出会いはビービーキュウ
私は生粋の下戸である。ゆえに酒の席ではトムソンガゼルでしかなく、麦に米に葡萄にと次から次へと胃袋へ流し込む豪者の隣で必至にひ弱な角を構えているしかない。
だがその分、参加費用の元を取らねばなるまい。と鯨飲はできないながら馬食の限りをつくすのが常であった。
大学の夏休みはとかく長く、それゆえに多くの大学生にとっては経験することも多いはずなのであるが、私と言えば文芸部に徹するか部の先輩である真梨子先輩の誘いにて昼夜を問わず飲み会へ参加すると言う、一方からは羨ましがられながらも私自身はなんとも実りのない2回目の夏休みを過ごしていた。
本日も朝から真梨子先輩に呼び出されて眠た眼を擦りながら、一昨日から置きっぱなしとなっているリュックを手にあくびをたずさえて家を出た。
『文芸誌がんばろー会』と名打たれた飲み会。建て前としては文化祭で出版する文芸誌の原稿なりを精力的に良いモノをつくろうと言う激励会なのだが……一昨日も『文化祭がんばろー会』を催したばかりであるかぎりは、体の良いただの飲み会であることは言うまでもない。
私は真夏の猛暑の中をわざわざ大学の最寄り駅から学舎とは真逆の方向に進路を取って、とあるスーパーマーケットに向かい、そこでマシュマロとテナントとして入っているたこ焼き店のたこ焼きを購入した。
私の好みうんぬんではないが、たこ焼きには所望者である真梨子先輩のこだわりがあり、青のり多めのかつおぶし少なめ、そしてソース多め。それを満たしたたこ焼きでなければならないのである。
もちろん、これらは私の財布から支出されるのであるが、私は決して真梨子先輩にレシートを渡すことも見せることもしない。金銭にこそは親しき仲であったとて、たとえ小銭であってもきっちりしておくのが私の流儀である。
だが、それとこれとはまた別の話なのだ。
今回のように催される『会』では、真梨子先輩が飲食費のほとんどを黙って財布から出している、だから私のような貧乏学生であっても大学生による大学生のための飲めや食えやの宴会に連日参加することが叶うのである。
もしも私が真梨子先輩と出会っていなければ、宴会などと縁遠く休日など全てを一人寂しく自室にてふて腐れていたことだろう。
口にこそ出さないが私は真梨子先輩に感謝しつつ、尊敬もしていたのである。
◇
夏場に限って開催される会場と品目は毎度と同じで、付属図書館と体育館の間にあるこじんまりとしたスペースでの焼き肉と相場が決まっていた。
この場所は現在では使われていないグランドへの通路であったために白いタイルで舗装されている。背の高い建物に囲まれている隙間であることと樹齢50年とも言われる槁のお陰で、夏場でも一日日陰であり、加えて時折吹き抜ける微風でもビル風となって団扇なども必要はない。
そんな最適地にて、正午を前に飲めや食えやの宴会が催されるのである。私が到着した頃には骨付きのカルビが網一面に並べられてあった。
「遅いぞ、恭君!そして買ってきてくれた?」
トングを右手に左に缶麦酒のロングを持った真梨子先輩がぴょんぴょんと跳ねるように私の元へやって来た。その際、たわわな胸元も一緒に跳ね踊り「恭君やらしい」と私の目線に文句を言う先輩であった。
私は言いたい。夏であり本日が最高気温を更新した記念すべき猛暑日であると言えども!体のラインをこれ見よがしにぴったりと、そして、谷間を覗かせた白のTシャツに赤い下着を身に着ける先輩の方が悪なのであると!
付け加えるのであれば、ミニのキュロットスカートもどうにかしてほしい。
とにかく、真梨子先輩の方を向けば、自然と胸元へ太股へと視線が向いてしまうのだ、それはもう万有引力がごとく……
とは言え、万有引力にのみ素直に従うと、常夏を思わせる趣味の良いサンダルと赤いマニキュアで装飾された光沢ある爪に行き当たる。そして私は決まって思うのである。
いつもながらに靴だけは垢抜けていると……
「頼まれた、たこ焼きとマシュマロです」
私はそう言うと真梨子先輩の前言を無視して、作り立てほやほやのたこ焼きとマシュマロの入ったスーパーの袋を渡した。
「さぁんきゅっ」
上目遣いにウインクを残してまた駆けて行った先輩。
こんなお茶目な先輩に何人の男どもが夢を抱いては項垂れたことだろうか。天から賦与された胸元の果実と白く伸びた羚羊のような足に、ぷっくりとした唇、風に靡くたびに良い匂いが漂う茶色い長髪。
こんな女性に憧れない男は男ではない……
自分で言っておいてなんだが、私はそんな先輩に微塵も惹かれるものがなかった。
文芸サークルに入った当時は、男子の浪漫の詰まった胸元とその体つきには、それは脈を早くさせたものだが、真梨子先輩の噂を聞いた途端に冷や水を浴びたように、異性としての魅力を感じなくなってしまったのであった。
先輩の美貌は私も認めるところである、しかし艶容たる美貌を間違えたベクトルでひけらかす癖があり、それが身なりに言動に仕草にと、憚りなしに現れているのであるからして、たちどころに『我こそは!』と自信があるも無きも男どもが寄って集ってくるのである。
不思議なことに、そのくせ先輩に彼氏がいるとは聞いた事がない。そこれはそれとして、私が冷や水に感じたのは、飲み会で意気投合をすると、先輩は酒の勢いですぐに男を自分の部屋へ連れ込んでしまうと言う噂だった。年頃の男女が一夜を共にすると言うことは、つまり……もはや愚問であろう。それが指の数では到底足りないと言うのだから、私はほとほと呆れ返ってしまった。
一説には男漁りのために、飲み会を催しているとの噂も立っているが、文芸サークル内の飲み会に関しては、私の知る範疇では連れ込みなどの不埒な所行は一度としてなく、無邪気に骨付きカルビを頬張る姿などは純然にアウトドアを楽しんでいる大学生にしか見えない。
