第三章 食と欲
一、火鍋の“東来順”
1
峪口は記憶にしたがい、向かって左側の時計台を目標に進んだ。
「当ったりぃ! ここだ。東来順、東来順、と」
「ふぅ~ん、なかなかいい雰囲気だじゃん」
「うんだ。中々のもんだぁ」
店の正面に立った施川と邑中は、そこでも峪口に記念写真を撮れと強要した。
「だろう……隣は、北京ダックで有名な“全聚徳”の支店だ。明日行くからな」
「ほんとぅ~、楽しみぃ~。実は、まだ、食ったことねぇンだよ、わし」
「俺ぁ、食ったことあんど。んでも、うまぐねかった、肉が臭くってよぉ。ありゃアヒルだんべぇ?」
「まあ、君たちのその思い込みも明日になれば引っくり返ると思うよ。ということで、さて、予約なしだけど入れるかな? 人気があるンだよ、この東来順は。訊いてみるから、ちょっと待っててくれ」
「なんだぁ、予約してねぇのか。段取り悪りぃなぁ」
「まあ、そうゆうなって。峪口もなにかと忙しいンだから、冬眠中の君と違ってよ」
「うんだなぁ、上海じゃ日本人は独りだんべぇ。あのアホしちゃ、よくやってる方だんべぇ。ん? 俺ぁがどうしただとぉ?」
「否、野生動物のことはどうでもいい」
「ほうかぁ…」
「なかなか大変らしいぞ。大阪の連中はどうしようもないようだし。ずいぶん意地悪されているみたいだ。それに、出向元にも足を引っ張る輩がいるらしい」
「ふ~ん、四面楚歌だなぁ…」
「邑ちゃん、難しい言葉知ってるじゃないか。うん、おりこうさん、おりこうさん」
「そうかぁ…、普通だんべぇ。えっへへへっ…」
邑中と施川がそんなやり取りをしている間に、峪口は明の時代の衣装に身を包んだ予約係りの小姐に、
〔予約はないが入れるか?(北京語)〕
と訊ね、
〔はい、まだ時間が早いので大丈夫です〕
との回答を得た。
「よかった。まだ時間が早いから、大丈夫だって」
「ほうか、えかった」
「うへぇー、中は広いンだぁ。入口は狭いけど、奥が深い。まるでわしのようだ」
「あんだって?」
店内は六分の入り、といったところか。
「へへへっ…、聞こえたぁ?」
「いやー、吃驚らこいたぁ。まるで懐の深けぇ、俺ぁみてぇだ」
「冬眠用の穴倉かぁ」
「はっははは……、従業員の教育も良くできている。さすがに老舗だけのことはある」
峪口は、いくら教育しても向上しない自社の従業員と比較して、東来順の小姐たちのサービスに感心した。
「へーえ、これ、シャブシャブの鍋と同じだな。この煙突みたいので火力を調節するンだよな」
「最近はガスが多いけど、ここは炭火を使っている。俺が適当に注文するけど、いいだろう?」
「オメェに任せっから、ドンドン頼め。今日は俺ぁの驕りだぁ」
「邑ちゃんは太っ腹、ただの空気デブじゃねぇな」
「空気デブは余計だんべぇ」
「否、悪いねぇ。もっとも、施川がいくら食っても、大したことはないから、安心していいよ」
「ふんとかぁ?」
「ふんとだぁ」
2
火鍋は、運ばれてきた薄切りの羊肉をシャブシャブの要領で湯がき、胡麻ダレをつけて食する。
ひと口食った施川が、
「これ、本当に羊かよ! ぜーんぜん、臭みがねぇ、これならいくらでも入るわ」
と、驚きの声をあげた。
羊の肉は凍らせて薄く削り取るので、クルットと巻かれて筒状になっている。
それを山形に綺麗に積み上げて出て来る。
施川の反応に、邑中も恐る恐る箸をつけた。
「おっ、ふんとだぁ、うんめぇー!」
「おうおう、“うんめぇー”だと、熊が羊になった」
「はははっ…熊が羊か、そいつはいいや。ところで、このタレがうまいだろう。胡麻ダレに、ほら、沖縄にあるだろう豆腐を腐らせたような、サイコロ状のやつで、臭いけどこくがあって、そうチーズみたいなの」
