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誰かが部屋に入って来た気配で目を覚ましたイヴは、慌ててベッドの上に起き上がった。
「おはよう、イヴ。寝ていたのかい。いいよ、そのまま横になっておいで」
男の言葉にイヴは再び仰向けになる。男はいつものように排泄装置のデータをチェックすると、ベッドに歩み寄ってイヴの細い手首を取った。
「なかなか太らないね。だからかな……」
後の部分は口中で呟き、血圧と脈をチェックする。自分を見上げる青い瞳に気付くと、フッと目を細めた。
「大丈夫。僕は気の長い男だ」
イヴは男の言葉が理解出来ずに無言で見上げる。
「それに、君も来月には十五になる。待つのもそう長いことではないだろう」
「十五……」
人間の年齢が定期的に増えていくのは男から教えられて知っている。その時に聞いた男の年齢は、確か自分よりも手指の数ほど多かった気がした。男の指がワンピースの襟にかかり、細くて長い指がゆっくりとボタンを外していく。男は、全てのボタンを外すまでは決して布地を捲らない。襟から裾まで一直線に並んだボタンを全て外してから、ゆっくりと左右に開くのだ。それは何かの儀式のようにも見えた。
「じゃあ、また明日」
ツンとする薬品の臭いが遠ざかり、イヴは目を開ける。男の後ろ姿が扉の向こうに消えると、男の唾液で濡れた唇を無造作に手の甲で拭った。胸の奥がザワザワする。息苦しさに辺りを見回すと、いつもは赤いはずの電子ロックのランプが青色のままなのに気付いた。
イヴはそっと近付き、男の真似をして開錠ボタンに触れる。すると、四角いドアは音も無く横にスライドした。そろそろと戸口から顔を出すと、しかし、ドアの外にあるのは左右に続く細長い通路だけで、ドアの向こうにはてっきり管理者がいるのだと思っていたイヴはちょっと拍子抜けする。そろそろと部屋を出て、少し考えて進路を右手に取ると、行く当ても無くその通路を進んだ。
通路は途中、何度も枝分かれした。まるで迷路のようなその通路を、イヴは左手で壁を撫でながら進む。やがて床が下り坂になったと思ったら、不意に目の前に大きな扉が現れた。イヴは戸惑い、手を伸ばす。先程と同じように開錠ボタンに触れると、扉は音も無く上にスライドして開いた。
「ぁ……」
そこは光の洪水だった。真っ青な空の頂から灼熱の陽光が降り注ぎ、一度も日の光を浴びたことの無いイヴの柔肌を容赦なく焼く。様々な匂いと豊富なオゾンが一斉に鼻腔から侵入し、脳を直撃されたイヴはクラリと眩暈を起こした。しかし、その刺激は決して不快なものではなかった。
カサリ。
外に一歩踏み出すと、裸足の足裏に雑草が触れる。滑らかな床面しか踏んだことの無かったイヴは、その感触に驚いてビクッと足を上げた。
「なに……?」
しかし、どうやら何も起きないらしいとわかると、再びソロソロと足を下ろして、雑草を避けて地面に足裏を付ける。ザラザラとした感触が足裏から伝わって来るが、やはり不快ではない。地面はじんわりと温かくて、そこからもいろいろな匂いが立ち昇っていた。
イヴは足裏の感触に慣れると、今度は周囲に視線を向けた。見渡す限り、どこを向いても木々が生い茂っている。まっすぐな木、曲がりくねった木、そのどれもが樹齢何百年の大木だ。あるものにはツタがグルグルと絡みつき、またあるものには大きな洞が空いている。その洞から小動物が顔を出してチョロチョロとツタを伝い、木から木へと渡って行くのを見つけると、イヴは大きく目を見開いて夢中でそれを追い掛けた。
「あなたは誰? どこへ行くの?」
樹上のリスに声を掛ける。リスはイヴを見下ろすと、スルリと別の木の洞に入ってしまった。
「あ……」
次に視界を横切ったのは、瑠璃色をした大きな蝶だった。イヴはまた目を丸くして、それを必死で追い掛ける。
「あなたは誰? どこへ行くの?」
