第八章 天壇公園
一、槙柏の銘木
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峪口は何度も北京を訪れていたが、景山公園は行ったことがなかった。
“よし、行くべぇ”という返事を期待したが、二人はあっさりと否定した。
「天壇公園の方が凄いンだろう、だったら、そっちでいいよ」
「うんだ。もう山へ登んのは、懲り懲りだぁ」
「景山公園は、故宮のお堀を掘った土を盛って造った人工の山で、故宮の全貌が一望できるそうだ。実は、俺もまだ行ったことないンだ」
「次、行こう」
「うんだ、うんだ」
またもあっさり否定したので、景山公園は諦めた。
縁のない場所というものはあるもので、次の機会になどと考えていると、一生行き逸れることになる。
― チャンスは強引にでも生かさなければならないのかも知れない。
「わかった。待てよ、確か、この付近じゃタクシーは停まらないンだ。向こうで捕まえよう」
景山前街(大通り)をしばらく歩かされ、他の観光客と争うようにして、ようやくタクシーに乗り込んだ。
中国では遠慮していると、いつまで待ってもタクシーを捕まえることができない。
「ふーう、冷房が涼しい。六月なのに結構暑いな」
「そうなンだ。俺には、北京は夏と冬しかない印象がある。四月でも零度を記録したり、三十度を超えてみたり、夏なんか四十度以上の日もあるンだぜ」
「ふんとかぁ…ふんじゃ、身体が狂っちまうべぇ」
「冬は滅茶苦茶寒くって、夏は四十度かよ。住み難そうだなあ」
「俺ぁ、こんなとこ、絶対に住みたくねぇ」
「そりゃあ、北京も喜ぶわ」
「はははっ…、青空もほとんどないしね。黄砂の影響だと思うけど。運転手さんがこんな青空は見たことがない、お客さんたちは運がいいってサ」
「だんべぇ。俺ぁ、村じゃ、晴れ男で有名なんだぁ」
「頭ん中がだろう。わしはまた、来た日からズーッと晴天だから、北京の空はいつもこんなに綺麗なのかと思っていた」
「そうじゃないンだって、前の日まで雨ばかりだったそうだ。滅多にないらしいよ、こんな晴天は」
「なーあ、俺ぁ、晴れ男だってゆったんべぇ。二人とも、俺ぁに感謝しろぉ」
「へいへい、あんがと。ところで、天壇公園までどのくらいかかるの?」
「そうだなぁ…、三十分ぐらいじゃなかったかなぁ。だいぶ前だから忘れちゃったよ。天安門広場から西に位置することだけは覚えている」
「西ってゆうと、あっちだんべぇ」
「おっ、さすが野生の豚。おまえさんなら、日本まで歩いて帰れるよ」
「バァ~カ、そりゃ、いくらなんでも無理だんべぇ」
「まともに取るなよ。ったく……」
「オメェこそ、まともに取んなよなぁ」
北京では朝方に三十八度を超えると、その日は会社も学校も休みになるという、実しやかな噂がある。
しかし発表はいつも三十七・五度止まり、誰に聞いても休みになった記憶はないそうだ。
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「おっ、見えてきた、見えてきた。ほら、あの独特の屋根、広げた番傘を三段重ねしたようなやつ」
「どれどれ? ……ああ、あれね」
「うん、どれだぁ、どれ? あっ、あれかぁ」
“祈年殿”の丸屋根が、ビル群の峪間に姿を現した。
「あの周りはぜぇ~んぶ公園。とてつもなく広いよ。まあ、行けばわかるけどね」
天壇公園には東西南北、四か所に入口がある。
三人は正面入口に当たる北口でタクシーを降りた。
「あれっ!? 狭いじゃないの」
一歩公園に足を踏み入れた施川が、辺りを見回して、意外な表情を見せた。
「ふんとだぁ、峪口は大げさだかんなぁ。こんなら、俺ぁ家の方がひれぇや」
「はっ、はははっ…、田舎者は気が早くて困る。入口からしばらく真っ直ぐな道が続くンだよ。ほら、この檜葉の間から覗いて見ろよ」
