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コン、コンコンコン!
最初に一回、次に三回中指の節で外壁を叩くと、すぐに扉が上にスライドして、眩い光が夜闇にこぼれた。
「……グリーン?」
扉の内側から注意深く顔を覗かせたのは、前日イヴを助ける手助けをしてくれたファーマーの少年である。グリーンは彼に招かれるまま中に入ると、元通りに扉を閉めた。
「昨日は来られなくてゴメンね、リーフ。ここには誰も?」
そっと奥を伺いながら尋ねると、リーフが嬉しそうに笑ってグリーンの腕にしがみ付く。
「大丈夫。誰もいないよ」
ファーマー達は一日の仕事を終え、みんな自室に引き揚げたようだ。リーフは囁くように答えると、そっと目を閉じて口付けを強請った。グリーンは求められるまま、その唇を軽く啄ばむ。
「君の部屋へ?」
尋ねると、リーフがうっすらと頬を染めて上目遣いにグリーンを見る。
「朝までいられるの?」
「そのつもりで来たよ」
甘い笑みで頷くと、リーフは嬉しそうに手を引いて恋人を私室に誘った。
ドアチャイムが来客を知らせたのは深夜だった。とうに就寝時間は過ぎていたが、まだ起きていたツカダはベッドの上で上体を起こす。
(誰だ?)
来客に心当たりは無い。管理者が互いの部屋を行き来することは皆無だし、上層部とのやり取りは端末を通してのみ行なわれる。被験者に異常があれば緊急コールが鳴る仕組みになっているし、何よりこんな時間である。もしかしたら誰かが夜這いに来たのだろうかと考え、ツカダは心当たりのある顔を二、三思い浮かべてみた。
そう言えば今朝方、暫く逢っていなかったファーマーの少年を地下プラントの入り口で見掛けたのを思い出す。彼とは何度かベッドを共にしているので、もしかしたら彼の方でもこちらに気付き、湧き上がる劣情を持て余して訪ねて来たのかもしれない。ツカダは思わずニヤけてベッドから降りると、鏡の前で髪を手串で整えてから、足取りも軽くドアへと歩み寄った。
「わお」
突然後ろで声がして、床の上を見下ろしていたスガヤはハッとして振り返った。見れば、通路の真ん中で見知らぬ青年が自分を見ている。いや、正しく言えば、部屋の入り口に立つスガヤの足下を見ていた。年の頃は十六、七。髪の色はどこにでもいる薄茶だが、大きな瞳は吸い込まれそうなほど透き通ったエメラルドグリーンだ。着ている服でその青年がハンターなのを見て取ると、スガヤはスッと動いて青年の視線を遮った。
「ハンターがここで何をしている。ハウスには立ち入り禁止の筈だ」
「へえ」
眉を顰めて咎めるスガヤに、グリーンは感心したような声を出す。そして、わざと体を傾けてスガヤの横から部屋の中を覗き込むと、チロリとその顔を見上げた。
「管理者って仲間を殺しても冷静なんだね。驚いたな」
スガヤの足下、部屋を入ったすぐの所にはツカダが仰向けに倒れている。その胸からは、スガヤが自室から持ち出したナイフが生えていた。グリーンの言葉に、途端に現場を見られたスガヤの瞳が殺気を帯びる。グリーンは慌てて両手を胸前で振ると、屈託の無い笑みを浮かべた。
「ごめんごめん。ハンターはどうしても無粋でね。口の利き方を知らない。それに、その死体のことも誰にも言わないよ。僕にとってはどうでもいいことだし、どちらかと言うと棚からボタ餅だしね」
「……」
スガヤが目を眇めてグリーンを見る。その口元が、すぐに笑みの形に歪んだ。
「ほう。興味深い話だね。是非聞かせて貰おうか。その『棚からボタ餅』という話を。僕の私室でね」
目の前に置かれたカップの中で、温かなコーヒーが湯気を昇らせている。その嗜好品は管理者が優遇されていることの象徴だ。グリーン達ハンターには一日一度の食事以外には何も支給されない。喉が渇けば小川へ行き、腹が空けば森に入るのだ。しかし、管理者には全てが与えられていた。広い居室に清潔なベッド。菓子や飲み物などの嗜好品。壁際にあるサイドボードの中にはアルコールの入った瓶まで並んでいるのが見えた。
「砂糖はあるかな」
グリーンはコーヒーの香ばしい香りをクンと嗅いでスガヤに尋ねる。スガヤはわざとらしく眉を上げると、自分の後ろにあるサイドボードから砂糖の入った器を取り出した。
「珍しいね。ハンターのくせにコーヒーを飲んだことがあるのか?」
「基礎教育の頃にね」
