第十章 田黄石と翡翠
一、旧交
1
約束の七時ちょうど、ホテルのロビーで、峪口の存在に気づいた王莉が満面に笑みを湛えて、
「あらぁー、峪口さん。お久しぶりぃー」
と、抱きつかんばかりに手を差し伸べてきた。
中国人の感情表現はむしろ欧米人に近い。
峪口は少し照れながら握手に応じ、ちらっと施川の顔を覗き見ると、“怪しいなぁ”という表情を露骨に浮かべていた。
峪口は直ぐに手を離し、施川と邑中を紹介した。
「おっほほほほっ…、施川さん、邑中さん、よろしくお願いしますぅ。峪口さん、すみませんねぇ。夏先生はまだ仕事が終わらなくて、レストランに直接向かうことになっていますのよ。本当に忙しい先生で……。おっほほほっ…」
王莉は自分の夫を夏先生と呼ぶ。
因みに、中国は夫婦別姓である。
「峪口さん、お元気でしたかぁ? ときどき夏先生ともお噂をしているンですよ。上海で大勢の中国人相手に一人で奮闘、大変だと思いますわぁ」
「ええ、お陰さまで元気にやっています。王莉さんもとてもお元気そうで、なによりです。夏先生もお元気なのでしょう?」
「ところが、そうでもないンですの。先日、心臓病で入院しまして……」
「えッ! そうだったンですか、それは知りませんでした。で、お具合は如何ですか?」
「一ヶ月ほど入院しましたかしら、なにしろ、心臓でございましょう。心配で、心配で……」
王莉と峪口は、彼此十五年以上の付き合いになる。
初めて会った当時、
「私は夏先生の頭脳に惚れましたの、おほほほっ…。決して顔ではないってことが、会えばおわかりになりますよ、峪口さん。おっほほほ……」
と、王莉が峪口に語ったことがある。
北京大学から東大大学院へと進んだ才媛に、その頭脳に惚れたと言わしめる人物とは、いったいどんな男だろうと、峪口は夏小平に大変興味を抱いたものだ。
王莉によると、元々は物理学者だったが、日本と米国へ留学後経済学者に転向、三十代前半にして大学教授の肩書きを得たそうだ。
当時、中国で最年少の教授と評判になったらしい。
物理学を続けていれば間違いなくノーベル賞を取っていた筈と、王莉は誇らしげに語ったことがある。
経済学者に転向後、理論を自ら実践によって証明したことで評価され、時の首相の経済政策ブレインの一人を務めた。
現在も手広く事業を営み成功を収めており、マスコミの寵児として、国営放送にホストを務めるテレビ番組を持っている。
峪口が初めて会った印象は、極めて普通のオッサンといったものであったが、彼が書いた英語の論文を見せられたとき、その凄さが実感できた。
峪口はそのときから、夏が六歳年下にもかかわらず、尊敬を込めて夏先生と呼ぶようになった。
一般的に中国では苗字の下に先生を付けて呼ぶ。
それは単に〇〇さん、といった意味であるが、峪口は師の意味合いで尊敬を込めて、夏先生と呼んでいる。
もちろん王莉も峪口と同じで、尊敬を込めて夏先生と呼んでいるのである。
2
「よろしければ、そろそろ参りましょうか。夏先生もお店に向かっているはずです」
と促がす王莉に、峪口は言った。
「もちろん、王莉さんとお会いできるのは楽しみでしたが、夏先生とお会いできることがなによりも楽しみで、楽しみで……」
「ま~あ、私よりも夏先生と、まあ。あっははは…」
「王莉さん、嘘、嘘。ズーッと、王莉さんと会いたい、会いたいって、うるさいこと、うるさいこと。でも、王莉さんとお会いして、峪口の気持ちがよく理解できました」
「ま~あ、施川さんたら。お上手ですわねぇ。こんなおばあちゃんに、おっほほほほ……」
「ほっ、本当です。と、とってもお綺麗です」
「お~お、エロハゲがまた悪りぃ癖出してよぉ」
と邑中が茶化す。
「うるさい、うるさい」