祈年殿までは一本道で、道の両側に葉の密集した檜葉が植えられている。
それで見通しが悪くなっていた。
更に、道の真ん中にも檜葉が植えられていて、行きと帰りの道にわかれているので、余計狭く感じられる。
「どれどれ、林みたいだけど……」
と、枝を掻き分けて外を覗き見た施川は、気の抜けた声で言った。
「こりゃ、アスナロだんべぇ」
「ん? 檜葉とアスナロって同じモンじゃねぇのか」
「うんだ。施川、オメェもただのアホじゃねぇなぁ」
「ははははっ…、ズーッと続いているだろう。直ぐにわかるよ、ここの広さが。なにしろ、日比谷公園の十七倍もあるンだそうだから」
「日比谷公園の十七倍だと、見当もつかねぇな」
「ここはどんくれぇめぇにできたんだぁ?」
「約六百年前、って入場券に書いてある」
「なぁ~んだ。日比谷公園は小せぇかんなぁ」
「へいへい、熊んとこは大地主だかんな。なにしろ、千葉県の半分は熊ん家の土地だろう」
「うんだぁ……、それはいくらなんでも、ちっと言い過ぎだんべぇ。精々十分の一ぐれぇのもんだぁ」
「へいへい」
「ほら、開けてきたぞ。両側を見てみろよ。林の中を真っ直ぐ道が走っているだろう」
五百メートルほど進むと、入口から真っ直ぐに祈年殿へ続く歩道と、舗装された二車線の道路とが交差している。
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その道は公園内にもかかわらず、ときどき車が走って来るので注意が必要だ。
「一般道路?」
「違うよ、施川。この道路も敷地内だよ。ほら、遥か彼方に門があるだろう。あそこまでが公園だ」
峪口は遠くの門を施川に指し示した。
「うん? うっそーッ! 相当距離があるぜ」
「負けたぁ…、俺ぁ家より広れぇ…。ガクッ」
「公園の広さは、だいたい二、三キロ四方といったところかな」
「そうすると、行って帰るだけで五キロは歩くことになるのか。ふにゃふにゃ……」
「てぇしたことあんめぇ」
「ほんとだぁ。自腹ゴルフなら平気でラウンドハーフやるくせに」
「それは別。高い金を払ってンだから、元を取らないとナ」
「ゴルフなんて、あんなもん、どこがおもしれぇ?」
「運動神経がゼロで無神経が売りの人には、わかんねぇだろうな」
「無神経は関係ねぇべ」
「はははっ…、おまえさんも一度はやってみろよ」
「俺ぁ、毎ん日鍬振ってっから、要んねぇ」
「よくゆうよ。大地主様が、鍬なんて振ったことねぇだろう」
「ふ、ふんなこたねぇよ」
と邑中がむきになって否定する。
「ベンツのトラクターがあるだろう」
「うんにゃ、ベーベーだ」
「なんだ、ベーベーって? あかんべぇー、か?」
「うんにゃ。トラクターは、なんといってもデェーツのベェー・ェム・ベェーだんべぇよ」
「へいへい……好きにしなさい」
「あっ、ほら、施川。……槙柏が見えてきた」
槙柏と聞いて施川にも興味が戻ったようだ。
「この林、ぜぇ~んぶ、槙柏じゃねぇか? あんまり太いのはないけど」
「いっぺぇあっけんど、まだ小っせぇのばっかしだ」
交差点手前の両側の敷地には、数百本の若木が整然と植えられている。
「この先に太いのがある。ほら、赤茶けた塀が見えるだろう。あの中に祈年殿があるンだけど、その周りの槙柏は凄いぞ」
「そうなの?」
「そうなのよ」
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「ふ、ふんとだぁーッ! こりゃ、ぶってぇ。今まで見たことねぇ」
あまりモノに動じない邑中が、鼻息も荒く叫んだ。
「この幹の太さ、日本にはないだろうな」
と施川が冷静に言って、
「凄いぞ。こいつは、掛け値なしに凄い。峪口ぃ~、写真、写真」
と要求した。
「うんだぁ、俺ぁも撮ってくんどぉ」