「豆腐ヨウだろう」
「そうか、施川はよく沖縄に行っているものな。それを加えてある。これも入れてみなよ」
「なんじゃこりゃ…。うっ、くっせぇー」
と言って邑中の鼻先に近づけた。
「ふんとだぁ…、なんの臭いだんべぇ…」
「へへっ…、香草と言ってナ、この独特の香りを嫌う人も多い。ほれ、施川も知っているだろ、うちの会社の鈴木」
「おお、知っとる。スケベな男だろう」
「やっぱり、類は友を呼ぶってゆうべぇ」
「邑中と猪みてぇなモンか」
「猪? あんでぇ…」
「中国では豚の意味だ」
「そうか」
「……? あいつなんて、ほんの切れッ端が入っていても、食器も換えろと大騒ぎだ」
「ところで施川ぁ、オメェ~、なにしに沖縄へ行くんだぁ? また、これだんべぇ……」
邑中が小指を立てた。
「バァ~カ、日ごろの心の疲れを癒しに行くンじゃ」
「あへっ…、なんが、心の疲れだ。毎日会社で、ヘロヘロやってるだけだんべぇ」
「おっ、よく知ってるねぇ熊ちゃんは。じゃーまし、黙って喰ってろ。どれどれ……、なぁるほど、独特の香りがあるな、これ。で、これを?」
指で揉んだ香草の葉を一枚、施皮は鼻先に近づけた。
「千切ってゴマダレに入れるだけ」
「こうか。……本当だぁ、味が引き締まった。わしには全然問題ねぇよ、この香り」
「ああ~、俺ぁは駄目だぁ」
と言って、邑中はテーブルにペッと吐き出した。
「あっ、きったねぇ。猪と書いて豚」
「邑中、一緒に喰った方がいいらしいぞ。山葵と同じで、食中りを防ぐ効果があるみたいだから」
「ふんじゃぁ、羊を喰うと中るのかぁ?」
「あ、いや、ほら、初めての食べ物だろう」
「俺ぁ、滅多なことじゃ中ンねぇ」
「君の場合、腐ってグジュグジュになった肉を生で食っても中らねぇよ。今気がついた、君には“食”よりも“喰”の漢字が似合う」
「こんどオメェにも“喰”らわしてやんべぇ」
「ありがと、楽しみにしているよ」
「うん。……あれ、おもしれぇなぁ」
邑中が他の客席を指差した。
3
「ん?」
「ほぅれ、あれ?」
「……お茶、だろう?」
「そうそう、うまいもンだろう」
「あ~んなに長げぇジョウロ、俺ぁ見たことねぇ…。一メートル以上あんべぇ?」
「ジョウロじゃなくて、ジョウゴ(漏斗)だろう」
「俺の家でも漏斗をジョウロと呼んでたな」
「ふんだべぇ」
「わしは都会人だからわからん」
「なんが都会人だ。水飲み百姓の小せがれがぁ」
「あらぁ~、なんで知ってるのぉ~」
「あっ、熱っちいだと」
隣の客席の白人が声をあげた。
「おっ、邑ちゃん、英語がわかるのか」
「アッチイってゆったんべぇ」
「熊語か」
「ははははっ…、お湯が飛んで来ることもあるけど、まあ、それもご愛嬌だろう」
「施川は面の皮が厚いから大丈夫だんべぇ」
「自慢じゃないが、その分、頭の皮が薄くできてる」
「どこから頭だぁ…」
邑中が施川の頭に視線を投げかけた。
「ここから上じゃ。じゃかまし、余計なお世話じゃ。その無駄な体毛、毟ってやろか」
「ふんで、そのオデコだか頭だかへ貼り付けるかぁ」
「ウダウダと、絞め殺されてぇのか」
「あっ、弁勘、ベンカン」
「ん?」
「ビールの方がいいだろうと思って、お茶は頼まなかったけど、頼んでみる? でも、タダじゃないよ」
「あんだぁー、お茶で金取ンのかぁ?」
「中国じゃ普通だよ。このお手拭だって十元だもの」「んじゃ、俺ぁ要ンねぇ」
「要ンねぇと言われてもなぁ…、どっちにしても金は取られるよ」
「ふんじゃ、詐欺だんべぇよ」
