パンプキン・スープ
毎朝目が覚めると、ナナの後ろ姿が見えた。
しゅんしゅんとヤカンから湯気が噴き出しあわてて火を止めてカップに湯を注ぐ。部屋いっぱいに広がる、少し苦いめのコーヒーの香り。
手早く玉子をかきまぜ、スクランブル・エッグを作り、レタスとプチトマトを飾る。トーストが焼き上がり、たっぷりバターとジャムをのせてテーブルに並べると、満足そうにエプロンをはずした。
ナナが動くたびに、長い髪が背中で揺れる。それだけで、僕の汚い部屋の空気がきれいになるような気がした。
目覚まし時計のアラームを止めて、ずいぶん時間がたった。ナナはあきれ顔で振り返る。
僕はあわてて毛布にもぐり、まだ寝ているふりをした。
ナナはふふっと笑い、僕のそばにやってくる。優しく毛布をめくり、僕の顔を覗き込んだ。
長い髪が頬にすれてくすぐったい。それを我慢すると、ナナのおはようのキスがもらえるのだ。
「……」
僕は頭を掻きながら起き上がる。
そうだ。ナナがいなくなって、今日で三日めだっけ。
たった三日で、僕の部屋はまるでゴミ溜めのように散らかっていた。朝から不快な光景を見てうんざりする。
窓の外ではゴミ収集車のアナウンスが、赤とんぼのメロディと混ざって鳴り響いている。今から片付けても、どうせまにあわない。
それよりも、もうゴミの回収に来る時間なのか!
僕は大急ぎで顔を洗い、ゴミの中から比較的きれいなシャツを選んで着替えた。
その間に冷凍庫からマグカップを取り出し、レンジで温める。非常食として、いつもスープを冷凍しているのだ。
これは、一人暮らしをはじめたときからの習慣で、ナナが部屋にきてからも続けていた。
ナナがきてからは、そんな非常事態になることはなかったけれど。
「あちっ」
冷ますひまもなく、靴下のもう片方を探しながら飲み干した。
どうにかいつものバスにまにあい、ほっと一息つく。なんで朝からこんなに疲れるんだろう。
車内はそれほど混んではいなかったけれど、空いているシートもなかった。
吊り革を握り、その腕に頭を乗せるようなかっこうで、ぼんやりと窓の外を眺める。
街の景色は何一つ変わらないのに。ナナだけが消えてしまった。
あの日も、いつもどおり夜遅く帰宅した僕を、ナナは寝ずに待っていてくれた。
ベッドに寝そべり、最新のファッション誌をめくりながら。僕が部屋に入ると、嬉しそうに笑って『おかえり』と言ってくれた。
それから温めなおしてくれた晩ごはんを食べ、歯磨きをしてナナの隣にもぐりこんだ。おやすみのキスをして、明日も早いからと、すぐに眠った。
そして、朝目覚めるとナナはいなくなっていたのだ。
読みかけの雑誌も、きちんと片付けられた化粧品の瓶も、大好きな小麦胚芽入りのビスケットも、全てそのままだった。
お気に入りのワンピースと、帽子と、ブーツと、少しの小銭と、ナナだけ消えていた。
ちゃんと探したいけれど、時間がない。もう、何連勤めか数えるのが嫌になった。
おまけに、特別セール期間だとかで、通常より一時間も閉店が遅いのだ。
僕は、若者向けのファッション・ビルの中の、安物の雑貨屋で働いている。
中学生や高校生の女の子が好きそうな、アクセサリーや小物、化粧品なんかを扱っている。この化粧品、きっと体に良くないだろうなと思うけれど、なぜか一番人気だ。
季節ごとに色を変えて仕入れている。
僕はそんな店の、店長なのだ。
「おはようございまっス」
アルバイトの小林くんが、朝から元気に話しかけてくる。
「おはよう」
「大丈夫っスか? なんか日に日に顔色悪くなってまスよ?」
大丈夫なわけがない。君に店を任せられるなら、僕はたった一日でも休みがとれるんだ。