「おっほほほっ…、お仲のよろしいこと。はいはい、冗談はお顔だけにして、そろそろ参りましょうか」
「あらぁー、王莉さん、きついことをサラリと」
「はい、あんたたちの負けぇ。ほら二人とも、いつまでじゃれてっと置いてくぞ」
「峪口ぃ~、王莉さんが来たら強気になっちゃって。このぉ~、このぉ~」
と施川が肩で小突く。
「へへへっ…、ふんとだぁ。エロ河童」
「あのなぁ、邑中。おまえの頭の中は、そればっかりかよ。ほら、バカばっか言ってると、ほんとに置いてくぞ」
と言ってから、峪口は思わず顔を赤らめていた。
「へへへっ…」
「な、なんだよぉ」
3
王莉が予約してくれたレストランは、三環路の外側の“中関村”と呼ばれる地区で、タクシーで四、五十分かかった。
この辺りは学園都市で、コンピューター関係の研究施設も多くあるが、高級住宅街としても有名である。
その直ぐ近くに王莉のマンションもあるという。
タクシーの料金を払った王莉が、
「皆さんここです。とても変わった建物でしょう。古いものを移築したそうです。料理も美味しいですよ。地元では評判のお店で、なかなか予約が取れないンですのよ。おっほほほほっ…」
「なになに、“貴賓楼”か、なんとなく有り難味のある名前ですね」
「おっほほほほ……、施川さんてとても面白い方で、お友達になれそうですわ」
「王莉さん、駄目だんべぇ。施川はエロハゲだから、煽てっと本気にすっから」
「ま~あ、邑中さんたら……」
と言って王莉は豪快に笑った。
「いえ、邑中のゆうとおりです。本気にしますから、冗談でもそうゆうことは言わないでください。まあ、なんというか、面白過ぎちゃって、迷惑しています」
「またまた、このこの。そんなに褒めるなよ、照れるじゃないの」
と、施川は峪口を肘で小突く真似をした。
「アホ」
「おっほほほほっ…、ささ、どうぞ、どうぞ。個室を予約してありますから、中で戯れてくださいな。他のお客様の迷惑になります。あっはははっ…」
「ほれ、峪口、王莉さんが怒っているぞ」
「いいから、いいから。グタグタ言ってないで、早く入りなさい。すいません王莉さん。首に縄をつけときますから。おい、邑中、なにか縛るものねぇか?」
「これで、ふんじばっておくべぇ」
邑中が自分のベルトを外した。
「えッ! 邑中さん、今、なんとおっしゃって?」
「けぇけけけっ…、ほれ、おまえさんの日本語はわからねぇとヨ」
「はっはははっ…、彼は縛っておこうって言ったンですよ」
「峪口さん。それがいいかも知れませんよ。おっははは……」
王莉は実によく笑うし、笑顔も素敵だ。
しかも、“ほほほほ”といった淑やかな笑いではなく、“あっはははは”と豪快に笑い飛ばす。
峪口はそちらが、彼女の本当の姿と捕えている。
「もう、王莉さんまで。へへへっ…」
と施川が頭を掻いた。
4
個室に入ると、すでに夏小平が待っていた。
「すいません、夏先生。道がとても混んでいて」
と、王莉は夏に遅れを詫びた。
「没問題、没問題」
と応えて、峪口に握手を求めた。
施川と邑中を紹介すると、夏は名刺を差し出し、
「峪口さん、老朋友、老朋友」
と言いながら、ニコニコと握手をした。
峪口が夏と会うのは、およそ六年ぶりのことだった。一時、夏が或る企業のコンサルティングで、上海に単身赴任していたことがある。
二人はそのとき一緒にカラオケへ行って、小姐たちと大いに盛り上がったことがあった。
そのことは、もちろん二人だけの秘密である。
峪口は、このことを王莉に決して伝えてはいけないと思っている。
なぜなら彼女は、ソフトボールの中国代表に選抜されたほどのスポーツウーマンでもあるからだ。
二人の修羅場は、どう贔屓目に見ても、夏に勝ち目はない。
