第一章 你好(ニイハオ)! 北京
第一章 你好! 北京
一、友との再会
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二〇〇×年六月、峪口真一は、四十年来の友人施川克己と邑中和年を誘って北京旅行を敢行した。
峪口は仕事の関係で上海に駐在し、既に五年の歳月が流れていた。
施川と邑中は何度か上海の峪口の許を訪れていたが、ぜひ一度北京を訪れてみたいと熱望していた。
峪口は北京も何度となく訪れていたが、二人に雄大な“万里の長城”を見せてやりたいとの思いから、忙しい最中であったが、要望を受け入れることにした。
峪口は駐在先の上海虹橋空港から、施川と邑中は成田空港からの出発だった。
三人は北京空港の到着ロビーで待ち合わせていた。
到着予定は峪口が十三時、施川と邑中は十三時十分であったが、峪口は出発時間が三十分ほど遅れたので、二人は既に到着しているものと思い込み、空港ロビーを探し回った。
しかし二人の姿を発見することができず、峪口は少し焦りを感じ始めていた。
そこでもう一度、ロビーを端から端まで歩いてみることにした。
途中、峪口がフッと脇に目をやると、飛行機の到着を知らせる画面を、食い入るように見つめている二人の男がいた。
施川は身長が百六十八センチ、邑中は百七十センチで二人ともメタボ系の体形である。
邑中の方が施川よりひと回り大きい。
「よお、お二人さん、いたか、いたか」
「おっ、おおっ、た、峪口ぃ~。久しぶりぃ~」
峪口を確認した施川が安堵の表情を浮かべた。
それに気づいた邑中が、
「峪口ぃ~。俺ぁオメェと会えねぇで、このまんま、帰ぇることになるンじゃねぇかって、心配したべぇよぉ。このハゲじゃ、当てんなんねぇしよぉ」
と言って、中途半端に伸びたヒゲ面をクシャクシャに崩して笑った。
施川に言わせると、熊がクシャミをした顔だそうだ。
「おっ、言ってくれるじゃない。わしはもう中国には何十回も来ているンだから、安心して任せなさい」
「ふんとかぁ、峪口ぃ?」
「施川さん、あんたそんなに来ていましたっけ……」
「また、嘘かぁ。精々二、三回がいいとこだんべぇ」
「へぇへへっ…ところで、峪口はわしらより早く着くってゆってなかった?」
「悪りぃわりぃ。出発が遅れて、だいぶ待たせた?」
「いや、たった今着いたとこだ。こっちも遅れてね」
「うんだ、どっかの馬鹿野郎が時間に遅れたんだぁ。ふんで三十分ぐれぇ、飛行機ん中で待たされてよぉ。まぁたく、気が気じゃねぇべよ、こっちはよぉ」
普段穏やかな邑中が、憤懣やるかたないといった表情で不平を言った。
2
「そうか。じゃあ、結果として、ちょうど同じくらいに着いたのか。上海ではこっちも焦ったよ。出発時間が遅れても、なんの説明もないからね」
「まあ、とにかく会えてよかった」
「ここは中国だ。結果よければ全てよし、としよう」
「うんだ、ひと安心だ。ふんじゃ、ホテルへ行くべ。どんなホテルだぁ?」
「うん、インターネットで調べたら、けっこう良さそうなホテルだったよ。邑中君、安心したまえ」
「なんだぁ…、施川、オメェでもインターネットなんてできんのかぁ?」
と、邑中が施川に疑いの目を向けた。
「オメェでもときたか、今どきできねぇ奴を探す方が難しいぞ」
「俺ぁ、自慢じゃねぇけんどできねぇど」
「あんたは別格、算盤があるだろう。それも五つ玉のやつがよぉ」
「そうか、俺ぁは別格かぁ。へへへっ…」
「そうか、よさそうか、それは好かった。うちの会社の藩さんに予約してもらったンだ。安くて良いホテルを、ってね」