「詐欺ときたか、エロ豚にかかっちゃ敵わねぇな」
施川が呆れたように言った。
「日本ではどこでも、当たり前の如く水やお茶が出てくるけど、中国ではほとんどが有料なンだ。水なんてビールより高い」
「ふんじゃ、うっかり頼めねぇべ」
「黙ってビール飲んでりゃいいの」
「うん、わかった」
三人は“九尾羊”と呼ばれる、ブランドの子羊の肉をたっぷりと堪能した。
「どう、満足してくれた? どう、追加する……」
「いや、わしはもう十分。満足、満足。なあ、熊?」
「うん。俺ぁも、もう、腹いっぺぇだ」
「そうか。……ところで、本当にご馳走になっちゃっていいの、邑中さん?」
「峪口ぃ、本人が出したがっているンだから……」
余計なことは言うなとばかり、施川が制した。
「当たりめぇだ。ふんで、いくらだ? 俺ぁ、一万円だけっか替ぇてねぇけんど、足りっかぁ?」
「二百八十五元、だそうだ」
「ふんで、二百八十五元てのは、いくらだぁ? ……なぬッ! 四千円……、たった。ふんとかぁ、ビールだって相当飲んだべぇ」
「そんなモンだよ。ビールなんて、タダの店もある」
「不服か、なんならわしが貰ってやるぞ」
「アホ」
「ビールがタダ、いいねぇ中国は。わしは中国が好きになりそうじゃ」
「峪口ぃ、オメェが有名な老舗だってゆってたんべ、ふんだから俺ぁ、もっと高けぇとばっかし思ってた。へへへっ…、中国、俺ぁもでぇ好きだぁ。釣りは要ンね、チップだ。ああ、うんだ、要ンねぇってば」
「いよっ、デカッ腹。次も頼むよ」
「へへへっ…、施川ぁ、次はオメェの番だぁ」
「あららぁ~……」
二、マッサージが小っ恥ずかしい?
1
「さて、そろそろ帰ろうか。ところでどうだ、ホテルの近くにマッサージがあったけど、寄ってみる?」
「うん、行こう」
即答する施川。
「マッサージ……、俺ぁ、ちょっくら小っ恥ずかしいなぁ」
と言って邑中は顔を赤らめた。
「おまえさん、なに考えているンだよ」
施川が邑中の顔を覗き込んだ。
「んだって、あれだんべぇ。吉原みてぇなもんだべぇ」
照れながら吉原と口にした。
「なんだ邑中、おまえ吉原へ行ったことあるのか!?」
「えっ、えっ、へへへっ…、そりゃあ、俺ぁだって、男だんべぇよ。円藤と新通に誘われて、しょうがねぇから行ったんだぁ」
「なぁにが、しょうがねぇだ。このこの、このぉー」
施川が邑中に飛び掛かって首を絞めた。
「やっ、止めれぇ、あぐぅ、ぐっ、苦しーぃ…。死ぬ、死ぐ~ぅ、死んじゃう~。だにぐぢぃ…だ、だずげ、で~ぇ」
「どうだ、参ったか?」
「わぁ~がった、わぁ~がった、てばぁ~。めぇった、めぇった。げほっ、げぼっ…」
「気持良かったか?」
「うん、気持えがった」
「あっ、こいつヌケヌケと。今度、連れて行けよ」
と言って施川は、再び首を絞める真似をした。
「はい、はい、もうお仕舞い。いやいや、なにが嬉しいって、中国に駐在して、マッサージぐらい嬉しいものはないね」
峪口が二人に割って入る。
「昔っから、峪口はマッサージが好きだったモンな」
「邑中君、大丈夫、大丈夫。普通のマッサージだから、裸にならなくともいいンだよ」
「なんだぁ、つまんねぇ」
「おっ、ナマ言っちゃって……。女を見ると逃げ出す奴が、よくゆうよなぁ。峪口ぃ~、北海道旅行を思い出さねぇか?」
「ん? ああ、あれね。あれは笑えた。くくくっ…」
と、峪口が思い出し笑いをすると、
「だろう、だろう。な、な、笑っちゃうだろう。あっははは……」
と豪快に笑い、施川が追い打ちをかける。
「オメェら、ほんとにしつけぇなぁ。ほれ、早く行くべ、行くべ」