そして、これだけは言っておきたい。私は確かに先輩に呆れてしまった。だが、それは真梨子先輩と言う人間の人格を否定したわけではない。
つまりは千差万別なのだ。夜な夜な桃色ホテルへ足繁く通う男女もいれば別段その行為自体が『悪』であるわけでもない。現代の男女観からすればそのような行為とて容認され、寧ろ抵抗とて感じないのが普通であろう。慎みを以てなどと、貞操観念を強く抱く私こそが、時代遅れであって詰まるところ私の個人的な偏見でしかないのである。
「そんなとこに立ってないで、恭君も早くおいで。このカルビ美味しいよお」
貞操観念の根深い私としては、先輩のようなはしたない女性は忌み嫌うはずなのであるが……はずなのだが……私が先輩を忌み嫌うことができないのは真梨子先輩は本質として面倒見も良ければ、優しく、はしたなしを覗けばとても良い先輩であり女性であったからだ。
その証拠に、男性から邪に愛されるばかりではなく、出る杭は打たれるはずの同性からも親しみの笑顔を傾けられている。これを人徳と言わずしてなんと言おうか。
「また二日酔いですか」
ポン酢の入った受け皿に骨付きカルビを取って私に差し出してくれた先輩に私が言った。
「まあねえ」先輩はそう言って、早々とマシュマロを竹串に刺してあぶっている。
「二日酔いには迎え酒」
それでもビールを手放さない気概はさすがと言うに値する。
「それで、昨日はどっちを食べたんですか」
骨付きカルビにかぶりつく前にマシュマロを口に入れようとしていた先輩にそっと投げ掛けてみた。最低限の隠語であろう。きっと新入生にはわかるまいと思う。
「昨日は2回の女の子」
そう言いながら先輩はとてもいやらしくマシュマロを口の中に放り込んだのであった。
早々に前言を撤回しなければならないのは私の意図したところであると言わざる得ない。事実としてあまり語るべきではないのだろうが、とどのつまり真梨子先輩は両刀使いなのである。
「さすが恭君。あの子は美術部の葉山さん。ほら、今年も美術部に色々と発注するから、お近づきにね」
先輩はなぜか嬉しそうに、私の視線の先にいる女性を竹串で突くような仕草をしながらそう説明してくれた。
文化祭の激励会に美術部員が参加するのは毎年恒例であり、なんら珍しいことではない。気になると言えば汗ばんだ真梨子先輩の胸元の方である。
だが、今回は……いいや今日は違う。先輩が串で突いた彼女は、艶めく黒髪に控えめな前髪、目は凛と肌は白く、小さくもぷっくりとした口元。化粧気こそなかったがだからこそ、唇の色は薄かったし、白いブラウスに涼やかなフレアスカート身に纏った姿はまさに『清楚』を絵に描いたような乙女であった。
派手な真梨子先輩は私の好みではなかったが、清楚な乙女たる葉山さんこそ、私の好みど真ん中ストライクであったのだ。
このトキメキを心の躍動を人は一目惚れと言うのだろうか……
彼女は骨付きカルビを小さな口で勇猛にも囓ると、なかなか噛みきれずに悪戦苦闘の末に、受け皿を落としてしまった。
慌てた彼女であったが、しっかりとカルビを銜えたままでその収拾を図る様はなんとも言えない可愛らしさがあるではないか。子犬が自分の尻尾を追いかけてくるくると円を描く趣がある。
私は今日はじめて、真梨子先輩に感謝をした。それはもう深淵から感謝をしていたものだから「真梨子先輩。呼んでくれてありがとうございます」と本人に言ってしまった。
「恭君と私の仲じゃないの。でも、そう言ってくれると嬉しいな」
そう言って微笑んだ先輩も美人であるのだが……先輩の美を感じ入る前に……男子の嵯峨か、やはり胸元に視線が行ってしまうのは……この状況においてはなんだか申し訳ない。
私は生粋の下戸であり、宴のはじまり、乾杯と掲げた缶麦酒をお開きまで温めるのが常であり、食べるは食べ、腹が膨れさえすれば酔いにまかせての茶番には参加せずに距離をおき、これを眺めて余興としていた。
本日とて肉と言う肉を腹に貯めた後は、炭酸飲料片手に酔っぱらいの言動を静観していることになるだろう。そう思っていたのであったが……番狂わせにも、この場には私の心を爽快に奪ってしまった乙女の姿があるではないか、彼女は人見知りな性分なのか、はたまた私と同じで下戸なのだろうか。食べるに徹した後は缶麦酒を片手に誰と話すでもなく、目だけをきょろきょろと動かして、時折楽しそうに微笑んでいた。
そんな彼女と視線こそ合うことはなかったが、私は彼女に穴が開いてしまうのではなかろうか。そう思ってしまうほどに凝視していた。
「見てるだけじゃ男らしくないわよ。これ持って行ってあげなよ」
手の中の缶麦酒が温くなってきた頃合いで、真梨子先輩が今にもとろけてしまいそうなマシュマロの串刺しを私に差し出しながら、肘で私の横腹を二度ほどスキンシップをするのである。先輩に勧められるままに
「あの、これどうぞ」と私としたことが温い缶麦酒を持ったまま彼女の元に歩み寄ると、気の利いた台詞の一つも言えず、ただの給仕として、彼女に料理と呼べない食べ物を差し出してしまった。
だから「ありがとうございます」と彼女は私の顔を上目遣いで見つめながら言うに止まるしかなかったのである。
硬派を気取るのは良い。いいや、私はきっと硬派であろうと思いたい。けれど、こんな時くらいは軟派な男子を見習いたいと思うのである。どんなに真善美のうち揃った人間であったとしても、第一印象はとても重要で、一度きりの印象の有無によって、今後のあり方も随分と変わってきてしまう。最悪で言うと、これっきりと言うことも往々にしてあり得るのだから恐ろしい……