「それは助かるわ、薄給の身としては」
「俺ぁ少しぐれぇ高くってもいかんべって、ゆったんだけんどよぉ」
「無視無視。峪口、聴かなくていい」
「はははは……、ええと、タクシー、タクシー、と。すっかり様子が変わっちゃったンで、……あそこだ、乗り場は」
「峪口は何年ぶり? 以前は、よく来てたよな?」
「うん、三年振りになるか。以前は汚い空港でねぇ、ずいぶん綺麗になったモンだ。やはり、上海への対抗意識なンだろうな」
「上海の空港は綺麗だった。デザインが関空とかなり似ていたけど、パクリなんじゃないの、あれ」
「設計が確かフランス人……。ほら、この間壊れて、ニュースになったじゃない。あれとどうも同じ設計者らしいよ。それで、全部再点検したとか、ニュースになっていたな」
「ヘーえ、そりゃ焦るわな」
「ほら施川さん、見てみな、あそこ」
と囁いて峪口は顎をしゃくった。
「うん?」
「あんだぁ?」
「ほら、タクシーらしいのがいるだろう。あれは日本でいう白タク、あんなのに乗ったら豪い目に遭うぞ。以前、総経理と……」
二、運転手は“小悪党”
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「聞いた、聞いた。梨田さんから聞いたことがある。ボラレたんだってな」
「うん。でもあのときは正規タクシーだった。真夜中でしかも大雨だ。お陰で北京のタクシーには悪い印象しかないよ」
一九九六年の夏、峪口と梨田は所用で北京を訪れた。一仕事終えてからの出張で、北京空港への到着は夜の十時を過ぎていた。
空港を出ると外は土砂降りの雨、一時間ほど待って、ようやくタクシーの順番が回ってきた。
二人が乗り込むと同時に、運転手はなんの断りもなく消えた。
日本製の軽自動車で、内装にかなり傷みはあったが、とにかく足を確保したことで、二人は車内でホッと息をついた。
しかし運転手は、なかなか帰って来ない。
トイレへでも行ったかと話をしていると、やがて一人の男を伴って戻って来た。
その男は助手席に乗り込むと、平然とタバコを燻らしている。
“この男は何者でしょう”と峪口が梨田に囁き、二人で悪い推測を巡らした。
仲間たちと大声で談笑していた運転手が戻り、前席の男が誰なのかの説明もなく、タクシーをいきなり発進させた。
だが、五分と進まないうちに大渋滞に巻き込まれて、車はまったく動かなくなってしまった。
交通ルールは滅茶苦茶、右も左もない状態で、道路には車が溢れかえっている。
益々激しさを増す雨、まさにバケツを引っくり返したという形容しかできない。
しかし車はまったく進まない。
気がつくと車内に水が浸入し始めている。
二人の驚きも顧みず、業を煮やした運転手が突然歩道へ車を乗り入れた。
歩道には人がいなかったので、五百メートルほど前進することができた。
だが考えることは誰しも同じとみえて、たちまち歩道も渋滞した。
こうなるともう、二進も三進も(にっちもさっちも)いかない。
時刻はとうに夜中の十二時を過ぎており、ホテル側からのキャンセルも頭を過ぎったが、当時は携帯電話もなく連絡の手段はなかった。
タクシーは、隙間を見つけては割り込むといったことを繰り返し、ようやく脇道の林道に逸れた。
林道に入ると渋滞はなくなったが、今度は悪路に悩まされる。
舗装もされていないデコボコの砂利道を、まるで親の仇でも見つけたように飛ばしに飛ばす。
峪口は頭を強か天井にぶつけて悲鳴を上げたが、運転手はそんなことにお構いなしである。
車が壊れるのではないかと、不安になったものだ。
水しぶきをあげて三十分ほど走ったタクシーは、やがて閑静な住宅街に入って行った。
