど。
つい最近まで毎日のように一緒に居たのが嘘のように1人でいる時間が増えました。クリスマスもそれぞれに恋人と過ごすでしょうから、2人と顔を合わせるのは忘年会くらいでしょうか。そんなことを考えてはその前に立ちはだかる試験に頭を悩ませる私だったのでした。
◇
流々荘に籠もるのも後数日の我慢だ。にっくき試験が明ければクリスマスである。私にとって今年のクリスマスは人生初の特別なクリスマスになる。もちろん、真梨子先輩と一緒に過ごす特別な一日であることは言うまでもない。
部屋に先輩がいつ来ても言いように掃除をしようか先輩の差し入れで空腹を満たそうか、真梨子先輩とどこに出掛けようか……勉強を差し置いて私は先輩の事ばかりを考えていた。
携帯を見れば先輩からのメールが入って居たし、受信フォルダも先輩からのメールで一杯だ。ついでに言えば待ち受け画面も先輩なのである。
文字通り、私の周りは真梨子先輩だらけとなってしまっていたのである。
しかしながら、我ながら中学生のような告白であったと反省してもしきれない。化けの皮が剥がれるとはこれまさに……大人ぶっていただけで、精神年齢は中学生のままであったようだ。
いつか誰かに告白はすると思っていた。だから色々妄想もしたし想像で訓練もした。恋愛映画を見て勉強もしてみた。だから完璧なはずだったのだ。
景色の素敵な場所か高級レストランか……手に花束や、贈り物を携えて、正装をした上で愛おしい人と相対して浪漫をふんだんに織り交ぜた紳士的な告白を……現実はかくも私の想像と想定からかけ離れ過ぎていた。
素敵な告白どころか、あれでは中学生の喧嘩のようではないか。先に我慢できなくなった私が悪いのだろうか……
終わりよければ全て良しと、先輩はまんざらでもない様子であったが、やっぱり私は釈然としない。
……
「嬉しい」と私の告白を受けて涙を流した先輩は、今までに押さえていた感情を抑え切れず私の胸に飛び込むと、私の顔を見上げ、そのまま有無を言わせず……唇を重ねる……
……
私の入念な予行演習の状況は多岐にわたったが、結末はこの一点に行き着いていたはずなのだが……
うむ。おかしい。
とはいえ、脳内にて長年に渡り私の予行演習に付き合ってくれた、黒髪の長髪美女にはお別れを言わなければならない。名残惜しいとはいえ、恋人ができてなお彼女とお付き合いし続けるのは気が咎める。
天井を見上げながら理性の呵責に喘いでいると、先輩からまたメールが来た。
「
ちゃんと勉強してる? 単位落としたらクリスマス予定入れるからねっ!
」
私のビーナスはなんでもお見通しらしい。
私は名もなければ顔もおぼつかない脳内の彼女にお別れを告げると、先輩が差し入れてくれた、竹の子の炊き込みご飯おにぎりと皐月さんが持ってきてくれた、おでんとを食べながら机に向かい直したのであった。