「あの子、少し人見知りだから、はじめてにしては60点ってところね」
項垂れて帰って来た私に、真梨子先輩は優しくそう言うと、「マシュマロ美味しいよ」と私に自分が食べかけた串刺しをくれた。
そのマシュマロはとても甘かった。きっと真梨子先輩の唇もこんな味がするのだろう。そんな阿呆な妄想に包まれるほどに甘美にして風味は絶佳であった。
私はマシュマロを頬張りながら、私は葉山さんから香ったオレンジをような爽快感と林檎のような後味良い甘い香りを思い出してただ、恍惚としていたのであった。
○
私が真梨子先輩と知り合ったのは、美術部の『外注に負けないぞ会』の時でした。
文化祭への個人出展作品と美術部としての出展作品を昼夜構わずに夏休みの初旬に終わらせて一息ついたそんな頃合。言わば慰労と文化祭への景気づけを主にした飲み会にでした。
その席の下座に座っていたのが真梨子先輩だったのです。この先輩は名ばかり幽霊部員であると言うのに、毎日せっせと参加している皆勤賞の私よりも有名人のちょっと不思議な先輩でした。
真梨子先輩と同回生の先輩に偉業の有無を聞いて見ても帰ってきた返答は「万年幽霊部員よ。でもしいて言うならばキューピットかな」でした。さらに聞けば美術部作品を何一つとして制作していないとのことでしたので、私は思わず眉を顰めてしまったことを鮮明に覚えています。
けれど、だからと言って私は排他的に考えることもありませんし、同性の私が言うのも気が引けますけれど、猫のようにほわほわと可愛らしく、年上にもかかわらず後輩に麦酒を注いで回る殊勝な姿に私は好印象こそ抱きませんでしたけれど、敬意を抱きました。
本来ならば好印象の次ぎに敬意がやって来るのだろうかと思います。自分でもそう思っているのですから、きっとそれが順当なのでしょう、けれど真梨子先輩の姿を拝見しますに、とても好印象と言うよりも恥ずかしさが先立ってしまったのです。
何せ、先輩ときたら、サイズ間違え買ってしまったかのような、ぴっちりと体のラインに張り付くピンクのキャミソールの上に肩までざっくりと開いたい淡い黄色のシャツを来ているのです。そして、立ち上がるとその下が見えてしまいそうになるミニスカートに黒いニーソックスを履いています。
右薬指にはめられた銀色の指輪に、アンティークキーを思わせるトップのペンダントは控えめにオシャレだと思いましたけれど……
白のブラウスにキュロットスカートとオシャレとは言えないながらも、落ち着きのジャンルに部類される私の服装からすれば、それはすでに冒険と言うジャンルなのだと思います。
「そのブラウス可愛いわね」
突然、私の肩まで届かないもみ上げを掠りながら、真梨子先輩は吐息を私の頬に当てながら胸元のギャザーを人差し指で突いてそう私に言いました。
「いいえ、そんな……」
私はどうしてでしょう……鼓動を早く顔をみるみる間に火照らせながらやっとそう答えることができたのでした。
不意に真梨子先輩の顔が現れたのにも驚きましたけれど、その吐息のくすぐったいのと、息と一緒に鼻腔をくすぐる優しく甘い香りに思わず心奪われてしまいそうになってしまったことに、私は正直に驚いてしまいました。
前のテーブルを見ますと私のグラスに金色の飲料がシュワシュワと気泡を讃えています。
何かが私の後ろ髪を撫でて行きました。その後に香るあの甘い香りから先輩のミニスカートですね。と推測できたのですが「葉山さんは、お酒。いける口?」と隣に腰を降した先輩の胸元の迫力は私には推測することはできませんでした。
キャミソールとTシャツにぴっちりと締め付けられていながらその胸元は、これに負けじとしっかりと大山に生地を押し上げ、どっしりと存在感を示しているのです。そして、予てより真梨子先輩の噂を拝聴していた私は、微かに覗く奈落よりも深そうな谷間に、何人くらいの男性達が落ちて行ったのでしょうと、破廉恥なことを考えていたのでした。
私の頼りない胸元を思うと、羨ましくもありましたけれど……すらっとした自分の体型が気に入っていましたから、さながらジレンマと言うやつですね。
「少しだけです」
そう言うと、麦酒の注がれたコップを持つと、部長の長ったらしい妄言を雑音程度に耳に入れながら、横目ではにこにこと笑顔を絶やさない真梨子先輩の顔を見ていました。
私はお酒が弱いわけではありませんでしたけれど、あまり大勢の人の前で飲むのは趣向ではありませんでしたので、真梨子先輩に注いでもらった麦酒をちびちびと飲んでいました。そんな私の隣では早々と頬をほ
んのりと赤くした真梨子先輩が割り箸をごっそりと抜いて細いペンで何やら書いていたのですが……
「ねえ、葉山さんこれ持ってて」真梨子先輩は私に割り箸を一本渡しました。その割り箸には『4』と不吉な数字が書かれてあります。
「王様ゲームしょう!」
そして誰もお酒のお代わりをしないうちから真梨子先輩はそう言い出すと、すくっと立ち上がって、手に握った割り箸を机の中心に突きだしたのです。
「待ってました!」
どこからか、そんな声が聞こえたかと思うと、男性の先輩方は眼を輝かせて我先にと割り箸を引っこ抜き、同性の先輩方は苦笑いを浮かべながら、残った割り箸を引き抜く抜くのでした。
そして、手に残った最後の一本を握り締めて、真梨子先輩が座布団の上に腰を戻すと「王様だーれだっ」と誰かが言います。
「僕です」
細波を飲み込んだ鯨が静寂を吐き出すように、私の見たことのない男性が手を上げました。
「よりによって意地悪古平君が王様ですかあ」
あちゃっ。と続ける真梨子先輩は、肩を私に触れさせました。すると、また仄か甘い香りが漂ってきたので、思わず私はそれを鼻腔一杯に吸ってしまいました。
