プロローグ
あたかも『存在』がテーマであるかのようなあらすじですが、もとは可愛い女の子が出てくるお話が書きたかっただけで、主テーマであるはずの『存在』は飾りのようなものです。オブジェです。
インスピレーションに任せて、計画もなく書いていきますので、みなさんのちょっとしたお暇のツマミ程度になれば幸せです。
だらだら更新で、プロローグ+前編+後編の三回に分けての投稿を予定しておりますので、ご一読いただければニヤニヤもの。コメントをいただければ小躍りものです。
ーーー人は誰からも必要とされなくなった時、その世界に存在する意味を失い、誰からも認識されない存在となるーーー
そんな話を、俺はいつだか話半分に聞いていた覚えがある。俺には関係ない、俺はまだ人から必要とされているだなんて……当時の俺は、まだこの世界に希望を持っていたよ。俺だってまだまだ変わることができる……そう信じていたのは、何年前までの話だったかな。
人は認識されなくなる云々と話を聞いたのは、小学生の頃だったか中学生の頃だったか。それすらももう忘れたけれども、でもそれの意味するところが、つい最近になってようやくわかった気がする。わかったって言うのは、理解って意味じゃなくて、納得したって方の意味でだけれどもね。
俺は昼下がりの公園のベンチに座り、自販機で買った炭酸飲料のプルタブを捻った。プシュッと小気味のいい放出音と、爽やかな甘みのある香りが俺の喉を鳴らせる。今、栓を開けたそいつを一口、二口と喉に流し込むと、喉を焼くような刺激に俺は顔をしかめたが、久しぶりの炭酸飲料の味はとにかく美味しかった。
俺は空いた缶をベンチに置き、子供連れの母親が多くいるこの場で、遠慮もなく胸ポケットに入っていたタバコを一本取りだすと、軽く先端をもみほぐし、いつだかにこの公園近くの道端で拾った百円ライターで火をつけた。先端からくゆる煙。肺にほんの少し燻った煙を吸い込んでは、数秒そのままでタバコのうまみを味わう。次の一口は、肺いっぱいに煙を吸い込み、鼻からスーッと煙をくゆらせた。
至福のひと時。話す相手も必要なければ、人目を気にすることもない。孤独な俺が手軽に一人で、頭を空っぽにして楽しめる娯楽だった。
「ママー!雨降ってきたよ!」
遠くから聞こえる小さな男の子の声に、俺は空を見上げる。さっきまで日の出ていた空は、どんよりと黒い雲と灰色の雲に覆われ、手を翳す肌にはぽつりぽつりと不規則に打つ水滴が降り始めていた。
「ゆうー!帰りますよー!」
子供を呼ぶ母親の声。目の前にいた小さな少年が、その声に呼応するように振り向くと、両手を横に広げて、「ぶーん!」と声高らかに一目散に走り去っていった。
冬初めの今の時期の雨は冷たく、見る見るうちに雨は強さを増す。子供たちはきゃっきゃとはしゃぎながら、俺の前を足早に駆け、続いて母親たちがママさん同士で互いに笑い合いながら、子供たちの後を追うように走っていく。やがて、さっきまでの人の喧騒に溢れた公園は見る影もなく静まり返り、代わりに雨が枯葉や樹木、土、遊具、ベンチ、俺のコートを打つ音だけが俺の周りには響き渡っていた。
「……」
冬間近の寒気に晒された雨は冷たい。肌を刺すように冷たい。でも、俺はどうしてもここを動く気分になれなかった。それどころか、今はこうしてただ雨に打たれていたとさえ思った。誰もいないこの公園で、人の影も車の一台すらも見当たらないこの公園で、この世界には俺だけしかいないと。誰もいないように見えて、俺はちゃんとこの世界に存在しているんだぞと錯覚させてくれるようなこの公園で、ただ俺は独りで雨に打たれて、自分の存在を肯定したかったのかもしれない。
……俺は、孤独だった。昔から、ずっと孤独だった。今でこそこうして、人との交わりを避け続けてきたことを後悔しているけれども、当時の俺は、孤独を何ら苦だとは思っていなかった。むしろ孤独こそが、人を成功へと導く絶対条件だとすら思っていた。
