第四章 詐欺師談義
一、早朝に不審な人影
1
二日目、六月三日……、
峪口は朝の五時に目が覚めた。
日本にいたときから早起きだったが、上海に赴任してから益々その傾向が強まっている。
峪口は朝食までにはだいぶ間があったので、ホテルの周辺を散歩することにした。
まだ明け切っておらず闇が覆っていたが、北京の中心に程近い場所なので、不安はまったく感じなかった。
だがしかし……、
王府井大街(大通り)を百メートルほど進むと、突然日本語で、
『おはようございます。日本の方ですか?』
と、日本語で声をかけてくる者がいた。
闇の中からの声に驚き、視線をまだシャッターの下ろされた商店の方に向けた。
薄暗い街灯の明かりを頼りに透かして見ると、二つのおぼろげな人影が浮かびあがった。
立ち止まって怪訝な視線を向けると、一つの影が歩み寄って来る。
・・男、だ・・
街灯に照らし出された男の服装は整っており、しかもネクタイを結んでいる。
そして、その男はにこやかに、
『お散歩ですか?』
と問いながら近づいて来る。
峪口もその服装に安心し、
『おはようございます』
と丁寧な挨拶を返していた。すると男は、
『私は趙天明といいます。画家です』
と、自己紹介を始める。
すると、もう一つの影も近づいて来た。
女性である。
趙と名乗ったその男は、
『私の妻です』
と、女性を紹介した。
このとき峪口は“なにかおかしい”と感じながらも、二人の親しみのこもった笑顔と流暢な日本語に、少し気が緩み始めていた。と男は、
『王府井ホテルにお泊りですか?』
と、峪口に訊いた。
峪口は少し照れながら、
『いいえ、裏の方の汚いホテルですよ』
と正直に答えた。
すると男はホテル名を言い当て、
『あのホテルは、見かけはあまり良くありませんが、地元では評判がいいンですよ』
と媚びるようなことを言う。そして、
『ロビーに油絵が掛かっていたでしょう?』
と訊いてくる。
峪口は定かではないが、言われてみれば絵があったような気もした。と、
『あの絵は私が描いたものです。なかなか良い絵でしょう?』
男が追い打ちをかける。峪口は、
『ええ、まあ……』
と生半可な返事を返した。すると、
『私は芸術大学の教授です。上野の美術学校から招待されて、今度日本で展覧会をすることになりました』
『は~あ? 上野の……、美術学校……?』
空はようやく白み始め、二人の顔形もはっきりと見て取れるようになっていた。
女性も清楚ないでたちをしており、それなりの人たちに見えないこともない。
峪口の疑念にお構いなしに、男は話し続けた。
『木更津の美術館、ご存知ですか?』
峪口はこのとき既に、
― これは明らかにおかしい。
と確信を持っていた。
なぜならば千葉県出身の峪口は、木更津という場所をよく知っている。
2
『で、私にどんなご用ですか?』
峪口は少しつっけんどんな言い方をした。
と、その男は女性を指差し、
『ここに私の描いた絵があります。これを買っていただけませんか? 実は、日本へ行くのに日本円が必要なのです。中国ではまだ、自由に外貨に換えられないのです』
と言って男は、女性から桐の箱を受け取ると、それを峪口に手渡そうとする。
峪口は受け取るのを拒否するように手を引っ込め、
『結構です。要りません、要りません』
と激しく手を振った。
『まあまあ、そう仰らずに、とてもいい絵ですから。一万円でいいよ』
と急にぶっきら棒に言って、なおも箱を押し付けようとする。
『お金は持っていませんよ、散歩中ですから』
と拒絶しても、
『ホテルまで行きます』
と食い下がってくる。
峪口はそのしつこさに、少々腹立たしくなって、
『要りません!』
と声を荒げた。すると男は、
『三千円、いや、千円でもいいよ』
と食い下がってくる。
峪口は最早これまでと、
『要らないと言ってるでしょう! はい、さいなら』
と背を向けて歩き出した。
後ろでなにかを叫んでいる様子だったが、振り返りもせずに、峪口はどんどん歩を進めた。
