第二章 天安門広場
一、白酒と黄酒
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擦った揉んだの挙句、三人はようやく表に出ることができた。
「もう“故宮”の観光には間に合わないかも。確か、五時で閉まるはずだから。タクシーで行くかい?」
「まだ明後日があるから、その時にゆっくりと見ればいいよ。今日は街中を歩こうよ」
「んだなぁ。明後日、ゆっくり見んべぇ」
峪口が怒ると施川が宥め、施川が怒ると峪口が宥め、二人が苛立つと邑中が冷静に応じる。
実に良い組み合わせである。
「そうだな。故宮はとてつもなく広いから、一時間やそこらじゃ無理だしな。天安門まで歩いてみるか」
三人は天安門に向かってブラブラと歩き出した。
「“長安路”か、どこも道が広いねぇ。上海とはまったく違うな。なにか気持まで大らかになる」
「ふんとだ。長安、て、唐の時代の都だんべぇ?」
「うんだ、うんだ」
施川が邑中の口真似で応じる。
「あるある、まだあったンだ。ほら、君たち、屋台がたくさんあるだろう。以前来たとき食いたいと思ったけど、チャンスがなくて」
「いいね、いいね。後で、白酒で一杯やるか?」
“白酒”はとても強い酒で、主に冬の寒い北の方で好まれる。
度数は三十度くらいから六十数度まである。
ウオッカやテキーラを連想すればよいかもしれない。峪口はその香をセメダインに喩えて説明する。
宴会には欠かせない酒で、上海では小さなグラスで乾杯を繰り返すが、山東省から北の方では普通のコップで呷るという。
中国の宴会に参加するとき、あまり自信のない方は最初から断わることだ。
一口でも飲めば、次から次へと乾杯を求められることになる。
お酒の弱い方が、小さなグラスと侮って、四、五回も乾杯を繰り返せば、そのままトイレ、或はベッドへ直行となる。
五粮液、剣南春、洋河大曲、濾州特曲、郎酒、茅台酒、西鳳酒、汾酒を白酒の八大銘酒としている。
特に五穀(高粱、トウモロコシ、米、もち米、小麦)で造られる“五粮液”が最高の白酒と言われ、偽物を多く出回っている。
透明な白酒に対して、紹興酒などの黄色い液体を“黄酒”という。
黄酒を長期間熟成させたものを老酒と呼ぶ。
上海では一般的に、紹興酒は料理用の酒と侮られ、あまり飲まれていない。
しかし十年以上熟成された年代物の紹興酒は、とても高いが、まろやかで実においしい酒である。
もっとも、本物ならばという条件付ではあるが……。
二、新東安市場
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「なあ、屋台の食い物で一杯やろうよ」
「いや、残念だけど、今晩は羊肉を食べてもらいたいンだ。俺も初めて食べたときは感動モンだった。羊がこんなにうまかったのか、ってね」
「ヒツジ……、俺ぁ嫌れぇだぁ。なんか肉が乳臭くってよぉ」
「うーん、羊ねぇ…日本じゃ、北海道のジンギスカンが有名だけど、一般的にはあまり食わねぇものなぁ。本当にうまいのか?」
「まあ、まあ、お二人さん、騙されたと思って、一度食ってみなよ。“東来順”ってゆう老舗なンだ。場所は天安門の直ぐ近くだ」
「いいよ。なあ、邑ちゃん」
「うーん……」
「こら、熊、独りで食事するか?」
「わぁがったってばぁ、行ぐよぉ、行ぐ」
「はいはい、二人とも私を信じてくださいね。けして後悔させないからね」
「お願げぇします」
「よしよし。支払いは頼むぞ」
「うん」
「よしよし。へ~え、ここは歩行者天国になっているンだ」
「そうさ、ここを抜けると故宮は直ぐだから。この辺りを新東安市場って言うンだ」
「グ、グゥー、ゴン?」
「故宮のことだよ」
「池袋みてぇだな」
「池袋ときたか。熊、もう少し気の利いた場所をゆえんのか」
「“おおたかの森”かぁ」
「どこの田舎じゃ。おおっ、高級店が並んでいるな。ちょっと、このデパートへ入ってみようか、峪口ぃ」
「駄目駄目、今日は時間がないから明後日ね」
「そうか、時間がねぇか。ところで、故宮と天安門って、近いのか?」
「天安門てのはよくテレビに出るべぇ。ふんで、さっきからゆってる“こきゅう”ってな、なんだぁ?」
「故宮ってなんだぁ、だと……、なんだ、そんなことも知らねぇのか。昔の皇帝の住まいだ。今は博物館になっている。なあ、峪口ぃ?」
「その通りだ」
故宮は1406年から14年掛けて建造さけ、全体面積は72万㎡、建築面積は15万㎡である。
かつては皇帝の住まいで“紫禁城”と呼ばれていた。
「で、故宮の入り口の前に鎮座しているのが天安門。その前の広場が天安門広場だ」
「なんだ、そうなのか」
「よくわかんねぇけど、なんだ、そうだったのか」
「ところで、この通りは広いなあ。なになに、オウ・フ・イかな? うん? ジンか、ダイ・ガイ?」
三、中国にもホームレス?
