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第六章 烤鴨(北京ダック)

一、“全聚徳”前門店


1


「あ~あ、疲れた。ところで、タクシー代はいくらだった?」

車を降りた施川が大きな伸びをしながら訊いた。

「約束の四百元しか払わないよ。チップが欲しそうだったけど、やらなかった。あんなところへ連れて行かれたんだものナ」

「うんだ、俺ぁたちを田舎モンだと思って、馬鹿にしたんだんべぇ」

「誰が田舎モンじゃ、誰かさんと一緒にするナ」

「施川ぁ…、謙遜すンな」

「へいへい。チップなんて冗談じゃねぇ、まったく。で、今日は何時、カオなんとか?」

「カオ・ヤー(烤鴨)ね。六時半に予約をしてくれるそうだ。実は、一人友人が来るンだけど、気さくな男だから、二人とも気が合うと思うよ」

「ああ、さっき電話していた人ね」

「そうそう。段健筆、いい男だよ。彼が“全聚徳”の本店を予約してくれたはずだ。“清華大学”出身の優秀な男だ」

「オメェの友達ならいいよ。んだべ、施川?」

「へいへい、庄屋様。おっしゃる通りにいたしやす」

「オメェもやっと素直になったナ。よしよし」

「なにが、よしよしじゃ」

「はははっ…、ちょっと、否、かなりかな、変わっているけどな」

「邑中ほどじゃねえだろう?」

「あんだとぉ」

「くくくっ…、違げぇねぇ」

二人は、峪口が上海で駐在を始めたとき、段も上海に単身赴任中で、ひょんなきっかけで偶然知り合った。

妙に馬が合い、互いに単身赴任ということから親しく付き合うようになった。

段が北京に帰ってからも、音信は続いていた。

北京を旅行するに当たり、峪口は段に連絡を入れていたが、日々の忙しさにかまけて詳細な日程を連絡していなかった。

段は、突然の電話に驚いた様子であったが、

『峪口さんは大切な老朋友(本当の友人)』

と言って、スケジュールを快く空けてくれた。

― 老朋友は誠に良いものである。

「熊も偶にはいいことゆうナ。それにしても、峪口の人脈は凄い。張さんだっけ、上海で会った人? うちの社長も峪口さんの人脈は凄いって、褒めていたよ」

「張威、彼も誠実な男だし、やはりどんなに優秀でも信頼できなかったら、一緒に仕事をしたくないもの」

「うんだ」

と、邑中が妙な思いを込めて断言した。

「四六時中見張っているわけにもいかないしなぁ」

「うんだ、根性の腐った奴は、どこにでもいるど」

「おいおい、やけに激しいね。村内でなんか嫌なことでもあったのかぁ?」

と問う施川に、

「うんにゃぁ……」

と否定したが、農家の人たちは一見穏やかに見えて、結構争いが絶えないのもまた事実だ。

農村は付き合いが密なだけ、余計に煩わしいものだ。

「ええと……、いま四時半だから、そうだナ……六時に出発しよう。それまで部屋で休もうか?」

「うん、そうしよう。わしは寝るから、出掛けるときに起こしてくれよ」

「おいおい、また寝るのか」

「俺ぁも寝るべぇ、後で起こしてくんど」

「はいはい、わかりました。それではお休みなさい」


2


「お~い、施川ぁ~、起きろぉーッ!」 

「お~い、邑中ぁ~、起きろぉーッ!』

峪口が六時少し前に二人の部屋を代わる代わるノックすると、しばらく間を置いて、

『ああ、ちょっと待ってくれぇ、わし、裸なんじぁ』

『…………、グガッ…』

とゆう返事が返ってきた。

「こらぁーッ! 邑ぁーッ! 置いてくぞぉー!」

