第五章 明の十三陵と万里の長城
一、明の十三陵
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北京の中心部から北西に約四十キロ、一時間後の十時に三人は昌平県の天寿山南麓に広がる“明の十三陵”に到着した。
タクシーを降りると、竹細工や桃、毛皮の帽子などを抱えたお土産売りにドッと取り囲まれた。
この辺りは林檎と桃の産地ということだが、気候からいって、林檎はともかく桃はおかしい。
毛皮の襟巻きや帽子などを抱えた者も多いが、使われている毛皮は猫が多いということだ。
「俺ぁ、要ら、要んねぇ。ブゥ、ブゥ、なんだっけ、峪口ぃ?」
「なんだ邑、ブゥブゥうるせぇな。ブゥヤオ(不要)だろう。は~い、帰りにねぇ。お姐さんかわいいね」
邑中は律儀に対応するので四苦八苦しているが、施川は物売りのあしらいが上手い。
「ふんで、十三陵ってなんだぁ?」
「なんだぁって、それも知らねぇのか。施川大先生、邑ちゃんに教えてあげてちょうだい」
「わしも知らん」
「なんだ、ネットで調べなかったのか」
「うん、ホテルと長城は調べたンだけど……」
「やっぱり、できねぇんだべ」
「じゃーまし」
「ああ、おっかねぇ」
「この辺りに明朝の十三人の皇帝の陵墓、つまり墓があるンだ。ここは十四代“万歴帝”の陵墓だそうだ」
「なんで、十三しかねぇのに十四代目なンだぁ?」
「何人か抜けてるんだべぇ。施川、オメェの脳ミソと同じによぉ」
「おお、賢いね。その通りだ」
「へへへっ…、ちっと考ぇればわかることだんべぇ。小っちぇ脳ミソでもよぉ」
「へいへい、おっしゃる通りでごぜます、お大尽様。ところで峪口ぃ、十三ヶ所、全部見ンのかぁ?」
施川はうんざりといった表情を見せた。
― 愚痴の多い男である。
「うんだぁ、墓場ばっかじゃしょうがあんめぇよ」
「ご安心ください、ここだけだ。十三陵と言っても、公開されているのは三ヶ所だけだそうだ。ここが一番立派なンだと」
「やけに詳しいね」
「ホテルの部屋に本が置いてあった」
「ふんなこったべぇ」
「でも、当然中国語だろう? ……、そうなンだよ、熊ちゃん」
「あんだぁ、峪口ぃ、オメェ読めんのかぁ?」
「まぁな、伊達に上海に住んじゃいねぇよ」
「ふぅ~ん、ただのアホじゃねぇな」
「なに!」
2
三人が観光客の後ろについてダラダラ歩むと、きれいに整備された赤松林が広がっていた。
そこを縦断して墳墓へ続く道は、少し登り坂になっていた。
「見事な赤松だな。それに槙柏も、いやいや、凄いよこれは……」
施川が驚嘆の声をあげた。
「“シンパク”って、なんだぁ?」
「絵に描いたような典型的な田舎モンのくせに、槙柏も知らねぇのか」
施川も峪口もすでに学生のころから木や草花に興味を持っていて、二人して山林に入り込んでは珍しい樹木や山野草を探し回ったものだ。
金がなかったことが最大の理由ではあったが、学生の趣味としてはかなり渋い方だと思う。
十分ほど坂道を登って行くと、やがて地下墳墓の入口に辿り着く。
そこで金属探知機のゲートを潜り、持ち物のチェックが済むと、地下に向かって延びる階段を下りることが許される。
ただチェックはかなりいい加減なもので、果たして、探知機自体が機能しているかどうかも疑わしい。
「ずいぶん深いようだけど、帰りもここに戻って来るのかぁ?」
施川は階段を下りながら心配げに呟く。
「早くも愚痴りの本領発揮か。安心しろ、出口は別にある。そうだなあ……、ビルの十階分ぐらいは下りることになるけど、そこから四階ほど上ると出口だ」
「わかり易い説明だ、それを聞いて安心したよ」
「オメェの脳ミソに合わせたンだべぇ。ほうか、四階ぐれぇならてぇしたことねぇ」
「突き落とされてぇのか」
「あっ、勘弁、弁勘」
「おっ、素直だな。よし、許してやる」