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新東安市場の歩行街を出て“王府井大街(大通り)”を横切り真っ直ぐ進むと、やがて突き当たりに赤錆色をした高い壁が見えてくる。
壁に沿って左折すると、広い歩道には花壇があり大木が植えられている。
「この道は風情があるなぁ。それにこの歩道の広さ、日本じゃ考えられねぇ。歩道の中に二車線取れるじゃねぇか」
施川が驚嘆の声をあげた。
「ふんとだ、やっぱり中国は広れぇや」
「この太い木はなんだろう? アカシアかな? それにこの壁の高さ、五メートル以上あるンじゃない」
「こんなのも知んねぇのか。この木は“しらせがわ”だんべぇよぉ」
「しらせがわ? どうゆう意味じゃ」
「しら施川、うんだから、しらバカ。しらカバ、白樺だんべぇ」
「一度死んでみるか、エロ豚」
「ぐ、ぐるじぃー……。だ、だす、げろぉー、だに」
「施川、しっかり止めを刺せ。この木はねぇ、槐樹と言って薬用樹木だ。高血圧も血止め、痔に効能があるそうだ」
「ああ、ぐるじがったぁ。俺ぁ自慢じゃねぇけんど、こんなでっけえイボ痔だ」
「わしは痔ろうじゃ、文句あっか」
「俺ぁの負けだ。ねぇ」
「俺も四十年来のイボ痔があったが、去年治った」
「あんだぁ、手術したんか? 柏の美田病院かぁ?」
「否、手術なしで治った」
「嘘だんべぇ。どうやっただ。あれか、ヒサヤ大黒堂かぁ?」
「なんにもしてねぇよ。或る日突然膿が大量に出たと思ったら、治っちまった。それから再発してねぇから、膿と一緒に根っ子も出ちまったンだろう」
「ふ、ふんとかぁ、俺ぁにもやってくんど」
「やってくんど、って言われてもなぁ…。俺は医者じゃねぇし」
「熊、わしと一緒に入院するか」
「うんにゃ。入院すんなら、痛てぇ方がましだ」
「好きにしろ。熊なら舐めて治せるだろう」
「へへへへっ…、とどかめぇよ」
「バァ~カ。この壁の向こう側が故宮だ」
「そうか、どうりで立派な壁のはずだ。でも、ベンチに座っている薄汚ねぇ連中、あれは?」
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「日本の公園にいるのと同じだんべぇ。中国にもいんのか、ホームレス? 共産主義ってなぁ、貧富の差がねぇんじゃねぇのかぁ?」
「と思うだろう。ところが、たくさんいるンだよ」
ホームレスといっても、一概に“怠け者”と決め付けるわけにいかないのは日本と同じである。
こちらでよくあるパターンは、農閑期に内陸部から出稼ぎに来た人たちが建築現場などで働き、工事も終わり賃金をもらって“さあ、家族の待つ家へ帰えろう”とした矢先、現場監督に賃金を持ち逃げされて、帰るに帰れなくなったといったものである。
政府や公安も出稼ぎ人には非常に冷たい対応で、そんな事件は歯牙にもかけないらしい。
それで帰るに帰れず、いつしかホームレスに身を落としてしまうのだ。
「ほら、ほら、天安門広場が見えてきた。こっち側が故宮だ」
「すっ、すんげぇーッ! な、なんだよぉ、こりゃ。桁違いだんべぇよぉ。成田山より、デッケェ…。ああ、吃驚らこいたぁ」
ものに動じない邑中も驚嘆の声をあげた。
「まったく千葉県人は、デカイものっていえば、なんでも成田山なンだからなぁ。馬鹿の一つ覚えじゃ」
「あっ、ハゲ、オメェ、成田山を馬鹿にするじゃねぇどぉ。オメェだって、千葉県人だんべぇ」
「はぁはははっ…、このスケール、日本にはちょっとないな。なに、今どさくさ紛れにハゲとゆったな」
「うんにゃ、オメェの聞き間違いだぁ」