2
寝静まっているのか、わずかな電灯の光しか灯されていない暗い家々、再び二人を不安が襲った。
と、助手席の男の指示で、とある住宅の前にタクシーは横付けされた。
「いよいよ、くるか……」
囁き合い目配せする二人に、前の席の男が日本語で、
「ダイジョウブ、ダイジョウブ」
と、後ろを振り返らずに言った。
「なんだぁ…? 彼も乗客だったのかぁ…」
峪口はホッとして、梨田に囁きかけた。
料金を支払い去って行く男を見送りもせず、タクシーは再び猛スピードで走り出した。
舗装され整備された道路に出ても、辺りは真っ暗闇。降りしきる雨と暗闇でどこを走っているのか、峪口にも梨田にも皆目見当がつかなかった。
それが一層二人の不安を煽ったが、“相手は一人、いざとなれば”と、峪口は半ば開き直った気持ちになっていた。
すると、急にタクシーは脇道に逸れ、ズズズーッ…と小砂利を踏みしめ、建物の壁際に荒々しく停車した。
・・今度こそくるか、このヤロー・・
緊張が走る。
峪口は拳を握り締め相手の出方を待った。
と、一呼吸おいて運転手が後ろを振り返り、
〔四百元払わなければ、これ以上は行かない。ここで降ろす〕
と訛りのきつい標準語で言い出した。
・・まだ雨が降っているし、デカイ荷物もある。ここがどこなのかもわからない、こんなところで降りるわけにはいかない・・
峪口は冷静に運転手の態度と顔色を観察し、
・・こいつは根っからのワルではない、小遣い銭欲しさの小悪党だ・・
と見抜いた。
しかも辺りに注意を払っても、仲間が出てくる気配はなかった。
峪口は機先を制すべく、いきなり声を荒げて、
「ふざけるな、このヤローッ! 精々、五十元だろうがッ!」
と、日本語で怒鳴り飛ばした。
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するとその男は、峪口の剣幕に気後れしたか、二百元でいいと言い出した。
それで峪口は身を乗り出し、男を睨みつけながら、
「いいから早く出せッ! モタモタしていやがると、警察に突き出すぞ、このヤローッ!」
と、再び日本語で捲し立てた。
すると梨田が、
「峪口君、雨の中だし、こっちも助かったわけだから、二百元なら払ってあげなよ」
と助け舟を出した。
「そうは言っても、百元で十分ですよ。チップぐらいは渡そうと思ってたのに……、百元にしましょう」
と、峪口も矛を収め、運転手に指を一本立てた。
運転手は顔に不満という二文字を浮かべながらもエンジンを駆けた。
峪口は内心ホッとしたのも束の間、五分も走らないうちに“長富宮飯店”に到着した。
ところが男は手前で停車させて、車寄せまで行こうとしない。
峪口は幾度も“あそこまで行け”と促がしたが、男はガンとして車を動かそうとしない。
フロントに訴えられるのを恐れているのだ。
もしホテルがこのことを知れば、料金を受け取れないのは当然だが、この運転手は併せて職も失う。
すると梨田が、
「雨も小降りになったし、ここでいいよ」
と再び助け舟を出した。
小悪党にまで温情を寄せる優しい男だ。
峪口が“領収書”と言うと、男は素直に白紙の領収書を差し出した。
そこには会社名が書いてある、間抜けな男である。
「ナンバーを覚えましたから、フロントに訴えてやりましょうか」
と、峪口が梨田に問うと、
「いいよ、いいよ。雨で稼ぎが少なくって、魔が刺したンだろう」
と首を振った。
北京のタクシーと比べると、上海のそれは実に安心のできる交通手段である。
まあ、多少の荒っぽさを除けばだが……。
三、ホテルはどこだ?
