色と雌豚
原稿用紙五枚、社会問題。
私という女を彩るそれを、例えば色気だとか艶だとか、そんな色々な言葉にできるのだとしても、私にはそれがどれだけの価値があるものなのか全く分からない。
色を持たない女は惨め以外の何者でもないのは確かで、それを捨てたような奴は最早女ではなく養豚場で飼われる雌豚とでも呼ぶしかないだろう。
いや、養豚場の雌豚は新しい食用の豚を産む為とはいえ、まだ雄に抱かれるだけマシなのだろうか。人間でありながら女を捨てている奴などを、金を積まれても抱きたいと思う男はいはしまい。
私は確かに男との不純なことばかりを考えている欲求不満の塊のような女だが、そんな私でも女を捨てた雌豚よりは、遥かに女性として扱ってもらえる。
会社の上司は女だが色気も糞もない奴で、正直見ていて痛々しい。仕事ができない私を目の仇にしては言葉でいたぶり、頭を下げる私を見てニタニタと厭らしい笑みを浮かべる。それが毎日続けばさすがにストレスにもなる。
だがこうやって仕事場から一歩外に出れば、立場は一変する。私は女として扱われ、上司は男に相手すらしてもらえない惨めな蟲けらとなる。
なんて誇らしいことだろう。私にはこの蟲けらのようには仕事ができない。だが仕事ができるからなんだというのか。私に言わせれば、男に相手もされないような寂しい人生を送るくらいならば、例えば場末で身体を売って金を稼ぐ生活であれ女として男に愛される方が何倍も嬉しく、そして誇らしいと思う。
金は必要だしとしても、それを稼ぐ手段などどうでもいいはずだ。国がそれを禁じていないのならば、むしろ私はそうしてしまいたいくらいだ。
私は馬鹿だからこんなことを言うのか。そうなのかもしれない。だけど、私は男に愛されたい。愛されるという悦びは仕事で得る達成感の何倍であろうか。
私がどう生きようととも、それをとやかく言われる筋合いはない。いや、私がそんな生き方をしようとすれば、勿論親兄弟姉妹親戚友人等、私を大切にしてくれている人々は止めるだろう。
だが、男に欲情もされず愛されることもないような、いわば女という種の存在価値の全てを無に帰すような生き方なんてしたくいなのだ。
だが私は別に、それを他の誰かに押し付けようなどとは考えていない。他人は他人だ。上司が男に愛されることのない、養豚場の雌豚以下の生き方で後悔しないのならば、それでいいだろう。
仕事のできない私を見て優越感を感じているのならばそれでもいい。私は私でそんな上司を外に連れ出し、惨めそうな彼女を見てニタニタと哂うのだから。
だが、私は別に男なら誰でもいいと思ってはいない。私は私自身の価値観で相手を選ぶし、それに関して妥協をするつもりもない。ただ、私は選んだ相手にいつまでも女として見てもらいたい。いつまでも男から誇られる女でいたい。
そういった考えまでも下衆で不純だというのだろうか。例えば、男女平等を叫ぶ活動家の女などを見ていると、とても哀れになる。男と女という存在は別の種であり、力で男が勝るように、女は女としての武器が幾つもある。それなのに男女を平等にしてどうしようというのか。
勿論、男と女が同じ舞台で戦える場所であれば、男女平等は必要かもしれない。だがどれだけの女がゴミ収集車の仕事ができるだろう。どれだけの女が下水道を這い回れるだろう。どれだけの女が底辺で人の生活を支える仕事に従事できるだろうか。
いや、活動家などに言わせればできるのだろう。だが、それをする女がどれだけいるだろうか。それができる女は心が美しいから、愛してくれる男が山のようにいるとでも言うのだろうか。
男はまず、女を外から見る。美人なのか、スタイルはどうか、ファッションセンスはどうか、だがその情報の中で、彼女は下水道の中で糞尿に塗れて働いていると知らされて、それでもと思える男はどれだけだろう。
そういう外からの情報に左右される男は器が小さいのかといえば、私はそうは思えない。外側の情報が間違いならばともかく、それは間違いなく正しい情報だ。
ならばそれは、彼女を正しく表現しているのだ。それなのに心が小さいなんて、滑稽にもほどがある。
私は女として、男に愛されたい。それが下衆で不純だとしても構わない。私はいつでも、いつまでも女でいたいのだから。
糞尿に塗れるのは、絶対にごめんだ。