蝶はイヴを誘うかのように、そのすぐ先をヒラヒラと舞いながら飛んで行く。イヴは夢中になってそれを追い掛け、藪に踏み込んだところでツルリと足を滑らせた。あッ、という悲鳴と、ザブンという水音が重なる。それは建物内に水を引き込む為に作られた人工の小川だった。イヴは尻餅をついたまま、腰まで水に浸かって呆然と水面を見詰める。流れる水を見たことの無いイヴの目には、小川の緩やかな流れさえ不思議な生き物のように映った。
「そこで何をしている!」
その時、不意に男の声がした。イヴはキョロキョロと辺りを見回す。突然近くの藪がガサガサと鳴り、逆光で黒い影のようになった人影が現れた。
「あ……」
イヴは管理者の名を呼ぼうとして、男の名前を覚えていないことに気付く。しかし、すぐにその人影の輪郭が管理者のものではないことに気付いた。
「あなたは……誰?」
「お前こそ誰だッ。ここで何をしている!」
初めて耳にする大きな声に、イヴはビクリと肩を揺らす。そこへ、別の声が楽しそうに笑いながら割って入った。
「そんな恐い声を出したらびっくりしちゃうじゃないか、ダーク」
「不審者だ、グリーン。ハンターではない、水色の服だ」
「へえ?」
グリーンはダークの言葉に小川を覗き込むと、驚いたように目を丸くした。
「これは驚いた! 女の子だよ。初めて見たなぁ!」
「女の子?」
ダークが不審げに言って、再びイヴを見る。イヴは立ち上がろうとして、すぐに顔を顰めた。
「痛……」
実は水に落ちた時に足を挫いたのだが、怪我というものをしたことのないイヴには自分の体に起きたことが理解出来ない。
「どうした」
様子がおかしいことに気付いてダークが訊ねると、イヴは困ったように見上げた。
「……動けない」
呟くように返されたその言葉に、途端にダークが酷く慌てる。
「毒虫に刺されたのかッ?」
声と同時に川に飛び込み、ザブザブと水を蹴立ててイヴに駆け寄る。そして、イヴの脇と膝裏に手を差し込むと、そのほっそりとした体を横抱きに抱え上げた。
(軽いッ……?)
あまりの軽さにギョッとして、ダークは少女の顔を見下ろす。食事が足りていないのではないかと思い心配したが、しかし、少女の頬はふっくらとして柔らかそうだった。
改めて見ると、イヴはとても美しい少女だった。背中まで伸びた金色の髪に、透き通った白磁の肌。小さく開かれた唇は木苺のように赤く、澄んだ青い瞳は深い泉のように艶やかに自分を映している。ハンターの中にも見目の良い者はいたが、それとは全然種類が違った。初めて見たが、『女の子』とはみんなこんなにも美しいものなのだろうかと思い、ダークは感動に近いものを覚える。ダークはイヴを抱えなおすと、顔の高さほどもある土手を一息に登った。
藪の外へと運ばれたイヴは、明るい陽光の下で初めて、自分を抱き上げている若者の顔を見た。管理者とは全然違う、日に焼けた褐色の肌に艶やかな漆黒の髪。意志の強そうな眉とスッと通った鼻梁の下には、形の良い唇がきつく引き結ばれている。澄んだ瞳は髪と同じ黒色で、黒曜石のような艶やかな光を湛えて美しく輝いていた。その瞳が心配そうに自分を見下ろしていることに気付き、イヴは思わず息を呑んで胸を押さえる。
「胸が痛いのか?」
その途端、自分を抱き上げている若者が慌てたように問い、イヴは陶然とその顔を見上げたまま首をゆらゆらと横に振った。
「足首が……」
うわ言のように小さく答え、後は痛みも忘れてダークを見詰める。それを見て、グリーンがプッと吹き出して笑った。
「よほどハンターが珍しいと見えるね。僕はグリーンで、こいつはダーク。ちょっと無愛想だけど、悪い奴じゃないから」
「無愛想は余計だ」
ダークはグリーンの言葉に心外そうに返すと、腕の中の少女を見下ろす。
「名前は?」
ダークに問われて、イヴは驚いたように目を瞬かせた。
「……イヴ」
「イヴか。素敵な名前だね」
すかさず褒めたのはグリーンだ。イヴは微かに微笑むと、ふと不思議な香りがすることに気付いてクンクンと鼻を鳴らした。
クンクンクンクン……。
目を閉じて犬のように鼻を鳴らしながら匂いの元を捜す。嗅ぎ慣れた消毒薬の臭いとは違う、いつまでも嗅いでいたいと思うような甘く清しい香り。それをもっと強く感じたくて顔を近付けたイヴは、ダークの胸に鼻の頭から突っ込んで、慌てて体を仰け反らせた。