「オメェじゃ、ほんとにやり兼ねねぇべ」
地下墳墓はいくつかの部屋に区切られていて、皇帝と皇后の玉座や柩が安置されている。
柩の周りにはたくさんの紙幣や硬貨が散乱していた。どうやら、日本人がお賽銭を奉る感覚のようだ。
陵墓は、床、壁、天井とすべて大理石で造営された、とても見事なものだった。
寸部の狂いもなく積み上げられた壁、アーチ状に組まれた天井は、現代技術の粋を持ってしても難しいのでは、と思われる精巧なものだった。
「ああ、息が詰まってきた。わしは、こうゆう穴倉は、あまり得意じゃないンじゃ」
と、施川が訴え始めた。
「実は俺もそうだ。早く出よう」
「ふんだ、俺ぁもだ。そうするべぇ。まるで墓ん中にいるみてぇだ」
「ここは墓ん中じゃ……」
三人は出口へと急いだ。
その後、“明楼”と呼ばれる楼閣に登り、山麓に広がる広大な景色を写真に収めて、タクシーの待つ駐車場へ戻った。
再びドッと群がるお土産売りを、
「はぁ~い。今度、今度、また今度ねぇ~」
と、施川は軽くあしらって、タクシーに乗り込んだ。
「俺ぁ要らねぇってのに、ひつけぇなぁ~。お~い、峪口ぃ~、なんとかしてけれぇ~」
「邑ッ! 速く乗れ、置いてくぞ」
「ひょえーッ!」
と嬌声を発して、邑中はタクシーに乗り込んだ。
時刻は十一時、ちょうど一時間の観光であった。
二、万里の長城
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明の十三稜から約一時間、運転手の陰謀で遠回りされたが、十二時ジャストに“万里の長城”へ到着した。
「すっ、凄い……」
と言った切り、施川が茫然自失の体である。
「うんだぁ…」
と言って、邑中も声を失った。
「それにしてもトロッコというか、あれで三十元とは打っ手繰り(ぶったくり)もいいとこだ」
「うんだ、ありゃ、ひでぇ。ぼったくりだぁ」
鼻息荒く憤る邑中であった。
それで我に帰ったように、
「いやぁー、絶景かな、絶景かな。さっきの場所とは大違いだぁー」
施川が声をあげた。
「どうだ、施川、邑中。俺が言った通りだろう」
「うん、唖然、呆然、憮然……、憮然は違うか」
「うんだ。俺ぁも吃驚らこいた」
「あの運転手、どうせ知らないだろうと思って、近場へ連れて行ったンだ。以前は長城とゆえば、必ずこの“八達嶺長城”を指したンだけどね」
商魂逞しく観光地として、新しい場所をどんどん増やしている。
万里の長城は、“中国の”と言うよりも人類にとっての宝である。
エジプトのピラミッドなどとともに、最も有名な文化遺産の一つとして、当然、ユネスコによって世界遺産に指定されている。
東端は遼寧省の“虎山”から西端は甘粛省“嘉峪関”まで、その総延長距離は8,851.8kmに達する。
その長大さから“宇宙からでも肉眼で見ることができる地球上唯一の建造物”と中国の教科書にも掲載されていた。
しかし、中国初の有人宇宙船『神船5号』に搭乗した楊利偉飛行士が、“万里の長城は見えなかった”と証言したため、中国の教科書からも正式に削除された。
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「確かに峪口のゆう通りだった。正直、さっきの場所は“大したことねぇな”と思ったもの。ここは想像していた以上だよ」
「うんだ、知らねければ、あれが万里の長城だと思っちゃうモンなぁ」
「まあ、長城の一部には違いないないけど……」
「わし、万里の長城も、なんだこんなものかと思うところだった」
「うんだ、俺ぁもそうだぁ」
「ははははっ…、いや、よかった。峪口は大げさだと誤解されるところだった。“長城を見ずして中国を語るなかれ”、という意味がわかっただろう」
「うん、納得。この城壁といっていいのかな。高さも高いし幅もずっと広い。それにさっきのは新かった。最近作られたミニチュア版といった感じだったな」