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「日本にも遠回りをする輩はいる。わしが酔っ払って乗ると、いつもより料金が高いのが普通だ。うん」
と言う施川に、邑中がいつものように揚げ足を取る。
「なにが、うんじゃ。そらぁ、オメェがあれだんべぇ。酔っ払ってよ、間抜けな面して、鼾掻いて寝てっからだんべぇ」
「そりゃまあ、そんだけんどよぉ。寝てっからって、遠回りされてもしょうがねぇ、ってもんでもねぇべ。あれ、邑中の訛りがうつっちゃったよ」
「ほら、漫才やってねぇで、行こう。正規の乗場から乗れば大丈夫だ。それに、昔とは違うはずだからね」
比較的綺麗な車両を選んで乗り込んだ。
「……えっ、なに、わからない!? なんでぇ?」
「ど、ど、どうした?」
慌てると施川にはどもる癖がある。
「うん、ホテルの名前は聞いたこともないって……」
「なんだぁ?」
「ありゃ、ちゅうことは、あまりいいホテルじゃねぇってことだな」
「ど、どうすんだぁ?」
「まあまて、住所を見せてみるから……」
〔どうだ、わかるか?(北京語)〕
〔うーん……〕
〔わからないのか?〕
〔否、住所はわかる。だがそんなホテル、そこら辺りにあったかなぁ…〕
「峪口ぃ、オメェ、住所を間違ってンじゃねぇべな」
「そう言われても、インターネットで打ち出してもらったンだから、間違いはないと思うけど……」
「わしもネットで調べたが、けっこう街の中だった」
「なんだぁ…、ネットなんてできんのかぁ。格好つけてよぉ、峪口なら分かっけど。施川ぁ~オメェほんとにできんのかぁ~。嘘だんべぇ」
「熊、あんた、ネットってなんだか知ってンの?」
「知んねぇ」
「運転手にホテルの電話番号を教えたから、彼が調べてくれるそうだ」
「北京の人じゃないンじゃないの?」
「そうかも知れないな。……うん、うん、だいたいわかったって。……否、違うって、地元の人間だって」
「ふぅ~ん、……北京原人か?」
「熊、おまえこそ、北京原人そのまンまじゃねぇか。教科書で似顔絵を見たことあるぞ。峪口ぃ、運転手、新人じゃないのか?」
「否。ほら、顔写真があるだろう。……違う、違う。助手席のところ」
「ああ、あれか」
「そうそう。あの写真の下に星がついているだろう、三つ。あれは熟練したベテランの証だ」
「三ツ星か、ふんじゃ、“ミシラン”だんべぇ」
「見知らん? それをゆうンならミシュランだろう。まあ、君にしては難しいこと知っているじゃないの。またあれか、村のなんとか食道か」
「あれぇ~、施川ぁ、オメェよく知ってンなぁ。偶には行くんか、レストラン“桃江ちゃん”へ?」
「誰が行く、あんな小汚ねぇ食堂。なにがレストランじゃ。あれがレストランなら、家の台所は帝国ホテルじゃ」
2
施川はかつて一度、家族で入ったことがあるそうだ。
しかし、あまりのサービスの悪さに奥さんが切れて、出された料理を口にせず飛び出したとのことだ。
施川は料金を払ったと主張しているが、恐らくそれはないだろう。
「じゃあ、なぜ、わからねぇんだろう? 不安になるなぁ…」
施川は首をかしげた。
「ふんだなぁ~。でぇじょうぶだべかぁ? 変なことされんじゃあんめぇな」
邑中も不安げだ。
「なんじゃ、変なことって? まさか、あんたに言い寄る奴はいねぇだろうが」
「ははははっ…、まあ、わかったらしいから、連れて行ってくれるだろう。おい、施川。あんまり笑わせるなよな」
「まぁ~たく、熊みてぇな面引っさげて、なにが変なことじゃ。パンダとでもジャレてろ。ところで峪口、ホテルまでどのくらいかかる?」
「へへへっ…、それ、おもしろそうだな。施川ぁ~、パンダはどこだ? 連れてきてくんどぉ」
「へいへい」
「一時間ぐらいだったと思うよ」