峪口はドアを激しく叩きながら大声で叫んだ。

『あ、うん、うんにゃ…、す、直ぐ起きっどぉ。まっ、待ってぐれぇーッ! あっ、いでぇーッ!』

部屋の中からドタバタと慌ただしい音が聞こえた。

「急いでなぁ。エレベーターの前で、待っているぞぉ」

『わがった。直ぐ行ぐよぉ』

「いでッ! あ、いでっ、ちょ、あ、施川ぁ~、俺ぁの猿股パンツ、知ンねぇかぁ?」

「フルチンで上等じゃ、ボケ」

まず施川がやって来て、その後少し間を置いて、邑中がズボンをあげあげやって来る。

「おっ、来たか。おい、チャック、チャック」

「悪りぃ悪りぃ。あ、うん……あっ、いげねぇ」

「ほれほれ、でっけぇキンタマがはみ出しているぞ。しっかりと仕舞っとけよ」

「あ、うん……、またぁ~、施川ぁ~」

「施川ぁ~、じゃねぇよ。ほれ、急げ、モタモタしてやがると置いてくぞ」

「でぇじょうぶ、でぇじょうぶ。どおせエレベーターは直ぐに来ねぇべ」

「糞、そんなところだけは、しっかりしてやがる」

「へへへっ…」

「約束に遅れちゃうかな?」

「あ、否、大丈夫。さっき段さんから電話があって、少し遅れるそうだ。それで七時に変更してもらった」

「そうか、それはよかった」

「歩くには少し遠いから、タクシーで行って、周りをブラブラするか」

「そうしよう。疲れているから歩くのもなんだし」

「うんだなぁ。俺ぁもう歩きだぐねぇ。銭っ子は俺ぁが払うべ」

夕闇が迫り、外はようやく涼しくなってきている。

ホテルから十分ほど走って、タクシーは全聚徳本店の正面で停まった。

正しくは全聚徳前門店である。

住所が宣武区前門西河沿街なので前門店である。

全聚徳を名乗る店舗は北京市内に十店舗、他の都市に四店舗ある。

全聚徳の創業は一八六四年、既に百四十年以上の歴史がある。

お店で提供する鴨には、嘘か実か、創業以来連続する番号が振られていて、食事をすると記念に番号の入ったカードが貰える。

因みに、作者自身が今年の七月に訪れたときに貰ったカードには、一億一千五百四十九万九千一百十九羽と書かれている。

試しに、小姐(従業員)に売り上げを訊いてみると、前門店が断トツで平均百万元(1500万円)、二番目が王府井店の六十五万元との答えが返ってきた。

もちろん、一日の売り上げである。


3


「ここだ、ここだ。ここが本店だ。昨日の晩見た店の近くだけど規模が違うだろう。間違いがないか、一応確認してくるから……」

と言う峪口の後について二人も店内に入って来た。

「それにしても広い待合室だナ。百人以上待ってるンじゃない。それにこのテーブルの数、一体いくつあるンだよ」

「うんだぁ、俺ぁも吃驚らこいた。農協の集会場よりもでっけぇ……」

その規模に、それぞれの表現で驚きを表した。

「よかった、ここに間違いないそうだ。実は俺も本店は初めてなンだ。段さんが予約してくれたのは四階、個室だってサ」

「へーえ、四階まであるのか。それで毎日予約で満杯ということは……、はい、邑中君、そこで問題です。一体、毎日何羽のダックが殺されているでしょうか? 不正解の場合は、邑中君が全て料金を払います。正解の場合には、わしと峪口は料金を払いません」

「銭っ子はどうでもいいけんど、見当もつかねぇナ。いってぇ、どんぐれぇ、ぶっちめる(殺す)だぁ?」

「さあナ、……店頭でもパック詰めで売ってるから、恐らく数百羽、いや千羽以上かもしれないぞ。ここは自分の養鶏場、養鴨場かな、で飼育しているそうだ。さて、まだ少し早いから、その辺を散歩しよう」