「うんだ、あんじゃ、俺ぁ家の塀と変わんねぇ」
「へいへい、また自慢かよ。アンタの家は千葉の長城かい」
「ふんだぁ、村のもんはそう呼ぶ」
「はははっ…、ここのレンガは歴史を感じるだろう」
「あらら、石じゃねぇの、これ?」
「焼いたレンガだよ」
「まさに昇り龍だナ、この山の尾根を走る長城の連なりは……」
「オメェにしちゃぁ、うめぇことをゆうなぁ」
「お褒めにあずかり光栄です。庄屋様」
「なぁ~も、精々気張ってけろ。悪りぃようにしねぇから。そんうち分家させて、嫁っ子も貰ってやんべ」
「へへぇー」
「お手付きだけんど」
「ありがたいこって……、なにっ!?」
峰々を這い遥かに続く長城を見ていると、天空に駆けあがる龍の姿がイメージされる。
北京には珍しく雲一つない紺碧の空が、より一層その景色を際だたせていた。
「それにしても、この辺りには大きな木がないね」
「うんだぁ、ハゲ山ばっかしだ」
「ん、ハゲ、山……気になる言葉じゃ」
「へへへっ…、悪りぃ、悪りぃ」
山々はゴツゴツとした岩肌が剥き出しの状態でどこまでも続く。
日本のこの季節の新緑に覆われた山のイメージとは、およそ懸け離れていたた。
それほど高い山でもないのに、わずかに生えているのは潅木ばかりで、まるで富士山頂の如き様相を呈している。
「一説では、長城に使う大量のレンガを焼くために、山の木々を全て薪にしてしまったそうだ」
「へへへっ…、まさかぁ~。だって千年以上も前の話だろう。邑、これじゃ熊も住めねぇな」
「そうだな。この山肌を見ると、元々木が少ないンだろうな」
「オメェの毛も元々少ねぇんか」
「じゃかましぃ」
「はははっ…、今は初夏だから、潅木の若芽と草の緑に覆われているけど。冬はきっと凄い寂寥感があるだろうな。雪に覆われた長城も見てみたいな」
「峪口も冬は来たことねぇのか?」
「ああ、冬は道路が閉鎖されるンだ」
「冬か、雪が積もったらきれいだろうなぁ」
「まあ、来られたとしても、長城の傾斜はきついからツルツル滑るだろうな」
「そうだんべぇ。道路もツルツル、長城もツルツル、施川もツゥルツル……、と」
「どさくさに紛れやがって、わしの一番気にしていることをサラリと言いやがった」
「あっ、勘弁」
「早いナ。まあええ、許す。今日は無礼講じゃ。峪口写真を撮ってくれ。あの辺りを背景に入れて」
施川は地肌剥き出しの頭をピシャリと叩いて言った。
「おう。もうちょい右に寄って。うん、それでいい。はい、撮るよ」
「お~い、施川ぁ~、髪が乱れてるどぉ」
「じゃかましぃ。生まれた山へ返すぞぉ」
「なぁ~に、怒ってんだぁ~。今日は無礼講じゃねぇのかぁ~」
「糞っ、あのエロ豚。そうだ峪口、悪りぃけど写真はメールで送ってくれよな。社長にも見せたいから」
「これで本当の中国通になれるな」
「そうなンだよ。いくら上海へは何度も行ったことがあるとゆっても、北京、特に万里の長城を見てないと自慢にならねえもの」
「でもよぉ施川、うちの会社の連中も、長城はおろか北京へ来たことさえないのがほとんどなンだぜ。否、驚いたよ」
「確かに、上海と北京は遠いものなあ。修学旅行でちょっと、というわけにもいかねぇンだろうな」
「あんれ、北京は上海の直ぐ隣じゃねぇのかぁ?」
「熊ちゃん、あんたはほんとうにお気楽でいいねぇ。つくづく羨ましいよ」
施川が、つくづくに力を込めて言った。
「ほぉかぁ~。あんがと」
と、それを邑中は簡単に聞き流した。
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「さて、お二人さん、少しのぼってみるか。こっちが男坂、あっちが女坂。どっちへ行くか?」
男坂の勾配はきついけれど、景色は女坂よりもいいと言われている。