小学生だった俺は、暇さえあれば校内の図書館へと出向いて、黙々と書架の片っ端から片っ端までを読み漁り続けるような、快活とは縁遠い、若い子供らしからぬ子供だった。教室にいる時と言えば、授業中とHRの時くらいで、給食を食べる暇すらも惜しんで、黙々と一人で図書館へと足を運び続ける。そんな可愛げもない小学生だった。
その行動に、特に意味があったわけじゃない。純粋の読書を楽しんでいたわけでもなかった。ただ当時の俺は、群れているクラスメイトたちを見ては常々、群を成すと頭が衰退するものだとばかり思っていたというだけの話で、友達と無理やりつるまずに済ますための口実を作る、そのために読書をしていただけだった。友達とつるんでは、休み時間でもないのに騒々しくおしゃべりついでに授業を妨害し、休み時間ともなれば口々にみな、俺のことや勉強以外での人との付き合い方が分からない、彼らから見たところの『理由はわからないけれども、何故かムカつく優等生』の悪口で盛り上がっている。そんな彼らを見ていて出てくる感情は、ただの侮蔑の情だけだった。他の情が芽生える余地もない。当時の俺にはただ、優秀な俺への嫉妬心から漏れ出る、情けない言動の類にしか聞こえなかった。
事あるごとに俺に突っ掛り、時には俺の持ち物を隠し、時には俺のカバンに虫を放り入れる。俗に言ういじめられっ子のような立ち位置にいた俺は、特に口答えすることも、先生に告げ口するようなことも、一切しなかった。相手にすると、自分が存するだけだと思っていたから。
そんな俺を見て、あいつなら何をやっても大丈夫だろうと調子に乗られたんだろうと思う。俺は影で悪口を言われるだけではなく、俺がいる目の前で堂々と悪口や罵詈雑言を囁かれ、罵られるようにもなっていった。先生だって俺が言わずとも、クラス内にいじめがあったことを理解していたけれども、俺たちに何か助言をしてくれるわけでも、対策を練ってくれるわけでも、校長やPTAに相談してくれるわけでもなかった。思い返してみると、本当に俺には誰一人として、味方と呼べる人は一人もいなかったんだ。
だからかもしれない。俺は全力で人との関わりを避けた。そもそも俺は人への関心がない。俺は独りが好きなんだと、ずっと自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。そうすることで、俺は人から拒絶されるているという事実から顔を逸らし続けていたのかもしれない。
俺はあいつらみたいにはならない。人との慣れ合いは、優秀な頭脳までもダメにする。俺は孤独に生きて、将来に素晴らしい成功を実現して見せるんだ……って、俺は本気で思っていたんだろうな。
でも、それは間違いだったことに気付くには、俺はまだまだ子供で、まだまだ時間が必要だった……。
中学に入っても俺の、傍から見れば奇行と何ら大差ない単独行動は続いた。人とは群れず、常に孤独で、自分のためになるような行動だけを選んで動く。自分のためにならないと自分が決めつけたことは、否が応でも実行しなかった。例えそれが、先生からの言いつけであったとしても。
後のことはもう思い出すまでもない。そんな『理由はわからないけれども、何故かムカつく優等生』に対するいじめはエスカレートしていった。いつしか、俺は学校へと通えなくなるほどに……。小学生の頃の生ぬるいいじめとは違う。手足を固定され、腕にバーナーで熱したまち針を何十本と通されることもあった。額にタバコの先端を火が消えるまで押し付けられて、笑いものにされることもあった。罵詈雑言をぶつけられることなんて甘ったるい。そんなもの、もう日常の一部でしかなく、当時を思い出す度に、慣れの恐ろしさってものを痛感する。
