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「イヴか。可愛い名前だね」
管理棟の廊下をフラフラと歩いていたイヴは、別の管理者に見つけられて保護された。その男はイヴの汚れた足裏を丁寧に洗い、濡れた服を着替えさせると、痛めた足首も手当てしてくれた。自分の担当している被験者以外と会うのは初めてだと男が言うので、イヴも他の管理者に会うのは初めてだと言うと、男が何故かひどく喜ぶ。そこへ、ドアチャイムが来客を告げた。
「面倒を掛けたようだね、ツカダ」
現れたのは、男から連絡を受けたらしいイヴの担当管理者だった。
「やあ。よく来たね、スガヤ」
どうやら顔見知りらしい男は愛想よく答えると、自室にスガヤを招き入れる。イヴはそこでようやく自分の担当者の名前を思い出した。礼もそこそこに部屋に入って来たスガヤは、きつく眉を寄せると、椅子に腰掛けているイヴを見る。
「ドアをロックしなかったのは君のミスだ、スガヤ。間違ってもイヴを責めるなよ?」
ツカダの言葉に、途端にスガヤの表情がサッと強張る。
「名前を教えたのか、イヴ……!」
切れ長の目が細められ、瞳に怒りの色が混じった。
「仕方ないだろう、スガヤ。名前を聞かなければ担当管理者を探すことが出来なかったんだから」
ツカダの笑いながらの言葉に、スガヤは、そうだな、と低く返すと、イヴに歩み寄ってその細い手首を掴んだ。
「さあ帰ろう、イヴ」
イヴは頷き、立ち上がろうとして思わず顔を顰める。ヒョコッと足を引き摺ったのを見て、途端にスガヤがハッと青褪めた。
「……足を痛めたのか?」
イヴはコクンと頷き、困ったように俯く。それを見て、ツカダがイヴに歩み寄った。
「僕が抱いて行こう」
「いや、結構だ」
スガヤはツカダの申し出を断ると、イヴの脇と膝裏に手を差し入れて細い体を抱き上げる。
「世話になった」
そして、硬い表情で礼を言うと、後はツカダには一瞥もくれずにその部屋を後にした。
翌日になると、手当てが良かったからか、足首の痛みはほとんど消えていた。いつも通りにやって来たスガヤは、データのチェックをしてから足首に触れ、ホッとして息をつく。
「良かった。もう外に出てはいけないよ、イヴ」
「……はい」
イヴが俯き小さく答えると、スガヤはその顎を指先でそっと持ち上げた。
「君は僕の『イヴ』だ……誰にも渡さない」
そう囁いて、柔らかな唇に自分のそれを近付ける。その瞬間、イヴがスイと視線を逸らした。スガヤはハッとしてイヴを見る。それはイヴが初めて見せた『拒絶』だった。
「イヴ?」
不機嫌の理由を尋ねようとしたスガヤは、しかし突然鳴り響いたドアチャイムの音に遮られる。この部屋に訪問者が来る予定は無い。弾かれたようにドアを振り返ると、イヴもハッと顔を上げて同じようにドアを見た。
「誰だ」
声に出して言ったところで、防音の完備された部屋の内と外では会話はおろか、声を聞くことすら出来ない。スガヤはドアに歩み寄ると解錠ボタンを押した。
「……! ツカダ?」
「やあ」
ドアの外に立っていたのは、昨日イヴを保護した管理者だった。ツカダはスガヤに笑顔で手を挙げて挨拶すると、するりとその脇を通り抜けて部屋に入る。
「やあ。おはよう、イヴ。足の具合はどうだい?」
愛想良くイヴに笑い掛けるツカダをスガヤは慌てて追い掛けると、その肩をグイと掴んだ。
「どういうつもりだ、ツカダ!」
ツカダはスガヤを肩越しに振り返り、ニッと笑う。
「取り引きをしたい」
「なに?」
ツカダの意外な申し出に、スガヤは眉を寄せて怪訝そうにその意図を押し量る。ツカダは体を反してまっすぐスガヤに向き直ると、もう一度ゆっくりと繰り返した。
「取り引きをしたい。君の失態を上層部に報告しない代りに、被験者を取り換えて欲しい。僕にイヴをくれ」
