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前編

雨は一向に止む気配がなく、一連の出来事を振り返っている間にも、その強さを増しているようだ。ベンチに座る俺のコートは水を吸いきり、ベンチ下に雨滴がじだじだと滴り落ちている。公園のあちらこちらには、小さな池のような水溜りが雨粒の波紋に揺れ、空のどんよりとした灰色に全てが侵食されたかのように、俺の視界に入るもの全ては色を失っていた。

こういう景色を自分の心の内と重ね合わせて見る人がいるけれども、今の俺以上にこの空模様とリンクした心を持ち合わせている人間もそうそういないだろうと思う。全てが色褪せた世界にすらも見放された俺の心は、そりゃあ鈍色どころの騒ぎじゃない。正か負か。二値化されていてもおかしくないんじゃないだろうか?それくらい、俺の心は、中途半端に希望を持つことはできなくなっていた。そして二値化された心は、圧倒的に黒の存在比率が高くて、白なんてどこにもありゃしない。純粋な希望もなければ、絶望することにすら絶望してしまった今の俺は、もう何も怖くない。死ぬことも、苦とは思わない。むしろ唯一の救いであるかのようにすら感じるあたり、もうこの世に救いなんてないのだろう。

ただ一つだけ、今までの生きているんだか死んでいるんだかもよくわからないような人生で、このまま何も得るものがないまま消えていくのかなと思うと、ただただこの世界に生まれてきたことが悔やまれる。与えるものも何一つとしてなければ、得たものはせいぜい知識だけ。それも、ただ得ただけ。武器を倉庫にしまったまま、永久に保存しているだけのようなものだ。使われなければ、ただの鉄屑。ゴミ。使われてこそ真価を発揮する代物なのにもかかわらず、俺はそれを使いこなせなかった。

ただのゴミを得るためだけに、俺はこの20年間。ただの一人で、自分の殻に篭ったまま、世界を夢見て、そしてこのまま朽ち果てていくんだと、俺はただただ今はこうしてここを動くこともできずに、そのことを考えていた。考えても、もう遅いのに。

だけれども、そんな俺の脇に、一人の少女が大人しくこちらを向いて鎮座していることに気付いたのは偶然か、はたまた運命か。一人の少女と俺が、確かに今この時、この公園の一角にある、この一つのベンチの上で。二人仲良く、じっと顔を見合わせていたんだ。

「……」

「……」

時間が止まる。周りの雨音だけが、やけに鮮明に俺の耳に侵攻しては、俺の鼓膜を攻め落とす。

少女。少女だ。今の今まで気づかなかったけれども、確かにこれは紛れもない少女だ。噂には聞いていたが、これが少女か。と、よくわからない感動を覚えつつ、しかしふと気づく違和感に、俺は首を傾げた。

なんとおかしなことにその少女。今更になって改めて気が付いたことだが、俺の顔を見上げて不思議そうに首を傾げているんだ。俺よりも頭一つ分小さな背丈で、その身に雨を滴らせ、黒く長く、そして雨滴吸って艶めかしく艶やかに伸びる髪を、自身の顔に、腕に、身体に張り付かせながら、じっと俺のことを見据えているんだ。

俺のことを見ている?この俺を、彼女の目で見ている?

自分が何を言っているのか、自分でもよくわからないまま、今の目の前にいる少女の主観的な様子を心の中で復唱する。

……いや、俺のことを見ているわけではないと考えるのが妥当なところだろう。だって俺は、誰からも見えていないはずなんだ。存在しているのかどうかすらも、今となっては怪しい。存在という言葉そのものの定義が、今の俺の中ではあやふやだ。曖昧で、何度考えても納得のいく答えが見つけ出せていない。人から認識されることを『存在する』と言うのか、はたまたこの世界に立って息をしていれば『存在する』ことになるのか。昔の俺ならば、素直に後者を選んでいたことだろう。でも今の俺は、自分がこの世界に存在していると言いきれる自身もなく、どっちか選ぶこともままならなければ、他の答えを見つけ出すことも叶わない。

昔の俺ならば、存在という言葉の定義なんてもの。いとも簡単に答えられたんだろうと思う。自身が存在することに、明確な自信を持っていたんだから。

そんなことを考えながら俺は、少女からそっと目を逸らした。きっと、俺の身体の先にある空でも空気でも、少なくても俺ではない何かを、見えない俺の身体を通して眺めているんだろうと、そう安直に決めつけて。それならば、彼女の邪魔をする理由もあるまいと。

でも普通に考えれば、横を向いてわざわざ空を見上げたりなんてしないだろうって、そのくらいすぐに気付くはずだった。人ってやつは信じられないことに対しては、何かと粗に塗れた理由を取って付けて否定したくなるもんだよなと、そんなことに表層意識下では気付くはずもなく、今の俺は少女の行動の理由をびっくりするくらい安直に決めつけた。

前に向き直り、ベンチの背もたれに両腕を掛けながら、俺は空を大きく仰ぐ。冷たい雨粒が顔に突き刺さるように降り注ぐけれども、今の俺にとってはこれくらいが丁度いい。寝ぼけた頭もきっと覚めるだろう。

「あの……」

「……」

声が聞こえた。俺の左側から、雨音にかき消されてしまいそうなくらいにしとやかで、絹糸のように柔らかく細い声。風がさあっと吹けば虚空へと飛んで行ってしまいそうな声の主は、俺の隣にいる少女のものだろうか。確かに左側から聞こえた少女のものらしきの声は、はたして誰に向けられたものなのだろうか。