「けっこう、距離があるンだなあ。しかし良く整備されているな、この道路。緑も豊だし、整然とポプラが植えられている。あっ、そうか、オリンピックを意識して整備しているンだな」
と、施川は窓の外をキョロキョロと見回した。
「十年前はこの道路がなくてなぁ…、林の中のあの道を走ったンだ。ちょうどそのころに植林してたけど、ずいぶん育ったモンだ。舗装もされてなくて、水溜りがボコボコあってさぁ。それを避けもせずに滅茶苦茶飛ばすから、ケツが痛てぇのなんのって」
と、峪口は視線を外に向けたまま、感慨を込めて話し続けた。
「車はシャレード、ダイハツのやつ。少し前まで北京のタクシーは、ほとんどがシャレードだった」
「小さいやつね。でも、なぜかなあ?」
施川が素直に疑問をもらした。
「あんなの、女ぐれぇしか乗んめぇよぉ」
「まあ、御大尽様の家じゃそうかも知れないけどな」
「俺も最初は、なぜだろうと思った。でも考えてみれば、ダイハツは早くに中国に進出したから、ということだと思うよ。こちらでは、井戸を掘った人を大切にするってゆうだろう」
「うん、それ、わしも聞いたことがある」
「なんじゃそら。今時、井戸なんて使ってとこあんめぇ。オラチ(俺の家)も二十年以上もめえ(前)から水道だぁ。峪口ぃ、オメェらち(家)は、まだ井戸を使ってンのかぁ?」
「峪口、無視、無視」
「ははははっ…。だから今でも、田中の角栄さんは、大変なものさ。この前、娘の真紀子さんが北京へ来たけど、国家主席まで出て来るンだからね。下手な大臣なんかよりよっぽど歓迎されるンだ」
「ヘーえ、そうゆえばさぁ、上海はサンタナだっけ、フォルクスワーゲンの。タクシーがあればっかりだったのは、同じ理由かな?」
「ボロクソワーゲンのサンタナ……、んじゃ、高級車だんべぇ」
邑中は外国人にも弱いが、外車イコール高級車というイメージがあるようだ。
「こっちじゃ、それほど高級というイメージはないよ。いろいろと裏もあるンだろうが、基本的には同じことだと思う。中国では欧州系、特にドイツが強いな」
「トヨタとか、日産は?」
「出遅れたな。最近になって頑張りだしたけど……。ホンダは、広東省の広州への進出が早かったから善戦しているよ」
「ホンダじゃオートバイだんべぇ」
邑中には独特の価値観があるようだ。
しかしそれは、かなり古い時代に培われたもののようである。
四、落ち着きのない運転手
1
三人を乗せたタクシーは空港から三十分ほど走って、ようやく北京市内に入った。
「やっと市内に入ったな。もう二十分もあれば着くはずだ」
「そう、それにしても道路が広いなぁ。片側四車線はあるンじゃないの」
「うんだなぁ、日本にはねぇなぁ」
峪口も上海から北京へやって来ると、その広さになにやらホッとする。
上海市内の道路は、昔の農道をそのまま使っている。
さのため複雑に入り組んでいて、とてもわかり難い。その点北京は、碁盤の目のようにきっちりと区画整理されている。
初めて訪れても、余程の方向音痴でない限りは迷子になることもない。
「以前はこの広い道が自転車で三分の二ぐらい埋まっていた。それはもう壮観だったよ」
「それ、テレビで見たことあるよ。この広い道の三分の二ねぇ…」
「俺ぁもテレビで見たことあんど」
「そうさ、車が遠慮しながら走っていた。今は昼間だからいないけど、朝晩は今でも凄いはずだよ。それとも、なんか規制されているのかも知れないな」
「上海と違って、ゆったりしていていいや」
「んだなぁ。俺ぁも北京の方が好きだぁ。上海はコセコセしてていけねぇ」
と言って、邑中が顔をしかめた。
「あんたのとこは広いからな。敷地面積はどのくらいあるンだ?」
「大したことはねぇ、一町歩ぐれぇのもんだぁ」
「一町歩……、ちゅうことは三千坪?」
「んだなぁ。普通だんべぇ」
「ひょえーッ! 普通ではございません。わしに少しわけてくれ」
「ええよ、百坪もありゃええか」