「フイルムがもったいねえ」
「へへへっ…、今時よぉ、フイルムだってよぉ。けけけっ…、オメェは相変わらず、田舎もんだなぁ」
「あんたにだけは言われたくなかった。ご先祖様ぁ、ほんのこつ、申し訳ございません」
槙柏の巨木がざっと見積もっても数十本、まるで“俺が一番”と覇を競うように立ち並んでいる。
ところどころ地肌を剥き出しにして、盆栽をそのまま地面に移したような、銘木も混じっていた。
「そうだろう。俺も始めて見たときは吃驚したよ。ぜひ、施川君にも見せたいと思った」
「ありがとう。おお、この木なんか、樹齢五百年だとよぉ…。なになに、九、龍、柏……」
「ああ、九匹の龍に見えるので“九龍柏”と呼ばれているそうだ」
「九匹の龍だぁ。どれ、一、二、三、……、よくわからねぇな」
「こらこら、ケチをつけるな」
「まったく、施川はつまんねぇとこだけ几帳面なンだから」
「へへっ…、それにしても、この辺に住んでる人たちが羨ましいな。毎日来られるものなぁ。わしも住んでみたいよ」
「毎ン日じゃ、飽きんべぇ」
「チエッ…、まったく、風流ってもんを解さねぇ男、否、熊じゃしょうがねぇか。ところで喉が渇いたな、峪口ぃ、なにか飲まないか?」
「俺ぁには、見せたくねぇのかぁ……」
「えっ!?」
「な、なんだぁ。もしかして、熊ちゃん僻んでたの」
施川が顔を覗き込んだ。
「も、もちろん、邑中にも見せたかったよ」
峪口が慌てて取り繕った。
「ふんとかぁ。ふんじゃ、ビール、俺ぁが奢るべぇ」
「あ、うん。あそこに売店があるけど、ビールはあるかな?」
三人は奥まったに場所にある売店へ足を運んだ。
二、人生論
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「お茶でいいンだ、わし……。医者に飲み過ぎるなってゆわれてっから、最近、気をつけているンだ」
寂しげに呟く施川。
「なにぃ! だ、だって、おまえさん、こっちへ来てから、朝から晩まで飲みっぱなしじゃないか」
「あら~あ、気がついちゃったのぉ~」
「バッ、カ、ヤローッ! 脅かしやがって」
「でも、医者にゆわれたことは事実ナンだ。日本じゃ母ちゃんがうるさくて、ズーッと我慢していたから、つい気が緩んだンだ。最近は太っちゃって、歩いても痩せないンだよ。血圧の薬も飲み始めちゃったしサ」
「ふーん、そうか。あれって、一度飲むと、飲み続けなきゃいけないンだろう?」
「そうなんだ」
「これから酒は勧められないな。ほら、お茶、無糖。気をつけろよ、な」
「サンチュー。大丈夫だよ、お医者さんは、飲み過ぎなきゃいい、ってゆってたから」
「よし、今日から禁酒だ、協力するよ。なあ、邑中」
「うんだ。俺ぁ、元々酒はあんまし好きじゃねぇから問題ねぇ」
「えっ、今日から……、日本に帰ってからでいいよ」
「ったくよぉ、バカは死ななきゃ直らねぇってけど、ふんとだな。施川、オメェ、一回死んでみっか」
「なんと言われても、好きなものは止められましぇん、って。わしは一度死んでる男だしナ」
施川は若いときに奇病を患い、生死の境を彷徨ったことがある。
「お互い、長生きしようぜ。なあ、施川、邑中」
「ふんとだ。あんときゃ、オメェはもう死んだって、俺ぁ諦めたンだ。ふんだから婆ちゃんと一緒に“ナンマイダァ、ナンマイダァ”て念仏唱えたんだぁ」
と、邑中がしんみりと呟いて、
「成仏しろよぉ、施川ぁ…。ギャッ! 迷って出た。
怨霊退散、怨霊退散、カァーッ!」
と叫んだ。
「なにが、カァーッ! じゃ、ボケ」
施川が邑中のカボチャ頭をピチャリと張った。
「イデッ!」
「峪口ぃ~、おまえもタバコ、止めろよ」
「ああ、そのうちナ」
「俺ぁタバコ止めてから、もう二十年だぁ」
「わしは結婚した年に止めたから、彼此三十年以上になる。どうだ、参ったか」