俺はそっと、少女の方へと向き直った。

「……」

「……」

またしても少女と向き合う形になってしまう。目と目を合わせて、先ほどまで無言を貫いていた少女は、どこか好奇心に満ちたような目を、俺を挟んだ先へと向けている。それを、決して俺に向けられているわけではないと思い込んでいたのは、少なくてもさっきまでの話だった。

「……俺?」

「……」

恐る恐る、自分でもよくわからないままに絞り出す少女への問いに、少女は無言で肯定する。誰とも話す機会もなく、独り言の多いタイプの人間でもない俺は、ここ数年間、ほとんど声を発することがなかったせいか、耳を通って脳に認識された自分の声が、自分のものではないように感じられてしまう。あまりにも久しぶりの会話で少し、声が上擦っていたかもしれない。

だけれども、そんなことはどうでもよかった。重要なのはそこじゃない。何故俺は今、自分の声の正誤を問っているのか、未だに少女の言動が信じられないのか。

でも少女は確かに頷いた。彼女の問い掛けは、俺に向けられたものなのかという、俺の問いにだ。

「……きみ、俺のことが見えるのかい?」

「……」

少しだけ問いの真意を測りかねたのだろう少女は、よくわからないと言うように首を傾げたが、やがて無言で小さく頷いた。そいつは、傍から見れば小さな返答かもしれないが、俺とっては大きな意義のある返答だった。

間違いなく少女は、俺の問いを耳で聞き取り、それを理解し、返答した。俺の存在を認知していた。あまりにも信じがたいことだけれども、ここまで少女の言動と俺の言動の呼応が成立するのであれば、きっとそれは真実なのだろう。

「……そうか。」

俺は小さく息を吐き、張りつめていた背筋の力を抜いた。

何故だろう。こんな状況だと言うのにもかかわらず、どうやら俺は想像以上に落ち着いているらしい。ベンチに背をもたれ、全身の力を隈なく抜きながら、少女の目をしっかり見据える。雨は冷たいが、手が震えることはない。緊張しているわけでもなさそうだった。

ただ、自分の存在を認知してくれているという事実を突き付けられて、未だに脳が麻痺してしまっているだけかもしれない。数年間、誰からも認知されなかった俺が、ここに来てこれほどまでにあっさりと俺を認知して、俺に声をかけてくれた少女がいるってこと。それは、一種の奇跡に等しい。いつの日か絶望に成り果ててしまった、懐かしい過去の希望だった。

しかし、それが今こうして、一人の少女によって実現しているという奇跡。

……なんだろうな。俺は、よくわからない感動の渦中にいた。久しぶりに、この世に小さな希望を抱けたような。そんな気すらしてしまった。

しかし、希望を持つことは総じて、人に絶望をもたらすことはわかっている。いかんいかんと、慌ててその希望に似た何かを払拭しようと頭を振るが、伸びきった髪から滴る雨滴が周りに飛び散ると同時に、もうすでにずぶ濡れとはいえ、幼気な少女へと、俺の髪から滴る雨水を跳ね飛ばしてしまった事に気付いたとき、俺は少女に認知されていることに気付いたとき以上に焦ってしまった。

「す、すまない!」

慌ててポケットを探るが、出てくるものはすべて水に浸っていて、使い物になりそうにもない。コートの内ポケットもズボンのポケットも然り。挙句の果てに俺は、自分のコートで少女の頭を拭いてやろうかとすら思い立つ始末で、自分のコートに手をかけ、腕に張り付くコートを振り回しながら手を抜き出そうとしたとき、ふと少女の手が俺の腕に伸びてきた。

「慌てすぎですよ、少し落ち着いてください。」

少女の落ち着いた声としなやかな指が、慌てふためく俺の動きを止める。無表情のまま、少女の小さな指が俺の袖をつまみ、弱々しく引っ張ってくる確かな感覚が、今が現実だと物語る。それと同時に、少女の指が俺の袖をつまんでいるという事実に、胸の高鳴りを覚えるのは気のせいじゃなさそうだ。他人から認識されたという嬉しさとは何かが違う、もっと違う感覚。ひどく胸に訴えかけてくる、冷たい世界の中で見つけた一筋の暖かさ。今まで味わったこともないような高揚感が、少女の指先から俺の体内に流れ込んでくるようだった。

「きみは……どうしてここにいるんだい?」

見たところ齢18にも満たない容姿をしているが、恐らく実年齢も18を満たしていないだろう。こんな土砂降りの雨の中で、普通ならば人っ子一人いないような公園に、そんな薄着で一人足を運んで……。

少女は俯いたまま、しばらく無言のままだった。何かうまい言い訳を考えているようにも、どう話せばいいのかを考えているようにも見えたけれども、やがて少女はゆっくりと俯いたまま言葉を紡いだ。

「……家出です。」

「家出?」

「はい、家出です。」

言葉少なではあるけれども、少女は家出してきたと言う。こんな雨の中を家出とはまた勇気のある少女だとは思うが、勇気以前の問題なのかもしれないなとまた思い直す。こんな雨の中でも家を飛び出さなければならない状況にあると考えた方が、この土砂降りの雨の中を少女が一人で歩いてる理由としては現実味があった。家庭の事情か、はたまた俺の想い過ごしか。どちらにせよ彼女は、俺がこの世界で唯一言葉を交わすことができる人間だということは確かだった。