「まだナナちゃん、見つからないんスか」
笑いながら聞いてくるのが腹立たしい。
でも、この店は小林くんのおかげで赤字にならずに生き残っている。それも腹立たしいが、辞めてもらうわけにはいかない。
服装と話し方はおかしいけれど、仕事熱心で何より顔がいい。
なぜナナが小林くんより僕を選んだのか、よくわからない。
小林くんのように男前ではないし、女の子と話すのが苦手だし、できれば仕事はさぼりたい。
売上ノートをつけながら、ちらりと小林くんのほうを見た。
届いたばかりの段ボールを開け、中の商品を一つずつ丁寧に検品している。それが終わると、どうすればその商品が一番良く見えるか考えながら、楽しそうに棚に並べた。
なんでそんなにニコニコ笑っているんだろう。
「よっシゃあ! できたぁ」
二歩さがって腕を組み、うんうんとうなずきながら完璧な棚を眺めている。
うん、すごい。
店の前を通りすぎようとした女の子をつかまえ、一緒に棚を眺めだした。と、思うと、女の子は嬉しそうに笑って、入荷したばかりのネックレスをレジに持ってきた。
うん、すごい、すごい。
僕は昼から少し店を抜けさせてほしいと、小林くんに頼んでみた。
「いいっスよ。ナナちゃん探しにいくんスか?」
いひひと笑い、了承してくれた。
昼間なら、ナナは学校にいるだろう。服飾の専門学校に通っているのだ。
門の前でしばらく待っていると、おしゃれな生徒のグループが出てきた。
僕がナナのことを尋ねると、愛想良く『毎日ちゃんと来てますよ』と教えてくれた。
なんだ。とりあえずは無事だったのか。
それから三時間待ったが、ナナは出てこなかった。
あたりが暗くなりはじめ、校内に残っている生徒も少なくなった。
僕はまた別の生徒に尋ねてみた。
「え、ナナちゃん? もうずいぶん前に帰りましたよ?」
僕は驚いた。たとえ全生徒が一斉に門に押し寄せてきたって、ナナを見つける自信があった。
念のため、もう一人聞いてみたが、やはり同じだった。
(どういうことだ……?)
僕は途方に暮れてとぼとぼと歩いた。
学校からすぐ近いナナのマンションに寄ってみたが、見上げた部屋の明かりはついていない。
なんだか、がっくりと疲れた。きっと簡単に見つかると思っていたのに。
いつまでも店を離れているわけにもいかないので、諦めて戻った。
小林くんはきちんと今日のノルマを達成していてくれた。
「どうでシた? ナナちゃん、いまシた?」
答える気力もなく、首を振った。
「俺も、何かわかったら連絡しまスね」
「ありがとう」
そして時間がきたので、小林くんには帰ってもらった。
ぼんやりとレジのカウンターにひじをついて、閉店時間を待つ。こうしてるうちに、ナナがひょっこり覗きにくるんじゃないかと期待しながら。
しかし、誰もこないまま蛍の光が流れ、僕はさっさと電気を消してレジを閉めた。本社に売上を報告し、簡単に棚の上を整理して店を出る。
一日が終わるごとに、疲労が重いヨロイのようになって僕を包んでいく。バスのシートに深く身を沈め、長いため息を一つついてみた。よけいに、疲れた。
アパートの階段をのぼり、ジャケットのポケットから鍵を取り出す。
ドアの覗き穴から、小さな光が漏れていた。
「ナナ!」
急いでドアを開け、部屋に飛び込んだ。
ベッドに寝そべってビスケットをかじっていた女の子が、ゆっくりと起き上がって僕のほうを見る。
僕は彼女を力いっぱい抱きしめた。
温かい。
ナナのにおいがする。
「ナナ……探したんだ……よかった」
しかし彼女は身をよじらせて僕の腕からすりぬけた。
「……誰?」
僕は呆然とした。
なんで?
どうやって?
見知らぬ女の子が僕の部屋にいるんだ?