「へいへい、それにしてもこの運転手、うるさいな。うん? お、おい峪口ぃ、おい、ってばぁ。ハンドルから手を放して運転してるぞ」
施川は驚きの表情で峪口に訴えた。
「えっ? あッ! ほんとだ。まったく、馬鹿ったれがぁ。ちょっと注意するから」
「百坪、……あんだぁ?」
「熊、それどころじゃねぇぞ」
「とにかく停めろ、って言ったらら、慣れているから大丈夫だって。ちっとも変わってねぇや、以前と」
「さっきから車線変更ばかりしてるもの。落ち着きがねぇンだよ、こいつ」
「ふ、ふんとだぁ、施川と同じだぁ。落ち着きのねぇ野郎だぁ」
「施川と同じは余計じゃ、ボケ」
必要とも思えないのに、頻繁に車線を変更する運転手は危ない。
峪口は昨年上海で痛い目に遭ったことを思い出した。
2
上海の生活では車が欠かせないので、自ずとタクシーの利用機会が増える。
その結果、一年も暮らしていれば、二度や三度は接触事故に遭遇する。
「本当に三ツ星かよ、まったく……」
峪口は、その無責任さに怒りを露にした。
「偽造じゃあんめぇ?」
「よくやるからな、そうかも知れん。あッ!」
「えッ! なに?」
「施川、邑中。あれ、あの建物、懐かしいなあ。あれは長富宮飯店と言って、日本のニューオータニが経営するホテルだ。見かけはパッとしないけど、サービスはいいンだ」
「なんだぁ、そんなことかぁ。脅かすなよぉ、ああ、吃驚らこいたぁ」
峪口は数年前、独りで十日以上滞在したが、その間、なんの不自由も感じることはなかった。
以来、定宿にしていた。
「さすがニューオータニ。やっぱ一流は違うな」
「高ぇんだべぇ?」
「安くはないな。只、上司が安全第一、ちゃんとしたホテルに泊まりなさい、ってゆう考え方の人だったからね」
「いい上司だな。施川、オメェんとこはどうだぁ?」
「わしんとこは、とにかく安ければいい。峪口のとこと違って、なにしろ貧乏会社だからな」
施川がサラリと言い放つと、
「ほうかぁ、気いつけろよ」
邑中が真面目に応じた。
「ここからだと、ホテルはもう直ぐのはずだ」
「早く降りてぇなぁ。この運ちゃん、危ねぇもん」
邑中が不安そうに眉をしかめた。
「ぶっくらす(殴る)か?」
施川が邑中の口振りを真似て言うと、
「駄目だぁ、危ねぇよぉ。止めろよぉ、施川ぁ……」
と、邑中は慌てて制した。
「バァ~カ、冗談に決まってるだろう」
「いんや、オメェは信用できねぇ」
「へいへい、わかりやした」
そんな二人のやり取りを無視して、
「ほら、あのホテル、王府飯店てゆうんだ。見た目は豪華だろう。でもな、施設やサービスは並以下、最近は変わったかもしれないけどね」
峪口は久しぶりの北京に懐かしさから、見慣れた建物が出てくると、いちいち二人に説明を加えていた。
「泊まったことあんのか、いくらぐれぇすんだぁ?」
「日本の旅行社を利用すると、一泊三万円以上は取られるンじゃないかな。いや、もっとかな、時期にもよるけどね」
「あれ、こんな細い道に入って行くンだ」
「ここかな?」
「違うべぇ。ここはどっかの敷地だんべ」
「ほんとだ、ここじゃないな。台北ホテル、ってなっているもの。俺たちのは、ええと……、北京、金銀、凱悦、酒店」
「なんだか凄い名前だな。あっ、なるほど、裏に抜けちゃったよ。まだ、行くのかよ。道がクネクネしていて、わし一人じゃ戻れねぇな」
「あららぁ~、まだ入って行くのよ。あれかな、……否、違うな、また通り過ぎちゃった」
さすがに峪口も不安になってきた。
五、北京金銀凱悦酒店
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「あれだんべぇ、金銀なんとかかんとか、って書いてあるべぇ」
「あれかぁ……、あれはいくらなんでも違うだろう。あれじゃまるで場末の旅館だぞ。・・・…あらぁ~、そうだなのぉ…」
施川は見栄えの悪さに、失望感を露に呟いた。