「あー……家はこの近く?」

「はい、ここから5分くらいです。」

「そ、そっか……」

「はい。」

「……」

「……」

……どうにもこうにも、間が持たん。

会話の合間に訪れる静寂が、妙に居心地の悪さを際立たせる。少女の方はというと、会話が途切れることを大して気にしていない様子だ。空をぼーっと眺めては、まだ幼さが残ってはいるが、非常によく整った顔に雨滴を弾かせている。普通の生活を送ってきた人間ってのは皆、こんな状況でも落ち着いていられるものなのだろうか?どうにも実経験の少なさがここに来て祟っているようにも感じられる。この世に生きる上で、知識だけではどうにもならないという、ものの本で得た知識の正しさを自ら証明してしまった形になり、若干恨めしい。

そもそもの話、もともと人と言葉を話すことが少なかった人間が、急に流暢な言葉遣いでコミュニケーションを取れるはずがないのだ。彼女との途切れ途切れの会話の合間に必ず、不規則な間が空くことに、俺はどうしても耐えられなかった。だからついどうでもいいことばかりを、形としては彼女への問いとして、内容もよく吟味せずに口に出してしまう。『学校は行ってるの?』とか『好きな食べ物は?』とか『寒くない?』とか。でも少女はそれらのどうでもいい質問を全部、言葉少なではあるが、律儀に答えてくれたのは救いだった。

やがて、会話という行為自体への慣れを感じ始めてきたころ、ふと思い返す家出という言葉。あれからだいぶ時間が経ったが、こんな雨の中を無断で家から出てきたのだとすれば、きっと親御さんは心配しているんじゃないだろうか?彼女の親がまともであれば、きっと娘の不在に対し、抱くはずであろう感情だ。

俺は頭をフル回転させて言葉を探す。だいぶ、言葉のチョイスにも慣れてきたのではないだろうか。あくまでも自分の過去を比較しての話だけれども。

「家、帰らないで大丈夫?」

「大丈夫ではないです。でも帰りたくもないです。」

顔を俯けた少女の頬には、雨滴が伝う。表情の変化に乏しいが、どことなく愁いを帯びているようにも感じた。

どうも、妙な言い回しをする少女だ。もしかすれば、小説が好きなのかもしれない。小説家であったり、読書を好む人は、どうも回りくどい言い回しを好む傾向にある気がする。まぁ、あくまでも俺が読むような小説の中だけの話だし、俺に限った話かもしれないけれども。

「でも、親御さんも心配するよ?」

「……」

その言葉を聞いた瞬間に、少女の表情に僅かに影がかかった…ような気がした。ほんの些細な表情の変化だったと思う。でも、どうしてだかは自分でもよくわからないけれども、その変化に俺は気付いてしまった。そして油断していた。彼女が今の今まで無表情を崩すことなんてなかったもんだから……だからきっと、油断していたんだ。

それから数秒の間を空けて、彼女の口角が僅かに空に近づいた。

「いいんですよ。家にいても、束縛が苦しいだけですから。」

「……」

色素の薄い肌に、色のない世界。雨に濡れた肌は血色を失ったまま、肌を伝う滴に色を洗い流されているようだった。でも、そんな中で見つけた彼女の微笑み。どこまでも眩しく、色のない世界で、色を見つけ出すことすらも諦めていた俺の前に、突如現れたのは、色彩豊かな輝きを放つ彼女だった。

でも、その輝きは今の俺には眩しすぎた。色のない世界に浸り過ぎたせいなのだろうか。自分に向けられた、人の微笑みってやつが、こんなにも鮮やかだったなんて、そんなこと。夢にも思ってなかったんだ。

昂る胸の鼓動。高鳴り。目の前がチカチカと明滅し、無形の衝撃が俺の心臓を殴打する。自分の物とは思えないくらいに心臓が激しく脈打ち、気付けば口の中がぱさぱさに乾ききっていた。この感情に、覚えはなかった。初めて感じる、脳が痺れるような感覚、感情。自分の心の耳を研ぎ澄ませて、自分の心の声を聞けばはっきりしてくる、この感情の正体。不明瞭な輪郭は、自分の心と向き合い、真摯に受け止めていく過程で、徐々にその形を露わにしていった。

……俺も、単純なもんだ。

決め手は彼女の微笑みなのだろう。あの瞬間から、俺は一瞬で彼女に惹かれてしまったのだ。あの一瞬。彼女に微笑みを向けられたその刹那、俺の全てが動き出した。

彼女と一緒にいたい。俺を俺と肯定してくれた彼女を、もう絶対に離したくない。

利己的だと言われようと、犯罪的だと言われようと、単純だと言われようと、そんなものは今の俺の心には刺さらない。そんな言葉が何になる?棘にもならなければ、小さな毛虫の毒毛にもならない。俺の言葉がこの世の誰にも刺さらないように、この世の誰の言葉も俺には刺さらないのさ。

彼女の微笑みは、他人から敵意を孕むことなく向けられた、初めての純粋な微笑みだった。だから俺は、一瞬で彼女に惚れてしまったんだろう。そして、初めて俺は人との触れ合いに意味を見出せたのだろう。彼女のおかげで、俺はようやく人と向き合うこと、関わり合うことの大切さを、この身全てで理解できた気がした。

彼女への想いの加速は、どうやらもう静止を知ることはないらしく、どこまでも俺の、彼女への想いは募っていく。それはまるで、宇宙が半永久的に膨張していくかのように、どこまでも広がり、膨らみ続けていった。

