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「被験者が一人いなくなったらしい。ハウス内は大騒ぎだよ」
狩りの後、仕留めた獲物をハウス内に運び込んだグリーンがとんでもない情報を持って戻って来た。情報源はたぶんファーマーの少年であろう。ダークはその内容に驚いて顔を上げる。
「イヴか?」
「わからないけど、多分ね」
グリーンは頷くと周囲を見回した。既に日没時間は過ぎていて、辺りを薄闇が支配しようとしている。きっと森の中はもっと暗いだろう。夜になれば得体の知れない動物たちが動き出す。それは殆どが食物連鎖の強者、肉食獣の類だった。
「早く戻ったハンターたちは捜索隊として狩り出されたらしい。僕たちは遅くなったから待機だそうだ」
グリーンはそう言うと、自室に戻るべく足先を向ける。しかし、ダークがついて来ないことに気付くと、相棒を振り返った。
「戻らないのかい?」
ハンターは狩りから戻ったらすぐに自室に戻るよう決められている。それぞれ狩場が違うから多少の時間差は考慮されるが、それでも夜までには部屋に戻らねばならない。そうしなければ食事が貰えないからだ。ハンターが与えられる食事は一日一回。自力で飢えを凌ぐことの出来ない者にとっては、それは死を意味した。
「……もうすぐ夜になる。被験者が一人で生き残れるとは思えない」
「それは僕らだって同じだよ、ダーク。夜の獣は昼とは違う。昼は僕らが強者だけど、夜は奴らがハンターだ」
グリーンが静かな声で言う。ダークはグッと奥歯を噛み締めた。
「まだ仲間達も森にいるし、真っ暗になるまでには半時ほどある。すぐに戻る」
「ダーク!」
森へと向かおうとするダークをグリーンが呼び止める。そして、ダークに歩み寄ると、手を伸ばしてその頬に触れた。
「絶対に戻って来いよ、ダーク。戻ったら、今夜は僕の部屋で一緒に眠ろう」
翡翠の瞳が心配そうにダークを映す。出来れば引き止めたいのであろう相棒の気持ちを痛いほど感じ、ダークは小さく頷くと、急いで森へと走った。
「イヴ!」
イヴの小さな足跡を、ハンターの目はすぐに見つけた。小さな足跡はハウスの裏手からまっすぐ森へと入っている。ダークは迷うことなく森の中へと飛び込んだ。
森の中は既に足下さえ覚束ないほど真っ暗だった。自分の庭のように熟知している森ではあるが、昼間ならいざ知らず、暗闇でイヴの足跡を追い掛けることは困難だ。
「イヴ!」
ダークは暗闇の中を走りながら、どこかに隠れて怯えているであろう少女の名を呼ぶ。
「ダークだ、イヴ! いたら返事をしてくれ!」
足を止めて耳を澄ますが、しかし、その声に応える者は無かった。
「いったいどこへ……」
その時、前方から自分に向かって駆けて来る小さな足音が聞こえる。
「ダーク!」
「その声は……!」
それは、先日グリーンの部屋に入って行った少年だった。
「グレイです!」
少年はダークに駆け寄ると、ホッとしたように小さく笑む。やはり真っ暗な森の中は不安だったのであろう。少年はすぐに笑みを消すと、不安そうに辺りを見回した。
「正直、この森を恐いと思ったことは一度もありませんでした。夜の森がこんなにも恐いところだったなんて……」
そして、そう言うとダークの背後に視線を移す。
「グリーンは一緒じゃなかったんですか?」
「いや……」
ダークは首を横に振ると、荒れた息を整える為に大きく息をついた。
「グリーンはハウスで待機している。もう日暮れを過ぎた。お前も戻れ」
だが、ダークの言葉に少年は首を横に振る。
「ハンターは被験者が見つかるまで戻るなと命令を受けています。見つかったら笛で合図が来るので、その笛の音が聞こえるまでは戻ることは出来ません」
「バカな……!」
ダークは驚いて少年を見る。そして、鋭い眼差しでハウスのある方向を振り返ると、ギリッと悔しそうに歯噛みした。
(夜になればハンター達は肉食獣の格好の餌食になる。たった一人の被験者の為に、大勢のハンターを犠牲にすると言うのか……!)