「うんだ、うんだ。行くべ、行くべ」
施川が邑中の口調を真似、
「それにしても、明日はいよいよ“万里の長城”か、楽しみだなぁ」
と想いを込めて言った。
「ありゃ、物凄げぇんだんべぇ? 中学ンとき世界史で習ったべぇ。ふんでもよぉ、こぉんな、ちっちぇ写真だったモンなぁ。施川ぁ、オメェ、覚えて、るわけねぇか。どうせ、寝ていたんべぇ」
「じゃあまし。おまえさんの中学は上野だろうが」
「そうか、オメェは多摩動物園だったかぁ…」
「邑ちゃん、期待してくれていいよ。論より証拠だ。そのドングリ眼でしっかりと見てくれ」
三人は“前門大街”でタクシーを拾い、ホテル方面へ向かった。
2
峪口はホテルの直ぐ傍にマッサージ店があることを、ホテルへ向かうタクシーの中からしっかりと確認していた。
東来順からは十元、基本料金の道程であった。
「ここ?」
なにやら、施川が二の足を踏んでいる。
「うん、駄目?」
「いや、なんか、ちょっとさぁ。雰囲気怪しくない」
「怪しい?」
「うん。ここ、邑中が喜ぶ系統の店じゃないの」
「なぬっ、ふんとか」
邑中の鼻息が荒くなった。
「ははははっ…、二人とも変な期待するな。大丈夫、大丈夫」
施川はどうやら、歌舞伎町辺りの雰囲気を連想したらしい。
「へぇへへへっ…、スケベ。オメェは考え過ぎだぁ」
「なにをエロ豚が、鼻息を荒くしたのは誰だ」
「フン。俺ぁ知ンねぇ」
確かに施川の言う通りで、入口を潜ると階段になっていて、薄暗く怪しげな雰囲気を漂わせている。
「まあ、様子を視て、ヤバイと思ったら出て来よう。三人だから、問題はないだろう」
「よっしゃーッ!」
施川が気合いを入れ、三人が店に入って行くと、
「イラシャイマセェー!」
と、小姐(女性従業員)の元気のいい声が響いた。
「おっ、いいじゃん。若い娘ばっかりだ」
「施川、涎、涎」
「おっ、おう……」
と口を拭う真似をする、実に乗りのいい男だ。
先ほどの不安もどこへやら、施川と邑中は、若い小姐たちに囲まれて脂下がっている。
「峪口、峪口。好きな娘、指名できるのかぁ?」
施川が峪口の耳元で囁いた。
「もちろんだよ。どの娘がいい?」
「俺ぁ、あの娘」
「こら、わしが先じゃ。このエロ豚がぁ」
「いいべよぉ、さっき飯代出したんべぇよぉ」
「おぅおぅ、そうゆう魂胆かい。でも、いいよ、あれでいいなら、わしに文句はない」
施川は、邑中が望む小姐の顔を見て、ニヤッと笑って同意した。
「ふんとかぁーッ! 後で気変ぇんなよぉ」
「ああ、けぇねぇ。天地神明に誓ってけぇねぇよ」
「なあ、峪口ぃ…」
「うん、けぇねぇよ。それでも心配なら。俺は神様と仏様、オマケにキリスト様もつけちゃうよ」
「ん……?」
邑中が首を捻った。
「わしはあの娘……、否、やっぱり右側がいいかな。う~ん……、どうしようかな。迷うな」
「値段を交渉するから、誰にするか決めとけよ」
足ツボマッサージが七十元、全身マッサージが八十元だという。
峪口が上海でいつも行っている店よりもだいぶ高かったので、交渉して両方で百二十元と話をまとめた。
「百二十元で足ツボと全身のマッサージをやることにしたけれど、いいかな?」
「百二十元?」
「千八百円くらいかな」
「そう。で、時間は?」
「それぞれ一時間だ」
「ふっ、ふんとに、二時間で千八百円?」
「ああ、ふんとだ」
「前に、農協で温泉へ行ったとき、一時間で六千円もふんだくられたぁ」
「ケツでも触ったンだろうが」
「うん、寝た振りして、ちょびっと……」
「それじゃしょうがねぇだろう」
「ふんでもほんのちびっとだぁ。こう、手の裏ッ側でケツの割れ目をスッと……」