それはさておき、その人は古平さんとおっしゃるようですが……少なくとも美術部員ではないと思います。何せ私は皆勤賞なのですから、幽霊部員も含め部員全員の顔と名前は知り置いています。でも、真梨子先輩は知りませんでした……だから、嘘になってしまいますね。
水を打ったように静かになってしまった場は、飲み会と言うよりは愛の告白を見守る傍観者の集いのようでした。何せ皆が一様に固唾を飲んで古平さんに注目しているのですから……
男性の先輩方の中にはあからさまに祈っている姿まで見受けられる始末ですから、私はこの『王様ゲーム』と言うのはそれほど夢と希望に溢れたゲームなのだろうと、ルールも今ひとつ理解できないままに、今にも「ハレルヤ!」と叫び出しそうな部長をずっと見つめて、笑いを堪えていたのでした。
「8番と4番が一夜を明かす。場所はどうぞご自由に」
古平さんがそう言うと、途端に安堵の溜息と落胆の溜息が飛び交いました。特に部長の落胆の濃厚なことと言ったら……「この世に神も仏もありゃしない!」と叫んだかと思うと、大の字に寝っ転がるべく背を倒したのですけれど、狭い個室内ですから、次の瞬間には思い切り壁に頭をぶつけて、痛みに悶えながら壁に八つ当たりの文句を唱えていました。
もちろん、私は周りの反応に左右されることなく、部長だけを見ていましたので、その始終をしっかりと見終えてからついに笑いを堪えられなくなって、俯いて一人笑っていたのです。
ですが、「あらら、私と葉山ちゃんだわ」と隣から白く長い腕が私の頭を抱き締めたかと思った瞬間に、耳辺りにとても柔らかくモノが押しつけられていたのです。そして、また、甘い香りが私の鼻腔をくすぐるのでした。
「葉山ちゃん、明日何か予定ある?」
内緒話をするように、真梨子先輩が私の耳元でそう呟きましたので、「いいえ、特に何もありません」と耳にかかるこそばゆい先輩の息を我慢してそう答えました。
「じゃあ決まり」
真梨子先輩はそう短く言うと取り立てて何の仔細を話すこともなく、部長をはじめ意気消沈した男衆を奮い立たせるためでしょう。悪戯な笑みを浮かべて「野球拳でもしょうか」とコップの麦酒を一気に飲み干したのでした。
○
「家は近いの?」
「はい。大学の駐車場から見える、茶色いマンションです」
「あーあのマンションって、オートロックなんでしょ?」
「そうです。私は別に普通のアパートで良いって言ったんですけど、父がどうしてもオートロックでなきゃ下宿は許さないと言うので……」
「娘思いの良いお父様じゃないの」
「それは……尊敬はしてますけれど……」
私がそう言ったところで、真梨子先輩は鍵を鞄に戻して、ドアを開けました。
「さぁどうぞ、入って」
「お邪魔します」
居酒屋での飲み会はきっとまだ続いていると思います。頃合いからして酔った部長が失恋話で泣きじゃくっていると思います。そんな雰囲気を察知してか、途中で真梨子先輩は私の袖を引っ張るとトイレに行く振りをして、居酒屋を出てしまいました。それも、費用の全てを支払って……
真梨子先輩のアパートは三条通を下りJR奈良駅を通り過ぎた先にありました。賑やかな幹線道路と一つ筋違いのところにあるアパートです。
居酒屋からの帰り、真梨子先輩は何も言わず鼻歌を歌って歩いていました。私はそんな先輩に「先輩。私の分の会費です」と言って、メールに書かれてあった参加費を差し出しました。
「いいよ別に、会費集めるつもりなかったし」と真梨子先輩は受け取ってはくれませんでしたけれど……「それでは、次回から私が参加したくなくなります」と行く手に仁王立ってそう言うと、真梨子先輩は渋々私の手から参加費を受け取ってくれました。
先輩には甘え、私が先輩となった時、先輩にしてもらったことを後輩に返す。だから、私も今はまだ甘えても良いのだと思います。今だって真梨子先輩に「ごちそうさまです」と笑顔の一つも浮かべれば良かったのでしょうけれど……でも、でも、お金はしっかりしておかなければならないと思います。甘えるのだって、節度をもって甘えなければならないと思います。けれど、真梨子先輩が困った表情を浮かべたかぎりは……私は可愛くない後輩なのだろうと思いました。
部屋の中は随分と整理整頓の行き届いていて、とても落ち着いた雰囲気でした。1年年上と言えども、私の部屋とでは雲泥の差があります。風体と噂の数々からてっきり、居間のテーブルの上には手鏡やらマニキュアや化粧品に携帯の充電器などその他諸々が散乱しているだろうと思っていたのです。けれど、蓋を開けてみれば、テーブルの中央に薩摩切り子を思わせる、紅色のグラスに桃色のアロマキャンドルが入って置かれてあるだけでした。
その整理整頓の具合と言ったら、芸能人のお宅拝見の趣があります。ですが、台所からでしょうか、味噌汁の匂いもすれば取り込んだままの洗濯物が寝かされてあったりと、決して生活感がないわけではありません。
私はテレビの上に並べられた、ご当地グッズでもある『モッくん』のキーホルダーが気になって仕方がありませんでした。モクモクと枝葉を髪の毛として木の幹に顔のパーツを嵌め込んで、そして、服やら装飾品をその地域地域で彩ってご当地の特色をくっつけるのです。
たこ焼きは大阪ですね。ウニは……北海道。落花生は千葉。蜜柑は……愛媛でしょうか和歌山でしょうか……もしかしたら広島かしれませんね。
「アイスコーヒーしかなくてごめんね」
そう言いながら、先輩はアイスコーヒーの入ったグラスとストローにガムシロップ、ミルクを持って来てくれました。
「ありがとうございます。先輩はお水ですか?」
「ええ、昨日も飲み過ぎちゃってさ。本当はまだ昨日のお酒抜けてないのよね」