お互いに近況を語り合い、峪口が喫煙の許可を求めると、
「没問題」
と言ってニヤリと笑い、夏もおもむろに“中華”銘柄のタバコを取り出し、峪口たちにも勧めた。
「わしは……」
「俺ぁも……」
「ほら、お二人は偉いわ。夏先生、峪口さん、タバコはお止めになった方がよろしいですよ」
「ははははっ…、止められない、止まらない」
と二人が声を揃えた。
中華はとても高価なタバコで、役人や経営者たちのステイタスともなっている。
また、賄賂としても利用され、パチンコの景品と同じように、現金で引き取ってもらえるらしい。
「まあ、夏先生ったら。入院したとき、あれほど医者に止められたのに。いったいいつの間に……」
王莉が夏に厳しい表情を向けた。
「はっははは……、止められない、止まらない。峪口さん、同じ、同じ」
と柳に風。
「困ったものですわ。喉もと過ぎれば熱さを忘れる。そんな日本語がございましたわね」
「少し、少し。少しだけ、ねえ、峪口さん」
夏は、日本語を話すのはあまり上手ではなかった。
「まあ、夏先生ったら、峪口さんを巻き込んで……。おっほほほっ…」
二、貴石
1
「峪口さん」
王莉が改まって呼びかけた。
「は、はい……」
「夏先生がお尋ねしたいことがあるそうです」
「私に……、なんでしょう?」
「夏先生が“田黄石”を知っているかと訊いてます」
「で、でん、おう……?」
「日本語ですと、田圃の田に黄色い石と書きます」
「なんですか、それは?」
「印材になる石です」
「印材に、それが?」
「夏先生のお話ですと、昔中国の或る地方で取れたとても良い石だそうです。今ではもうまったく取れないそうです」
「はあ、その石が……?」
「その石が日本にたくさんあるはずだ、とおっしゃっています」
「なんだぁ?」
「なんだべぇ?」
峪口は二人に王莉の話を簡単に説明した。
「ふーん、ふんで、その石っころがどうしたべぇ?」
「うん。なんでも印材として最高の石だそうだ。それでネ、日中の国交が回復したころというから、七十年代だナ。そのころは価値がわからず土産物として安く売られていたらしい。それを日本人が買って、日本へ持ち帰ったから、たくさんあるはずナンだって……」
「んで、その石があればどうすンだぁ?」
「物凄く高く売れるそうだ。……、金より高いって。……、一グラム、二千元以上だって」
「ちゅうことは三万円……。一グラムが三万円、か」
「ふんじゃ百グラムだと、……さ、三百万円。俺ぁ家にあっかナ?」
「ははははっ…、もちろん品質にもよるそうだ。もう田黄石は取れないから、今後価値はドンドン上がるそうだよ」
「もし皆さんの家にあれば、夏先生が買い取るそうですよ。おっほほほ……」
・・俺ぁ、婆ちゃんに訊いてみるべぇ・・
・・わしも親父に訊いてみよう・・
・・俺も家に帰ったらお袋に訊いてみよう・・
三人三様に欲を出している。
「夏先生がおっしゃるには、日本の方はまだその価値に気が付いていないだろうって」
「否、それはないと思います。最近テレビでも骨董品を題材にした番組が人気になっていますから」
「あら、まあ……。えっ? はいはい、わかりました。夏先生のお話では、日本の翡翠も中国で高く売れるそうです。なんでも十年でその価値が千倍になったそうです」
「せ、せん、千倍……」
「一万円が、いっ、いっ千万円……。ひょえ~」
邑中が目を剥いた。
「邑ちゃん、君ン家にはありそうだねぇ。これからはもっともっと仲良くしようねぇ」
「要ンね」
・・翡翠か、確か、お袋の帯止めに付いていたような気がする。むふふふ・・
峪口も密かに微笑んだ。
・・そういえば、親父がいつだったか、これは翡翠といって、とても高いものだとゆってたな・・
・・俺ぁ家の蔵にデッカイ翡翠の置物があった・・