「……でも。そのおかげで、俺は君に会えたわけだ。」

「?」

俺の言葉に少女は不思議そうに顔を傾げる。

いきなりそんなことを言われても、こいつは一体何を言っているのだろうと、さっぱり理解できないかもしれない。そもそも俺が、自分で何を言っているのかよく理解できていないのだから、それも無理はないことだと思う。

だが、今のこの心の昂ぶりを現すにふさわしい言葉は何なのか。どんな言葉が思い浮かべば、俺は納得できるのか。いや。この際、俺の想いに近い言葉でもいい。彼女にぶつけるべき言葉を探し、そして俺は見繕った。

「そうだな……とりあえず、君に会えてよかった。」

「……」

時間が止まった。正確には、少女の表情だけが一瞬だけ強張り、固まった。

うぅん。必至で考えた割りには、何とも捻りのない言葉だったと思う。でも無駄に凝った言葉より、簡単な語彙で占めた文章の方が伝わるものは伝わりやすいといつだか、どこぞの物の本で読んだせいもあって、俺はこう口にしたわけだが。

でも、その知識はきっと今この時、しっかりと役に立っていたと思う。だって、無表情でいることが多い彼女の目が見開き、頬が僅かに上気しているのが、まだ知り合って間もない俺にもわかったのだから。彼女は、突然の言葉に心底驚いたような……そんな女の子らしい一面を意図せずに見せてしまって、ちょっと焦ったように俺から視線を逸らした。

「……未成年の女の子をナンパですか?」

「案外、そうかもしれない。」

軽口を叩いている彼女に、俺はしれっと告げてやった。

「……」

僅かだが、赤面しながら戸惑っているように見える少女。彼女は、俺が言葉を発するたびに新しい表情を見せてくれる。

なるほど、人の表情の機微が、これほどまでに新鮮で可愛らしくて、愛しさすらも覚えるものだなんて思わなかった。

柄にもなく、じっと少女のことを見つめてしまう。

「……そ、そういうのは、もう少し身だしなみを整えてからにしたらどうですか?」

「え?」

言われて俺は自分の身体を、真下に見下ろすように確認してみるが、しかしこれと言って違和感を感じるような服装でもないし、ちゃんと風呂にも入ってる。何も変なところはないと思うんだけれど。

言葉には出さずに、視線で少女へとアイコンタクトを飛ばすと、少女のしなやかな指先が、ちょうど俺の目の上を指した。

「髪とか、伸びっぱなしじゃないですか。」

「髪?」

はて、髪だと?

彼女が視線を向ける先。俺は、自分の眼前を覆うほどにまで伸びた髪を手で掬う。

ああ、そういうことか。

言われて気付いたが、しかしこの髪の長さは伸び過ぎの部類に入るのだろうか。街ゆく人を見ると、確かに長いかなと思うことはあるけれども、あまり気にしたことこともなかった。

「……長いか?」

「ええ、長いです。まるで不審者みたいですよ。」

「ふ、不審者……」

「あ、そう言えばロリコンの不審者さんでしたね。ごめんなさい。」

深々と頭を下げてくる少女。だがしかし、果たしてそれは謝っているのかどうか疑問が残るところではあるが、確かにロリコンだと言われても仕方がない状況であることには間違いないので、ここはグッと言葉を飲み込んだ。しかし顔を上げた少女は、頭の上にでっかく『してやったり』とでも書かれた看板でも置いてあるんじゃないかってほど、わかりやすく表情を綻ばせ、俺を見据えてくる。

「ロリコン野郎さん。」

「つぐみ。」

「つるみ?」

「つ、ぐ、み。俺の名前だよ。No ロリコン野郎。」

「つぐみ……さん?」

少女は、何かを考えるように神妙な顔つきになる。

俺への冒涜を捨て置いて、何か思うことでもあるのだろうか?いや、いきなり名前を言われて、なんと返事を返せばいいのかと答えに窮している可能性もある。

『相手の次の対話を予想して、自分の次の言葉を選ぶことで、円滑なコミュニケーションが可能となる。』なんて、どこぞの雑書にあった小話を思い出した。思うにこれが、対人コミュニケーションに難しさを感じる所以だろう。とはいえ、言ってしまったものは取り返しがつかないことは、さすがに俺でもわかる。だから俺は、少女が次に繰り出してくる言葉を大人しく待った。

それからしばらくの間、少女は無言で難しそうな表情をしていたが、やがてその小さな口を開いた。

「女の子みたいな名前ですね。」

「まぁ、そういう見方もあるな。」

その開いた口から飛び出してきた言葉は、10秒ほど前まで俺が、悶々と自分の言葉に問いを立てては意味もなく自滅していた、あの心すり減らした時間を返してほしくなる。そんな答えだった。

それとな。散々なほどに言われたい放題言われているが、最後のは偏見だと思う……多分。

俺は空を仰ぎ、だいぶ小降りになりつつある雨が顔に降り注いでくる様を眺めた。雨が効果線のように見えて、距離感がつかめなくなるほど暗い灰色で染まった空とも相まって、それはまるで自分が亜光速で空間を跳躍にしているような錯覚に陥る光景だった。だから俺は空へと、伸ばせる限り手を伸ばした。今ならば、あの真っ暗な空にすらもこの手が届くような、そんな気がしたから。