「気でも狂ったのか」
スガヤは思わず失笑すると、首を横に振る。
「報告したければすればいい。イヴは部屋から出ただけで、それも無事に戻った。僕の評価はその程度のことで揺らぐようなものではないよ」
「それはどうかな」
自信満々で笑うスガヤに、しかしツカダは笑顔で答える。
「君には言ってなかったんだけどねえ」
そして、勿体つけたようにそう言うと、満面の笑みを浮かべながらスガヤを見詰めた。
「イヴは『外に出た』んだよ、スガヤ」
「何ッ?」
「足が泥で汚れていた。服も濡れていたから、きっと小川にでも落ちたんだろう。足首はその時に捻ったものだ」
「なッ……!」
スガヤは愕然として言葉を失う。
「濡れた服は証拠として取ってある。一歩間違えば、イヴは命を落としていただろう。それでも上層部は君を見捨てないと思うのかい?」
「……本当なのか、イヴ!」
スガヤはイヴを振り返る。
「ハウスの外に出たのかッ?」
イヴは返答に困って俯く。それを見て、どうやらスガヤの推理通りらしいと悟ったスガヤはグッと奥歯を噛み締めた。
「では、もう一度言うよ。取り引きをしよう、スガヤ。被験者の交換はあまり例が無いけれど、全く無いというわけでもない」
「……断る」
ツカダの申し出に、しかしスガヤは両の拳を握り締めて憎々しげに声を絞り出す。ツカダはやれやれと肩を竦めた。
「よく考えてみなよ、スガヤ。この失態で管理者のポストから降格されれば、君は管理者としての待遇だけでなく被験者も取り上げられることになる。それよりは、このまま管理者として優遇され、多少見劣りはしたとしても貴重な『女』を妻に出来る方がいいだろう?」
声は穏やかだが、しかし、ツカダの瞳には剣呑な光がある。
「イヴは可憐で美しい。僕は一目でイヴに恋をしてしまったんだよ」
何を世迷い言を、と笑い飛ばそうとしたスガヤは、しかし、先程のイヴの拒絶を思い出してハッと顔を強張らせた。
(そう言えば、ツカダは濡れた服を着替えさせたと言っていた……まさか!)
「貴様……イヴに手を出したのかッ?」
「まさか!」
スガヤの言葉に、ツカダは思わず目を見開いて吹き出す。しかし、すぐにそれは含みを帯びた笑みに変った。
「でも、全部見ちゃったよ。本当にどこもかしこも綺麗な子だねえ、イヴは」
ツカダのうっとりしたような言葉に、途端にスガヤが目尻を吊り上げる。ツカダはヒョイと肩をすくめると、わざとらしく溜息をついた。
「それにしても不公平だよねえ。僕らは与えられた被験者しか見ることが出来ない。性別は確かに『女』だけど、個々の容姿にこれほどの差があるとは思いもしなかったよ」
ツカダの被験者を見たことはないが、自分の被験者が綺麗だということはわかる。厳選された遺伝子をかけ合わせて作られるのだから容姿もそれなりに整っているのだろうと思っていたのだが、ツカダの言葉からすると自分は運が良かったらしい。ならば尚のこと、スガヤはイヴを手放したくなかった。
「……断る」
スガヤは再び低く言うと、両の目をスウッと冷たく細める。
「イヴは部屋の外に出ただけで、ハウスの外には出ていない。全ては君の狂言だ、ツカダ」
「何?」
突然何を言い出したのかと、ツカダがスガヤを見る。スガヤは口の端を上げると、うっそりと笑った。
「僕はイヴを愛している。君の被験者は君に愛されていなかったようだね……良かったよ」
言い終わるやいなや、スガヤはツカダに足払いをかける。そして、咄嗟にバランスを崩したツカダが背中から勢いよく床上に倒れると、すかさずその上に馬乗りになり、両手をその首にかけて全体重で締め上げた。
「何するんだ……ッ」
ツカダの怒声が中途で途切れる。イヴは突然始まった争いに声も無く竦み上がると、辺りを見回した。ドア脇にあるランプが緑色なのに気付き、ハッとする。考えるより先に体が動いていた。