「らしいな……、悪いなぁ」
「いいって、いいって、気にすんなよ」
「まさか、こんなホテルだと思わなかった」
「否、わかんねぇべ、中はものすげぇきれぇかも知んねぇ。とにかく、入ってみるべぇ」
こんなときの邑中はとても優しい。
「そうだな。もしダメだったら、他を探そう」
峪口はフロントに行って予約の確認をすると、渋い顔で二人の許へ戻って来た。
「で、なんだって?」
「本館の部屋が一杯だから、別館でもいいかって」
「別館があるのか。いいよ、そっちでも」
「増設して、今日からオープンだそうだ」
「ふんじゃ、きれぇだんべぇ」
少し希望が出てきたかと、邑中の顔に笑みが戻った。
「見てから決めるって伝えたけど、いいだろう? この裏だってさ、案内するそうだから……」
「うんだ、見てから決めんべぇ」
細い路地を抜け、白亜の建物に導かれた。……が、
「えッ! ここぉ…? まだ工事中じゃないか。なにが今日オープンじゃ」
施川が不満の声をあげた。
「ふんとだぁ、ふてぇ野郎だ」
邑中も同調する。
「五階は完成しているそうだけど、見てみる?」
「見るだけ見てみんべぇ」
三人は小姐(女性従業員)に導かれ、フロアーに乱雑に置かれている建築資材を避けながら、エレベーターに向かった。
しかし、五階でエレベーターを降りた途端、
「臭いッ! これって、塗料の臭いだろう?」
施川が顔をしかめと、
「くせぇーッ!」
と叫んだ邑中が鼻を摘む。
「駄目だ駄目だ、これは駄目だ。頭が痛くなる。新築の場合、最低一ヶ月は寝かさないと、やばいぞ。日本でもいろいろと問題になっているけど、中国はもっとすごいと思うよ」
2
峪口は上海駐在生活の間中、住宅の内装の悪さに驚かされ続けてきた。
峪口が赴任して最初に住んだ徐家匯のマンションは、外国人向けの高級な部類に入るものだった。
しかし新築であったため、入居して一年近くも、昼夜を問わない内装工事の騒音に悩まされ続けた。
こちらの引渡しは内装なしが一般的で、個人で購入しても内装は後から自費で行なうことになる。
その新築マンションも二年目に入ると、あちらこちらの壁に亀裂が走り、台所の壁に張られたタイルが剥げ落ちた。
夜中に度々、ガチャーンという音で起こされた。
一見豪華なシャンデリアも、電球が判で押したように一週間に一個切れた。
度々そんなことがあって、不安を感じたこともあり、駐在も三年目に入ったのを潮時に、気分一新と引越しを決意した。
いくつか下見したマンションの一つが、レンガ造りの瀟洒な建物で中庭には噴水と彫像の数々、ヨーロッパと見紛う雰囲気に峪口は即決した。
しかしそれが間違いの本だった。
入居して直ぐに水漏れと漏電に見舞われる。
半年間に水漏れが三回、漏電二回、ガス漏れが一回という惨状に、命の危険さえ感じて、再度引越しを決意した。
「まあ、とにかく部屋を覗いて見ようか。期待をせずに……」
疲れた所為で他に換わるのが面倒と思ったのか、
「寝られればいいよ。シャワーは使えるンだろうな」
と、施川は独り言のように呟いた。
「駄目だ、これ。お湯が出ないよ。それにこの臭い、耐え切れない。殺すきかよ、まったく。他のホテルを紹介するように交渉するから」
峪口が切れた。
「そうしてくんどぉ」
我慢強い邑中も即座に同意した。
峪口は案内の小姐に、他のホテルを紹介するようにと強く要求した。
「どう、紹介してくれるって?」
「本館にも部屋はあるって……。なら、最初からそう言えってンだよ、まったく」
「どうゆうことよ?」
「恐らく、週末だから飛び込みの客も多いンじゃないかな。俺たちネットで予約したろ。それで料金が少し安くなっているンだ」
「なるほど、それで工事中の部屋に押し込もうとしたのか。まったく油断もスキもねぇな、中国人は」
「うんだ、うんだ。銭はあるど」
本館の部屋に案内された三人は、まずインフラを確認した。