しかし、既にハンター達は森の奥深くへと散開してしまっている。彼らを呼び戻す術は無かった。
「とにかく戻れ。最年長のブラックが死んだ今、次のハンター長は俺だ。俺が全ての責任を取る。途中で誰かに会ったら、そいつにも戻れと伝えるんだ。イヴは俺が探す」
「でも、ダーク!」
グレイが慌てて追いすがる。その時、森の奥から聞いたこともないような『グオォオオオ……ン!』という轟音が聞こえた。
「来たか……ッ」
それは肉食獣の咆哮だった。グレイがその声にヒッと息を呑んで竦み上がる。ダークは森の奥を睨み付けると、再びグレイを振り返った。
「駆け足で戻れ! 急げ!」
「イヴ!」
もはや一刻の猶予も無かった。大声を出せば肉食獣をおびき寄せるだけだとわかっているが、イヴが先に襲われるよりはマシである。ダークは腰の鞘から短剣を引き抜くと、胸前で構えて森の中を走った。
「イヴ!」
このまままっすぐ行くと沼地がある。沼地はうっかり踏み込むと足を取られて出られなくなってしまうので、ハンター達は絶対に踏み込まない危険地帯だ。沼地の右手には大きな川があり、昼間でもワニが出るのでこれもハンター達は避ける。行くとしたら左しか考えられないのだが、外界を知らないイヴの行動は読めなかった。
(とりあえず沼地にはまっていないか確認して、それから川に落ちていないか確かめて……)
考えながらゾクリと身を震わせる。考えれば考えるほど悪い想像しか思い浮かばなかった。
ひぅあぁぁぁ……!
その時、どこかで不意に小さな悲鳴のような音が上がる。音はすぐに途切れ、再び静寂が訪れた。動物の遠吠えか、子供の悲鳴か。悲鳴だとすると、ハンターの誰かが襲われたのだろうか。それとも……。
ダークは立ち止まり、辺りの物音に耳を澄ます。しかし、その音は一度きりで、後には虫の音ひとつ聞こえなかった。みな一斉に息を顰め、気配を殺しているのだ。
ダークは足音を忍ばせて先を急いだ。木々の葉の隙間から零れる月明かりだけでは確認は出来ないが、大気に水分が混じってきたことで沼地が近いことがわかる。すると、不意に前方が開けて、朽ちかけた枯れ木が林立する寒々とした沼地が現れた。
(これは……)
森が途切れたことにより、視界が利くようになったダークは、沼地の縁に小さな足跡を見つけて立ち止まる。足跡は一旦沼地に踏み込んだ後、数歩後退さってから左へと進路を変えていた。ハンターが沼地に踏み込むことは考えにくいので、十中八九イヴの足跡に違いない。ダークは少しだけ胸を撫で下ろすと、足跡が続いている左手前方を見た。
森の中からでは気付かないものがそこにはあった。地形的に沼地の縁に立った時にだけ見られるそれを、ダークは存在だけは知っていたが、それが何なのかはわからない。ハウスの基礎教育でも教わらなかったそれは、外観は白い円柱で、てっぺんが丸いドームのようになっている。イヴもこれを見たとすると、そこに向かった可能性は大だった。
(なんとかあそこまで無事に着いていてくれれば……)
人がいるかどうかはわからないが、それでも中に入ることが出来れば肉食獣から身を守ることは出来る。そうしたら、朝になるのを待ってハウスに連れ帰ればいいのだ。ダークはその塔へと急ぎながら、左手に広がる森を見る。グレイは、若いハンター達は無事にハウスに帰り着いただろうかと考える。グリーンはなかなか戻らない自分を心配しているに違いない。しかし、今のダークにはイヴを無事に見つけ出すことしか考えられなかった。
「イヴ……無事でいてくれ、イヴ」