「うんにゃ」
「ははははっ…」
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「それにしても、皆さん実に楽しそうに遊んでいる。ダンスにバトミントンだろ……、なにあれ、あの曲芸みたいなやつ?」
施川が公園の奥の方を指差し、峪口に訊いた。
紐の両端に三十センチほどの棒、左右の手にその棒を持ち、紐の真ん中辺りで鼓状のものをクルクルと回していた。
それを空中高く投げあげて、落ちてくるところを紐で受け止め、右に振ったり左に振ったり、落とさず回し続けている。
「中国独楽だ。以前、上野公園で街頭芸人がやっているのを見たことあるよ。こっちじゃ、一般の人が曲芸紛いのことを平気でやるからね」
「中国人は、総街頭芸人だな。端っこの方で遠慮深げにやってるグループがいるけど、まだ、初心者なのかな?」
「下手糞だからだんべぇ」
「ははははっ…、そうかも知れないな。上手になると段々こっちへ出て来るンだろうな」
「そういえば、入口のところが凄い人だかりだったけど、歌っていた女性はプロかな? 京劇っていうの、あれ?」
公園の入口で歌う女性の美声を聞いて、施川はしばらく興味深げに聴き入っていた。
「プロじゃないと思うけど……、ちょっとした公園のスターだよ。隣でお爺さんも歌っていたけど、観客が疎らだったものナ」
「あれはわしにもわかった。下手糞だった」
「筆で道路に漢詩を書いてるのもいたんべぇ」
「ああ、水でナ。あれは、どこの公園にも必ず何人かいてね、互いに競い合っているンだ」
「閑なんだんべぇよ」
「はっははは……、かも知れない。邑中にかかっちゃ敵わんナ」
「わしも上海でも見たことある。ほれ、峪口のマンションの近くの公園。商売じゃないだろう」
「ああ、襄陽公園ね。でも、ときどき商売にしている人もいる。以前、魯迅公園でだったかな? 俺が熱心に見ていたら、紙に書いた漢詩を買わないかって勧められたもの」
「俺ぁ買いてぇなぁ」
「わしが書いてやるから、銭くれ」
「要んね、要んね。オメェに頼むくれぇなら、花子に頼むべ」
「誰じゃ、花子って?」
「俺ぁ家の近くの公園で飼われてる日本猿だ」
「ははははっ……」
「わしも一枚欲しい。ぜひ書いてもらってくれ、その花子ちゃんとやらに」
「そうか、頼んでみンぺぇ。峪口は要らねぇかぁ?」
「俺? 俺はいいわ」
「彼らの生き甲斐になっているンだろうな。そこいくとわしらは飲むしか能がねぇからナ。峪口、わしらもなにか芸を身につけようぜ。どお、“剣玉”なんて」
「剣玉ねぇ…。なんか暗いなぁ」
「オメェらじゃ、酒の飲み比べがいいとこだんぺぇ」
「おっ、素晴らしいご指摘、施川にぴったりだ」
「邑ちゃん、ゆうじゃねぇか。アンタにはデカイ剣玉じゃなくて、キンタマがあるからいいよなぁ」
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「でぇへ、でへ、でへ、でへへへっ…」
「おっ、否定しないよ」
「へへへっ…、ふんとだかんなぁ」
「でも、わしらには定年で引退なんて、まだまだ考えられねぇしなぁ」
「ふんだぁ。俺ぁには、定年はねぇ。それが自営業のええとこだんべぇ」
「ふんだぁ。そういえば施川とこも、確か定年はなしじゃなかった?」
「ふんだぁ。這ってでも会社に来られるうちは働いていいって、常々社長がゆってるわ」
「羨ましいねぇ。俺は仕事中にポックリ死ぬのが理想だから、定年になって家でブラブラしている自分の姿が、どうしても想像できないンだ」
「峪口ぃ、オメェら家だって、俺ぁ家より少ねぇけんど土地あんだから、百姓やりゃええべよぉ」
「うん、まあ、それはそうだけど……、急にできるってもんでもねぇだろう」
「俺ぁが教えてやるべぇ。たけぇどぉ」