因みに、今年の七月に貰ったカードの数字を百四十年で割ると、年間八十二万五千羽、一日二千二百五十羽になる。

この数字はあくまでも創業以来の平均であって、現在の店舗数は十四を数えるわけだから、一日一万羽以上と考えられる。

恐ろしい数字である。

三人は店頭の北京ダックの売店を横目に、前門大街を北に向かって歩き出した。

「表でも飛ぶように売れてる。一羽六十元か、そんなに高くはないナ」

「施川、八十倍、八十倍」

「あっ、そうか。……四千八百円か」

「あんでぇ? 八十元は八十元だんべぇ?」

「そう、確かに八十元は八十元。中国人の金銭感覚を体現してるンだよ」

「あんでぇ?」

「へいへい。……峪口、次いこか」

「そうだナ」

前門大街は二股に分かれて前門東大街と交差する。

そこはロータリーになっていて、真ん中に城のような大きな古い建物が建っている。

ライトアップされたその建物は異様な存在感を示し、見る者に威圧感さえ与えている。

「おおっ、いいねぇ、あれ。お城かい?」

「“箭楼”と言って城壁に設けた櫓だ。“箭”には弓矢の意味もある」

「俺ぁ家(本家)を守る田吾作ン家(分家)みてぇなもんだナ、うん」

「勝手に納得するな」

「昔は紫禁城(故宮)を守るために、幾重にも城壁が取り囲んでいた。その城壁は壊されて櫓だけが残ったわけだ」

「うん、俺ぁ家も分家がいっぺぇあるど。なるほど、本家を守らせるために、分家がいっぺぇあるわけだ。うんでも、今は下手したら逆だもんなぁ」

「うるせぇ、なにをブツブツわけのわからんことを。峪口の説明を聞いてるンだから、少し黙ってろ」

「施川、オメェら家は足軽みてぇなモンだべぇ」

「へいへい、悪ぅございました。どうせわしは、どっかの馬の骨じゃ、文句あっか」

「そぉかぁ…、やっぱり豚の骨かぁ…」

「こ、このぉ…、スリーパーホールド」

「あっ、勘弁、勘弁。ぐ、ぐるじぃー。た、峪口ぃ~、だ、だずげでげろぉ~」

施川が邑中に飛び掛り首を絞める。

「おまえが悪い」

「はあ、はあ、はあ……、ああ、ぐるじがったぁ」

「もう一回」

「あっあぁぁぁ…、止めでげろぉ」

「いつまでじゃれ合っているンじゃ。ここは、イザとなれば故宮を守る最前線になるわけだから、それなりの備えが必要だったンだろうナ」

「そうか、なるほど。あれ……、なぁんだ、あの裏側が天安門広場だったのか」

「そうだよ。昨日、羊鍋を喰った東来順はあっちだ。さて、そろそろ行こうか。段さんも着くころだ」

「うん、そうすんべぇ。このまんまだと、このアホに殺されちまう」

「誰がアホだってぇ…」

「あっ、弁勘、弁勘。ふ、ふんとのこと言っぢまった。ひゃーッ! ぐ、ぐるじーぃ」

「二人で遊んでいなさい」



二、老朋友(親しい友)