「なにが手の裏だ。指を捻じ込んだンだろう」
「あれ、施川、オメェもいたっけ?」
「けっ、エロ豚がぁ…」
3
「ふんでも、全然効かねぇんだもん」
「確かに、素人みたいのが多いな。なにが目的なンだろうな」
「うんだ。マッサージしねぇで、こう、股の辺りばっかし触るンだもん」
「ときどき本体にも、チロッと触ったりしてな」
「うんだ。少し硬くなった」
「こっちの反応を見て、“お客さん好い男だから遊ぼうか”なんて誘うンだろう?」
「あんれ、峪口ぃ、オメェも一緒だったかぁ…」
「アホ」
「そんでやったのか?」
「うんにゃ、俺ぁの触って、“今日は風邪引いてっから止めとく”って言ったな」
「…………」
「あのねぇちゃん、風邪は治ったべかぁ…」
「知るか」
「親に感謝しろよ。それと奥さんにもな」
「あんでぇ?」
「なあ施川、デカイのも身を助けるな」
「ああ……」
と、二人が顔を見合わせたとき、邑中の片頬がニヒルに歪んだような気がした。
「恐れ入りました。女は技術なんかいらねぇな」
「男は、そうはイカのオチンチン」
「眠っちゃうと、身体を撫ぜているだけだもんな」
峪口の言葉に施川も同調する。
確かに本格的な按摩さんもいるが、温泉街には技術の未熟な者も多いような気がする……。
「ええと……、今は九時ちょい過ぎだから、十一時を過ぎるな」
と峪口が言うと、施川が慌てて時計を確認した。
「別に急ぐ旅でもなし、問題ないだろう」
「へへへっ…、それが問題ありのこんこんちき。この対面に日本料理屋があるだろう、一杯やりてぇと思ってさ」
「なんだよぉ、オメェまだ飲むつもりかぁ。ふんとに、意地汚ねぇ男だなぁ」
「まあ、そうゆうなよ、邑ちゃん。……で施川さんよ、結局どの娘にするンですかぁ?」
「わしゃあの娘に決めた。峪口ぃ~、取るなよ」
と言って施川は、痩身で背の高い瓜実顔の小姐を指差した。
顔を向けると、その小姐は峪口に微笑み返した。
なかなかに感じの良い娘である。
峪口は小柄で少し色は浅黒いが、目鼻立ちのはっきりとした小姐を指名した。
三人三様、それぞれの好みは対照的で、こんな場面で揉めたことはない。
「個室にしますか?」
と、小姐が日本語で峪口に囁きかけた。
「あ、えっ…いいよ、皆一緒で……」
峪口はなにか期待を感じたが、慌てて断わった。
「なに、なんだって?」
こんなときの施川は、実に勘働きのする男である。
「個室にするかってさ」
「個室!? ほら、やっぱり特別サービスがあるンだ」
「ふ、ふんとかぁ?」
邑中が鼻息荒く訊いた。
「まぁまぁ、どぅどぅどぅ…。ほら涎、涎……」
「でっ、でででっ、ど、どどどっ、どうすンの?」
施川には興奮するとドモル癖がある。
― 実にわかり易い男でもある。
「もちろん断わった。なに興奮してるの、人畜無害の筈じゃなかった」
「あんだぁ、あんで断るんだぁ」
邑中が不満を漏らす。
「いいよ、邑中君は個室ね。はーい、この男ねぇ…」
と峪口が小姐に声をかけると、
「ああ、いい、いい。駄目、駄目」
慌てて峪口を制する。
小姐は個室を断っても不機嫌な顔をまったく見せず、相変わらず愛想がいいので、峪口は安心した。
恐らく、峪口に閃いたようなサービスもあるにはあるのだろうが、決して彼女たちにとっても、そういった行為は望むべきことでないのかも知れない。
4
「わしはそうゆうことって、あまり好きじゃないから……うん、うん。それでいいよ……、うん」
「ふんじゃ、しょんがねぇ…」
「未練がましいお二人さん、これに着替えて。あっ、邑中君、パンツは脱がなくていいのよ。は~い、ぼくちゃん、とってもお利口さんでちゅねぇ」