「いかんいかん」と先輩は続けて言いながら自分の頭を二度ほどぺんぺんと叩きました。
「先輩は綺麗好きなんですね。私の部屋が恥ずかしくなります」
「まあ、部屋はその人の心を移すって言うから、それによく友達呼ぶしね」
そう言われてしまうと、まるで私の心が汚れてしまっているようではありませんか……そりゃ……ゴミ箱に的を外して床に転がってしまった紙くずをそのままにしたり、使いっぱなしに出しっぱなしで寝そべっている不摂生は私が悪いのですけれど……
「先輩はモッくんが好きなんですか?」
私の内心がささくれ立ってしまわないうちに話題を変えることにしました。「えっ」と言う先輩に、私がテレビの上のキーホルダーを指さすと、「ああ、ほら、実家に帰った友達とかがお土産に買って来てくれるのよ。お菓子とかでも嬉しいんだけど、一人じゃ食べきれないから」と言うのです。
「それに太っちゃうし」と無理矢理脇腹のお肉を摘んで見せる先輩は少し太った方が良いと私は思いました。
私もそんなに肉付きの良い方ではありませんが、先輩に少しならお裾分けできると思います。私はお肉を、先輩は胸を……お互いの利害に一致した素晴らしいトレードだと思ったのは私が少しばかし酔っているからだろうと思うのです。
先輩はコップの淵を指でなぞりながら何やら物思いに耽っている様子でした。
お酒が抜けたのですね。そう思ったのですが……
「ねえ、葉山ちゃんは彼氏とかいるの」急にそんなことを真梨子先輩は言い出したのでした…
「いません。彼氏だなんて」
私は即答しました。本当に居ないのですから仕方がありません。
「そうなんだ……でも、」
即答した私に真梨子先輩の優しい眼差しが向きました。私は、次ぎに先輩の口から
飛び出すでしょう言葉を予測するかのように「彼氏なんて、できたことありません。告白されたこともありませんし、したこともありません。だから、真梨子先輩が噂になってることもしたことはありません。これで良いですか」と早口を言うと、わざと底に残った珈琲を大きな音を立てて飲み干そうと懸命になったのでした。
「そうなんだ、でも、」
「ま……」
まだ言いますか。と再び口を開いた私を今度は真梨子先輩が制しました。私の口には細くて長い先輩の人差し指が当てられ、すっかり出鼻をくじかれてしまったのです。
「でも、恋愛に興味はあるでしょ?」
「それは……そんなの……わかりません……」
私の酔いが一度に冷めてしまったのは言うまでもありません。先輩はきっと男の人に不自由などしたことがないのだろうと思います。今日の飲み会でも、部長をはじめ、男子部員は根こそぎ真梨子先輩にぞっこんでしたもの。男同士で野球拳はじめた外野をほったらかして、特視すべきは真梨子先輩と先輩と同回生の男性先輩方はなんとか真梨子先輩の隣に陣取ろうと、何かにつけては寄って来ていました。その度に私はまるで『邪魔だ』と言われんばかりに、背中を何度も膝で押されるのです。いっそのことどいてあげましょうか。と思うも立ち上がろうとすると、今度は真梨子先輩が私に腕を絡ませて、どこにも行かせてもらえないのです。
私にどうしろと言うのですか!
甘ったるいカクテルをちびちびと飲みながら、次からは芋を頼んで酔いに任せて、群がる男子部員に一喝してやろう。そう思ったくらいですもの。
容姿うんぬんはこの際どこかに埋め置くとして、私は性格が偏屈ですし……話し上手ではありませんから、きっと異性も同性も近寄りたくないのです……
私はそんな風に誰に何を言われたわけでもないのに、思い込みで落ち込んで憂鬱とすっかり俯いて、しばらくの沈黙をつくってしまいました。そうです、こんな私だから駄目なのですね。もう真梨子先輩も私を家に誘ってくれたりはしないことでしょう。
こんな可愛くない私なのですから……
「そうだ。葉山ちゃん明日予定無いって言ってたよね」
「はい。特に何もありません」
「明日ね、大学で文芸サークルでBBQするんだけど、葉山ちゃんもおいでよ」良いことを思いついた。と言わんばかりに先輩は私の手を取ってそう言います。
「そう言えばいつも同じ場所でやってますね。でも、私は美術部ですよ」
文芸部のBBQに部外者の私が行っても仕方が無いと思ったので、そのままを口にしました。
「いいの、いいの。ほら、文芸部って文化祭で美術部に外注するからさ、飲み会もBBQも美術部員ウエルカムなのよ。お世話になるんだしね。だから葉山ちゃんも是非!」
「でも」
「予定ないんでしょ」
「はい」
「なら決定!交流しないと恋も生まれないもんねえ」
そう言って意地悪そうに笑う真梨子先輩を見ると、なぜだか私は罠にはまってしまったような、そんな変な気持ちになってしまいました。話しからすれ、明日行われるBBQにお誘いしてもらっただけだと言うのに……
「葉山ちゃんにぴったりな男の子紹介してあげるからねえ」さらに、面白そうに先輩は続けます。
「いえ、紹介とかそう言うのはいいです。いりませんからね」BBQに参加することは吝かではありませんし、真梨子先輩は面白くて優しい先輩ですから仲良くしてもらえたら……そんな風にも思います。ですが、だからと言って、男性を紹介してほしいとは、これっぽっちも思いません。
私には恋など……お子様の私には恋なんてまだまだ早いのです。
それに、真梨子先輩の紹介する男性は、きっと派手な人に決まっています。髪の毛は金色で首にも指にもひょっとしたら耳にも、銀色のアクセサリーをこれ見よがしに身に着けて、歩くたびにじゃらじゃらと、熊よけのような音を出すに決まっています。
そんな人は嫌です。好みや理想と言うのは考えたことがありませんけれど……けれど、別に容姿が格好良くなくても良いですから、身長が私よりも高くて……偏屈な私でも傍にいてくれる優しい人であれば……それだけで良いと思います。