1


峪口の予想どおり、段は全聚徳の入口で待っていた。

「あっ、峪口さん。お久しぶり。ほほほっ…」

と、流暢な日本語で話しかけてきた。

段はゴツイ風体に似合わない優しい話し方をする。

「段さん、お久しぶり。お元気でしたか?」

峪口は手を差し伸べながら挨拶を返した。

二人は旧交を確かめ合うかのように、硬く握手を交わした。

「本当にお久しぶりですねぇ。あれから何年になるかしら……」

「もう三年以上ですね。段さんが上海で仕事をしていたとき以来ですから」

「へーえ、早いものですわねぇ。私も四十八ですよ。峪口さんはおいくつになられました?」

「私も四十八になりました。ははははっ…」

「またまた、峪口、嘘ゆうなよ」

施川が突っ込みを入れた。

「ははははっ…。段さん、紹介します。悪友の施川と邑中です」

「そうですか。よろしくお願いしますね、施川さんに邑中さん」

施川は名刺を交換し、丁重な挨拶を交わした。

「俺ぁ、名刺はねぇけんど、邑中と申します。千葉で農業をやっております。よろしくおねげぇします」

「は~い、よろしくお願いしますね。段と申します」

と応じて邑中の手を握った。

「あ、へっ…」

「お二人は、北京は初めてですか?」

「ええ、初めてです。上海へは何度か行きましたが」

「何十回だンべぇ」

「えっ?」

「いいンです、相手にしないでください」

「ま~あ、おっほほほっ…」

・・峪口ぃ、なんか気持ち悪りぃなぁ・・

と、邑中が峪口の耳元で囁いた。

「いてッ!」

峪口が邑中の足を踏んだ。

「お仕事で? ……そうですか、峪口さんのマンションへ。羨ましいですわねぇ、仲がおよろしくって」

と言って、段は峪口の肩を小突く真似をした。

邑中が峪口に疑いの目を向ける。

「段さん、今日はすみません。関係のない私たちまでついて来てしまって」

「おぅおぅ、気取ってよぉ、私だって、へへへっ…」

「まあ、邑中て、おもしろい方ですこと。良いお友達になれそうですわぁ。施川さん、よろしいンですよ。峪口さんのお友だちでしたら、私の友だちですもの」

「あ、ありがとうございます」

施川は毒気に当てられたように殊勝な返事をしたが、邑中は黙っている。

「さ、さっ、中へ入りましょう。今日は、皆で楽しくやりましょうね。お強いンでしょう、これ。ほ~ら、邑中さんも……」

と、段は小指を立てて杯を呷る仕草をした。

「うわばみです」

と、峪口が茶々を入れた。

「うわばみ?」

「段さん、底なしですよ、施川は」

「ただ、意地きたねぇだけだんべよぉ」

と、邑中が混ぜっ返す。

「また、このぉ…。でも、本当のことです」

「ま~あ、そうですか、それは頼もしいですわねぇ。おっ、ほほほっ…」


2


四人はエレベーターで四階に昇ると、そこで待っていた小姐に、クネクネとした廊下を通って小部屋へ案内された。

「段さん、凄い建物ですね。いやぁー、歴史を感じるなぁ。それにしても迷子になりそうな造りだ。邑中、迷子になるなよ」

「昔の古い建物を利用しているンでしょうね」

「当ったりめぇだぁ、昔ンだから古いンだべぇよぉ。へへへへ……」

「そらそうだ。君は、ときどき賢いね」

「あんがと」

内部は朱を基調とした内装で、如何にも中国といった雰囲気を醸し出していた。

途中のどの宴席もほぼ満員である。

八畳ほどの一段と豪華な内装の部屋に導かれた。

調度品類も物々しい。

紫檀だか黒檀だかの重厚な椅子に腰を下ろし、峪口は改めて施川と邑中を段健筆に紹介した。

初めはぎこちなかった施川だが、ビールで杯を重ねるうちに、本来の調子を取り戻してきたようだ。

「この生ビール、おいしいですね。銘柄はなんですか?」

「小姐に聞いてみましょうか。……施川さん、北京の地ビールだそうです」

「上海だと銘柄が違っても味はほとんど同じで、面白みに欠けますけど、ここのビールは独特の風味がありますね。うん、おいしい」

峪口と邑中も杯を重ねていく。

あまり強くない邑中も、今日はハイペースでビールを呷っている。

「確かに、うんめぇ。俺ぁにも飲めるどぉ」

「そうですか、それは結構ですね。さ、どんどんやってください。料理は私が適当に頼みますから」

「ええ、お願いします」

施川と峪口は声を揃えて応えた。

四人は杯を重ね、北京ダックに舌鼓を打ち、四方山話に花を咲かせ、二時間ほど楽しい時間を過ごした。

北京ダックは、毛を毟り内臓を取り出した後、大きな特性の釜戸に首から吊るし、独特のタレを何度も塗り重ね、遠火で時間をかけてこんがりと焼き上げる。

鼈甲色の輝きを放つ皮はパリッと、肉は余計な脂肪が抜け適度なジューシーさを保って焼きあがる。

もっとも全聚徳の焼き方には、老舗ならではの秘伝があるようだが……。

クレープ状に焼いた小麦粉の薄皮に、削いだダックの皮を乗せ、長ネギの千切りを添え、そこに特性の味噌ダレを加えたら薄皮を巻いて食する。

食べるときに薄皮の片側を折るのがコツである。

そうしないでうっかり齧り付くと、味噌ダレで衣服を汚すことになる。