グリーンはスガヤの嫌味に楽しそうに返すと、引き寄せた真っ白なカップに砂糖をスプーンですくって入れる。カチャカチャとかき回しながらスガヤを見ると、グリーンの手元をじっと見詰めていたスガヤが、その視線に気付いて自分もカップを手に取った。
「基礎教育って言えばさ」
カップを口元に運び掛け、グリーンはふと思い出したように言う。
「俺達労働者とあなた達管理者って、違うことを教わるんでしょ? いい機会だから何か教えてよ。みんなが驚くような情報をさ」
グリーンの口調は相変わらず明るい。何か驚くような情報を仕入れて、みんなに自慢したいのだろう。スガヤはフッと口の端を歪めると、蔑むような笑みを浮かべた。
「そうだな。では、なぜ我々管理者が他の労働者とは別格なのかを教えてやろう」
「ふぅん?」
その不遜な言い方に、グリーンはひょいと眉を上げて笑う。スガヤは言った。
「このハウスにいる者全てが人工的に作られているのは、基礎教育で教わるから知っているな? もちろん、君も僕も例外ではない。それは何故か。ここは以前は遺伝子を扱う研究所だったからだよ」
地球を取り巻くオゾン層が破壊されて世界的な大飢饉が起こるだろうと騒がれ出した頃、病気や災害に強い作物を作る為に建てられたのがこの研究所だった。しかし、それは表向きで、本当の目的は人間の遺伝子。世界中の『天才』と呼ばれる識学者やスポーツ選手から集めた精子や卵子を、優秀な子を欲しがる資産家に斡旋していたのだ。その後、異常気象により人間社会は壊滅的な大打撃を受けて機能を失う。各地で僅かな食糧を奪い合う為の暴動が起き、生物界の覇者として君臨していた筈の人間は弱肉強食の只中に丸裸で落とされた。
「当時、ハウス内には数人の研究者がいた。幸い実験用のプラントがあったから食糧には困らなかったが、ヒトはそれだけでは生きていけない。そこで彼らは手元にあった商売道具を利用して、労働者としての人材を作ることにした。それが僕達だよ」
それは『自分たちでひとつの世界を作る』と言う、一種のゲームのような感覚だったのかもしれない。彼らは作り上げた子供達を階級で分け、ある階級にだけ特権を持たせた。
「精子だ。僕たち管理者だけが自分の子孫を残すことを許されたのだよ」
「それが『イヴ計画』?」
グリーンが問うと、スガヤは意外そうに目を見開く。
「……これは驚いた。ハンターの君が、いったいどこでそんな情報を仕入れた?」
感心したような口振りだが、その顔には嘲りしかない。すぐに目を細めると、フンと笑った。
「その通り。上層部は優秀な遺伝子だけを残すことを決めた。僕の伴侶として選ばれたイヴはとても美しい少女だ。きっと優れた卵子を僕に提供してくれることだろう」
「それはどうかな」
スガヤの言葉をじっと聞いていたグリーンは小さく笑う。
「あなたは、あなたが言うところの『優れた遺伝子』を持つ管理者を殺した。そんな奴の遺伝子を上層部は残したいと思うかな」
グリーンの言葉に、途端にスガヤの顔が強張る。
「あれは仕方のなかったことだ! ツカダは僕のイヴを横取りしようとした。それは許されないことだ!」
スガヤの剣幕に、しかしグリーンは口元に笑みを浮かべる。そして、透き通った碧の瞳でスガヤをまっすぐ見詰めて楽しそうに言った。
「それじゃあ、お礼に僕も面白い話を教えてあげるよ。これはかなりのレア情報だから、きっと聞いたら驚くよ」
「フン。狩りの仕方でも伝授するつもりか?」
スガヤが嘲るように嫌味を言う。
「これは基礎教育では教えないことなんだけどね」
グリーンはそう前置きすると、にっこり微笑んだ。
「あなたが管理者に選ばれたのは、僕たちより先に生まれたからなんだよ」
「何を言い出すかと思えば……!」
グリーンの言葉に、スガヤは一瞬呆けたような顔をしてからハッと笑う。
「これは面白い冗談だ!」
「本当だよ。僕とあなたの年齢が逆だったら、今頃は僕が管理者であなたがハンターだった」
しかし、グリーンは澄ました顔で繰り返す。スガヤは眉を寄せた。
「君は僕の話を聞いていなかったのかね? 言った筈だ。彼らは管理者にしか繁殖能力を残さなかった。外見は同じように見えても、可哀相だが君達は精子を作れないのだよ」
スガヤが愚者を諭すように、最後の部分だけ区切りながら言う。グリーンは笑った。
「うん、基礎教育ではそう教わるよね。でもさあ、じゃあ管理者に何かあった場合、欠員はどうやって補充すると思う?」
「何?」