「なぁんだ、つまんねぇ。へへへっ…」
「そんな化け物みてぇな馬鹿デッカイ、小汚ねぇモン出された日にゃ、女の子たちが逃げ出すぞ」
「なにぬかす。俺ぁ、毎日洗ってるべぇよ」
「洗っててもいいの。仕舞っておきなさい」
「うん、わかった」
「ときどき素直な奴じゃ…」
「ふんでも、足ツボって痛てぇんだんべぇ?」
「ああ、痛てぇよ、痛てぇけど癖になる。先ず薬草の入ったお湯に足を浸ける。それからマッサージだ」
「なんかよぉ…、峪口ぃ~」
「……うん、なぁ~に?」
「な、なんだよ、もう寝てるのかぁ?」
「あっ、いや、横になったら気持ちが良くって、ドッと疲れが出た感じだ、うん」
「峪口の鼾はうるせぇからな。マッサージってさあ、最高の贅沢だよなぁ。あれぇ、邑中……、おやおや、もう寝てるよ。峪口より早いわ」
「ふふっ…、そうだな。でもよぉ、ときどき刹那さも感じるなぁ」
「刹那さ?」
「うーん、ほら、なんとなくさあ。……揉む人と揉まれる人って、表裏だけど、その間には途轍もなく深い溝がある気がしない?」
「彼女たちのことかい?」
「うん、まぁな……」
「それはわしも感じる。もし、わしの娘だったらとか……。それにしても邑中の鼾はうるさいな。ケツをひっぱたいてやろうかな」
間もなく、大きな木の桶を抱えて小姐が戻ってきた。
桶の中には薬草入りのお湯が満たされていて、足ツボマッサージの前にしばらく両足を浸す。
薬草入りということからなんらかの効果もあるのだろうが、それよりもむしろ、汚い足を洗う意味合いの方が大きいのでは、と峪口は考えている。
「あちッ!」
と叫んで足を桶から引き抜いた施川に、クスクスという小姐の忍び笑いがもれた。
「おい! 邑中。おい! 起きろよ」
「あ、ううん……、うるせぇなぁ」
「うるせぇじゃねぇよ。ほら、お姐さんが困っているだろう」
「ああ…、ううん…、あっ、吃驚らこいたぁ!」
邑中が目を覚まし、突然驚きの声をあげた。
「ああ、吃驚した。なんで俺ぁ家に若い娘っ子がいんのかと思った」
「おまえさんねぇ…、吃驚したのは彼女だよ。ほれ、その桶に汚ねぇ足を浸けろとよ。ごめんねぇ、バカなオジサンで……、喰い付かないからね」
「俺ぁは犬か」
「熊だんべぇ」
「はははっ…、楽しそうだな。ほら、彼女たちが呆れているぞ」
「くっ、へへへっ…、いや、皆かわいいなぁ。邑中君なんて、まるで熊の親子だよ」
「ぷっ…、施川、あんまり笑わせるなよ」
そんな三人の会話がわかるはずもないが、部屋に響き渡る小姐たちの屈託のない笑い声、それを聞いていると、先ほどの感傷も吹っ飛び、普段の脂下がった『ちょい悪オヤジ』に戻っていた。
突然、峪口は身体に衝撃を覚えた。
マッサージの小姐に身体を揺り動かされたのだ。それで峪口は、ハッと眼を覚ました。
隣ではまだ、施川と邑中が鼾を轟かせている。
「終わりました。皆さん直ぐに寝てしまいました。うふふっ…」
という優しい声で峪口は我に返った。
施川もどうやら目覚めたようだ。
「あ~あ、気持ちえぇ~なぁ~」
と大きな伸びをした施川は、ベッドから飛び降りると、
「ほらほら、起きろ、起きろ、うり、うり、うり……」
と、邑中の身体をくすぐった。
「ひょえーッ! 勘弁してけろぉぉぉぉ」
嬌声をあげて邑中は目を覚ました。
「ああ、吃驚らこいたぁ。少し寝ちゃったみてぇだ。俺ぁ鼾掻いてたかぁ?」
「けっ、なぁ~にが、少し寝ただよ。鼾を掻いたか、だとぉ。バッキャローッ! 地震みてぇな鼾を掻きゃぁがって。お陰で、わしはちっとも眠れなかった」