「はい、はい。あんがと」
「わしんとこは十人ばかりの小さな会社だけど、夢は上場じゃ。それで、わしはジャガーに乗るンだ」
「“じゃがぁ”ってなんだぁ? あれかぁ、動物園いるやつ。あんなのおっかねぇべ。馬にしとけ」
「あのなぁ邑ちゃん、ちゃんと飼い馴らした、おとなしい猫みたいなやつを買うの」
「へへへっ…、馬鹿かオメェ」
「ははははっ…、さてと、そろそろ行こうか?」
と峪口が二人を促した。
「うんだぁ、行くべぇ。こんなとこにいてもしょうがあんめぇ」
「祈年殿の入口は、この林を抜けると直ぐだから」
「あんれぇ…、峪口ぃ、入ぇれねぇどぉ」
「えッ!?」
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「あら? おっ、なにか書いてある。ええと……」
「なになに、なんだって?」
「あんだぁ?」
「おやおや、二人とも残念でした。来年の四月まで、中に入れないそうだ。来年のオリンピックに向けて、修理中だそうだ」
「ふんとかぁ? せっかく遥々来てやったのによぉ。銭っ子出せばなんとかなるべぇ」
「世の中、なんでも銭で解決すると思うなよ」
「てぇげぇ、銭でなんとかなるもんだぁ」
「税務署呼ぶぞ」
「ははははっ…、あ~あ、見せたかったなぁ。せめて近くまで行ければ、スケールがわかるんだけどぉ…。いや、ほんとに残念だ、見せたかったなぁ…」
「しょうがないよ。ここからでも十分わかる。また、機会を作って来ようぜ。二人だけでナ」
「ふんなことゆうなよぉ。俺ぁも誘ってくんどよぉ」
他の観光客たちも中に入れないことを知り、それぞれ悔しさを露に去って行く。
「そうだな、また機会を作って来よう。じゃあ、そろそろ戻って、“頤和園”へ行こう。昼飯はそっちへ着いてからでいいだろう? 邑中、腹減ったかぁ?」
「ふんだな、なんか食いてぇなぁ」
「少し我慢しなさい。わしは我慢できるけん」
「あんだと、オメェは昨日食い過ぎただけだんべぇ。ガツガツ食ってたからよぉ」
「じゃかましッ! 他人がどお食おうと勝手じゃ」
「ふんでもよぉ、やっぱりよぉ、礼儀ちゅうもんがあるべぇ。なあ、峪口ぃ」
「じゃあしッ!」
「まあ、まあ、ここには大した食物もないし、頤和園へ行けばなんかあるだろう」
「どんくれぇかかんだぁ?」
「タクシーで二十分くらいだ」
「ふんじゃ、我慢するべぇ」
「おお、偉い子ちゃん。聞きわけがいいでちゅねぇ」
峪口たちは、大きな湖を真ん中に据えた頤和園の雄大な景色に気圧され、しばし茫然自失の態。
三人は公園の中で屋台の餃子に舌鼓を打った。
施川はといえば、天壇公園での言葉をすっかり忘れたかのようにビールを呷っていた。
野菜だけの餃子だったが、その味を邑中は気に入ったようで、二皿(20個)腹に収めた後、もう一度買いに行こうとした。
“もう止めておけ”と峪口に止められて、渋々納得したのだが、それでもまだ恨めしげに屋台を見ている。
三、阜成門の「万通商城」
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「ところでさぁ、一ヶ所、どうしても行きたいところがあるンだけど、付き合ってもらえる?」
「いいよ。なあ、邑ちゃん。で、どこ?」
「うんだ、どこだぁ?」
「施川には、前に話さなかったかな。デパートの一角を買ったって?」
「そういえば、聞いような気もする。確か、ずいぶん苦労したンだよな、その件では……」
「なんだべよぉ?」
「涙、涙、……涙なしには語れません」
「一発、ぶっくらしてやればいいべぇ」
「おいおい、過激なことゆうなよ。そこは遠いの?」
「いや、戻る途中から、そうだなぁ…、タクシーなら二十分もあれば着くと思う」
峪口は、頤和園の入口付近でタクシーを捕まえ、“阜成門の交差点まで”と行き先を告げた。