「えっと……誰?」
もう一度聞く。
彼女は黙って僕をきつく睨みつけた。
その瞳はナナに似ている。鼻も口も似ている気がする。首筋にある二つ並んだホクロもナナと同じだ。
だけど、ナナじゃない。
「……タエコよ」
トマトのように真っ赤なベリーショート。なぐり書きの文字の入ったTシャツに、破れたジーンズ。
ナナの顔で、そんなかっこうするなよ!
それはまるで、いつかナナが雑誌を見ながら『このモデルが好きなの』と言ったシビルのようだった。
君は、長くてきれいな黒髪が自慢だったじゃないか。
シンプルなのにおしゃれに見える服が好きだったじゃないか。
なんでそんなかっこうしてるんだ。
「なに、じろじろ見てんの」
彼女はナナの声で冷たく言った。
「ねぇ、まって。ここは僕の部屋だよ。君、どうやって入ったの?」
僕はひどく混乱していた。
「玄関から入ったのよ」
……きっと、カギを閉め忘れていたんだろう。
「で、なんで、その……僕の部屋に? えっと、知り合いじゃないよね」
タエコと名乗った女の子は、興味なさそうにまたベッドに寝そべり、雑誌をめくった。
「どうだっていいじゃない」
僕はやれやれとため息をついた。もう、どうだっていい。
ジャケットをハンガーにかけ、床に落ちていたタオルを拾い、シャワーを浴びにバスにこもる。
どうだっていいさ。ナナが戻ってきてくれたら。他のことなんて、どうだっていい。
さっと汗と疲れを流し、濡れた髪のままベッドにもぐった。
「ちょっと! 冷たいわね!」
タエコは僕につかえないように、壁ぎりぎりに身を寄せた。
「……ごめん、明日早いんだ。もう寝させてくれ」
タエコはまだ何か言っていたようだけれど、僕の意識はすでになかった。
ナナは、僕の店に来た客だった。
秋のはじまりの日曜日、中学生も高校生も、制服とは違うきらきらした服を着て、楽しそうに歩いている。
小林くんが昼休みに出ていたので、僕はカウンターにひじをついて、ぼんやりと通路を眺めていた。
少し客足が途切れたときだった。
長い黒髪、紺色のワンピース、やせっぽちで顔色の悪い女の子がふらふらと店の奥に入ってきた。
こういうコが、あやしいのだ。
ときどき、商品がなくなる。額はたいしたことないが、塵も積もれば、だ。
僕は棚の陰に隠れるようにして、彼女の背中を追った。
いまどき珍しいほどの、きれいな髪だ。
彼女は壁にかけている帽子をじっと見つめた。
左上から順に、右下までひととおり見終えると、再び左上に視線を戻した。
おいおい、いまどきどんな趣味だよ。
いったいいつから売れ残っているのかも忘れてしまった、ヒョウ柄のテンガロン・ハットだった。
持っていきたきゃ、持っていけばいいさ。
僕はたまたま目についた棚の埃をはらい、またカウンターに戻ろうとした。
彼女は何度も手を伸ばしかけては躊躇し、ため息をついていた。
僕が目を離した一瞬に、そのヒョウ柄のテンガロン・ハットを手にとった。
僕は目を疑った。
すっと頭にのせ、鏡の前でほほえんだナナは、完璧だったのだ。
あの地味な女の子が、まさか。僕の心臓は高鳴る。まるで、彼女の周りだけ空気が違う気がした。
彼女は動けずにいる僕に気付くと、慌ててハットを脱いで元に戻した。
思わずため息が出る。
彼女は顔を赤くして、足早に店を去った。
僕はヒョウ柄のテンガロン・ハットを手にとってみる。まだ、シャンプーのにおいが残っている。
もう一度ため息をつき、僕はそれを持ってカウンターに戻った。
このハットは、彼女のものだ。僕はそう確信した。
透明の袋に入れて、お取り置き伝票を貼り、ストックの一番上の棚に置いた。名前も、連絡先も、次にいつ来るかもわからないけれど。
これは彼女が買うべきだ。
小林くんが戻ってくるまで、僕は一人でうきうきしながら、またさっきの女の子が戻ってこないかと期待した。
「戻りまシた」
ち、小林くんが帰ってきた。
次は僕が昼休憩に出る番だ。
小林くんには、完璧な女の子の話はしなかった。
もしも僕がいない間に彼女が戻ってきたら、きっと小林くんは僕が入り込むすきもないくらい、彼女と仲良くなってしまうだろうから。