「ひゃっ……」
途端に重心が右腕にかかり、ダークは慌ててイヴの体を抱き寄せる。
「こら、落ちるぞ!」
「ははは。汗臭いってさ」
楽しそうに笑うグリーンを、ダークは顔を顰めて睨む。
「狩りから戻ったばかりなのだから仕方あるまい」
二人は汗や砂埃を流す為に小川に来たのだ。怪我をして動けないイヴにとっては幸いであった。
「水に落ちた時に足を捻ったんだな。酷く痛むのか?」
ダークの言葉にイヴはふるふると首を横に振る。ダークはそれを見て、ホッと安堵の息をついた。
「それにしても困ったね。この服は『被験者』だよ。確か、管理者以外との接触は禁じられていた筈だ」
ハウス内の規律により他部署との接触は極力禁止されているが、中でもこの『被験者』は組織のコアである管理者達の大切な管理対象であるらしい。
「なんでそんな人間がここにいるんだ」
ダークは呆れてグリーンを見る。グリーンは肩を竦めるとハウスを振り返った。
「何かのはずみで扉を開けてしまったのかもしれないね」
しかし、扉は鍵を開けた者が通ればすぐに閉じてしまう。もう一度開けるには、扉に指紋が登録されている必要があった。
「彼女の指紋は登録されているのかな」
ハンター達に与えられているのは個室だけで、ハウス内へ入ることは禁止されている。もちろん自分達の指紋が登録されていることはない。三人はハウスに近付くと、一枚の壁の前に立った。
「ハウスの入口もハンターの個室も全く同じ扉だから、慣れないと区別がつかないだろ。だから僕達はこっそり自分の個室の扉に印を付けてる。反対に言えば、何も印が無いのがハウスの入口ってわけ」
グリーンはニッと笑ってそう言うと、扉に指を当てるようイヴに示す。しかし、イヴが触れても扉はピクリとも動かなかった。
「やっぱりね。被験者も外へ出ることを禁じられているから、そうじゃないかなとは思ったんだけど」
グリーンはそう言うと、仕方ない、アレに頼むか、と呟いてハウスの裏手に回る。やはりどう見ても他と同じにしか見えない壁をコンと一つ叩き、少し待ってからコンコンコンと三回叩くと、その合図を待っていたかのように扉が上にスライドした。
「グリーン!」
中から飛び出して来たのはモスグリーンの服を着た少年だった。モスグリーンは地下プラントで野菜を栽培している者達の色で、彼らは通称『ファーマー』と呼ばれている。茶色の髪の少年は嬉しそうにグリーンの名を呼ぶと、頭一つ分背の高い青年に抱き付こうとしたが、すぐに他にも人間がいることに気付くと、ハッと瞠目して後退さった。
「誰ッ?」
「大丈夫。僕の相棒だよ、心配ない」
グリーンはにっこり笑ってそう言うと、自分の傍へと少年を手招く。
「実は君にお願いがあってね」
そしてそう言うと、この子、とイヴを指差し。
「外に出ちゃいけない子なのに、出て来ちゃったみたいなんだ。ハウスに戻したいから、管理棟の通路まで案内してあげてくれないかな」
そう言って困ったように眉尻を下げて見せると、少年は、ふうん、と呟きながらチラリとイヴを見た。管理棟の通路はファームのそれと繋がっているので、そこまで連れて行けば、後は管理者の誰かがイヴを見つけてくれるだろう。グリーンは少年がつまらなそうに口を尖らせたのを見てクスリと笑うと、その頭を優しく撫でた。
「そんな顔しないで。今夜また来るよ」
「ほんとッ?」
途端に少年がパッと顔を輝かせて笑顔になる。グリーンは頷くと、イヴを抱いたままのダークを振り返った。
「ここからは僕達は入れない。彼女をここへ」
ダークは入口に歩み寄ると、扉の内側にイヴを降ろす。
「……立てるか?」
そっと尋ねると、イヴはコクンと頷いた。
「大丈夫、彼は信頼出来るよ」
グリーンは心配そうな顔をしているダークにそう言うと、ファーマーの少年に向き直る。
「足を痛めてるんだ。手を貸してあげてくれるかな」
「わかった」
グリーンに信頼出来ると言われて気を良くしたらしい少年が、にっこり笑ってイヴを支える。そして、きっとだよ、とグリーンに念を押すと、すぐに扉の向こうに消えた。