救いの手はなかった。その時には両親もすでにこの世を去り、頼れる人なんてものもいない。唯一、両親の残してくれた金と家だけが俺を守る最後の砦だった。学校へと通えなくなった俺は、部屋から一歩も出ず、身につけるべき学びは独学で習得し、残りの時間は本を読んで過ごす。そんな真正の引き籠りになっても、俺はまだ自分の才能と努力に酔いしれていた理由は、それが自分の正気を保つ唯一の方法だったのかもしれない。自己防衛本能のようなもので、失った過去の青春の尊さから目を逸らすために、必死に失われた過去の分までも未来で成算するために、将来の姿に想いを馳せ、いずれ世界を席巻する勢いで、この名を轟かせて見せると、必死になっていたのだろう。
でも将来の成功に必要なのは、何も勉学だけじゃなかったんだよ。知識の湧き出る泉があっても、それを役に立てる環境と技術がなければ、そいつはただの飾りだ。長年の果てなき積み重ねの過程で作りあげてきたオブジェでしかない。俺には広く深い知識はあっても、その他に必要なものの何もかもが圧倒的に欠如していた。俺の頭の中にあるのは、知識の泉と言う名のオブジェだった。
そのことに気付いた時にはもう、何もかもが手遅れだった。俺は家からほぼ一歩も出ることはできず、最低限の食事や読み物を買いに行くために、近場のコンビニに出掛けることくらいの外出にしか耐えられない人間になっていた。部屋は常時、陽光が入り込む隙間すらもないほどにカーテンで閉めきられ、ゴミは溜まり放題。昔、家族と団欒した、唯一温かみの感じられた居間は今や、あるもの全てが埃を被り、両親がこの世を去る直前まで、確かにここにあったはずの生の気配を覗かせたまま、全てが淡く色褪せてしまっていた。みんなが朝食のために使っていた食器はそのままに、カビの生えたパンに、腐り落ちた果物。ガラスコップの中に注がれた、もう固体化していた牛乳には、乳白色の蠢くウジが何十匹と住み込むような……そんな死んだ生活の跡が、未だ俺の記憶には鮮明に焼き付いていた。
当時の俺は、その絶望を前にして全てを悟ったんだ。今までの俺の努力だけでは、本当の将来の成功は到底為し得ないんじゃないかってな。圧倒的な絶望を前にすると、圧倒的な希望以外が全て絶望に変わる。俺の将来像は、ここで一気にぶれてしまった。
自分の果てを悟った俺は、急に何もかもが怖くなった。自分の中にある全てが無意味に思えてくるような、俺が俺自身を拒否しているような……そんな如何ともし難い感覚が、急激な吐き気と共に襲ってきた。
むしろ知識なんてものはなくてもよかったのかもしれない。もっと他に大事なことはいくらでもあったんじゃなかってこと。それだけは事実だった。人との付き合い方、礼節、人脈や社会経験。知識だけではどうにもならない、全ては経験から学ぶべき社会での生き方。人との交わりを避け続け、知識だけを詰め込んで生きてきた俺には、当たり前のように知識以外のものはなにも備わっていなかった。それに気づいたとき、俺はすでに18も間近だった。
その時、もしも全てを変える勇気があったのならば、俺は今みたいに影として生きているか死んでいるかもわからないような人生を歩むこともなかったのかもしれないなと思う。今では、当時の記憶こそ鮮明に残ってはいるけれども、大事なところだけはいつも曖昧な記憶でしか残っていなかった。多分、その時の俺は人生で初めてといってもいいほどの大きな恐怖を感じていたんだろう。
俺のやってきたことの全てを否定するのが、きっと怖かったんだ。今までの人生の大半を、誰とも慣れ合わずに孤独に生きてきて、それを正しいと信じながら、将来の成功を夢見て、勤勉でいて、ひたすら読書に励んで……。そんな俺の生き様の全てを、自ら一瞬で否定することで、今までの俺自身を俺自身が拒絶することが、もう我慢ならなかったんだろうな。
