第九章 庶民の街「西単」と乞食の秘密
一、庶民の街「西単」
1
「さぁ~てと、そろそろ帰ろうか?」
と言う施川に峪口が、
「せっかくだから西単にへ行こうよ」
と誘った。
「近いのかぁ?」
と問う邑中に、
「近い、近い。歩いて行ける距離だよ」
と答えると、
「うんじゃ歩くべぇ。腹ごなしによぉ」
と応じた。
三人は“魯迅公園博物館”を左に見ながら、“阜成門内大街”を東に進んで、“西単北大街”を右折、西単駅を目標に歩き始めた。
「西単商城、か。商城ってのは、デパートの意味だったな。なるほど、なるほど」
施川は得心がいったとばかりに頷いている。
「もう少し行くと、大きなショッピングセンターが出てくるはずだけど……。以前、この辺りは寂れた街でねぇ。香港の“財閥李嘉誠集団”の進出で話題になった。八、九年前に工事現場を見に来たことがある」
「今は凄い街に変身したわけだ。若者の熱気で溢れかえっている」
施川が驚きを露わに呟いた。
「六本木みてぇだ」
「おっ、生意気に六本木ときた。野田じゃねぇのか」
「俺ぁ買い物はてぃげい六本木だ」
「五本木だろう」
と施川が茶々を入れる。
「五木ひろし、っていいてぇんだんべぇ」
「“太平洋百貨店”は上海でも有名だ。俺も“徐家匯”に住んでたとき、よく買い物をした」
「あんれ、商城じゃねぇのか」
「おっ、賢い」
「ああ、峪口が最初に住んだマンションね。わしも二度ばかり泊めてもらったな」
「三度じゃなかったか。もう、あんな繁華街には住めないよ。家賃があの当時の二倍、一ヶ月二千五百ドルだとサ」
「そうか、三回だったか。二千五百ドル……、さ、三十万円かよ」
「あんだと? 一ヶ月じゃあんめぇ、一年だんべぇ」
「一ヶ月だよ、一ヶ月」
「峪口にはもったいねぇな。俺ぁ学生のころ、藤沢に下宿してたけんど、一ヶ月一万五千円だった」
「昭和の初期だろう」
「ブァ~カ、ふんなら蔵が建つべぇ」
「徐家匯は交通の便も良かったし、デパートも太平洋百貨だろう、それに東方、富安、八百、港匯、匯金、新世界と、いったいいくつあるンだ」
「管理も厳しかったな。わし、なかなか入れてもらえなかったもの。あのとき、もし峪口が戻って来なかったら、ズーッと外で待たされるとこだった」
「人相が悪りぃからだんべぇ」
「あっはははっ…、そんなこともあったな」
2
峪口たちは、万通商城から一時間ほどかけて“西単文化広場”に到着した。
“西長安街”を挟んだ反対側には“首都時代広場”がある。
どちらもファッションを中心として、食と遊びを備えた一大アミューズメント施設だ。
時刻はとうに五時を過ぎていた。
「凄いなあ。徐家匯に負けず劣らずだ。確か、日本の“そごう”があるはずナンだが……」
「そごう……、そごうって柏のそごうか?」
「確かに、柏にもある」
「ところで峪口~ぃ。この辺りは外国人が少ないね。王府井だっけ、あそこの近くのなんとか市場、白人がたくさんいたじゃない」
「新東安市場のことか。西単は、昔っから地元っ子が集まる街として有名ナンだ」
「ふんだったら、そごうみてぇな高級デパートが出てもしょうがねぇべぇ」
「まあ、確かにそうだな。進出が決まったとき、王莉さんも言ってたな」
「ファン、リー、さん?」
「うん、コンサルティングをお願いしている女性だ」
「女性、綺麗か?」
「ああ、美人だ。それに頭もいいしネ。北京大学から東大の大学院へ留学している」
「すっ、すんげぇな、それって。東大ねぇ…」
「とうでい、ふ、ふんとかぁ? とうでえ、じゃねぇのかぁ」
「……、どこが違うンじゃ」
「ふんだから、とうでえだよぉ。ほんれ、ちょうしのとうでえ」
「ちょうし……ああ、銚子の灯台か」
「せっかくだから電話してみるかぁ。二人にも紹介してやるよ。もしかすると、施川のとこの商売と結びつくかも知れないからナ」
「そいつはありがたい」
どうやら美人という言葉に、施川は引かれたようだ。
「忙しい人たちだから、時間が取れるかどうか。とにかく電話をしてみるよ」
「人たち?」
「そう。ダンナさんも一緒だ」
「なんだ、亭主持ちか」
「なにを考えているンだか。まったくもう、動機が不純ナンだからナ、施川は。だいたい相手が独身なら、どうだってゆうのよ」