「もちろん好みからいったら女坂、と言いたいところだけど、きつい方にしようぜ、せっかくだからさぁ。ほら、あの見張り台みたいなところ、あそこまで行ってみよう。なあ、邑ちゃん」
「うんだなぁ、せっかくだから行ってみんべぇ」
「よし、わかった。でも、見た目よりきついぞ」
「大丈夫。わしは毎日歩いて鍛えているから、足腰には自信がある。そっちの野生豚は大丈夫か?」
「あんれぇまぁ、俺ぁのこと心ぺぇしてくれのかぁ。珍しいことがあるもんだぁ。雪でも降んなきゃいいけんどよぉ」
「まったく、憎まれ口ばっかり叩きやがって、落ちても助けてやんねぇぞ」
「大丈夫だぁ、こんくれぇな坂、俺ぁなんでもねぇ。それよっか、オメェこそ気いつけろよぉ。慌てもんだからなぁー、オメェは……」
なんだかんだと憎まれ口言い合いながらも、腹の底ではお互いを気遣っていた。
― 友達とはいいものである。
峪口が日本にいたころは施川と誘い合い、運動のためという名目で毎週土日にウオーキング、一日に十キロ以上は歩き回っていた。
しかし本当の目的が、その後のお疲れ様ビールにあることは言うまでもない。
邑中は大規模農家の跡取り息子のため、残念ながら、この楽しみには農閑期の冬場にしか参加することができなかった。
「それにしてもよぉ…、施川が昔は短距離選手だったなんて、信じられねぇなぁ。なあ、峪口ぃ」
「そういえば、走る姿を一度も見たことないな」
「うんだべぇ、高校んとき二年間一緒だったけんど、見た記憶がねぇ」
「へへへっ…、能ある鷹は爪を隠すってナ」
「能ある豚は臍を隠すの間違げぇじゃねぇかぁ」
「なんじゃそら」
「あれぇ、オメェら家の方じゃゆわねぇかぁ? なあ、峪口ぃ~」
「聞いたこともねぇよ」
「わしはこう見えても、千葉県のベストファイブだ。もっとも中学ンときだけどナ」
「噂にも聞かなかったなぁ。峪口ぃ、オメェは聞いたことあっか?」
「わしは槲中だったからな。竜北の陸上部に……た、田村、って奴がいたろう、長距離の」
「あ、ん、田村? いたいた。あのワルだんべぇ」
「そうかぁ…、俺は結構仲が良かったけどなぁ。根は好い奴だったよ」
「ふんだってオメェ、ヤクザんなった関根たちと便所でタバコ吸ってたんべよぉ」
「確かに、俺も何度か注意したことがあるよ。あいつは市内でも一、二を争う有望な選手だったからな」
「ああ、確かに速かった。うちにも全国レベルの奴が一人いたけど、そいつと比べても遜色がなかった」
「ふんじゃあ、あれは、あれ、アンベのことは知ってっか?」
「アンベ?」
「阿部だろう」
「おっ、さすが通訳。短距離の奴だろう。わしの相手じゃなかった。わしは十二秒を切っていたからナ」
「十二秒って、五十メートルかぁ?」
「アホッ!」
「俺ぁ自慢じゃねぇけんど、十七秒台だった」
「自慢になるかよ。幼稚園児だって、もう少しはマシだろう」
「でもさあ、施川。一度、訊こうと思っていたンだけど、なぜ陸上を止めたンだ?」
峪口は常々疑問に思っていたことを口にした。
「まあ、強いて言えば、限界を感じたってことかナ。わしはこの身長だろう。百七十ねぇから……」
「確かに短距離走者ってのは、皆凄い体格をしているよな」
「うんだぁ。ていげぇ黒人でゴリラみてぇな身体だ」
「だろう、せめて百八十はないと中学じゃ通じても、高校や大学じゃムリムリ」
「続けていれば、身長が伸びたかも知んないだろう」
「いや、わしの家系じゃ、そうは伸びないよ。親父もお袋も七十ないもの」
「そうか、そうゆうことか……」
施川の実績なら、スポーツ系の高校からかなり誘いがあった筈だ。
それを振り切って普通高校に進学したのだから、しばらくは後悔もあったであろう。
峪口も肩を壊して野球を断念した経験を持っていたので、施川の悔しさがよく理解できた。
そこで殊更明るく峪口は、
「高校で出合ったときには既に面影もなかったけど、今はもう、なんというか」