○
時刻がすっかり深夜に変わった頃、長居も先輩に迷惑ですし、明日BBQに参加するのであれば、シャワーを浴びて着替えなければなりません。こう言っては恥ずかしいのですけれど、私は飲み会に遅刻をしそうになったので、走りました。なので汗をかいてしまっていて、今も湿っぽい下着が気持ち悪いのです。
なので「それでは、私はそろそろ帰ります。着替えもしたいですし」と言ったのですが……
「シャワーここで浴びちゃいなよ」と真梨子先輩がさも当然と言わんばかりに、さらりと言ってしまうので、すっかり、間抜けてしまった私は立ち上がるタイミングを見失ってしまいました。
「でも、それも含めて帰ります」
半ば自分でも意味不明です。と思ったのですが私はそう口走りました。まさかまさかの先輩の言動に平静を装いつつもしっかりと動揺してしまっていたようです。
「シャワーだけっ。ねっ、シャワー浴びたら帰っていいから」
困った顔をして食い下がる先輩の顔を見つめていた私でした。ですが、なんとも必死に私を引き留めてくれる先輩に、少し嬉しくなってしまった私は、こともあろうに「シャワーだけいただきます」と玄関へ行くために立ち上がらず先輩に案内されて、脱衣所へ向かうために立ち上がってしまったのでした。
先輩のアパートのお風呂場も私のマンションのお風呂場も大きさとしては大差ありませんでした。なので、後は個人的な趣味と言いますか、真梨子先輩の性格の世界ですね。私のお風呂場とは違って、真梨子先輩のお風呂場にはシャンプーひとつとってみても、種類は豊富でしたし、トリートメントなどはさらに……先輩は髪の毛を染めているだけに髪のお手入れも大変なのでしょうか。私は髪の毛を染めたことがありませんから、そこのところはよくわかりませんでした。
とりあえず、香りの良いシャンプーで髪の毛を洗ってから、次ぎに体を……と思ったのですが、何せボディーソープも多いのです。中には英語の表記のものまでありました。とりあえず、英語表記のものは使わないことにして、並んだ缶ジュースほどの大きさの容器を手にとってみます。ラベルに眼を歩かせますと大抵が香水のように香りについての表記がなされてありました。
「ピンクローズの香り……」
私は思わずそう表記されたボトルを顔の近くまでもっていくと、まじまじと見つめてしまいました。
別段、バラが好きなわけではありません。ただ、私の実家では母親が庭にバラの花を数種類植えており、その中にピンクローズのあったのです。確かにバラは色合い鮮やかに綺麗な花ですけれど、一度として香りを感じたことはありません。
あんなに大輪の花を数多く咲かせると言うのに、季節こそ違いますけれど、こじんまりな花をあまたと咲かせる金木犀の方が香りが強いのはどこか理不尽です。私は子供ながらもそう思っていました。なので、『ピンクローズの香り』と読んで、興味をそそられてしまったのです。
少しだけ小指の先につけて嗅いでみますと、仄かに甘い香りがしました。そうなのです、居酒屋で香った先輩のあの香りなのです。ですが、その香りは儚く一時の夢をみているような……そんな頃には無臭となってしまいます。
ボトルには『瞬きの夢のごとく甘美な香り』と書かれてありました。
なるほど。と納得した私なのでした。
その後も、アップルミントやオレンジなど色々なボトルの香りを嗅いで遊んでみたのですが、その内に鼻の中がむずむずしてきましたので、そろそろ体を洗いましょう。と無臭ながら私に馴染み深い固形石鹸を手に取ったのでした。固形石鹸は馴染みが深いのですが、卵の形をした物は、はじめて見ましたし手に取りました。
「タオル、洗濯機の上に置いとくから」
前代未聞の泡立ちに、まるでホイップクリームのよう!と愉快な気持ちになっていると、磨りガラスの嵌め込まれているガラス戸越しにそんな真梨子先輩の声が聞こえました。
「ありがとうございます。使わせて頂きます」
真梨子先輩のことですから、ひょっとしたら悪戯な笑みを浮かべながらドアを開けるかもしれません。私は急いで体を洗います。体を洗う音が聞こえたところで、覗かれてしまえば為す術はありませんが……
先輩はドアを開けることはしませんでした。ですが、私はとても申し訳無い気持ちになってしまったのです。
それと言うのも「あっ、そうだ、固形石鹸が洗顔だから、卵っぽいやつね。すっべすべになるよお。後は適当に使ってね」脱衣所を出て行きすがら、真梨子先輩は声を弾ませてそう教えてくれました。それはまるで、美味しいお菓子をわざわざ私のために取り置いてくれたお姉さんのように…………
「えっ……あ……はい……」
誤魔化すようにとりあえず返事をしました私でした。
真梨子先輩。ごめんなさい。
申し訳なく思いつつも、再びホイップのような泡で顔を洗って見ますと、真梨子先輩の言うとおり、すっべすべになりました。お餅のように吸い付くくせにすっべすべになるのです。それを言うならば、全身がすっべすべになりました。何せ同じ洗顔石鹸で体を洗ったのですから……
風呂場を出ると、ドラム式洗濯機が仕事をしており、その上にバスタオルと封を切られていない下着。そして淡い黄色のパジャマが置いてありました。
「先輩!こんなのって!」
私は取る物もとりあえず、脱衣所から顔だけを出して、居間でテレビを見ているのでしょう先輩に大きな声で言います。
「あれ。下着小さかった?脱いであった下着でサイズ見たんだけど」
先輩は親戚の家に泊まりに来た従姉妹に言うようになんともあっけらかんと答えるではありませんか。
私はそう言うことを聞いているのはありません!