「イヴ!」
後ろでスガヤの慌てたような声が上がったが、イヴは振り返ることなくドアに駆け寄る。そして、夢中で開錠ボタンを押すと、その部屋を飛び出した。
「ダーク……」
通路をひた走りながら、無意識に昨日出会った青年の名を呟く。
「ダーク!」
昨日の記憶を頼りに外への扉を探し当て、夢中で開錠ボタンを押して外に飛び出したが、しかし、キョロキョロと辺りを見回しても小川にもどこにも人影は無かった。
「イヴ!」
ハウスの中から自分を呼ぶスガヤの声が追い掛けて来て、イヴは咄嗟に建物の裏手へと回り込む。そして、一瞬躊躇してから森の中へ駆け込むと、下生えの影に隠れて息を殺してハウスの方を窺った。
「イヴ!」
すぐにスガヤが走り出て来て、周囲を見回すのが見える。しかし、丈高い下生えに阻まれてイヴの姿を見つけることは出来なかったらしい。その長身が自分の名を叫びながら別方向へと走り去るのを見て、イヴは大きく息をついた。しかし、こんな所にいてはすぐに見つけられてしまうと思い、立ち上がって森の奥へと歩みを進める。ハウスはすぐに鬱蒼と茂る木々で見えなくなったが、それでもイヴは足を止めなかった。
「とんだ失態だったな、スガヤ。せっかく庇ってやろうとしたのに、これで君の処分は免れないぞ」
イヴの姿を見失って茫然自失の体でいるスガヤに、後から追い掛けて来たツカダが薄く笑いながら言う。首にはうっすらと赤く指の痕が残っていた。それをソロリと指先で撫でて、ツカダは再び口の端を上げる。
「上層部はどうするだろうね。捜索隊を出すのか、それとも……」
その時、不意にピピピピと電子音がして、スガヤの胸ポケットに挿してある通信機が光った。
「コールだね」
ツカダがそれを見て小さく笑う。スガヤは鋭く舌打ちすると、ツカダを睨み付けてからハウス内へと踵を返した。
「スガヤです」
スガヤは自室に戻ると端末の前に腰掛けた。コールは管理者を総括している『上層部』からのもので、彼らとのやり取りは通常この端末を通して行なわれる。
「報告は受けた」
スガヤが名乗ると、画面に映った五十絡みの男が応えた。直接会ったことは無いが、彼こそがこのハウスの上層部をまとめている男である。男はスガヤを安心させるように微笑むと、小さくひとつ頷いた。
「心配はいらない。君のイヴはすぐに連れ戻すよ」
「シノハラ博士。しかし、どうやって……」
スガヤは眉間を寄せてシノハラを見る。シノハラは再び目を細めて笑うと、卓上で重ねていた指を組み直した。
「戻って来たハンター達を順次捜索隊として出している。森の中は彼らの庭だ。きっとすぐに見つけ出してくれるだろう」
「しかし、もうすぐ夜になります」
夜の森が危険なことはスガヤでも知っている。そう言うと、シノハラは肩を竦めた。
「ハンターは消耗品だ。すぐに補充がきく。こちらはイヴさえ無事に戻ればいいのだ。彼らはそれまでの時間稼ぎになってくれるだろう」
つまり、たくさんのハンターを放せば、例え肉食獣が現れたとしてもイヴが襲われる確率が減ると言っているのだ。スガヤは眉を顰めて男の柔和な笑顔を見詰める。
「君はイヴが見つかるまでそこで待機しているように。いいね」
男はそれだけ言うと、スガヤの返事を待たずに通信を切った。スガヤは真っ暗になった画面を見詰め、椅子の背に凭れ掛かる。大きく息を吐き出すと、目を閉じて疲れたようにフレームの無いメガネを外した。
(処分は無し……か)
某かの処分がくだされるであろうと思っていたスガヤは、とりあえずホッとして胸を撫で下ろす。しかし、イヴが戻らなかった場合、今のハウスの現状を鑑みれば、次の『イヴ』が自分に与えられる可能性は極めて低い。もし無事に戻ったとしても、イヴがツカダを選べばそれまでである。真っ暗な端末を見詰めるスガヤの灰色の瞳が暗い色を帯びた。