それは正解だった。やはり彼女は戻ってきていたのだ。
「店長、あのずっと置いてたヒョウ柄のテンガロン、売れたんスか?」
ヒヤリとしたけれど、僕は平静を装った。
「あ、いや、もう売れないかと思って、片付けたんだ」
見つかる前に、お取り置き伝票をはずさないと。
「なんだ、まだあったんスか。いや、さっき地味な女の子がえらいがっかりしてたんスよ」
まさか、諦めて帰ったんじゃ……。
「で、在庫がないか会社に確認してから、また連絡スるってことで、連絡先聞いときました」
「でかした!」
僕は初めて小林くんに感謝した。
小林くんは怪訝な顔をしていたけれど、かまうもんか。
またあのコに会える。あのハットをかぶってもらえる。
僕は急いでメモに書いてある番号に電話した。
彼女は緊張したように、ぽそぽそと小声であいづちをうつ。しかし、ヒョウ柄のテンガロン・ハットがまだあるとわかった瞬間だけ、ほうっと笑った。
次の日の夕方に、さっそく買いにきてくれた。
僕は袋からハットを取り出し、値札を切った。
どうぞ、と渡すと、彼女はにっこり笑って頭にのせた。
まるで、失った体のパーツを取り戻したように、それはしっくりと馴染んでいた。
「どうもありがとう」
うれしそうに店を出る彼女を引き止め、僕はデートに誘ってみた。彼女はひどく驚いたけれど、僕だって驚いたんだ。
日頃、女の子と話し慣れていないせいで、順序も何もわからなかった。けれど、いきなりデートはないだろう、と後悔した。
意外なことに、彼女は少し迷っただけで、OKしてくれた。
初めてのデートは、何を話したのか覚えていない。なのに、きちんと次のデートの約束をしていた。
二回めも、三回めも、必ず次に会う約束をしていた。
気付くと半年がたち、いつのまにかナナは僕の部屋で暮らすようになっていた。
「ち……」
朝、目覚めてつい舌打ちした。
隣で気持ちよさそうに寝息をたてている、赤い髪の女の子が憎らしかった。
勝手に部屋にあがりこんで、ベッドを占領し、呑気に眠っている。
知らない人間にキッチンを触られるのはもちろん嫌だが、ナナと比較してしまう。
読みかけの雑誌はそのまま、ビスケットのかけらはあちこちに飛び散っている。コーヒーを入れろなんて言わない。だけど、せめて自分が使ったものは片付けろ。
そう思うと、ナナはなんて気の利く子だったんだろう。
僕は何も言ってないのに、いつのまにか部屋は隅々まできれいになっていた。カップや皿はぴかぴかで、シャツは毎日アイロンがかかっていた。
「ねえ、もうでかけなきゃいけないんだけど」
タエコはもぞもぞと寝返りをうち、また寝入ってしまった。
「ちょっと、いい加減にしろよ。さっさと起きて、もう帰ってくれ」
僕はレンジからカップを取り出し、舌をやけどしそうになりながら熱いスープを半分飲んだ。
胃のあたりがくんと温まると、少しだけ気持ちがやわらぐ。
「あら」
タエコはのっそり起き上がり、部屋をぐるりと見回した。
「いいニオイ。なに、それ」
僕はあわててカップを隠した。貴重な非常食をとられてたまるか。
けれどタエコは、いがぐりのような頭を僕の手元に近付けて、カップの中を覗き込んだ。
「スープ? おいしそう。ちょっとちょうだい」
「いやだ」
僕は残りを全部飲み干した。
「なによ、けちね」
僕は彼女を無視して、今日着ていく服を探した。
「ねえ、スープ。もうないの?」
「……」
「ねえ、おなかすいたんだけど」
「……」
「なにそれ。そんな汚い服着てでかけるの?」
「……」
うるさいな。僕のことはいいから、早く出ていってくれ。
「ねえ。スープくれたら、洗濯しといてあげるわよ?」
「何言ってるんだ? なんで見ず知らずの君に、そんなことしてもらわなきゃいけないんだ」
だんだん腹が立ってきた。
「そんなだから、彼女がいなくなるのよ」
「え?」
僕は時間がないことを忘れて手を止めた。
タエコはにやりと笑った。
「なんだって? なんで君が知ってるんだ!」
僕は彼女の肩を強くつかんでゆすった。