だから俺は、全てを変えなかったんだ。それまで通りの生き方で、生きて生きて死んだように生きて……人との交わりを避け続けて、本当に誰の記憶からも俺の存在が消えるくらいに、人という生き物からの認知を避け続けた。もう、コンビニに行くこともやめて、無機質でいて、生を感じさせない自動販売機のような、そういった類で販売されているものだけを含んで、徹底的に人との慣れ合いを避けて、やがては絶望することにすらも絶望して、全てを擲って……。きっと俺は、誰からも覚えられていない人間になるための、その全てを満たしてしまったんだ。
俺は、遂には、誰からも認識されなくなってしまっていた。
事の発端は、買い物の道中で運悪く、中学の頃に世話になったいじめっ子の一人と遭遇してしまった時のことだ。いじめられることそのものについては、昔の俺自身も、あまり恐怖していなかったこともあって、あの時もそれほどの恐怖は感じなかった。
だが、別の恐怖があった。そいつがじわじわと俺の脳内に侵食し、蟠り始めていることに気付くまで、そんなに時間は要らなかった。あまりにも人との交流を避けてきたことで、俺の対人コミュニケーション能力のようなものは、極端に低下してしまっていたんだろう。周りも気にせずに、あいつは俺に何かしてくるんじゃないか?もし、相手が何か話しかけてきたら、俺はどう答えればいい?なんて。考えを巡らせても巡らせても、答えが出るわけでもなく、同じ思考がずっと脳内を埋め尽くすようにリフレインする。強迫性障害のようなものだったのかもしれない。急に襲い来る不安と眩暈、吐き気に耐え切れずに、つい道端に膝をついてしまった時に、俺は願った。
俺に気付くな、早く通り過ぎてくれ。
無理な願いだとは思った。当たり前な話だ。目の前で人が倒れて、それを無視できる人間なんて、そうそういるもんじゃない。長年の引き籠り生活で、人との触れ合いを絶ち続けてきた俺でも、きっと無理だ。だから、普通の人間なら誰でも無視できるはずがないって、その時の俺はそう思っていた。
でも、それは違った……。
「……え?」
耳元まで近づいた足音に、ああ遂に来たかと。俺は、道端で顔を伏せて、吐き気と眩暈に耐えていた。でも、そんな今にも崩れ落ちそうな俺の脇にまで近づいてきた足音が、俺に一切干渉することもなく、無言で遠ざかっていく気配を、俺はその時に感じたんだ。本当に何事もなく、声をかけられることもなく、肩に手を置かれることもなく、彼は俺の横を素通りしていった。気づいていないって表現がしっくりとくるくらいに、何の干渉もなかったんだ。
驚きのあまり、勢いよく振り返った俺の目の前を悠然と歩き去って行く、過去のクラスメイトの姿。人違いかと、そういう話でもない。気づいていないはずもない。彼は、道端に倒れ伏した人を見て見ぬふりをして、一言も声をかけることなく見捨て去って行ったんだ。
俺は本当に驚愕してしまったんだよ。あの出来事には。ああ、そういう人もいるのかと、愕然とした当時の俺の心に刺さったその針は、今までの生活で萎縮してしまっていた俺の心には大きすぎた。小さくなっていく後ろ姿を追っているうちに、いつの間にか吐き気や眩暈は嘘のように消え、代わりに孤独感というか虚無感のようなものが、俺の心を見る見るうちに満たしていった。どこまでも大きく膨らむそいつに、鼓動が早くなり、呼吸すらも苦しくなる。荒廃した、人も消えた世界に取り残されてしまったかのような錯覚を覚える。あろうことか、人の気配が恋しくなる。見上げる先のビルから、色が消えてしまっているかのような錯覚すらも覚える。
世界はこんなにも色褪せていただろうか?あの、暗い灰色の雲の先に、光はあるのだろうか?あの人は、本当に俺のことを無視したのだろうか?俺だから?それとも、彼はそこに倒れていた人が誰だろうと無視した……?