ダークは祈るような気持ちでイヴの名を呼ぶ。腕の中にすっぽりと収まる柔らかな体。汗とは違う甘やかな体臭。絹のような髪も、触れるだけで傷付けてしまいそうな柔らかな肌も、そのどれもがダークにとっては未知のものだった。守りたい……と、ただ切実に思う。イヴを守りたい。その感情もまた、ダークにとっては未知のものであった。
森を円形に切り抜いたような、ぽっかりと開けた土地の中央に、その塔はすっくと立っていた。不思議なことに、塔の周囲には草木ひとつ生えていない。森の中から時折聞こえていた獣の足音や虫の声もここまでは届かず、辺りはシンと静まり返っていた。ダークは足音を忍ばせて塔に近付くと、そっとドアノブに触れる。
カチャリ……
鍵は掛かっておらず、そっと扉を引き開けると、ひんやりとした埃臭い空気が流れ出した。ダークは僅かに開けた扉の隙間からするりと中に滑り込むと、扉を閉める。途端に月明かりが遮られて視界を失った。見上げると、遥か頭上がぼんやりと明るい。どうやら天井部分に明かり取りの窓か何かがあるらしく、目が慣れてくると、かなり視界が利くようになった。
「……イヴ?」
小さくイヴの名を呼んでみるが、その呼び掛けに応える者は無い。ダークは円形の部屋の中央にある螺旋階段に歩み寄ると、一段目に目を凝らした。長年の間に積もったと思しき土埃の上に、小さな足跡が付いている。間違いなくイヴはこの上にいる。ダークはホッと安堵の息をつくと、自分もその階段に足を掛けた。
「イヴ。大丈夫か、イヴ」
怯えているであろうイヴを刺激しないよう、ダークはそっと声を掛けながらゆっくりと上る。その時、初めて頭上でか細い声が応えた。
「……誰?」
小さいがしっかりとしたその声に、もしかしたら怪我でもしているのではないかと危ぶんでいたダークは安堵する。
「ダークだ、イヴ」
少しだけ急ぎ足になりながら頭上に向かって答えると、小さな白い顔が螺旋階段の鉄柵の隙間から顔を出した。
「ダーク?」
「イヴ!」
その顔を見た途端、ダークは夢中で駆け出す。イヴも鉄柵から身を乗り出して、必死でダークの名を叫んだ。
「ダーク! ダーク! ダーク!」
螺旋階段を回り込む度に、イヴの小さな顔がどんどん近くなる。今では泣きそうに見開かれた大きな目までが見て取れた。途端にダークの胸がギュッと苦しくなる。見上げたイヴの表情も苦しそうだった。
「イヴ!」
なぜそんな苦しそうな顔をしているのだろうかとダークは焦る。怪我をしたのか。毒虫に刺されたのか。逸る心そのままに、転がるようにして螺旋階段を上りきったダークは、しかし、いきなり胸の中に飛び込んで来たイヴの身体を受け止めてよろめき、そのまま後ろ向きに階段から転げ落ちそうになって踏ん張った。
「ダーク!」
イヴがダークの首に両腕を回してしがみ付く。ダークはそのほっそりとした身体をしっかり抱き締めると、金色の柔らかな髪に頬を寄せた。
「怪我は無いか」
ギュッと抱き締めた腕の中で、イヴがコクンと頷く。ダークは安堵の息をつくと、イヴの髪に鼻先を埋めた。深く息を吸い込むと、イヴの甘やかな香りが胸中に広がる。それは深い安堵感と共にダークの心を満たした。
「会いたかった、ダーク」
「俺もだ……イヴ」
イヴがダークの首筋に鼻先を突っ込んでクンクンと鼻を鳴らす。くすぐったさにフッと微笑んで上体を離そうとすると、必死にしがみ付くようにして追い掛けて来た。可愛らしい小さな鼻の頭をダークの顎や頬にこすり付けているうちに、その柔らかな唇がダークのそれに触れる。
「あ……」
イヴの唇から小さな声が漏れたが、それはすぐにダークの唇に吸い取られた。