・・なにが上野美術学校だよ、いつの時代の話しだ。木更津の美術館……、フン、もっと気の利いた嘘をつけってンだ、ったく。朝から気分が悪くなった・・
峪口は、独り言を呟きながら歩き続けた。
一時間ほど散歩してホテルに戻るころには、すっかり明るくなっていた。
早足で心地良い汗をかいたお陰で、詐欺師との遭遇による不快感はきれいに拭い去られていた。
一年後に上海で同じ手口の詐欺師に出会ったときは、怒りよりも先に滑稽さが込み上げてきたものだ。
3
その日も快晴、絶好の観光日和である。
朝の九時丁度、朝食を済ませた一行は、昨日予約しておいたタクシーで観光に出発した。
峪口は早朝の出来事を施川と邑中に話して聞かせた。
「そ~お、そんなことがあったンだ。それにしても、上野美術学校に木更津じゃあ、千葉の人間は騙せねぇよな」
「ふんとだぁ、運のねぇ兄ちゃんだ。まさか、峪口が千葉の田舎モンだとは思わねかったべぇ」
峪口と邑中は先祖代々の千葉県人で、施川も、生まれは北陸ながら育ちは千葉県だった。
車中の三人は、しばし詐欺師談義に花を咲かせた。
「上海でこんなこともあったよ」
と、峪口が或る体験談を語り始めた。
「今日のように出社前に散歩をしていたわけだ。で、交差点で信号待ちをしていたら、男が近づいて来て、“ニホンジンデスカ?”って訊かれたンだ」
「中国語でかぁ…」
「いや、日本語だ。ちょっと怪訝には思ったけど、話しかけてきたのが中年の男で、もう一人はお爺さん、それと若い男だった。それで田舎から出て来た家族が迷子にでもなったのかな、と推察したわけだ。まあ、冷静に考えてみればおかしいわな」
「あんでぇ?」
「日本語で、ってことがおかしいだろう」
「あんでぇ?」
「峪口、放っておけよ。それで……」
「それで俺はなんの疑いもなく、“はい、そうです”と応えた。三人とも人柄の良さそうな顔立ちで、服装は質素だったけど小ざっぱりとしていたしね」
「あんでぇ?」
「うるせぇーッ! 黙って聞けッ!」
「ははっ…、声をかけてきた男が老人と若者を順番に指差して、“俺の親父だ、こっちは息子だ”と紹介するわけよ。二人とも俺に笑みを浮かべて挨拶したから、俺もにこやかに挨拶を返したよ」
「ほんで?」
と、今度は邑中が話の先を促す。
「するとその男が、“俺は日本人が大好きだ”とか言い出すわけ。“あれ、なんだいったい?”道でも尋ねられるのかと思っていた俺は、少し戸惑った」
「そうだよなぁ、いきなり日本人が大好きと言われてもなぁ……」
「うんだ、気持悪りぃべぇ」
邑中がおぞましい、といった表情を浮かべた。
「だろう。そしたらその男がいきなり、“これおまえにやる”って言って、その爺さんから桐の箱を受け取ると、俺に押し付けようとするンだ」
「また桐の箱かぁ…」
「桐箱ってゆうと、なんとなく有り難味があるよな。中身はともかくとして」
「まあ、それでピンときた」
「ふんだべぇ、そんでピンとこなきゃアホだぁ」
「はいはい。でも、いきなりこれをやると言われたって、“はい、ありがとうございます”ってわけにはいかねぇだろう」
「そりゃそうだ。まあ、この熊男なら別だが……」
「俺ぁなら、貰って逃げるど」
「はははっ…、邑中にゃ敵わんな。しばらく押し問答した挙句、あまりにしつこいから根負けしてとうとう受け取っちまった」
「なんだよ、受け取ったのか」
「やっぱりアホだ」
「はいはい。で、まあ、礼を言って立ち去ろうとすると、その男、なんて言ったと思う?」
「あんで、直ぐ逃げねぇんだぁ」
「へいへい。……一万円出せ、か?」
「ははっ…、まあそんなもんだ。但し、千円くれだったけどな」
「おやまあ、なんとも慎ましい詐欺師だこと」
「一瞬千円ならと思ったけど、少し頭に来てたから、爺さんの方へ箱を突っ返して、“ふざけんなッ!”って怒鳴って、その場を離れたけどね」
「まあなんだ、峪口もいろいろと経験しているなぁ。それなりに苦労はしているンだ」
「うんだ、うんだ。オメェもてぇへんだなぁ」
「ははははっ…、それなりに、はないだろう」
「へへへっ…、今度はふんだくって逃げろよ」