止まっていた心の成長が、数年の時を経た今、過去から時を超えて戻ってきたような、そんな気分だった。呆然と、彼の姿が見えなくなるまで、立ち尽くしているしかなかった。
あれから少しの間の記憶はすっかり抜け落ちてしまっているけれども、気付けば俺は、近場のコンビニに駆け込んでいた。そうでもしなければ、正気を保っていられないほどの焦燥感、虚無感、孤独感に侵されていたんだと思う。まどろっこしく開く自動ドアをすり抜けるように店内に入った俺は、一直線にレジに走り寄った。尋常じゃない様子で息を切らせ店内に駆け込んできた俺を前にして、暇そうに見つめてくる店員さんに、この時は何の違和感も抱かったのは、俺の心にそんな余裕もなかったせいだろう。俺は呼吸を整える間も空けずに、無我夢中で店員さんに『あんまん一つ、下さい……!』と、声を大にして言った。
そう、確かに言ったはずだった。
「……」
聞こえないはずがなかった。目の前で息を切らせて、面と向かって商品を注文してくる客の言葉が一言も聞こえないなんて話があるわけがない。でも、その店員は動こうとしなかった。『すいません、もう一度お願いします。』とも言わなかった。ただ、俺をボーっと見て、無言で何もすることがない。ああ暇だと、そのやる気のない、光のないくすんだ瞳が訴えていた。
ここに来て、ようやく俺の心の中に蟠っていた焦燥感、虚無感、孤独感……その他諸々、嫌な予感の正体がハッキリとしてきた。でも、到底信じることもできなかったし、まだまだ他の可能性も捨てきれなかったのも確かだった。店員さんがあえて俺のことを無視している可能性だってないとも言い切れないし、この店員さんは俺の目の前で立ったまま気絶してしまっている可能性だって完全には否定できない。
俺はそう自分に言い聞かせながら、一度レジから離れ、店内奥にある飲み物のコーナーへと足早に移動した。まだ治まらない息切れと、別の焦りからくる息切れは一向に治まらなかった。雑誌コーナーで立ち読みしている初老の男性の後ろを通り過ぎ、棚から炭酸飲料のボトルを取って、俺は足早にレジへと舞い戻る。
さっきのは何かの間違いだ。次こそ彼は、俺がレジ台に置いたこの商品を手に取って、俺に『こちらの商品、袋はお分けいたしますか?』と、聞いてくれるはずだと。今思い返してみれば、間違いようもない事実であったことすらも、人は信じたくないと思ってしまった瞬間から、全力で目を逸らそうとするもんだ。店員が、目の前で話しかけている客の存在に気付かないなんてことが、あるわけない。コンビニの店員が立ったまま気絶しているようなことなんて、あるはずがないんだ。それすらも、この時の俺は全力で否定しようとしていたんだな。
今度こそはと、レジ台の上に飲み物を少し勢い付けてだんっと置き、店員の顔をじっと見つめながら、俺はもう一度、さっきと同じ言葉を、強めの口調で言い放った。藁にもすがるような気持ちだったんだと思う。
「……」
無言の店員。さっきと表情は変わらなかった。
やっぱり藁は藁だったんだ。店員は大きな欠伸を一つかますと、眠たそうにしながら控室に消え去って、一人残された俺はただ呆然とするしかなかった。それは、今の俺でも想像できないくらいの冷酷な現実を突き付けられた瞬間でもあった。当然の話だろう。レジの上に置かれた炭酸飲料のボトルに視線を落とした瞬間に感じた絶望に等しい感情を、きっと俺は一生忘れることはない。当時に感じた圧倒的な絶望を再び全身で感じることは、もう一生できないかもしれない。むしろ一生感じたくはない。でも、確かに俺はあの感情を忘れはしないだろう。あの日から数年経ったこの日でも、俺は鮮明に鮮烈に、あの時の感情を思い出せるのだから。
俺はしばらくの間、ぼーっとその場に立ち尽くし、先ほどの初老の男性が商品の精算を終えたことを確認した後に、崩れそうになる足腰をなんとか支えながらコンビニを後にした。俺を前にした時とは明らかに違う、しっかりとした対応。気怠そうな雰囲気は表に出さず、男性客の対応が終わるまで始終、笑顔で快活そうな好青年を、店員はしっかりと演じていた。一対一のコミュニケーションが、そこには確かにあった。俺と店員との間にはなかった、対人コミュニケーションがしっかりと、目に見える形で、そこにはあったのだ。