タエコは軽蔑したような目で僕を睨んだ。
「さわんないでよ」
あわてて手を離した。そうだ、知らない女の子だった。
「そういえば、昨日、私を抱きしめたわよね。いいわ、さっきのおいしそうなスープでチャラにしてあげる」
もう、あとでごちゃごちゃ言われるのもめんどくさい。僕は冷凍庫からもう一つカップを出し、レンジにほうり込んだ。
「ねえ、いくら払ってくれる?」
「は?」
タエコは床に落ちているゴミを拾いながら言う。
「掃除と洗濯。いくら払ってくれる?」
ピー、ピー、ピー。
レンジが止まったので、中のカップをタエコに押し付けるように渡した。
「それ飲んだら、帰ってくれ」
机の引き出しからスペア・キーを探し、テーブルの上に置いて部屋を出た。
そう、時間がないのだ。
閉まる寸前のバスのドアをこじ開け、なんとか乗り込んだ。他の乗客の視線が痛い。
「はぁ……」
なんだって僕がこんなめに。それでなくとも、ナナがいないことでずいぶんショックを受けているのに。
ナナにそっくりで、正反対のタエコ。
掃除と洗濯をするから、金を払えだと?
頼んでもいないのに?
頼んでもいないのに、ナナはいつもニコニコ笑いながらやってくれた。
愛されていたんだと思う。
「あれ、どうしたんスか? なんか、顔が変っスよ」
まさか、知らない女の子が一晩僕の部屋にいたなんて言えない。
なんでもない、とは言ったものの、気がおさまらなかった。珍しく、僕のほうから雑談を持ち掛けてみた。
「ねえ、小林君。彼女いる?」
「いまスよ」
何をいまさらというふうに笑った。
そりゃそうだ。
「じゃあ、その彼女、掃除や洗濯してくれる?」
「いや、俺、ひとに触られるのいやなんス。やってくれることもありまスけど、絶対にあとでやり直スんス」
なるほど。参考にならない。
「でも、店長はナナちゃんにやってもらわないと、スぐに部屋とか汚くなるんじゃないスか?」
げらげらと笑うが、まさにそのとおりだ。
「ちゃんと感謝してまシたか? ナナちゃん、それで嫌になって出ていったとか」
「……」
感謝してたさ。僕にはもう欠かせないひとだと思っていたんだ。
……いや、掃除や洗濯をしてくれるからじゃなくて。そういうのも含めて、だ。
「それ、ちゃんとナナちゃんに言いまシた?」
「え?」
どうだろう。
僕は、きちんとナナに気持ちを伝えていたっけ。当然、ナナは知っているものだと思っていたけれど。
今すぐ会って、確認したい。
もし伝わっていなかったのなら、一秒でも早く伝えたい。
気が気じゃないまま一日が終わった。
帰り道に遠回りしてナナのマンションまで行ってみたけれど、部屋の明かりはついていなかった。
急いで帰る。
期待が半分、諦めが半分。
ドアの覗き穴から、光が漏れている。
「ち……」
ベッドに寝そべってビスケットをかじりながら雑誌を読んでいるのは、赤い髪のタエコだった。
「おかえり」
僕はため息をついた。
女の子でなければ、腕をつかんで寒空の下にほうり出すのに。
「……帰ってくれって言っただろ」
「だって、あのスープ気に入ったんだもん。また作ってよ」
「え?」
まだ冷凍庫には、いくつかストックがあったはずだ。
冷凍庫の扉を開けて、僕は言葉を失った。
「おいしかったから、全部飲んじゃった」
それで、部屋が片付いているのか。
カップもきれいに洗って伏せてある。
「私、パンプキン・スープって冷たいのしか飲んだことなかったの。熱々の、おいしいわね」
彼女は悪いだなんてちっとも思っていないようだ。
そりゃそうだ。あんなに散らかっていた部屋が、こんなにきれいになっているんだから。シャツには丁寧にアイロンがかかっている。
スープだけでここまでしてもらって、怒れるはずもない。……腑に落ちないけれど。
「まいったな。明日の朝の分がない」
「材料は?」
あるわけがない。
「残念。じゃあ、明日買ってくるから作ってくれる?」
言われなくてももちろん作る。僕の非常食なんだから。
「ねえ、またあのスープくれるなら、いいわよ」
「は?」
タエコは起き上がり、Tシャツのすそをまくった。
何?