と茶化すように言った。
「また、それをゆう。これでも気にしてるンだから、この腹の出っ張り具合と頭には……。でも、邑中の腹を見ると安心するよ」
施川はポンと腹を叩き、頭をツルッと撫ぜあげた。
三、落書きは恥掻き
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「それにしても、凄い数の観光客だナ。外人さんばっかりだよ。あの太った白人のおばあさんも上まで行って来たのかな?」
脇を通り過ぎた白人のおばさんの偉大なお尻を、施川は魅入られたように見詰めていた。
「だろうナ。どお、自信がついたかい?」
「まぁ~ね、でもきつそう」
「施川さん、もう弱音かい。まだ、百メートルものぼってないぜ」
「へへへっ…、かぁ~るい、かぁ~るい」
と呟きながら邑中は、体形に似合わない軽やかな足取りでのぼって行く。
「いやぁ、見た目よりきついわぁ。この角度、四十度以上あるだろう。糞っ、それにしても、なんであの豚のような男が……」
「あいつ本当に軽やかだなぁ。やっぱり、俺たちとは鍛え方が違うンだろう」
「農業は重労働だからナ」
「施川よぉ、これでもこの辺はまだ楽な方なンだぜ。ほら、あそこから先は段がないだろう。階段になっていないと、滑り落ちそうで足を踏ん張るから、余計に負担も大きいンだ」
階段になっていればまだのぼり易いのだが、急勾配の上にレンガは鈍い光を放つほど磨り減っている。
滑るのではとの不安が大きく、知らず知らずのうちに足を踏ん張る。
「わし、あの山の上までは無理だワ。手前の見張り台までにしようかなぁ…」
「せぇ~かい。あそこまで行った、今度は下りるのが大変だよ。足がガクガクして、押さえが効かなくなるからね」
二人の脇を喧しく通り抜けて行く観光客の群れ、擦れ違いザマ、耳に様々な国の言葉が飛び込んでくる。
「それにしても白人は太目の人が多いねぇ。よくあれでのぼれるよなぁ」
「そうだな、平地を歩くだけでもしんどそうだ」
施川と峪口は、予定した地点のほぼ中間点と思われる見張り台に辿り着いた。
「ふぅ~、……やっと着いた。息があがっちゃった。あ~あ、いい風だ。ここで少し休もうよ。ここは見張り台だったのかな?」
「恐らくナ。ここで兵隊が寝泊りしていたンだろう。冬は寒かったろうなぁ。あッ! おいっ、駄目だよ、そんなところに座っちゃ。警備員が飛んで来るぞ」
「えッ! だ、駄目なのか。やばい、やばい」
施川が慌てて立ち上がった。
「あっははは……、冗談、冗談」
「ああ、吃驚した。だろう、おかしいと思ったンだよ。皆座っているのに」
「はっははは……、でも文化財だからナ。こっちの人は、こういった文化財をあまり大切に考えないンだ。まあ、日本の若いモンも同じだけど」
「いっぺぇ有り過ぎるんだべぇ」
「一理ある。中国は文化財の宝庫だからナ」
「それにしても……そういえば、レンガに名前とかいろいろと彫ってあるナ。どこの観光地も同じだ」
施川が呆れたように言った。
「よくこうゆう場所に名前を彫るよナ。住所まで書いているアホがいる」
「そうそう。恥の上塗りだ。おい、峪口ぃ、日本人の名前もあるぞ。なになに、さ・と・う、あ・き、ん? 最後が読めないよ。大阪だって、アホだねぇ」
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「ふーう、この窓から吹き込む風、気持がいいなぁ。写真撮ってやるよ。施川、こっち向いて」
「おう、サンキュウ、サンキュウ。……ん? おい、見ろてみろよ。邑中の奴、もうあんなところまで行っちゃった。やっぱり野生育ちは違うナ」
「本当に元気だなぁ、でも帰りが大変だぞ。あいつ、大丈夫かな」
という心配を他所に、邑中が振り返って二人に手を振っている。