「……つぐみさん見ていたら。何となくですけど、元気が出てきました。」

「俺をロリコン扱いして、それで元気が湧いてきたわけね。なるほどなるほど。」

「そんなに拗ねないでください。純粋な意味で、言ったんですから……」

「え?」

語尾が儚く消え入りそうな、か細い声で紡がれた文章の真意を測りかねて、俺は空を掴もうと伸ばしていた手の横から、少女の顔を見る。そして思い出す、昼過ぎに彼女と出会った時の表情。出会ったばかりの時の、あの無表情とは違っていた、俺の眼前にいる彼女の表情。意識して対比すれば、その違いは一目瞭然だった。

俺という人間の存在を知り、知り合いとして俺を認識したからこその表情なのだろうとか、自意識過剰と言われても仕方がないようなことを思ってしまうのも、彼女が吹っ切れたとでもいいたげに目を閉じたまま、薄く微笑んでいたからだ。

でもその微笑みは、俺に小さな違和感を感じさせた。同時に俺は、その表情に一抹の不安を覚えた。

「……なんで私、こんな見ず知らずの人とお話ししてるんでしょうか?」

その言葉に、俺の心臓が跳ねる。

「え、いや、俺に言われても……」

一抹の不安をさらに煽るような少女の言葉が、俺の心に響く。見ず知らずの人とお話ししている理由を、少女は見ず知らずの俺に問う。

……でも、それが俺に分かるはずがないじゃないか。彼女の心境は、彼女にしかわからない。彼女にだってわからないかもしれない。それを俺は察することはできても、一人では正解を正解だと知ることなんて、できるはずもなかった。でも俺は、そのセリフを最後まで続けることはできなかった。

俺が見つめる先の少女の表情は儚げだ。それこそ、雪が降れば、その雪に紛れて消えてしまいそうなくらいに。でも、儚げな表情の中で彼女は、確かに微笑んでいた。それなのに何故か、その表情は俺の心を深く抉っていったんだ。

なんでもいいから、今すぐに声をかけなければいけないような気がした。そうでもしなければ、今すぐにでもこの灰色の世界に溶け込んで、そして消えてしまいそうな表情をしていたから……。

でも、少女にかけるべき言葉を、俺は見つけ出すことはできなかった。何も言えずに、ただ口を噤んで彼女を見つめることしかできなかった。

やがて、少女の瞳が、俺を映し出す。少女は顔を上げる。

「見ず知らずの、こんな変な人なのに……落ち着いている私がいるんです。」

「……」

「これって、私が変なのでしょうか……?」

ちょこっと首を傾げ、俺に正解を求めるような表情の彼女から、俺は目を逸らすことはできなかった。

俺は、何と声をかければいいんだろうか。確かに、土砂降りの雨に打たれながら、公園のベンチで俯いている男の、その隣に座る未成年の少女は変な人だ。危機管理能力に欠けた、変な人だ。

でも、俺にとっては彼女が変な人か否か。正直どうでもよかった。彼女自身は、自分が変な人間なのかどうかで思い悩んでいるのかもしれないけれども、俺からすれば彼女は太陽だ。彼女が変な人かどうかはどうでもよくて、俺にとっては唯一無二の存在なんだ。地球は太陽を交換することはできない。太陽がなくなれば、地球は死を迎えるのと同じように、彼女がいなくなった先に待つ俺の運命は、この社会から再び隔絶されるという『死』だった。

昨日までの俺は、その『死』の状態にあった。その、社会から隔絶されるという『死』の現実から俺を救ってくれた少女が今、自分自身が変かどうかで思い悩んでいるというのならば、俺は彼女の悩みを払拭させよう。彼女が俺にくれたものの返礼としては申し訳程度でしかないけれども、彼女が何かを求めるのならば、俺はそれをできる限り与えよう。お節介かもしれないけれども、それくらいのお節介は許されてもいいじゃないか。

俺は、彼女にかけるべき言葉をまとめた。乱雑に詰め込まれた知識群から言葉を抜き出し、文章に形成する。今まで使ってこなかった脳領域が、必至にフル稼働しようと悲鳴を上げるが、それも構わない。俺はその間も、彼女の瞳から視線を逸らすことはなかった。

「きみは、確かに変かもしれない。」

「……」

俺を見つめる少女の瞳が陰る。僅かに表情が曇り、下唇を噛んだまま、少女は俯く。

「やっぱり……そうですよね。」

「ああ。でも、きみは普通だ。」

「……はい?」

ふと顔を上げた少女の表情は、つい数秒前までの曇った表情から一転、困惑した表情に様変わりしていた。こいつは一体何を言っているんだ?とでも言いたげな顔をしているが、まぁそうなるだろうな。だけれども、俺は明確な意思を持って今の言葉を言い放った。頭が混乱して、言葉を間違えたわけじゃあない。だから、俺は少女に笑いかける。

「変な生き物、人間の集合にいる変なきみは、確かに変だけれども普通だ。」

人間ってやつは変な生き物だ。意志と行動は頻繁に矛盾し、生きている人間が理由なく生きている人間を殺す。死ぬことを恐れながら酒を飲み、タバコを吸う。冷静になって考えてみれば、なんとも変な奴らでしかない。だけれども、その変な奴らに紛れて生きている、変な俺や彼女は、確かに普通の人間だった。

「人間は、誰だってみんな変な奴らだよ。きみだけじゃない。俺だって、変な人間の一人さ。」

「……」

少女は俺を見上げている。驚いたような、呆れたような表情から彼女の心は盗み見れない。目を丸く見開いて、俺をじっと凝視する彼女はただ、俺と同じ人間だった。

「だからさ。きみもあまり悩まないで、俺に相談でも何でもしてくれるとうれしい。」

何より俺は、彼女が俺から離れてしまうのが怖かった。せっかくここで奇跡的な確立で出会ったのに、今日という日が終わってしまって、明日になれば全てが元通りに戻ってしまうことだけが、俺は心の底から怖かった。