ケロッとして言う。
「そうか、まあいい。……育ちはな。しかしテレビで視ても、こんなイメージ湧かねぇよ。もっとチマチマしたものと思っていた」
あまりのスケールに、施川は目を白黒させている。
「ちょっとここで待っていろ。故宮が何時まで開いているか訊いてくるから」
「うん、わかった」
四、世界最大の広場
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峪口は天安門に立つ警備員のところへと走った。
「残念でした。五時までだって」
「ふんじゃぁ、しょうがねぇなぁ」
「そうかぁ…。残念だけど、明後日が益々楽しみになった。あ~あ、カメラを持ってくればよかったな」
「施川ぁ、オメェ、カメラ持ってこねかったのかぁ。ちっと待ってろ、俺ぁデジカメ持ってっからよ」
「ほんと、邑ちゃんは準備がいいね。面は悪いけど」
「一言余計だんべ、てぇして変わらねぇ面相してよ。旅行に来んのに、カメラ持ってこねぇ馬鹿がどこにいるだぁ」
「は~い、ここにいます」
「へいへい、アッシが悪うござんした」
「邑中が正しい。俺はいつも持ち歩いているよ」
峪口は数年前から、駐在の思い出にと、カメラを持ち歩き、印象深い場所や名所旧跡をカメラに収めるようにしている。
特に庶民の生活がにじみ出ている古い住宅街や、段々少なくなりつつある自由市場などが好きで、上海市内のあちこちを探索している。
時には、無断でシャッターを切って、住人に怒鳴られることもあるが……。
「それにしても、やたら広いからあまり感じなかったけど、よく見ると観光客が滅茶苦茶多いな。どうだ、熊、成田山の初詣客よりも多いか?」
「オメェ馬鹿じゃねぇのか。当たりめぇだんべ。あれぇ~、なんかおかしくねぇかぁ? 広場に誰もへぇってねぇどぉ」
確かに邑中の言う通りで、天安門の周りはたくさんの観光客で溢れていたが、広場に人影はなかった。
「峪口、ほら、あの車。公安(警察)って書いてあるけど、なにかあったのかな?」
施川が疑問を投げかけた。
「ああ、なるほど。どこかの要人が“毛沢東記念館”に来ているンだ。ほら、あれ。あの広場の中にある、白い大きな建物だ」
「あッ! 車が出てったぞ」
警察の車に先導された高級車の列が広場から出ると、待ち兼ねた観光客がドッと広場に雪崩れ込んだ。
「お、おおっ、俺ぁたちも行くべぇ」
「駄目駄目。邑中、その道路は横切れないよ。この先へ行くと地下道があるから、そこを通って向こう側に渡るンだ」
峪口は、道路の脇に設置されている鉄柵を、無理矢理乗り越えようとする邑中を制した。
天安門と天安門広場は“東長安街”(通り)で分断されている。
鉄柵は、交通ルールに拘らない中国人の横断を妨げ、未然に事故を防いでいる。
それでも柵を乗り越えようとして、交通警察に怒鳴られる者が後を絶たない。
「ああ、あれか」
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三人は観光客と一緒に地下道を抜けて、天安門広場に足を踏み入れた。
つい先ほどまで人影のなかった広場は、アッと言う間に人で溢れた。
地方からのおのぼりさんが多いのか、意味不明の方言や訛りのきつい言葉が飛び交っている。
「いやー、広場に立ってみるとものすごく広いなぁ」
施川はまたも驚嘆の声をあげた。
よく驚く男である。
「ふんとだぁ、……成田山の庭より広れぇや」
「熊、あんたが冬眠する山と比べたら、どうだ?」
「俺ぁ家とかぁ、うんだなぁ、田圃と畑を足せ
は勝てっかもしんねぇ」