「ここで待とう。俺、友達に電話するから休んでいてくれよ」
「友達? 日本人?」
「いや、中国人だ」
峪口は、上海に駐在する前からの友人で、北京在住の段建筆に電話を入れた。
突然の電話に驚いた段であったが、夕食を共にしようと申し出た。
そこで峪口が、
『今日は北京ダックの“全聚徳”を予定している』
と伝えると、
『それでは私がご招待します。予約はまだでしょう、それも私がやっておきます』
と段が言ったので、峪口はありがたく受け入れた。
「さて、そろそろ行くか。と、邑中がまだだった」
「くくくっ…、見てみろよ、あの恰好」
「ん? あはっ、あっはははっ…、なあ、俺が言った通りだろう。下りはとても怖いンだよ」
邑中は、手擦りとして張られている鎖へぶら下がるようにして、尻を突き出し慎重に歩を進めている。
「おうおう、さすがの野生児もビビっているワ。あれじゃ、しばらくかかりそうだナ。ちょっとからかってやるか」
「おい施川、止せよ。転げ落ちるぞ」
「そうだ、その方が早い。おーい、ころがれぇーッ! グズグズしていやがると、置いてくぞぉーッ!」
「うん? ……おい施川、“助けてぇ~”って、聞こえないかぁ?」
「……あっ、ほんとだ。あいつ、動けねぇンだ」
「しかし、助けるっといってもなぁ。まさか、オンブするってわけにもいかねぇし……」
「ったく、しょうがねぇデブだナ。とにかく、あそこまで迎えに行こう」
「やれやれ……」
邑中は腰を抜かした状態で、坂の途中で竦んでいた。
そんな邑中を、峪口と施川は両脇から挟み込むようにして、なんとか見張り台まで下ろした。
3
「ふへぇ~、ああ、えがったぁ。ふ~う……」
「なにが、えがったぁじゃ。まったくもう、迷惑ばっかりかけやがって。ちったぁ反省しろよ、空気デブ。今日の晩飯も奢りだぞ」
「うん、わかった」
「よしよし、すっかり大人しくなったな。でも、今日の夕飯は高けぇぞぉ。なにしろ北京ダックだからナ」
「嘘だんべぇ、昨日だって安かったべよぉ」
「ところが、今日は“そうはイカのおチンチン”ってわけだ。なあ、峪口ぃ。くくくく……」
「うんだぁ」
「ほら邑中君、脂汗が出ているぞ」
「なあ、峪口ぃ、ふんとかぁ?」
「なぁ~にがぁ~?」
「だから、あれだんべよぉ、アヒルはほんとに高けぇのかぁ?」
「家鴨とは言っても、なにせ高級料理の“烤鴨”だからナ」」
「御大尽の邑中和年様がミミッチイこと言うなよ。ん? 峪口ぃ、今なんてゆった? 顔が焼けた……」
「北京ダックを烤鴨、つまり鴨の丸焼きと言うンだ」
北京では珍重される北京ダックだが、上海人はあまり興味を持っていない。
「うんだなぁ…、精々二、三万だよ」
と峪口が応えると、
「なぁ~んだ、ふんなもんか。なら問題ねぇ」
とホッとする邑中に、
「人民元だぞ」
と施川が追い打ちをかけた。
「ん? ふんだと、日本の銭でいくらだぁ?」
「十五倍すればいいンだろう。なあ、峪口ぃ」
と言って片目を瞑った。
「うんだぁ」
「ふ、ふんだと、さ、三十万円。カード使えっかぁ?」
「なにっ、払うつもりか」
「ふんなわけ、ねぇべぇ。俺ぁだって、そこまでアホじゃねぇよ」
「はい、漫才はそこまで。さて、そろそろ行くか?」
と、峪口が言うと、
「上? 下? 下?」
施川が上を一度、下を二度指し示した。と邑中も、
「もう、帰ぇるべぇ」
と直ぐに同調した。
「なんだ、二人とも、もう参ったのか。いいですよ、施川さん、邑中さん。仰せにしたがいましょう」
峪口も内心では助かったと思った。
「た、峪口ぃ、せ、施川ぁ。さっきみてぇに、両側を押せぇてくれぇ」
「甘ったれるな、バァ、タレ」
「いいべよ。なあ……」
邑中が情けない声をあげた。
三人は鎖を伝いながら、慎重におりだした。
側を物売りの人たちが、両手に荷物を抱えたまま飛ぶようにおりて行く。
四、お土産買うにはどうすんだ?