「はっ、はははっ…、目糞、鼻糞の類だな」
「おお、峪口ぃ~、それならおまえは“耳糞”だ」
「おっ、うまいことゆうねぇ~。さすがは施川さん」
〔小姐、誰の鼾が一番うるさかった?(上海弁)〕
「なによぉ峪口ぃ、なに口説いているンだよぉ」
「バァ~カ、違うよ。誰の鼾がうるさかったか、訊いてみたンだ」
「そんなの決まってるだろう。一に邑中、二に峪口、三、四がなくて、五にわしじゃ」
「そのようだ、小姐も同じことを言っている」
表まで見送ってくれた小姐にそれぞれチップを渡し、明日も来ることを約束して店を後にした。
「明日もあの娘を指名しようっと」
「俺ぁはあの娘っ子だ、施川、盗んなよ」
「へいへい」
施川も邑中も上機嫌である。
5
「おお、やってる、やってる。どれどれ、ええと……、十二時までオッケーだ。まだ三十分以上ある。峪口、一杯やろう。熊、帰るかぁ」
マッサージ店の真向かいに立地する日本料理店に足を踏み入れると、中国人の十人ほどのグループが大いに盛り上がっていた。
最近は日本料理を好む中国人が増えている。
女性従業員に終了時間を尋ねると、
「表には十二時までと書いていますが、何時まででも結構ですよ」
にこやかな笑顔とともに流暢な日本語が返ってきた。
「日本語がお上手ですね」
「私日本人です」
「峪口、馬鹿、見ればわかるだろう。お綺麗ですね。ママさんですか?」
― 調子のいい男である。
施川は既にマッサージの小姐のことを忘れてしまったようだ。
「ママ、ですか。ええ、まあ、経営者ですけど……」
「しゃ、社長さんですか。失礼しました」
「バァーカ」
と言う邑中の囁きにもめげず、
「ぼ、ぼくたち出張なンです。これからしょっちゅう来ますから、しょっちゅう寄らせてもらいます」
「ぼくだって、けけけっ…、ぼくって面かぁ…」
「じゃーまし」
「ほほほほっ…、ありがとうございます。ぜひご贔屓にしてください。ところで、ご注文は?」
「さっ、酒、ください。ぼくは冷で。峪口はビール、 そっちのデブには水でもやっといてください。あっ、お金はそのデブが払います」
「ああ、俺はビール」
峪口は呆れたとばかり応じる。
「俺ぁはコーラ。峪口ぃ、なんかうんめぇもん頼んでくんど」
「よしよし、わしに任せなさい。邑中君、君は勘定の方頼んだよ。ははははっ…、なにしろ田舎者を二人も連れてるものですから、はぁはははっ…」
と、施川は一気に捲くし立てた。
「いねぇよ、バァーカ」
二人が声を揃えて言うと、
「あれ……、社長さーん! 社長さーん!」
と大声で呼んだ。
「はーい、少々お待ちください」
と、奥から元気のいい声が返ってくる。
少し間を置いて、飲み物を盆に載せイソイソとやって来たママに、
「社長さん、ええと、刺身の盛合せ、焼き鳥、秋刀魚、それと……」
と、施川は矢継ぎ早に注文を始めた。
「はいはい、お待ちください。あのぉ…、ママで結構です。ふふふっ…」
と丁寧に応じて、ママは伝票を取り出した。
「そ、そうですね。社長さんじゃ、なんか変ですね」
「ほほほっ…」
「おい、施川、そんなに食えるのかよ?」
峪口が小声で制すると、
「いいの、いいの。食えなきゃ持って帰えって、明日の朝の熊の餌にするから。なあ、邑中」
「まったく、ええ格好しいが……。自分で銭払えよ」
「なにぃー、なんか言ったぁー、む~らちゃん?」
「ほら、もういいから、乾杯しよう」
結局三人は、他の客が帰った後、ママを加えて、朝の二時過ぎまで大いに盛り上がったのである。
「惚れた。わしはママに惚れた」
「馬鹿は死んでも治らねぇ、か」
「うんだ」