「それにしてもひどい部屋だなあ。おーい、施川ぁー、お湯は出たかぁー? 邑中の方は、どうだぁー?」
『おーう、出るぞぉ。わしの部屋は大丈夫だぁー!』
『俺ぁんとこは、駄目だぁーッ!』
「そうか、施川の部屋だけか」
「なんだ、二人とも駄目か。で、どうするよ?」
施川が峪口の部屋を覗く。
「なんでだよぉ~? なんで、施川の部屋だけでぇじょうぶなンだよぉ~。まったく、オメェは悪運が強ええな。腹立つなぁ」
邑中もやって来た。
「くくくっ…、悪運じゃねぇの、強運とゆってくれ、強運とよぉ。それと普段の行いよ、行い。わかった、熊ちゃん?」
「わかんねぇ」
「今、修理の人を呼んだから、少し待っていてくれ。直らなかった部屋をチェンジするから」
3
直ぐ修理に行くという返事をもらってから、小一時間が経過……。
イライラして待つ峪口の部屋に、あまり標準語の通じない小姐が来た。
「おっ、ようやく来たか」
声を聞きつけた邑中と施川が、峪口の部屋に集う。
「どうだ、直ったか?」
「頭にくるよ、まったく。一時間も待たされて、来たのが掃除のおばさんだよ。水道から水がタラタラしか出ないのに、出る、出るって、言い張るンだもの」
「頭にきたから、“部屋替えろ”って怒鳴ったら、慌ててマネージャーを呼びに行った。悪いけど、もう少し待ってくれる」
「いいよ、わしは部屋で横になっているわ。終わったら起こしてくれ」
「ふんじゃ、俺ぁもそうすべぇ」
それから三十分ほどが経過した。
「おーい! 二人とも起きているかぁー?」
『おーう! 俺ぁ寝てねぇどぉー!』
『わしも起きているぞぉー!』
施川と邑中がアタフタと峪口の部屋にやって来た。
「もう、四時になっちゃったよ。悪いなぁ…」
「いいって、いいって。しょうがないもの。で、直ったのかい?」
「いいや。マネージャーの説明だと、内装工事の影響で出ないだけで、夜になれば出るってゆうンだ。邑中の部屋も同じだそうだ」
「そら嘘だ。だってわしの部屋は、ちゃんと出ているもの。隣だぜ」
「まあ、いいさ。戻ったときに出なかったら、部屋を替えてもらうことになっているから。さあ、行こう」
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「それにしても変な造りだんべぇ、こん建物。部屋が窓側と裏側の間にもう一つ、三列になってるべぇ」
邑中が怪訝な表情を浮かべた。
「俺ぁ、やだなぁ。この部屋、廊下から、中が丸見えだんべぇよぉ」
と言う邑中の言葉を受けて、
「両側が部屋で外は見えないし、それに廊下から部屋の中が丸見えじゃ、キスもできねえか。へへへっ…」
施川が下卑た笑いをもらした。
「うんだ」
「おっ、きたなエロ豚」
「なにゆうだ、オメェが始めにゆったんだべぇ。エロハゲ」
「くくくくっ…、エロ豚にエロハゲか」
と笑う峪口に、
「おかしくねぇ、エロ河童」
二人が声を揃えて反撃した。
「おっ、きついお言葉だこと。以前は事務所用の建物だったらしいよ。それで変な構造になっているンだそうだ。オリンピックの需要を見越して、一儲け企んで改装したンだろうな」
北京ではどんどんホテルが建造される一方、既存物件も改装されてホテルに生まれ変わっているという。
猫も杓子もオリンピック、オリンピックである。
「わしの部屋は、真ん中に太い柱があって、邪魔で、邪魔で……。峪口の部屋は?」
「同じだよ」
「俺ぁんとこも、同じだぁ」
「そうか、同じか。じゃあしょうがねぇな。それにしても来ないね、エレベーター……」
と愚痴を言って、施川は忙しなくボタンを押した。
「一台しかねぇんだと。それに遅いし、荷物用だな、これは。なにが三ツ星半だよ、ふざけやがって。帰ったら文句を言わなきゃ」
峪口もバンバンと扉を叩いた。
「勝手に星つけてンだべぇ。さっきの運ちゃんと同じでよぉ」