ダックの皮、長ネギ、味噌ダレ、小麦粉のクレープというと、材料は大変シンプルな気もするが、これらが口中で渾然一体となったとき口福が訪れる。

上海にも全聚徳の支店はあるが、峪口は北京で食べたときほどの感動を覚えなかった。

名物はその土地で食べてこそ旨いと感じるもので、やはり気候や風土、雰囲気といったものが大きく影響するのだろう。

北京で烤鴨を味わうと、病みつきになること請け合いである。




3


「どうですか、施川さん、満足していただけましたかしら?」

段が施川に尋ねた。

「はい、満足しました。それにしても、家鴨がこんなにおいしいものだったとは……。日本のは、はっきり言って紛い物ですね」

「そうですか、それはよかった」

段は、うんうんと満足気に頷いた。

「段さん、日本に来る機会があったら、ぜひ僕に電話をしてください。今日のお礼においしいものをご馳走します」

「ほんとだな、嘘つくンでねぇど。俺ぁが証人だ」

「なあ、峪口ぃ。邑、おまえもナ」

「おっ、おお、もちろん」

「ほぉ~れ」

「まあ、おっほほほっ…、それはありがとうございます。施川さん、その節はお願いしますね。邑中さんが証人ですよ。ほほほほっ…」

「本当に、段さんありがとう。久しぶりに旨いものを食べさせてもらいました」

「いいンですよぉ、峪口さん。峪口さんは“老朋友”ですもの。ほほほほっ…」

「峪口、峪口。ラオ、ポン…、ってなんだぁ?」

邑中が耳元で囁いた。

「昔からの親しい友人といった意味で、まあ、特別な関係ということも意味しますね。ほほほほっ…、施川さん、邑中さん、お二人も老朋友になりましょうね」

「はっ、はい、お願いします。謝謝」

「と、特別なぁ、関係……。シェー、シェー」

邑中は言葉を濁した。

「おや、まあ、お二人とも中国語がお上手ですこと」

「へへへっ…、謝謝と再見だけです」

施川が照れ臭そうに頭を掻くと、邑中も頭を掻いた。

「おまえさんは照れなくてもいいの」

「ほほほほっ…、面白い方ですねぇ、邑中さんは……。ところで、皆さんはこれからどうなさいます?」

「そうですねぇ…、腹ごなしに“西単”へでも行ってみようかと」

「ずいぶん変わりましたよ、あの辺りも。そうそう、西単といえば思い出しますね。ほら、米原さん」

「米原?」


4


「ほら、以前峪口さんと一緒にお見えになった、大阪の、小太りの」

「あっ、はいはい。そうそう、あのとき彼は段さんにお願いして、皮ジャンを買ったンだ。遣り取りも面白かったですけど、その後がお笑いでしたよね」

「ええ、私も電話で聞きました。それでも、安かったからいいンじゃないですか」

「ほほほっ…、返品してくれなんておっしゃっていましたけど、郵送料の方が高くつきますわよって、私、お断りしましたのよ」

「なに、なに、なんの話?」

昔話に花を咲かせる二人に、施川が口を挟んだ。

「いやね、大阪の取引先の男なンだけど、十月の夕方で寒かったから吊るしの皮ジャンに眼をつけたのサ。それで段さんに交渉を頼んだわけだ」

北京の十月下旬は日本の真冬並みに寒い。

峪口は友人に紹介するとき、北京は四季ではなく夏と冬の二季だと表現する。

「うんうん、それで?」

「散々遣り取りして、三百元だったかナ。千元以上の値札のやつを、とにかくそこまで値切って買った」

「そうそう、それで早速着込んで、私たちに似合うだろう、似合うだろうって、とっても喜んでいらして。ほほほっ…」

「そうそう、こうゆうのが欲しかったンだ。“日本なら十万円はしまっせぇ”とか言って、大喜びさ」

「ふんで、それのどこがおもしれぇんだぁ?」

邑中が怪訝な表情で峪口を見た。

「問題は日本に帰ってからさ。友だちと会うのに早速着ていったら、“なんやそれ、ダッセェーッ! 相変わらずセンスがねぇな”って言われたそうだ」

「それによく見たら、ところどころ皮の色と同じ茶色の靴墨が塗ってあったそうですよ。おっほほほっ…」

「そうそう、私のとこにも電話がありました。“峪口はん、あきまへんで、中国人は信用できしまへん。あの皮ジャンは紛い物ですわ”って、怒っていました」

「三百元ということは、四千円ぐらいかな?」

と、施川が口を挟んだ。

「否、円が高いころだから、三千円ぐらいのものだ。あのころは一万円両替すると千元以上になった。今は七百元ぐらいだろう。いい時代だったナ」

九十年代後半は、一週間ほどの出張でも二万円も両替すれば、よほど贅沢をしない限りは使い切れなかったものだ。

物価が安かったということもあるが、正に隔世の感がある。

「峪口さん、お付き合いしたいのですが、一度会社に戻らないといけないものですから、申し訳ありませんねえ」

「この時間に、ですか」

眼を丸くする施川に、

「明日、董事会(役員会)があるものですから……」

「えッ! そうだったの段さん。知っていればお誘いしなかったのに、いや、申し訳ないことをした」

「いいえ、とんでもございません。峪口さんにお誘いいただいて、とても嬉しかったですわ。また、北京へおいでになったら、ぜひ連絡してくださいね。あっ、そうそう、なんかトラブルがあったら、携帯に電話をしてください。直ぐに飛んで行きますからね」