東へ向かってしばらく走ると、郊外の鄙びた風景は、高層ビルの立ち並ぶ近代的な街並へと一変する。
「あれだ、あの建物だ。ほら、同じような建物が二棟建っているだろう。あれが“万通商城”、商城というのはデパートのことサ」
峪口は、高架上から万通商城の入口を見下ろし、興奮気味に叫んでいた。
「四階までがデパートで、その上は全部オフィスだ。うちの持ち物は一階だ。確か、道路を挟んだ反対側にホリデイインがあったはずだが……?」
と峪口は辺りを見回した。
「あれじゃねぇか?」
施川が指差した。
「おっ、そうだ、あれだ。周りに高いビルが増えたから見え難くなったンだ」
「ホリデーインなら俺ぁも泊まったことあんど、農協の団体ツアーでアメリカへ行ったときよぉ。家族皆で行ったンだ」
「脱税したときか」
「シッ、だ、黙ってろ。しつけぇハゲだなぁ」
「ハゲは余計じゃ。文句あるなら親父とお袋に言ってくれ」
「この辺りは金融街になるとか言ってたけど、どうも様子が違うようだ」
「聞いてねぇな」
「うんだ」
タクシーをデパート入口の正面に停めて、峪口は感慨深げに周囲を見廻した。
「あっちのデパートは、鄧小平さんの子供だか孫だかの持ち物だったと思うよ」
中国ではこういった“太子党”と呼ばれる高級官僚の子弟たちが、親の威光を楯に利権を貪っている。
一般市民は不満に思いながらも、唯ただ傍観するだけである。
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この旅行の時点ではまだ先の話になるが、二〇〇六年に上海市のナンバーワンが逮捕されることで、役人の癒着の実態が次々と明るみに出てくる。
政治闘争の色合いもないではないが、結果として彼らが逮捕拘束されることで、市民は溜飲を下げることになる。
開発を最優先に先導してきたトップが逮捕されることによって、過熱した上海のマンション価格も沈静化するのではないかと、市民は期待するが……。
日本でも、工事受注を巡っての談合や知事の介入などが話題になっているが、こちらはそんな生易しいものではない。
市民にとっても役人にとっても小額の賄賂は社会機能を円滑に回すための潤滑油である。
しかし、大胆にも数百億円単位の公金を流用した投資によって、私的資産を築き上げている連中がいる。
上海閥の流れを汲む有力な中央政治局員の妻が、その夫の権力を使って、浦東地区に一平米当たり十一万元(約165万円)という、一般人には高嶺の花の超高級マンションを建築し、一棟を販売した時点で夫が逮捕され、もう一棟は販売停止の状態に陥る。
この開発には、世界中から投機目的の資金が流れ込むらしいが、この投資は失敗に終わるはずである。
もっとも彼らにとっては痛くも痒くもない、投資失敗の一事例に過ぎないが……。
呆れた話には違いないが、それこそ氷山の一角、中国中にそんな話は山ほどあるのが現実である。
政治闘争に敗れた者は、天国から地獄へ、生か死か、中国では権力のうつろいとともに、度々繰り返されてきたことである。
この事件に関連する逮捕者は、数百名を数えることになるはずである。
その中には大物の名も含まれていて、香港の大財閥のトップまでもが逮捕されることになる。
3
横道に逸れた話を、万通商城に着いた三人に戻そう。
「おお、まだ麦当労が営業している。デカイんだよ、ここのマックは。入ってみる?」
峪口は十年ほど前から何度もこの店を訪れていた。
「ついでだ、なにか食おうか?」
「うんだな。俺ぁ、昼飯が中途半端だったかんな」
「おまえさん、ねえ、餃子二十個だろう。どこが中途半端なのよ」
峪口が呆れたように言った。
「小っちゃかったんべぇよぉ」
「へいへい、好きにしてくれや」
「そうか、ふんじゃオメェはいらねぇな。せーかく、奢ってやんべと思ったけんどよぉ」