彼女だけでいい。彼女だけでいいから、俺は確かな繋がりが欲しかった。だから俺は、また明日も、その明日の明日も会って話せるだけの理由を求めて、俺は彼女へとかけるべき言葉を探し、そして彼女にその想いを、幾重にも封で閉じたままで打ち明けたんだ。封で守られた俺の真意に、彼女が気付かないくらいの言葉で。

彼女はまだ、俺の目をぼーっと見上げている。何も考えていないようにも、驚きに満ちた表情の裏で、次々と思考を巡らせているようにも感じる。でも、俺はそのどちらでもいい。ただ、早く彼女の言葉が聞きたかった。俺の精一杯のお節介に対する、彼女の返しを。だから、次はきみの番だよと促さんばかりに俺は、もう一度だけ彼女に笑いかけるんだ。

「やっぱり、変な人ですね……」

俺を見つめ続けていた彼女の表情は、その言葉と一緒に綻んだ。困ったような表情で、口元が緩んでいる。

それは、とても素敵な表情だった。

「どーせ変な人さ。」

「はい。でも、いい意味で……です。」

虚空に吸い込まれてしまいそうなくらいに細い声で言葉を紡ぎ、そして彼女は笑う。俺も、その笑顔につられてまた笑う。

「じゃあ、きみも変な人だな。」

「ええ、変な人です。お互い様ですね。」

そして俺たちはまた笑った。

さっきから笑ってばかりいる気がするけれども、それでいいと思う。笑う俺の瞳の中には彼女がいる。笑う彼女の瞳の中にも俺がいる。彼女の瞳の中の俺に意志があるとしたら、その俺は笑う俺を見て一体何を思うのだろう。羨望?憧れ?侮蔑?同情?いや。きっとどの感情も間違いで、彼女の瞳の中の俺に意志なんてものは存在しないのだろう。

……でも、少なくても彼女の瞳に映る俺自身は、過去の俺に一言だけ言ってやりたかった。今の俺は、こんなにも笑っているんだぞ。人生に確かな希望を見出したんだぞってな。

それから俺たちはしばらくの間、他愛もない世間話に花を咲かせた。雨は徐々にだけれども、確かに止み始めていた。


………

……


「ちょっと、家に帰ってみます。私。」

「帰っても、大丈夫なのかい?」

話の切れ間のこと。家出中の少女が、頃合いを見計らって自宅へと帰ってみると言う。確かに、あまり遅い時間まで家を飛び出しているわけにもいかないだろう。しかし、いざその時になってみると、急に寂しさが込み上げてくるのは、これが愛し人と別れる際の、溢れる想いの奔流なのだろうか。

すでに立ち上がっていた少女は、何の未練もなさそうに俺に背を向けた。

「あ、もう行くんだ。」

「雨も小降りになってきましたからね。まぁ、あまり関係ないですが。」

そりゃそうだ。大雨が降ってる中で、屋根もない公園のベンチに座って雨を浴び続けていた少女のセリフにしては、あまりに説得力がない。

しかしながら、少女はここに、もう少しも留まるつもりはないらしい。白いワンピースが雨で張り付いた華奢な身体を揺らすと、俺から一歩一歩と距離を空けていった。

だが、徐々に遠ざかる背を見て、俺はふと気付いてしまった。いや、気付くこと自体は素晴らしいことだった。よくぞ気付いたと、数秒前の俺をよしよしと褒め称えてやりたい。ただ欲を言うならば、もう少し早ければなおのこと良かった。

俺は、彼女が雨の降る中で家を飛び出してきた、未成年の女の子だということ以外に、彼女を特定できる情報を何か知っているだろうか?せいぜい、俺の赤裸々な想いに固められた、主観的で曖昧な、人脈とは無縁な俺にとっては何のあてにもならない、彼女への印象や外見情報だけだった。

それだけじゃない。俺は、次に彼女と会えるのはいつになるのか。このまま彼女が立ち去ってしまったら、明日にまた彼女はここに来るのか。それとも来週にならなければ、ここへは来ないのか。それとも、ここへ来る予定はまだないのか。全て、何もわからないままで終わってしまう。

こうしちゃいられないと、俺は勢いに任せて立ち上がり、彼女の背を真正面に捉えた。

「……っ!」

でも、言葉が出ない。そのまま、今すぐにでも彼女を呼び止めたい。しかし、俺は彼女のことを何と呼べばいい。

そうだ。俺は、彼女の名前すら知らなかった。立ち上がったまではいいが、彼女へ声をかけるための、きっかけの一言が思い浮かばない。名前を知らなければ、人は他人のことを何と呼べばいい?少女とでも呼びかければいいのか?それとも君?あなた?お前?おう?