「違います。私の服はどうしたんですか」
「今頃は、泡だらけだと思うよ」 にかっと笑った先輩でした。
洗濯機の中を覗くと、見覚えのあるキュロットスカートとブラウスが泡だらけになって洗濯機の中をぐるぐると回っています。
「してやられた……」
すっかり真梨子先輩の術中にはまってしまった私はどうすることもできません。ですから、やむなく用意された衣類を身に纏って先輩の居る居間へ戻ったのでした。
てっきりテレビを見ているものと思っていたのですが、居間に戻ってみるとテーブルの上には参考書と専門書が並べられ、それを読みながら先輩はノートに万年筆を走らせていました。
「うん、可愛い、思った通り葉山ちゃんは明るい色もよく似合うね。服、私のと一緒に洗濯したけど、気にしないでしょ?」
手を止め、先輩の対面に腰を降ろした私に麦茶を振る舞ってくれながら先輩は言います。
「気にしますよ」
明るい色が似合うだなんて……私自身思ったこともありませんでしたし……言われたこともはじめてでしたから……
「えっ」
「これじゃ帰れないじゃないですか!先輩は何を考えてるんですか」
明るい色が似合うと言われて嬉し恥ずかしの心中を隠すために、私は少々声を荒げてしまいました。
「こっち来て、いちようお布団敷いたけど、ベットが良かったらベット使ってね」
「先輩」
「一晩だけ。良いでしょ。お願い……誰かが居てくれると、落ち着くの」
どうしたことでしょう、今までは私のことを弄ぶかのように接していた先輩だったと言うのに、この時ばかりは余裕の色は消え去り……どうにも精一杯の笑みだったように感じたのです。
先輩は勉強をしていますから、邪魔をするのも悪いでしょうし、それに明日も予定ができてしまいましたから、やはり早く寝てしまった方が懸命です。私はこれ以上自分自身が嫌いになってしまわないうちに、黙って布団の潜り込みました。本当はもう二言三言と会話をしてから……お礼やらも言ってから……眠りにつくのが本来なのでしょうけれど……これが今の私にできる精一杯の甘え方なのだろうと思います。やっぱり……こんな自分が大嫌いです。
布団で眠るのは中学生以来ですから、なんとなくの違和感に、高く感じる天上に、私はなかなか寝付けないで何度も寝返りを打っていました。襖からもれる居間の灯りを見ながら、流れるようにペン先がノートを撫でる音を聞きながら……
てっきり先輩は遊びほうけてばかりと、服装から勝手な印象と先入観でもって決めつけていました。きっと、心の片隅では真梨子先輩をバカにしていたのですね。
今日一番の嫌な私、大発見です。
「眠れない?」
私が一人でごそごそとしていると、襖が開いて顔を覗かせた真梨子先輩が私に声を掛けてくれました。
「いいえ」
私も大学生ですから、『眠れません』とは言えません。
「言うの忘れちゃってた」
そう言うと先輩は一度、顔を引っ込めてどこかを開けると、ブラウスとフレアスカートをそれぞれ片手に持って、私の寝ている和室へ入って来ました。
「明日これ着て行ってね。サイズは大丈夫だと思うからさ」
布団から顔だけを出して薄暗い真梨子先輩の顔を見つめていた私は、言葉を忘れてとても不思議な面持ちとなってしまったのです。襟周りにささやかなレースを施してあるブラウスと涼しげな青地に白い水玉模様のスカートを持つ先輩は三つ編みで一つに束ね。鼈甲を思わせる透き通った薄い黄色のフレームに上品な楕円を描くレンズの眼鏡をかけていました。
きっと品格正し眼鏡なのでしょう。それが似合ってしまう先輩も品格がそれ相応と言うことなのでしょうか……
「はい」
無為自然とそう答えてしまっていました。
「よかった。おやすみ」
「先輩」
「何?」
「あの古平さんとおっしゃる方は先輩の彼氏なんですか?」
「えっ?古平君が……またどうして」
「王様ゲームですよ。先輩と古平さんはグルだったんですよね」
先に私に割り箸を渡しましたし。古平さんはほとんど考えることなく、8番と4番と言いましたから、明瞭に先輩と古平さんはグルだったに違いありません。
「うん。葉山ちゃんとお話したくてさ。でも古平君は彼氏じゃないよ、古平君には小春日さんって言う彼女がいるもん」
「そうなんですか、変なことを聞きました。おやすみなさい」
「おやすみ」
食い下がることもせず襖が閉められた後。私は天上を見上げながら、あれは本当に真梨子先輩だったのだろうか……と考えてしまいます。どうやら、私は玉響微睡んでいたようで、先輩はいつの間にか小さい犬のイラストが散りばめられた可愛らしいパジャマに着替えていました。
顔も化粧をしていないはずなのに、ほとんど居酒屋に居た時の顔と変わりませんでしたし……変わった言えば唇の色くらなものです。
美術部に入部してからすぐに『魔女っ子真梨子』こと真梨子先輩の噂を同性の先輩から聞いた時は、それはそれは淫猥で淫乱で……だらしがなくて……でも、最後はキューピットだと……教えてもらいました。
大学構内で何度か真梨子先輩を見かけたことはありましたけれど、いつも露出度の高い派手な服装をしてましたので、噂はキューピットを除いては本当なのでしょうね。そう思って疑いもしてきませんでした。
ひょんなことから、こうして先輩の家にお泊まりすることになってしまいました。はっきり言って迷惑です。そう思っていたのはシャワーからあがった頃までで、今はなんだか……従姉妹の家に遊びに来た……そんな面持ちです。そして、今は先輩に対する私の気持ちも随分と様変わりしました。噂は所詮噂でしかありませんね。何処の誰が何の目的でそんな誹謗中傷ともとれるような噂を流したのかは知りませんけれど、