むふふふっ…、と施川を横目で見た。
「お、おでぇじん様、後生でごぜぇます」
「うんにゃ、わかればええ。好きなモン頼め」
「ははーっ、ありがたき幸せ」
「ほれ、バカやってねぇで、早くなにか頼めよ。小姐(女性従業員)がイライラしているぞ」
「ごめんねぇ~、この野生熊、田舎モンだから許してやってねぇ~」
と言って施川はお愛想笑いをしたが、その小姐は白けた表情をしていた。
それで、
「ほんとに、愛想がないねぇ」
と、施川は満面に笑みを湛えて皮肉を言った。
それぞれ咖啡と漢堡包を注文して空席を探した。
平日の昼間にも拘らず、店内はお客で溢れている。
「この人たち、仕事はないの?」
施川は、中国で日本人がよく感じる疑問を口にした。
「お茶の時間だんべぇ。俺ぁ家でも、三時ごろには必ず一服するどぉ」
「へいへい、皆で金勘定か、それとも脱税の相談か」
「シッ、ば、馬鹿」
「へへへっ…、俺もいつも不思議に思っているンだ」
上海でもそうだが、午後の三時を過ぎると、快餐食品店や喫茶店で雑談する人たちが増えてくる。
「まあ、サボリだろうな」
「へへへっ…、どこの国も同じだな。さぁて、峪口の会社の店というのを見せてもらおうか」
「ちっと待ってくんど。まだ、食い終わってねぇ」
「おまえさん、二個買ったのか……。独りでゆっくり食っていろよ。じゃあナ」
峪口と施川はサッサと後片付けを始めた。
「待ってくんどぉ…」
邑中が情けない声で囁く。
4
「二人とも期待するなよ、場所を貸しているだけだからナ。管理は全てデパート任せ、最近はどんな業種のテナントに貸しているかも知らないンだ」
以前とだいぶ様変わりした店内に、峪口は戸惑いながらもようやく場所の見当をつけた。
「確か、この辺りだと……。うん、ここだ、ここだ。二軒の店に跨っている。だいたい、ここからこの辺りまでだ」
「なぁ~んだ、ふんとに小っちぇな」
邑中は鼻白んだように言った。
「だから言ったろう。使用面積で五十八平米しかないンだからナ」
「十七坪とちょっとだんべぇ」
「おっ、そんな計算は速いな。さすがは大地主だ」
「でもネ、買うときは建築面積ナンだよ。使用できる比率は五十パーセント以下だった。だから、実際には百二十平米分のお金を取られているンだ」
「そんでも三十六坪、鼻糞みてぇなモンだ」
「無視無視。共用部分って、そんなにあるモンかよ」
「騙されたんだんべぇよ。精々十から二十パーセントぐれぇのモンだ。中国人は信用できねぇなぁ」
「それでいくらしたンだ?」
「七十万米ドル、買った当時のレートが八十二、三円だから、六千万円ぐらいのものか。今の為替レートは約百二十円だから、単純計算でも四割は値上がりしたことになる。まあ、売れてなんぼだけどネ。それに年利回りが買値の八パーセントだから、もう投資は回収済み、後は余禄サ」
「それなら、褒められてもいいンじゃないの?」
「普通をネ。私は種蒔く人、収穫は別の人。そっちの方は褒められたみたいよ、散々お金を使ってサ」
「要領のいいのがいっかんなぁ。俺ぁ、そんで、サラリーマンが嫌んなったンだ」
「まあ、人にはそれぞれ役回り、巡り合わせ、てのがあるからナ。わかっている人はわかっているはずだ」
施川が達観したように言った。
変に慰めを言ってもと気を使う施川の気持ちが、峪口には反ってありがたかった。
「ところが、そうでもねぇ。世の中、そんなに甘くはねぇ。そんな野郎に限って出世すんだ。おお、嫌だ、嫌だ。オメェらも早く会社なんか止めれ。小作人として俺ぁ家で使ってやっから」
と邑中に追い討ちをかけられた。
「ったく気の利かねぇ男だ。おい、エロ豚、行くぞ」
施川は、“チエッ”と舌打ちした。
それから三人は、デパートの四階までブラブラと見学して表に出ると、時刻は三時を指していた。