考えている時間はなかった。何か一つの文章を頭に思い浮かべるために必要な時間は、人の一歩よりも長い。人との交流に慣れる機会もなかった俺ならば、なおさら時間がかかる。

ならば、パッと頭に浮かんだ代名詞で済まそうじゃないか。

俺は、すでに俺から10歩ほども遠ざかった彼女の背に投げかけるための一語を、情報が複雑に交錯している脳みそで必死に思い浮かべた。そして出てきた言葉がこれだった。

「Hey!」

「……」

無言で立ち止まる少女。俺も無言で、立ち上がったまま言葉を失う。思い返す言葉は、たった今に自分自身が発した彼女への呼びかけ。ただそれだけが、脳内をマッハでリフレインする。

いくら急いでいたとはいえ、この選択はどうしようもないのでは?何が『Hey!』なのだろうか。代名詞ですらない。いざ言葉に出してみて、この呼びかけの不適切さに俺は、冷汗が止まらなくなる。

少女もその場で立ち止まってくれたのはいいものの、決してこちらを振り返らない。それどころか、顔を地に向けたままで肩を震わせている。肩を震わせているその姿は、思い返すたびに苦渋の日々が溢れだすあの頃、自分自身がベッドに座り込んで涙をこらえている時の、あの雰囲気にひどく酷似していた。その事に気付いた瞬間に、俺の冷汗は嫌な冷汗へと変わっていった。

ま、まさかな。泣いてるなんてこと、あるわけないよな?

自分自身の言葉が、彼女の心を大きく抉ってしまったのではないかと不安になる。言葉は刃物たり得ると、どこかの本で得た知識が俺の脳裏を過った。

まずいなと、俺は慌てて彼女の元へと駆け寄る。近づけば近づくにつれ、彼女の細い身体が小刻みに震える様子が鮮明に俺の目に焼き付く。彼女と初めて会ったその日に、彼女を初めて傷つけてしまうなんてこと……自分自身では到底信じることもできず、俺の心臓はまた別の意味で高鳴っていた。内心で俺は、本当に泣いてしまいたいくらい焦っていた。

彼女との距離は10歩を狭め、もう手の届いてしまうところに彼女はいる。手を伸ばせばその肩にも、その背にも、その腰にも、その頭にも触れることができた。でも俺は、触れる勇気なんてなくて、だからと言って彼女にかける言葉は、いくら探しても出てこなくて。何か気休めの言葉だけでもと言葉を探しても、自分自身の言葉が彼女を傷つけてしまったのかもしれないという罪悪感と焦燥感が、俺を閉口させた。

とても言葉をかけることなんてできなかった。声をかける資格すらないのかもしれない。震える肩に手を置くことも、水溜りの地平線に沿うように項垂れるその頭に手を乗せることも、その頭から伸びる黒い艶やかな髪に触れることも、俺にはできなかった。

まるで、何か神聖なものを前に、身体が委縮してしまっているかのようだった。手を伸ばせど、彼女に触れることはできず、その姿は神聖で麗しい。触れれば崩れてしまいそうな姿を俺の眼前に晒す彼女に、俺は触れられる距離にいる。そう思うと、なんだか俺までもが物語を演じる役者の一人にでもなってしまったかのような気分になった。

しかし、焦りと恐怖と申し訳なさと、様々な感情がせめぎ合う俺の心が必至に触れようと手を伸ばした彼女の心は、触れる寸前で、何か実体を持たない特別な力に弾かれてしまう。俺にできることは、彼女の前に回り込んで、その顔を覗き込むことくらいだった。彼女の頬を伝うのは、さっきまでその身に滴らせていた空からの落としものなのか、それとも袖を濡らす滴なのか。それを確認することくらいしかできないから、急かす心に動かされるがまま、俺は彼女の顔を屈むようにして覗き込んだ。

が……。

「……」

彼女は、笑っていた。そりゃあ今までにないくらいの満面の笑みで。いろいろな感情が交錯した今の頭では、彼女がなぜ笑っているのかもよくわからなかったし、俺が覗き見る前までは本当に泣いていたのかもわからない。でも今の彼女の表情には、どこまでもまっすぐで輝いた笑顔が灯っていて、それはまるで、光の失われた俺の暗い世界にぽっかりと現れた、新しい太陽のようだった。

でもやっぱりその笑顔は、俺には眩しすぎた。それなのに、俺はその顔がもっと見たくて、さっきまでの自問などは暗闇の深淵に葬り去って、またあの言葉を少女に向かって投げかけるんだ。

「……Hey。」

「Heyじゃ、ないんですよ……」

少女の震える声。しかし、その声にはどこか明るい色を孕んでいる。悲しみではない、正の感情から絞り出された声だと思う。俺にはそう感じられて、それがただただうれしかった。俺の言葉が人に正の感情を与えたという事実が、そこにはあったから。それは、俺にとっては本当に初めてのことだったんだよ。

だから、俺の顔もきっと笑顔だったと思う。それが彼女の太陽になれる可能性は、きっと限りなくゼロに近いだろうけれども、俺が笑顔でいられることには変わりがなかった。

「まだ、君の名前を聞いてなかったよね。」

「だから、Heyなんて言葉で私を引き留めたんですか?」

「まぁ、そんな感じ……かな。」

ようやく顔を上げた少女の表情には、まだ治まりきっていない微笑みが浮かんでいた。表情を正そうと必至に表情筋に喝を入れているのがわかるけれども、むしろ裏目に出ているようだった。