少なくとも私は真梨子先輩と言う女性は淫猥でも淫乱でもだらしなくない。整理整頓と自分磨きをしっかりできる立派な女性であると確信しています。私だって見習わなければならないところも沢山見えてきましたし……
しばらくはそんな風に影さえも見えない『誰か』に対して激昂しては頬を膨らませていた私でしたけれど、重くなった瞼を押し上げられなくなって来た時、朦朧とする意識の中、自然と思えたのです。
私にもこんな優しいお姉さんが居たら良かったのに……と。
○
翌朝。真梨子先輩の部屋で目覚めた私は、上体を起こしてから眼を擦りながら、昨日の回想をしてはようやく、どうして自分が自宅で目覚めていないのかを納得することができました。
「おはようございます」
恐る恐る襖を開けてみますと、テーブルの上には1人分の食事が用意されてあり、私の嫌いな服装の真梨子先輩が忙しなく通り過ぎて行くところでした。
なんと懐かしくもご無沙汰な料理なのでしょう。私がぼおっと湯気を讃えるそれらを凝視していると「朝ご飯食べてね。私は買い出しとかあるから、一足先に大学にいかなくちゃいけないのよ。お皿のそのままにしててくれて良いから。じゃあ行ってきます」
寝坊でもしたのでしょうか、とても慌てた真梨子先輩は口早に私にそう伝えると、平静を装いつつも、足早に玄関に駆けて行ってしまいました。
ドアが閉まる音がしてから、
「はい」と言った私はまだパジャマ姿でしたし、顔も洗ってさえいませんでした……
とにもかくにも、顔を洗った私はまだ指に吸い付くお肌をぺちぺちと叩きながら、朝食の前に腰を降ろすと、湯気を讃える出来たてほやほやのご飯にお味噌汁、焼き立ての油の乗った分厚い銀鮭。鰹節が添えられたほうれん草の御浸し、後は豆腐に卵焼き。これぞ混じりっ気なしの贅沢な和食です。こんな充実した朝食は実家でお母さんが作ってくれていた時以来でして、下宿をはじめてから、食パン2枚が私の朝食の基本ですから。随分とグレードが落ちたものだと今更ながら思ってしまいました。
「いただきます」
パン食では、時々割愛してしまう、食前食後の挨拶もこのような和食を前にすると、『せぬ者は食べるべからず』と言われているようで、自然と合掌してしまいますね。
真梨子先輩が出て行ってしまったので、私はいつも通り一人の食卓です。ですが、どうしてでしょう、お味噌汁を飲むたびに、ほうれん草をもにゅもにゅとしていると、実家にいるようで、今にも『夏美。早く食べないと遅刻するわよ』とお母さんの声が台所から聞こえて来そうな気がしてならないのでした。
もちろん、お味噌汁の味はお母さんの味とは違いましたけれど……けれど……この朝食に込められた私への愛情は、なんら変わりないのだろうと思います。
お母さんも仕事に行く前にちゃんと朝ご飯を作ってくれました。なので、いつも慌てて家を飛び出すのです。トースターでパンをチンと言わせれば、朝の連続テレビ小説もゆっくりと見られたでしょうに……真梨子先輩だって、私のためにこんな立派な朝食を用意しさえしなければ、もっと余裕をもって出掛けられたはずなのですから。
誰もが忙しない早朝に、起き出せば温かい朝ご飯が用意されていると言うことは、とてもとても幸せなことですね……だから、私はとても幸せ者なのです。
しっかりと味わってから『ごちそうさま』をした私は、食器を台所へ持って行くと、『お皿のそのままにしててくれて良いから』と言ってくれた真梨子先輩の言葉を無視してお皿を洗うと、まったく同じ食器が並べられてある、乾燥カゴの中に並べました。
それぐらいしないと、私が恥ずかしいですもの。
努力家で優しくて、包容力があって料理ができて。すっかり、真梨子先輩を尊敬してしまった私は、窓越しに風に揺られているのが見えるキュロットスカートとブラウスを一瞥してから、せっかくの好意を無駄には出来ません。と和室に戻って布団を畳んで、先輩の用意してくれたブラウスとフレアスカートに着替えをはじめたのでした。
サイズピッタリの洋服に袖を通すと、途端にオレンジを思わせる爽快感と林檎のような後味のよい甘い香りが私の鼻腔をくすぐります。きっと先輩がブラウスに香水をふってくれたに違いありません。
「良い匂い」
私は深呼吸をしました。柑橘系であるにもかかわらず刺激的ではなく、まるで毬のとれた栗のように、ただ、まろやかな香りなのです。私は今まで香水をつけたことがありませんでしたけれど、お気に入りの香りに包まれると言うのも悪くありません。むしろ、大素敵です。そんな風に思ってみると、なぜだかBBQに行くのが楽しみになってきてしまったのでした。
足取り軽く鏡台の前に立って昨日のシャンプーのおかげでしょうか珍しく寝癖なく真っ直ぐ伸びた髪の毛をヘヤーブラシでとき、戸締まりを指さし確認をしてから、玄関へ向かいます。
すると下駄箱の上に目立つハートのマグネットが置かれてあり、その下にはメモと鍵が置いてありました。もちろん鍵についているキーホルダーはモッくんでした、林檎を被っているところからして、青森でしょうか。
私はサンダルを履いてからメモを取らずに、文字のみを読み取ると。鍵を持って外に出ます。ドアに鍵をかけてから、メモに書いてあったとおりにドアの隣にあるガスメータの納められた、私の膝ぐらいまであるドアを開けると、その中のコンクリートの床の円筒形の缶が置かれてあり、同じ形状の鍵が2本並べてありました。丁度、私の持っている鍵を加えると扇の形になります。
後の2本の鍵にもそれぞれ、サクランボとカステラのモッくんがつけてありましたので、私は「山形と長崎」と呟きながら鍵を置くと、メーターのドアをしっかりと閉め、そして、大股で大学へ向かって歩き始めたのでした。