「ありがとうございます。それでは、またお会いしましょう。お気をつけて」

「はい、また、お会いしましょうね」

峪口と段は両手で固い握手をした。

「段さん、ありがとうございました。お気をつけて」

「ふんとに、ありがとうごぜぇました」

「施川さんも、はい、握手、握手。またお会いしましょうね、ほほほっ…。はい、邑中さんも」

段はタクシーを停めて乗り込むと、三人に手を振りながら去って行った。



三、“西単”観光よりもマッサージ


1


「いい人だね。ちょっと笑い方は気になるけど」

と言って施川は、右手の甲を左頬に当ててシナをつくった。

「うんだ、なんか気持ち悪りぃなぁ。峪口ぃ~、オメェ、ケツメド(尻の穴)はでぇじょぶかぁ?」

「あっ、はっ、はっはっはっ…、峪口ぃ、ケツメドだとよぉ。どこの言葉じゃ」

「あれぇ、オメェらの方じゃ、ケツメドってゆわねぇかぁ?」

「はははっ…、大丈夫だよ。綺麗な奥さんもいるし、かわいお子さんもいるから。ところで料理はどうだった?」

「両刀使いもいるべぇ」

「邑ちゃんはしつこいねぇ。……料理? これはもうお世辞ぬき、最高よ。まさか丸ごと出てくるとは思わなかった。その場で焼きたてを切ってくれるのも良かった。あれで、いくらだった?」

「今日は段さんが奢ってくれたンだけど、八百何十元とか聞こえたな」

「……、一万円ぐれぇか。日本なら一人一万円以上は取られんべぇ」

「だいたい、一羽丸ごとなんて出てこないだろうよ」

「うん、ほんの一切れか二切れだ。しかも肉のたっぷりとついたやつをナ。ここのは、本当に皮だけだもの。量もたっぷりとあったし、いや、満足、満足。ダックの肉料理も美味かったな」