「彼女が出ていって、もう何日もたつんでしょ?」
僕はあきれて何も言う気がしなかった。
ジャケットを脱いで、そのまま床に寝転んだ。
ちくしょう。なんなんだ、この女は。
ナナと同じ顔で、まるで商売女のようなことを言う。
背後で彼女はくすっと笑った。
「ねえ、彼女には何をあげていたの?」
僕は目を閉じて聞こえないふりをした。
「私は愛情なんていらないから、お金をちょうだいって言ったのよ」
そして僕に毛布をかけ、電気を消した。
愛情の替わりにお金を渡すんでしょ。家政婦や娼婦には。
じゃあ、愛情もお金ももらえない女のコは、あなたの奴隷?
私は、あの熱いパンプキン・スープが気に入ったから、それでいいんだけどね。
そうか。
僕はひどい勘違いをしていたのかもしれない。
ナナは、僕を愛しているから僕の身の回りのことをしてくれるんだと思っていた。
そうじゃない。
僕がナナを愛していたから、その愛を感じていたからだったんだ。
いなくなったのは、そういうことだ。
僕の愛情がたりなくなったからだ。
僕の気持ちは何一つ変わっていないのに。
たとえ君が、きれいな黒髪でなくなっても。
シックな服を着なくなっても。
ヒョウ柄のテンガロン・ハットをかぶらなくなっても。
僕が好きなナナは、それだけじゃないんだ。
どうしても寝付けないまま朝を迎えた。
まだ少し薄暗いうちに、僕は一番近いコンビニにでかけた。
「高いのを買って!」
ナナに叱られそうだけど、仕方ない。食パンと玉子と牛乳を買って、部屋に戻った。
息が白い。もう、すっかり冬だ。
ヤカンを火にかけ、手をかざした。なんだか、指先から全身に熱が伝わっていくような気がした。
「さて」
ナナが部屋に来るまでは、いちおう自炊していたんだ。
フライパンを熱し、バターを溶かし、玉子と牛乳を手早くかき混ぜ流し込む。トーストを焼いて、少し苦いめのコーヒーをいれ、テーブルに並べた。
サラダはないけれど。
僕はそっとタエコの肩をゆすった。
「おはよう」
タエコはまだ眠そうに目をこすり、ぼんやりと部屋を見回す。
「いいニオイ」
「朝食の準備ができた。早く食べてくれ」
今日も僕は、朝から仕事なんだ。
「これ、あなたが作ったの?」
タエコは驚く。
僕だって、やればできるんだ。
「おいしい!」
彼女が喜んで食べるのを見て、なんだか僕も嬉しくなった。
「あのさ。今日は帰ってくれるかな」
「なんで?」
「ナナと……彼女と、大切な話をしたいから」
タエコは黙ってうなずいた。
「……もしもナナを見かけたら、伝えてほしいんだ。君の好きな熱々のパンプキン・スープを作るよって」
「もし、見かけたらね」
そして小さく、彼女は微笑んだ。
【短編競作Rapid-Fire企画】第3回大会参加作品。
19作品中4位。
お題は『そして小さく、○○は微笑んだ』を最後の一文に使用すること。