天安門は南北880m、東西500m、面積44万㎡もあり、百万人収容を収容できる世界最大の広場だ。
「おいおい、本気で比較しているよ、この男は」
「へへへっ…、バァ~カ」
「世界一広い広場だよ」
「うんにゃぁ(違う)、二番目だぁ」
「おうおう、まだ言うか、この、この……」
施川がふざけて邑中の首を絞めた。
「ぐ、ぐるじぃ、ぐるじってばぁぇ。止めてげれぇ、
施川ぁ~」
「どうだ、参ったか、バァ~タレ。うん、納得する。ここに立つと納得できる。なるへそなるへそ。おっ、あれが天安門か。写真を撮ってくれ、峪ちゃん」
「いいよ。じゃあ、邑中も一緒に並べよ。先ず天安門をバックに一枚。はい、ポーズ」
施川がおどけて、両手でVサインを掲げたが様になら
ない。
一方の邑中はいつでも直立不動である。
「どんどん人が増えてくるな。……あれっ、あの凧揚げしている連中は、なによ?」
「遊んでいるんだべぇ」
「あんな大人がかぁ…」
「はははっ…、あれは売っているンだよ。別に趣味で揚げてるわけじゃないよ」
「ほれ、見ろ。だろう、どう見ても、凧揚げして遊ぶ風体には見えねぇもの」
「おい、施川、邑中。荷物に気をつけろよ。観光客に紛れた“置き引き”に“掏り”、“かっぱらい”もいるからな。見栄えは悪りぃけど、こうして首から掛けた方がいいぞ」
「うん、そうするべぇ。パスポートも入ぇってから、引っ手繰られたら困っかんなぁ」
首から荷物をかけた中年親爺三人の姿は、周りからは間違いなく、どこかのおのぼりさんと思われていることだろう。
3
数年前に北京を訪れた峪口が、覚えたての中国語を駆使して博物館に入ろうとしたとき、
『アンタ、北京語のできない中国人かい?』
すなわち“田舎者か”と、受付のおばさんに訊ねられたことがある。
『日本人だよ』
と応じると、
『日本……てなぁ、どこの省だぁ?』
と問い返された。
本当に日本を知らなかったのか、単にからかわれただけなのかは定かでない。
「あれが“毛沢東記念堂”で、その前に建っているのが“人民英雄記念碑”だ」
峪口は記憶を頼りに、施川と邑中に説明した。
「あん中にゃ、なにがあんだぁ?」
「毛沢東の遺体が保存されているそうだ」
「ミイラか」
旧ソ連といい、中国、北朝鮮といい、社会主義の国々は偉大な先人の遺体を保存するのが好きなようだ。
「峪口は見たことあんのかぁ?」
「否、ないね。遺体なんて見たくもないしさ。最近は見に行く人も減ったそうだ。行くのはおのぼりさんぐらいのモンだって、誰かが言ってたな」
― それでは三人にぴったりではないか。
「峪口ぃ……、あれは、あの建物は?」
「“人民大会堂”、日本の国会議事堂みたいなものさ。あそこで人民大会とか開かれるンだ。反対側に大きな建物が二つあるだろう。確か、“革命博物館”と“歴史博物館”、どっちがどっちだか忘れちゃったけどね」
「そうか、じゃあ、両方ともバックにして撮ってよ」
「はいはい、と。あッ! ほら、あの時計台、火鍋の店“東来順”はあの近くだったと思うよ」
「どっちだぁ? 両方にあんべぇよぉ」
「あららぁ…、ほんとうだ。広場の両側にあるねぇ。今まで気がつかなかったよ」
「オメェも施川みてぇにボケたか」
「な、なんだとぉ」
「さぁ~て、そろそろ食事へ行こうか?」
「そういえば腹ぁ減ったな。明るいから気がつかなかったけど、もう七時近いンだ。どうするんだエロ豚、独りで食いに行くのか?」
「ダ、ダ、駄目、駄目だよぉ~。一緒に行ぐよぉ~。俺ぁ羊がでぇ好きだかんな」
「そうか、よしよし。君の奢り、なっ?」
「うん」
「あららぁ~、素直なやつじゃ…」