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「邑中、施川……、見ろよ、あの連中」
「いってぇ、なんだぁ、あの連中は? 人間離れしているべぇよ」
「あんたには言われたくないだろう、あの連中も」
「いくら慣れているとはいえ、わしらのこの姿、なんか恥ずかしくなるな」
三人は屁っ放り腰で、しかも手擦り用の鎖に噛り付くようにして、慎重に、慎重にと歩を進めていた。
ようやく出発点に辿り着いた施川が、
「いやぁー、着いた、着いた、やっと着いた。太腿がブルブル震えてる」
と、安堵のため息をもらしながら、太腿をパンパンと叩いた。
「俺ぁもだ。ああ、もう駄目だぁ。そこへ座るべぇ」
と言うよりも早く、邑中はその場に座り込んでいた。
「おい、そこは邪魔になるから、こっちへ来いよ」
「ああ、駄目だぁ。俺ぁもう動けねぇ。そっちへ連れてってくんどぉ」
「こら、甘ったれるなッ! こっちもそれどころじゃねぇんだからナ」
施川の一喝に、邑中は這いずるようにして壁際に移動して来た。
峪口もへたり込むようにして壁際に腰を下ろした。
すると、隣に腰を下ろした施川が神妙な表情で、
「お陰で一生の記念になった。峪口、ありがとう」
と、珍しく真面目な表情で礼を言った。
「俺ぁも、サンチュウ」
「なにが、サンチュウじゃ」
「ふふふふっ…、そうか、二人に喜んでもらえれば、俺も嬉しいよ」
峪口も真顔で言葉を返した。
「ところでわしゃ、なんかお土産でも買おうかナ」
「俺ぁも、なんか買うべぇ」
「土産ねぇ…。おっ、あれなんかどお、レリーフ?」
その辺りには、広げた布に商品を並べた土産売りが、ずらりと並んで観光客の袖を引いていた。
「へーえ、石版に自分で彫って売っているンだ。うまいモンだなぁ」
「ふんとだ、うんめぇもんだ。ふんで、いくらだぁ?」
「訊いてみろよ」
「んでもよぉ、俺ぁ、中国語できねぇべよぉ」
「大丈夫、日本語でも英語でもわかるから」
「くくくく……、邑中の日本語じゃ余計にわからねぇだろう」
施川が茶々を入れる。
「ええご、で訊いてみんべぇ」
「ええご、ってなんだ?」
「ええご、じゃねぇよ。ええごだよぉ」
「…………?」
「まあ、なんでもいいから訊いてみろよ」
邑中は石版を彫っている男の前に屈み込み、何事かを囁くと直ぐに立ち上がり、二人の許へ戻って来た。
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「どうした、通じたか、ええご?」
「ええご、じゃねぇってばぁ。エエティだって」
「いてぇ? 峪口ぃ、悪いが通訳してくれ」
「恐らく八十元? どうだ、邑中?」
「うんだ」
「さすがに付き合いが長いだけのことはある。うん、てぇしたモンだよ、君たちは」
峪口と邑中は小学校を通り越して、保育園からの付き合いである。
「ははははっ…、まさかドルじゃないだろう。人民元ならだいたい、千円といったとこだ」
「知ンねぇ」
「知ンねぇって、おまえさんねぇ…。豪い違いだよ、元とドルじゃ」
「どっちだっていいべ、精々一万円かそこらのもんだべぇ」
「さすが大庄屋様は違うねぇ」
「ドルなら、ええと、一万円で。元なら千円か、千円なら安いかもナ」
「ただみてぇだ」
「へいへい……、それはようござんしたね」
「施川さん、安くはないよ。八十倍すると、だいたい中国人の金銭感覚と同じになるンだ」
「八十倍か。ちゅうことはダ、ハッパ六十四、六千四百円か。高っけぇーッ!」
「だろう。日本の観光地で、あれが六千四百円だったら、買う?」
「ぜってぇ買わねぇ。村の氏神様に誓って、ぜってぇ買わねぇ」
六千円と聞いて、邑中もはっきりと断言した。
「わしも絶対買わん。そういえば以前、中国で買い物するときは、半分に値切れって聞いたことあるナ」
「それは街中、こういった観光地では五分の一、十分の一で十分だ。十元って言ってみろよ」
「十元って、八分の一!?」
「怒らんねぇか? それによぉ、あんまり安いと悪かんべぇ」
「誰にじゃ、誰に悪いンじゃ。邑ちゃん、君は好きな値段で買ってあげなさい。よし、わしが行ってくる。十元だナ」
施川の顔が少し緊張して見える。
「うん、そのあたりから始めればいいよ」
「よっしゃーッ!」
と気合を入れて、施川は土産売りの前に屈み込んだ。
「俺ぁも行ってみるべぇ」