「ふんとだぁ、おっかねぇ母ちゃんがいんのによぉ。スケベ」
「へへへっ…、わしは人畜無害じゃ」
3
峪口が王莉に電話すると、彼女は快く会食を受け入れてくれた。
午後七時ころにホテルへ迎えに来るとゆう。
もっとも、ホテルの場所をわかってもらうのに、だいぶ苦労はしたが……。
「オッケーだったよ。夜、一緒に食事しようって」
「わしはともかく、このエロ豚も連れて行くのか?」
「あんだとぉ!」
「はははっ…、王莉さんにも話しておいたよ、あまり近づかないように、って」
「わしは獣か。こっちの熊はわかるけど」
と言って、邑中を指差した。
「へへっ…、オメェはエロ河童だんべぇ。峪口ぃ~、なんてゆったっけ、ほれ、西遊記に出てくべぇ、エロ河童」
「沙悟浄か?」
「うんだ」
「なんだとぉ、こんな人畜無害の男を捕まえて。わしが沙悟浄なら、あんたは猪八戒だ」
「はっははは……、エロ河童とエロ豚か」
「あ~あ、そんなことゆっていいのぉ。ばらっしゃうよぉ~」
「な、なにを?」
「へへへっ…、ムッツリスケベの峪口さん」
「んだべぇ、これ、いねぇわけねぇもん。このスケベに……。峪口はエロ猿だ」
と小指を立てて言った。
「沙悟浄に猪八戒に孫悟空か」
「うんにゃ、施川はどっちかってゆうと三蔵法師だ」
「おう熊、おまえさんにもわしの徳の高さがわかったようだな。おう、よしよし……」
と顎の下を撫ぜると、
「ゴロンニャー」
とひと鳴きして、
「うんにゃ、坊主は毛がねぇべ。施川にぴったりだ。エロ河童じゃねくて、エロハゲだ」
「じゃしい!」
「ふんだから、峪口がエロ河童だ」
「あ、そう。だいぶ暗くなったな。おっ、もう六時だ。そろそろホテルに戻ろうか」
「げっ!? た、峪口ぃー、た、助けてくれえーッ!」
と突然、施川が悲鳴をおげて救いを求めた。
二、乞食の秘密
1
峪口が振り返ると、乞食の子供たちに囲まれている。
「ほら施川、早くこっちに来い!」
「ほれぇ、施川、はえく、こっちさこぉ」
邑中も必死に呼んでいる。
周りを囲まれてどうしても抜け出せない施川は、ほとほと困り果てた様子だ。
子供たちは、上着の裾をしっかりと掴んで放さない。
峪口はとっさにズボンのポケットから数枚のコインを掴み出し、子供たちに向かってバラバラッと撒いた。
路上にばら撒かれたお金に飛びつく子供たち、その間隙を縫って、ようやく施川が戻って来た。
「ああ、参った、参った」
「ほら、また来るぞ。早く行こう」
「ひやーッ! おっかねぇ。逃げんべ、逃げんべ」
三人は通りかかったタクシーに飛び乗ったが、それでも子供たちは、
『謝謝! 謝謝!』
と叫びながら、窓ガラスをバンバンと叩く。
運転手は、そんな子供たちに注意を払うこともなく、車を急発進させた。
「お客さん、奴らに同情しちゃ駄目だよ。一人に恵んでやると群がってくるからナ。特に日本人は奴らの狙い目ナンだからサ。ところで、財布は大丈夫かい?」
峪口が運転手の話を二人に伝えると、
「えっ!?」
二人は慌ててバックの中身をチェックして、
「大丈夫、あるある。ふーう……」
と、大きな安堵のため息をついた。
「運転手さん……北京は、五体満足な乞食が多いね」
と、峪口が躊躇い勝ちに問うと、その運転手は
「へっ!?」
と、疑問の声をもらした。
「いやネ、上海の乞食には障害者が多いンだよ。まあ、満足な者は皆無といってもいいかな」
峪口の説明に運転手が応える。
「上海に行ったことはねぇけど、赤ん坊のうちに作るって話は、運転手仲間から聞いたことがある」
― やっぱり……。
峪口がもらした声を聴き取った施川が、
「なに? なに? なにが、やっぱりなの?」
と迫る。
「うん、乞食の話ナンだけどネ……」
言いよどむ峪口に、施川は再び答えを迫る。
「う、うん……。ほら、上海では障害を持った子供の乞食が多いだろう?」
「ああ、それはわしも感じていた。なんか、おかしいなとは思っていた」
「そうか、施川も気づいていたか。赤ん坊のときに、作るンだそうだよ」
「作る? 作るって、無理やり片端にするのかぁ…」
「ふんとかぁ? おっかねぇ…」
「そうだよ。片端の方が稼ぎがいいンだとサ」