実際に口に出す言葉は、Heyじゃない可能性なんていくらでもあったわけだけど。今回たまたま、俺の脳がチョイスした呼びかけがそれだっただけの話で。

でも、それを言う必要はないだろうと、俺は曖昧に肯定した。

「……本当に、変な人ですね。」

その言葉を受けてか、少女はまたくすりと笑った。しかし、笑うや否や、少女は自身の足に雨で張り付いていた純白のスカートを、ひらりとはためかせながら身を翻した。

「あ、ちょっと!」

君の名前、まだ教えてもらっていないと続けようとした瞬間。

「雪、です。」

その言葉を見越して先回りしていたかのようなタイミングで、彼女の背中越しに彼女の言葉を聞いた。

「ゆき?」

「はい。ですが、イントネーションが違います。ゆ、き、です。」

ゆき。雪と書くのだろうか。深々と降り積もるそれを彷彿とさせる彼女の名前を聞いて思う。名は体を表すって格言は存外、格言らしい格言なのではないかと。

俺は一歩一歩とまた俺から離れていく彼女の、小さいはずなのにどこか大きく見える背を眺めながら、またしばらく言葉を探していた。

「……また、ここにいれば君に会えるのかな?」

雨上がりの空は、まだどんよりと暗い。だが、平たい面のような空を分断させるかのように、遥か先に差し込む幾筋の薄明光線は、さながら彼女の上に降り注ぐ神の無碍光のようだった。咄嗟に口から飛び出した言葉は、そんな彼女に届いたのだろうか。神への願いが聞き届けられないのと同じように、虚しく虚空に散っただけではないかと、間の開いた静寂が不安を煽る。彼女は歩みを止めないし、言葉も紡がない。でも俺は、次の瞬間を信じて待った。

「……さぁ、どうでしょう。」

「どうでしょうって……」

羨望したはずの彼女の返答は、どうも要領を得ない。まるで、彼女は自身の行動の決定権を、俺に投げ出しているかのような感じだった。

「つぐみさんは、どうなんですか?」

「俺?」

「つぐみさんは、明日もここにいるんですか?」

ゆきは立ち止まり、でもこっちを振り返りはしない。その表情は彼女自身に隠れていて、俺から窺い知ることはできない。だから俺は、彼女がどんな答えを期待しているのかもわからない。表情が見えたところでも、それを測り知ることはできなかったのかもしれないけれど。

……でも、彼女は本当に、俺に自身の行動の決定を委ねているのかもと、俺は今、改めて思う。彼女は、俺からのどんな答えも期待していないのだろう。期待していてほしい気持ちはあるけれども、俺の答え次第で、彼女の次の行動は変わってしまうんだ。きっと。

それでも、俺の答えは決まっていた。俺は、明日も明後日も明々後日でも、彼女に会えるというのならば、いつまでだってここで待つつもりだ。そうだ。俺が最高に納得できる答えを、俺はすでに見つけている。唯一、この世界で見つけた光を見失わなずにいられるならば、俺はいくらでも待っていられるような気がした。

もともと、死んだような人生だったんだ。むしろ嬉々として待ってやるさ。

「ここにいるよ。君が来ないって言っても、俺はここにいる。」

「……」

ゆきの言葉はない。言葉なく、立ち止まったまま。その背を眺めたままの俺も、その場から動かない。ただ、時間だけが無情に無常を刻む。ゆきの背の遥か先に覗く西日が美しい。常日頃から見慣れていたはずの景色が、今は何故か真新しく見える。全てが色を取り戻したかのように、俺の目が色を取り戻したかのように、彼女を中心に、俺の世界は変わっていく。

「……やっぱり、変な人ですね。」

そしてゆきは、また俺から10歩ほども離れたところで、俺の方へと振り返った。微笑みを浮かべて、西日を背に、僅かに赤みがかった黒髪を、そよぐ風に靡かせて……。

俺はこの切り取られた景色を、このままで永遠に保存しておきたいと思った。それくらい、その景色は全ての要素が相まって、俺に美しい表情を見せてくれていたから。

「じゃあ、来ないって言っておきます。」

また身を翻し、俺から離れるように、来た道を戻っていくゆき。今度は振り返らない。

「……来ないですけど、ちゃんと待っていてくださいね。」

素直じゃない一言だと思いながら、俺は遠ざかる背を見守る。歩くたびに揺れる黒いしなやかな髪と純白のワンピース。雨に濡れたワンピースが張り付き、薄く肌色が透ける腕や腰は尊い。俺から徐々に遠ざかっていく姿は、全てが幻のように思えてしまう。全てが幻想的な、俺と彼女の出会いから別れ。一連して、これは現実なんだと確信できる瞬間なんてなかった。全てが幻。全てが夢。俺のこの世界は、そう呼んだ方が現実的なのかもしれない。

だから、彼女がこの視界から消えた瞬間に、この世の全ては幻となって、今まで通りに光もない暗黒の日々がまた訪れるのではないかと不安にもなる。あるのは、何もない未来だけ。朽ち果て行くまで、二度と他人と道を交えることはない、始まりもなければ終わりもない人生。決して交わることのない、ねじれの位置にある俺と他人との人生に、奇跡的に三次元的に交差した彼女の人生は幻か否か。明日には彼女という存在は、全て夢の彼方に忘却してしまうのではないか。

そんな不安を覚えてしまうのも、彼女が今にも公園から消え、街の影にその姿をくらましてしまいそうだったから。

俺は、彼女の背をずっと眺め続けて、その姿を明日にもまた拝めるようにと、ただ祈るしかなかった。嘘のような彼女の存在が現実であれ。真っ暗な日々こそが虚実であれと、信じられないけれども信じていたい今日の出来事を、頭の中で走馬灯のように何度も思い返しながら、俺はただただ彼女の小さな小さな背を見守り続けていた。

彼女の言葉を信じて待ち続ける。そうすることでしか、今の俺は今の俺でいられないのだから。

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