施川は感動の余韻に浸るように、恍惚の表情を浮かべていた。

「肉も確かに美味い。ジューシーで、癖もない」

「かあちゃんと行く店の味とはぜぶん違うわ」

「ラーメン屋に、北京ダックはないだろう」

「頼めばあんだよぉ。北京ダックなんてゆったって、ただのアヒルだんべぇ」

「そう、今度ご馳走して頂戴ねぇ。ところで峪口ぃ、段さんによろしく言っておいてくれ。日本へ来る機会があったら、わしがご馳走するからって」

「ああ、伝えておく。で、どうする、西単へは行ってみるかい?」

「うーん……、なにがあるの?」

「うんだ、シータンてのは、なんだぁ?」

「地元っ子の集まる商業街といったところだ。賑やかだけど、金持ちや外人はあまり行かない。まあ、庶民の街だナ」

「な~んだ、貧乏人の行くとこかぁ」

「おぅおぅ、大胆な物言いだこと。さすが御大尽様は違うなぁ」

「へへへっ…、褒めるなよ」

「誰が褒めているンじゃ、ボケッ! 峪口ぃ、今日はいいわ。それより、マッサージに行こうよ」

既に施川の頭の中には、昨晩の小姐の顔が浮んでいるようだ。


2


「昨日の娘、今日も指名できるかなぁ?」

「どうかなぁ…。まあ、どうしてもというなら、ひと仕事終わるのを待つとゆう手もある」

「俺ぁも、あの娘っ子を指名してぇナ」

邑中がニンマリと微笑んだ。

「ああ、わしが保証する。あの娘は絶対に、いいか、絶対に指名できるよ。うん、約束する」

施川が絶対に力を込めて言い切った。

「ほぉかぁ、ふんじゃ早く行くべぇ。ほれ、峪口ぃ、早くタクシー、捕めぇてけろ」

「はいはい、わかり申した」

施川も邑中も乗りのりである。

「ところで、峪口ぃ…。昨日、ほら、個室とか言ってたろう」

「うんだ、確かにゆってたどぉ」

「なんか、興味ない? どんなことするのかなぁ?」

「それは、当然施川さんが考えているようなことだ」

「ふんとかッ! 施川のスケベ」

「なにゆってるのよ、この男は、まったく……」

「へへへっ…、むっつりエロハゲ」

「な、なんだとぉ」

「はーい、到着」

「おい、エロ熊、タクシー代、払っておけよ。わし、細かいのないから」

「どうせ、デカイのもねぇべ」

三人は勝手知ったる我が家とばかり、受付へ向かって階段を下りて行った。

「残念ですねぇ施川さん。昨日の娘は仕事中だって」

「まっ、まさか個室じゃないよナ」

「さーあ、知らないよ、そんなことは。でどうするの、待つ?」

「俺ぁのは?」

「おまえさんの彼女は、絶ぇ~対に大丈夫だ。例え、お客さんが千人来てもナ」

「どうゆう意味だぁ?」

「そうゆう意味じゃ。峪口ぃ、どのくらいかかる?」

「今しがた始まったばかりだそうだ。一時間コースだって、待つかい?」

「否。そうか、じゃあ、昨日左側にいた娘は?」

「左、覚えてないよ。そこにいる中から選べよ」

三人が受付に立つとすぐさま、数名の小姐が部屋から出て来た。

彼女たちはニコニコと笑顔を振り撒きながら、後ろに立って指名されるのを待っている。

中には指名を得るために、媚を売る娘もいる。

「あれ、あの娘は確か、昨日の峪口の……。よし、わしはあの娘にしよう、っと」

「駄目ッ! 俺が予約済み」

「あっ、きったねぇ。言葉がわかると思って、きったねぇなぁ」

「ほらほら、ウダウダ言ってないで早く決めろよ」

「へへへっ…、そうだよぉ施川、早く決めろよぉ」

「おっ、邑ちゃん余裕だね。いいよなぁ、不細工好みは……」

「ん? あんだとぉ…。峪口ぃ、こんなのほっといて行くべぇ、行くべぇ」

「なにぃ、こんなのだ。あ、こらこら、ちょっと待て。うーん、じゃあ、わしはあの娘にする」

「よし、決まった。コースは昨日と同じでいいナ?」

「否、わしは全身だけでいい。どうも足ツボはわしの性に合わない」

「俺ぁも、足はいンねぇ」

「そうか、俺は昨日と同じにするよ。じゃあナ、部屋は別々だ」

「ちょっ、ちょっと待ってくれ。ということは、峪口は個室か? それで、わしはこの不細工と一緒か」

「へへへっ…、仲良くすんべぇ、施川ちゃ~ん」

「個室がよければ、個室にしてもらおうか? 小姐、この人たちがねぇ…」

峪口が小姐に呼びかけると、施川と邑中は慌てて、

「待って、待って。峪口と同じでいい。わしもなんだか足ツボを遣りたくなってきた。うん、同じ、同じでいい」

「俺ぁも、同じで頼むべぇ」

と言って慌てて遮った。

イザとなると、からきしだらしがないのも三人の特徴である。

足ツボマッサージで、始めのうちは“痛てぇー”とか“ギャー”とか叫んでいたが、しばらくすると昨晩と同じように三人は高鼾だ。

手抜きせず、時間一杯マッサージをしてくれたものかどうかは定かでない。


3


小姐たちに見送られてマッサージ店を出ると、施川の頭の中は昨晩の日本料理店のママさん一色になる。

実に切り替えの早い男である。

しかし、その日は混んでいたので、ママさんのお愛想も少なく、満腹気味だったこともあり、日本料理店は軽めに切り上げた。

「今日はつまらなかったなぁ、ママさんあまり相手をしてくれなくて。でも、いいこと聞いた。彼女は独身で、年に数回は日本へ帰るそうだ」

施川が得意げに囁いた。

「いつの間に、そんなことを聞いたンだよ?」

「ああ、二人が便所へ起ったとき」

「まったく、その辺だけは抜け目がねぇナ。スケベ」

「エロハゲ」

「じゃーまし、エロ豚はだまっとれ。彼女の家はわしの会社に近いンじゃ。そんで“今度日本へ来たら一緒に食事をしましょう”ってゆったら、“ほんとですか、まあ、うれしいわぁ”だって。へぇ、へへへっ…」

「おお、だらしねぇ面しゃがって。ほれ、涎さ拭げ」

と、邑中に言われると、

「えッ!」

と、施川は慌てて涎を拭う真似をした。

「オメェ、誰にでも同じことゆってるべぇ」

「そうそう、以前、コンサルティング会社の周さんにも、同じことを言ってたナ」

「周さんか、あの娘は最高。今、どうしている?」

「知るか」

「もしかしてさぁ~、峪口ぃ~、焼き餅、焼いているぅ~……」

「あンれぇ~、そうなのぉ~」

「アホッ! 二人とも糞して、寝ろッ!」


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