「駄目だって、四十元だってサ」
と、施川が峪口を振り向いて頼りなげに言った。
「でも直ぐに半額になっただろう。十元なら二つ買うって言ってみろよ」
「ふんとだぁ、半額だ。おもしれぇナ、俺ぁもやってみるべぇ」
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施川と邑中は土産売りのところへ戻り、再び身振り手振りで交渉を始めた。
「駄目、駄目だってぇ。でも、三十元ってゆってる。三十元なら買おうかなぁ」
「ふんとだ、ふんとだ。もうこれ以上は無理だべぇ。臍曲げられたら困るどぉ。もうよかんべぇ」
邑中の鼻息が荒い。
「いいから、いいから、まだまだ。要らないって言って、帰る振りをしてみろよ」
「そうか。よぉーし、じゃあ、もう一回挑戦だ」
二人はもう一度土産売りのところへ向かった。
「おおーッ! 二十元でいいだってぇ!」
施川が振り向いて、叫びながら峪口を手招きした。
「そう、じゃあ、いいンじゃない。言い値の四分の一になったわけだ」
「うーん……。でも、なんだか欲しくなくなってきちゃった。それに、荷物になりそうだしぃ……」
「ふんだなぁ。俺ぁ、十枚も買うべぇと思ったけんど、これ石っコロだんべぇ」
「ふふふっ…、じゃあ、帰るか?」
「うん。帰ぇるべぇ、帰ぇるべぇ」
「いや、ついでだから、こっちものぼってみようか。なあ、邑ちゃん」
「俺ぁ嫌だぁ」
「施川、あんた本気かい? まあ、そうそう来られるとこじゃないからナ。行くなら付き合うけど。でも、大丈夫かよ?」
「ああ、休んだら、元気が出てきた」
「なんだぁよぉ、ほんとに行くんかぁ? 俺ぁ、くたびれたぁ」
「あったりまえだのコンコンチキ……」
「それゆうンなら、クラッカーだんべぇ」
「君たちも古いねえ。ほらほら、土産売りが追いかけてきた。十元でいいってさ。どうする、買う?」
「わしはもういいわ。なんだか、価値がないような気がしてきた。それに重いから止すよ」
「あとで後悔するなよ」
「俺ぁ、やっぱし買うべぇ。ちょっと待っててけろ。峪口ぃ、一緒に来てくんどぉ」
結局邑中は五枚購入し、百元を出して釣り銭はチップとして渡した。
「おやおや、一体なんのために価格交渉をしたンだか……。ところで施川はいらねぇのかぁ?」
「それ一枚、わしにちょうだい」
「駄目だよぉ~、これは親戚への土産にすんだから。自分で買ぇよぉ」
「いやはや、太っ腹なンだか、ケチなンだか、わけのわからん男じゃのぉ」
施川が呟いた。
「ケチンボはオメェだんべぇ」
「へいへい。それにしても、あれが十元で儲かるのかねぇ…」
「儲かるはずだよ。それに、中には言い値で買う人もいるはずだからね」
「なるほど、そうか、それならぼろ儲けだ。一体原価いくらなのよ?」
「さぁな。でも、儲からなければ売らないだろう」
「ふんでもねぇ。百姓はよぉ、原価割れでも売らなきゃなんねぇときもあるンだ」
「その代わりあれだろう、バカ高く売れるときもあるンだろう? 以前、税務署に目をつけられたことがあったじゃないか」
4
「施川、オメェ、つまんねぇことはよく覚えてんなぁ。肝心なことは直ぐ忘れるくせによぉ」
「ひと言多いンじゃ」
「家の祖父さんも言ってたよ。百姓仕事は博打みてぇなもんだ、三年に一回当たれば喰えるってナ」
「ふんなこたねぇよ、最近は当たんねぇもん。百姓もてぇへんだぁ」
「その割には良い車乗ってるじゃねぇか。十元……、ちゅうことは八百円か」
「そうそう、施川。八十倍、八十倍」
「納得、納得」
「十元は十元だんべぇ」
「へいへい、あんたが正しい」
百メートルほど女坂をのぼったところで、邑中が“もう帰ぇるべ”と言い出したので、峪口が施川に、“もう帰るか?”と確認すると直ぐに同意した。
それで三人は帰途についた。
運転手は近場の長城で騙そうとした詫びのつもりか、それともチップ目当てか、他の観光地に廻ってもいいとゆう申し出を峪口は断わった。
駐車場を出るのに時間がかかった所為で、ホテルまで二時間半ほど要した。
車は我先に駐車場の出口へと殺到する。
そのうえ、直ぐに車が一台しか通れない狭いトンネルが口を開けて待っていた。
その所為で、そこを抜け切るまで大混雑をきたす。
それでも以前と比べるとずいぶん改善されたが、こういった場面では、まだまだ“譲り合う”という感覚に乏しい国民性が顔をのぞかせる。