ある意味では決定的な出来事だったと思う。初老の男性は、店員にしっかりと認識されていて、でも俺は店員には認識されていない。理由はわからないけれども、確かに俺はその時、店員からも男性からも認識されていなかったのだ。
それなのにも関わらず俺は、この期に及んでもまだ内心では希望を捨てていなかった。無知な人間はどこまでも愚かしくて、馬鹿で、救いようがない。どんな決定的な出来事が起きようとも、それが事実に相違ないとしても、それでも当人には信じられない領域にある場合もある。僅かでも不都合が好都合に変わる希望があるならば、人は自分にとって不都合でしかないことはどうしても認めたくないものなんだよな。だけれども、やっぱりそれは馬鹿の思想のように感じてしまうくらいには愚かしい人間の習性だとも思う。
希望を持つからこそ、人は絶望するんだ。希望と絶望は対極の関係にあって、それでいて二つは非常に近い位置に存在していることを知らないまま、俺は望みのない希望を持ってしまったんだ。ほんの些細なことで、お互いは干渉し合い、相互変換ができてしまう。コンビニでの一連の出来事も、その後のこともそうだ。店を出て練り歩く道の先々で起こる出来事は、どれも俺の存在を否定するものだった。望みのない希望が行きつく先は、ほんの僅かな希望の体現か、もしくは大きな絶望か、それとも『あーやっぱりな』と、何事もなかったかのように消滅していくか。
俺が人から認識されていないという『可能性』の存在を徐々に認めざるを得ない状況にあったけれども、それでも俺はあくまでも可能性だと、望みの薄い希望は捨てずに、俺の存在を証明できる何かを欲していた。確かに俺は生きてこの世に存在しているはずだと、そう信じて。
物に触れることはできた。物質に触れ、その物質を持ち上げ、その物質を別の物質に触れさせることもできた。人に触れることだってもちろんできた。でも俺の関わる行為全てが、他者から認識されていないって、そんな可能性。もしくは認識された途端に、相手の知覚情報から俺に関する情報全てが排除されていると言う不可解で理不尽な可能性の存在を……。俺の知っている現実ではありえないことだけれども、でも確かに俺に身に起こっているという不可解な現実を、俺は何らかの形で認めざるを得なくなっていた。
『限りなくゼロに近い可能性』。言い変えれば『ほんの僅かだが、有り得る可能性』だ。
もしかしたら、俺が外界との接触を絶っている間に、世界の常識が覆ったのかもしれない。天変地異が起こり、世界の秩序がまるごと入れ替わってしまったのかもしれない。『人は会話をして、情報を共有する』という、俺の知っている秩序は崩壊し『人は思念を介して、情報を共有する』という、新しい世界秩序が誕生したのかもしれない。たまたま外界と隔絶していた俺だけが、その事実を知らないというだけで、俺だって方法さえわかれば、思念を通じて人と交信できるのかもしれないと……。
この時の俺は、相当混乱していたんだろうな。行く先々で、様々な可能性が交錯するこの世界を相手に、自分の存在を証明しようとしたんだ。時には人の肩を揺さぶりながら語り掛け、またある時は、決死の覚悟で人の顔面を思い切りぶん殴ってもみた。公道のど真ん中で、大声で叫んだりもした。俺の存在を証明できる可能性がある『希望』が俺を導くがままに、俺はやりたい放題暴れた。今まで、深層意識下で溜まりに溜まっていた感情が溢れだしたかのように、俺は止まらなかった。
でも、世界の反応は冷酷で、残酷で、無慈悲で……。でも、不思議と暖かかった。それはきっと、できる限りのことを尽くしていく間で、俺の希望に光を浴びせるような曖昧な反応は、この世界には一切なく、冷酷に冷酷を重ね、きっぱりと俺の存在を否定してくれたからだ。俺が無理矢理に、絶望に圧倒的に近い希望を延々と引き延ばしていたというだけで、世界は俺に最初から、現実を突きつけてくれていたんだ。
精神も肉体も摩耗し、疲れ切った身体に鞭打って辿り着いた公園のど真ん中に倒れるように寝転がった俺にはもう、その『事実』を否定する気もなかったし、否定することもできなかった。
『可能性』は『確信』に……そして『事実』へと変わっていった。