突然の問いに、そんなことなど考えたことも無かったスガヤが眉を寄せる。
「管理者のメンバーは、あきらかに他より年齢層が高い。ハンターなんて、基礎教育を終えたばかりの子がゾロゾロいるのにさ。変だとは思わなかったのかい?」
「……」
元より、管理者がハンターと接触する機会は極めて少ないが、自分達が今目の前にいる青年よりも一回り近く年上なのは確かだ。スガヤは咄嗟に答えに詰まった。
「彼らが管理者以外の者から繁殖能力を奪ったのは、貴重なイヴに劣等遺伝子が混ざらないようにする為だ。そう言った意味では、管理者が優れた遺伝子を持つよう作られたという情報は正しい。ただ、彼らはハンターにも優れた遺伝子を残す必要があった。そこで彼らはハンターから繁殖能力を奪わない代わりに、ハウス内への立ち入りを禁止した。そして、管理者に欠員が出ると、ハンターの最年長者を格上げしてハウス内に連れ込むシステムを作り上げたんだよ」
「何をバカなことを……!」
グリーンの意外な言葉にスガヤが言葉を失う。グリーンは更に言った。
「それに、本当の『イヴ計画』も、あなたたちが基礎教育で教わったものとはちょっと違うよ。彼らが残したいのは『イヴ』が産む子供だ。管理者の役目はイヴの第二次成長を促し、妊娠させることでしかない。優秀な遺伝子を持った精子は、まだ腐るほどあるんだからね」
「ふざけたことを言うな!」
「本当だよ。エサを与えれば子どもは大きくなるけど、卵巣を発達させて排卵を促すには刺激が必要なんだよ。それを彼は何と呼んでいたかなぁ」
グリーンの呑気な物言いに、スガヤが怒りで蒼褪める。あさっての方向を向いて、しきりに何かを思い出そうとしていたグリーンは、すぐに、ああ、と言うと視線を戻した。
「恋だよ。女の子は恋をして大人になるんだってシノハラ博士は言ってたんだ」
「な……に……?」
途端にスガヤが驚愕して目を見開く。しかし、それは話の内容にではなく、グリーンの口から飛び出した名前に対してであった。
「……なぜお前がシノハラ博士の名前を知っている!」
「なぜだろうね」
グリーンは口元だけで笑うと、含みのある目でスガヤを見る。
「でも僕は全部知ってるよ。残念ながら、イヴは別の男に恋をした。イヴに恋をさせることが出来なかったあなたは管理者失格だ」
「たとえそうだとしても!」
スガヤが声を張り上げてその言葉を遮る。灰色の瞳に剣呑な光が宿り、暗い笑みが口元に浮かんだ。
「たとえそうだとしても、その男はもういない。君もさっき見た筈だ」
「何を言ってるのさ」
その言葉に、グリーンがちょっと驚いたように目を見開く。
「イヴが恋をしたのはさっきの男じゃないよ?」
「な……に……?」
スガヤが訝しげに目を細めてグリーンを見る。グリーンは肩を竦めると、わざとらしく溜息をついた。
「なんだ、勘違いしたのか。勘違いで殺されたんじゃあ、さっきの男も浮かばれないね」
「しかし、奴はイヴを寄越せと言った!」
スガヤが思わず声を荒げる。
「でも、イヴが好きなのは彼じゃないよ」
グリーンはにっこり笑ってそう言うと、椅子の背に凭れかかって手の中のカップを見下ろした。
「せっかくのコーヒーが冷めちゃったね」
管理者にしか許されていない嗜好品は、グリーンの手の中ですっかり冷めてしまっている。その温くなった液体を、グリーンはカップを傾けながら眺めた。
「……早く飲んで帰りたまえ」
スガヤが同じように手の中で冷めてしまったコーヒーを見下ろし、低く唸るように言う。しかし、グリーンがカップを見下ろしたままなかなか飲もうとしないのを見ると、自分のカップをヒョイと上げて目で促し、その中身をグイとあおった。それを見て、グリーンも自分のカップを傾ける。ゴクゴクと全部飲み干したのを見て、スガヤが口元を笑みの形に歪めた。しかし……。
「……ッ?」
次の瞬間、スガヤが驚いたように目を見開く。グリーンは空になったカップを置くと、ゆっくりと立ち上がった。
「ご馳走様。それじゃあ僕は、そろそろ恋人の寝床へ戻るよ。用も済んだしね」
「貴様……!」
途端にガシャーンと物凄い音がして、ティーセットが床に落ちて砕ける。テーブルの上に両腕を広げて突っ伏したスガヤが、その後からドッと床に転げ落ちた。
「迂闊だったね」
それを静かに見下ろして、グリーンは薄く笑む。
「毒を仕込んだら、カップから目を離しちゃダメだよ。カンリシャさん」
しかし、それに応える声は無かった。