施川と邑中は、峪口の説明にしばらく沈黙の後、
「たまんねぇなぁ、それって……」
と、同時に呟きをもらした。
「よく、自分の子供にそんなことができるな」
峪口の怒りを込めた言葉に、運転手は追い討ちをかけるように、
「自分の子供じゃねえよ。攫ってきたり、買ったりしているンだよ。あいつら……」
と言い放った。
2
通訳すべきかどうか峪口は迷ったが、二人にそのまま伝えると、
「なにーぃ! なんだとーぉ! 人攫いに人身売買。もう、むちゃくちゃだな、中国は……」
施川は顔を真っ赤にして怒りを露わにした。
「ひでぇ話だ」
邑中は言葉にするのも汚らわしいとばかりに、一言で切り捨てた。
峪口も同じ気持ちだった。
「市民はなにも……」
と言いかけた峪口に、
「でもよぉお客さん。中国はまだそれだけ貧しいってことだ。日本人にはわかんねぇだろうけど。農村部へ行けば、まだまだ貧しいとこはいくらでもあるぜ」
と運転手が言った。
上海や北京などといった一部の大都市は繁栄を謳歌しているが、内陸部へ行くと、年収がたったの数千円という貧しい農村もたくさんあると聞いている。
益々広がる湾岸部との格差に、中国政府は内陸部にも外国企業を誘致しようと躍起になっているが、やはりインフラが整っていないなどの理由で、思うようには伸びていないのが現状である。
「日本人のあんたらには、信じられないかもしれないけどよ。自分の子供を売って公安(警察)に捕まった母親が、家畜を育てるより子供を産んで売った方が、餌代もかからないし楽だってうそぶいたそうだ。いつだったかテレビで視たよ」
峪口は返事に詰まったが、運転手は続ける。
「俺は思うンだけどよぉ…、そんな母親を責めるのは酷ってモンだ。そんな連中は教育なんて代物は受けてねぇし……。それによぉ、善悪よりもまず食うことが先だろう。国が悪るいんだよ、国が……」
そして運転手は、
「なあ、あんたらもそう思うだろう?」
と同意を求めた。
しかし、それにうっかり乗るわけにはいかない。
外国に来て、その国の政府の悪口を言うのは、相手が誰であろうとタブーである。
そこで峪口は話題を変えた。
3
「日本じゃネ、運転手さん」
「ああ?」
「自分の子供を虐待する親が増えているンだ。酷いのは殺しちゃうのもいる」
「本当かい、それこそ信じられねぇ。なんのために、そんなことするンだ?」
施川と邑中にやり取りを説明すると、
「まあ、理由はいろいろとあるンだろうが、最近特に多くなっている。わしには信じられンけどナ。峪口、彼に言って、じゃなくて、通訳してよ」
と施川が身を乗り出した。
「文明病だという評論家もいるけど、そんな一言じゃ片付けられない気がする。学校の虐めといい、なにかが狂っている」
と峪口は、施川の話を通訳してから、付け加えた。
「ふんとだぁ、俺ぁには理解できねぇ。そんな親は、ぶっ殺しちめぇ」
と言う邑中の激しい言葉は、気持ちはわかるが通訳しなかった。
「ほら、着いた。このホテルでいいンだろう? あんたら、あまり良いホテルに泊まってねぇな。今度来るときは俺に連絡しろよ。安くていいホテルを紹介してやるから。くくくっ…、十二元だよ」
「あっ、着いたみてぇだ。ほれ峪口、銭っ子」
「いいよ、俺が出すから。運転者さん、お釣りはいいです」
峪口は二十元を渡した。
「そうかい。ありがとうよ。じゃあナ」
話に夢中になっていた三人は、自分たちのホテルの前まで来ていたことに気がつかなかった。
峪口は、運転手に求められて慌てて料金を支払った。
「嫌な話を聞いちゃったな。施川もいつか言ってたけど、俺もああゆう類の話に弱いんだ。娘たちのことがつい頭を過ぎってネ」
「自分の子供を人身売買する親と虐待する親、どっちの方が悪いとかって問題じゃないけど、わしならどっちの状況に追い込まれても、自殺するな」
施川は毅然と言い放った。
「極限状態に追い込まれっと、人間てなテメエのことばっかり、残酷モンだ。仕事が辛ぇの、女に振られたのなんて、屁みてぇなモンだ。俺らは幸せだ。なあ、施川、峪口……」
と、邑中がしみじみと想いを込めて言った。
三人はロビーのソファーに座り込んで、しばらくの間話し続けた。