再び、三人三様に獲らぬ狸のなんとやら……。
などと五人が楽しい時間を過ごし、席を立ったとき、時計は既に十時を少し廻っていた。
2
峪口は施川と邑中に目配せをしてから、
「夏先生、王莉さん、ご馳走様でした。とても楽しく有意義なお話を聞かせていただき、ありがとうございました」
と礼を言うと、施川と邑中も丁重に礼を述べた。
「まあ、もうこんな……。夏先生、皆さんお帰りになるそうです」
まだ飲み足りなさそうな夏に、王莉が促した。
「峪口さん、お送りしなくとも大丈夫ですか?」
「ええ、もちろん大丈夫です」
と応じる峪口に、
「おい、峪口ぃ、ほんとにでぃじょうぶかぁ?」
と邑中が不安げに囁いた。
「でぇじょぶだぁ」
「ほっほほほ……。そうでわね。もう六年間も中国にお住いですものね」
「ははっ…、でも、ちっとも中国語が上達しなくて」
峪口は自嘲気味に言い、頭を掻いた。
「ふんだなぁ。あんまし、頭いくねぇモンなぁ」
「それはお互いさまだんべぇよ、邑ちゃん」
施川が口を挟み、
「ちったぁ気を使え、このヴァ~カ」
と囁き、
「王莉さん、本当に大丈夫ですから、男が三人、否、二人と半分、なんとでもなります」
「ま~あ、邑中さんは半分ですか」
「あんで俺ぁが半分てわかるんだんべ……」
「おっほほほ……、それではここで失礼します。私と夏先生は歩いて帰れますから」
「はい、お気をつけて。では、さようなら」
夏が微笑みを浮かべ、三人に握手を求めた。
その後、施川は王莉に右手を差し出した。
「峪口さん。また、いらしてくださいね。施川さんと邑中さんも、ぜひ……」
王莉は施川の求めに軽く応じて、峪口と邑中とも握手をした。
「上海にいらっしゃるときは、ぜひ連絡をください」
と峪口が言うと、
「日本にいらっしゃるときは、ぜひ連絡をください」
と施川も応じる。
「はい、ぜひ、そうさせていただきます。それでは、またお会いしましょう。皆さん、お気をつけて」
二人は何度も振り返り、その度に笑顔を浮かべ手を振って、去って行った。
3
施川がタクシーの中で呟いた。
「惚れた。わしは王莉さんに惚れた。この手、洗うの止めよう」
と言って、王莉と握手した手を頬に持っていく。
「スケベ、エロハゲ」
と邑中が呆れたように言う。
「けぇけけけっ…、邑ちゃん、焼くな」
「オメェの母ちゃんにゆうど」
「駄目、それだけは駄目。邑ちゃん、あんた、わしの家庭をぶち壊すきぃ」
「へへへへぇ…、自業自得だんべぇ」
「じゃかまし。峪口ぃ、今日も行こうか、マッサージとママんとこ。熊、おまえは糞して寝ろッ!」
「ひゃひゃひゃ…、電話しちゃおっと」
「まだゆうか、こうだ」
と、施川は邑中の首を絞めた。
「ぐるじぃ~、だずげでけろぉ~。だにぐぢぃ~」
「もう少しきつく絞めろ、止めを刺せ」
「おうよ」
「だにぐぢぃ~、オメェまで」
「ダニじゃねぇ。でも施川、もう十一時だぞ」
「ぐるじぃ~。ガクッ、俺ぁ死んだ」
「なあ、峪口ぃ、いいじゃねぇか。なあ……」
「しょうがねぇな。でも、両方は時間的に無理だよ。どっちか選べよ」
「どっちかねぇ…。ええと、可能性が高いのは、と」
施川は一人でブツブツと言った後、
「よし、決めた。マッサージにしよう」
「なんだべぇ、可能性が高けぇって?」
「えっ、むふふふ……」
「一人でニヤニヤ、気持ち悪りぃ男だなぁ」
「エロハゲ。スケベ」
「まだ言うかぁ。この、この……」
「わぁがっだてばぁ、わぁがっだ。許じでげろぉ~」
昨日と同じ二時間コースで、たっぷりと寝た所為か、三人は、小姐に見送られたときには、すっかり元気を知り戻していた。
「行こう! ママのところへ。レッツラ、ゴォー!」
しかし、日本料理店はすでに火が落とされていた。