七 草原の風
「じゃあ、行ってくる」
またがる馬はバルメルトウではなく、シャルスやランダットといった仲間もいない。
〈大天馬競〉の舞台となるストローンへの旅が、こんなにも寂しい単騎の旅になるとは、リウはまったく思っていなかった。
行けないかもしれないという覚悟はしていた。だが、もし行けるとしたら――ストローンへの旅は、もっと晴れがましく、もっと喜ばしいものになるはずだった。
「……気をつけてな」
目を赤くして声もない母に代わり、父はそう言ってくれた。
リウはにこりとした。
――〈大天馬競〉には出られない。
昨夜、両親にはそう話した。
――さんざんわがままをして、期待を持たせて、それなのにこんなことになってごめんなさい。やっぱりわたしには無理だった。
そう詫びた。
母は泣きながらリウを抱きしめ、父は無言でリウの頭に手を置いた。リウのしたことを認めるとまではいかないにしても、ふたりはリウを許してくれた。
だから――リウは馬に合図を送って走らせた。頬に風を受け、行く手の緑の地平線を見つめながら、自分自身に言い聞かせる。
「夢を見る時間は、これでおしまい」
リウはずっと子供だった。ベッドの中でぬくぬくと楽しい夢を見ているだけの子供だった。いいかげんに起き出さなければならない。
ストローンで見るものは最後の夢、現実の始まりとなるはずだった。
王家の祖先がいた古城が残るストローンは、町のあちこちに当時の防壁がそびえている。かつて兵が行き来していた白岩の壁の上には、いまは大きな日傘がぎっしりと並んでいる。明日の〈大天馬競〉に備えて特等席を取った熱心な観客のものらしい。通りも色とりどりの花や布で飾られ、行き交う人びとの顔も明るい。
そんな祭の雰囲気から、自分ひとりだけがはじかれた気がした。リウは気後れを感じつつ、通りを進んだ。
行き着いた大広場では、王家の祖先とその愛馬が等身大の大理石の像となって、人でごった返す足もとを見下ろしている。広い肩には豊かな色合いのマントがかけられ、いにしえの栄光をいまによみがえらせていた。
混雑の中に、リウは軍服を探した。
馬上でなければ無理だったかもしれない。広場に規則正しく並ぶ黄金旗の、ひときわ大きな旗の下に、リウの目は黒い固まりをとらえた。リウは行く手の人びとに声をかけながら、人形のように動かず座っている軍人の前になんとかたどり着き、馬を下りた。
「あの――」
乾いた唇をこじあける。〈大天馬競〉への参加ともなれば、こうして競技直前の前日に受付をしようとする組など他にはいないだろう。まして、辞退しなければならない組など。恥ずかしさとも口惜しさともつかない感情がリウの身をすくませる。
「あの、ランダルム組です。今回――」
軍人は机に乗った名簿に視線を落とし、それからもう一度顔をあげた。
「ランダルム組なら、すでに出走受付はすんでいるが」
「えっ!? で、ですが許可証はここに」
リウはあわてて筒を出した。
軍人は無造作に筒を受け取り、中の出走許可証を一瞥すると、リウに返した。
「よし、確認した」
ペンを持つ手が動き、名簿に書かれていた細かい字に線を引いて消した。
「待ってください! 出走するだなんて、そんな話は聞いていません!」
「手違いか? 昨日手続きは終えている。ただ出走許可証が遅れているという話だった」
「でもわたしたち、もう出られなくて――」
「だからなにかの手違いだろう。現にこうして受付はすんでいる。ああ、だが、来年も出るのならば、今度は受付時に出走許可証を忘れないように」
「あの……」
頭がくらくらする。リウはまだ自分が夢を見ている気がした。
「一体誰が、手続きを……?」
「シャルス・ノアとなっている。届け出られた宿泊先は銀雲亭だ」
「……ありがとうございます……」
リウはふらりと机の前を離れた。
道行く人に尋ね、銀雲亭にたどり着く。
中心地からは少しはずれた、大きくはないが居心地のよさそうな宿で、門をくぐった中庭には他の出場者の馬がつながれて、手入れをされていた。
その中に、エギルの高々とした頭があった。
「シャルス!」
リウは鞍から飛び降りると、そのむこうにいたシャルスに駆け寄った。
「どういうこと!? どうして手続きを!?」
振り返ったシャルスは驚いた顔をした。
「それは僕が聞きたいよ。やめるって決めたはずなのに、一体どういうことなんだい?」
「えっ?」
「それぞれ自分の馬ととことん息を合わせよう、だから僕もエギルだけに集中してほしいって、ユーリシスを連れていったよ」
「誰が?」
「だからランダットだよ。きみに説得されたって、うちに来たんだ」
リウは忙しくかぶりを振る。
「ランダットさんにはもうずっと会ってない。ローナが治ったかどうかも聞いてない」
「なんだって? ……じゃあ、僕は騙されたってことかい?」
シャルスは苦笑した。
「本当にしょうがないな、あの人は。一体なにを考えているんだろう」
「ランダットさんは? 部屋?」
「いや。この銀雲亭に部屋をとっておくよう、あとから来た彼の手紙に書いてあったんだ。だからおとといからエギルといるんだが、彼はまだだ」
リウはエギルに改めて目をやった。
体の茶と脚の黒、二色の毛はつやつやと輝き、贅肉をそげ落として張り詰めた馬体には筋肉と血管が浮き上がっている。他の馬と比べても遜色のない、〈大天馬競〉にふさわしい馬だった。シャルスはエギルを完璧に仕上げていた。
「……バルムは……?」
シャルスは少しだけ表情を硬くした。
「僕が聞きたいね。どうしてバルメルトウに乗ってこなかったんだい?」
「……あげたから」
「え?」
「わたしはあの子を天馬にしてあげられないから。だからカズートにあげた」
「リウ――」
シャルスは傷つけられた顔をした。
「今年は出走できなくても、来年、もう一度挑戦するんじゃなかったのかい?」
リウは、今度はゆっくりかぶりを振る。
「来年なんて、うちにはないもの。ランダルム牧は今年の冬は越せない。だからわたしも、働きに出るつもり。どこか、ずっと遠くへ」
「だったらうちの牧でいいじゃないか」
「ありがとう、シャルス。本当にありがとう。だけどだめだよ、そこまで甘えられない」
「甘えてほしい、頼ってもらいたいと、僕自身が望んでいるのに?」
「わたしにはそんな資格なんてない。だってわたしは――」
シャルスはにこりとした。
「ああ、やっときみは自分の気持ちを口にできるようになったんだね。彼に恋しているって」
「シャルス――」
「いいんだよ、それで。ようやくありのままを認められるようになったということなんだから。わかっただろう、きみは彼に恋している。だけど、それがわかったのなら、もうひとつのこともわかったはずだ。彼は、結局は違う世界の人間なんだって」
言葉を返せないリウの表情から、シャルスは答を読み取ったらしかった。あのふわりとリウを包みこむような優しい顔になった。
「僕は気が長いんだよ。きみを待てるよ、いつまでも」
シャルスはどこまでも優しくしてくれる。リウの気持ちが自分にないことを知りながら、それでも待つとまで言ってくれている。
そんな彼に感謝するどころか、負担としか思えない自分がまた申し訳なくて、リウは泣きそうになった。
「……どうしてそんな……」
「きみが幸せになるところを見たいからさ。彼はいいやつだ。だけど、彼はきみを幸せにしてやれない。きみは彼の世界で暮らすことはできないし、彼はきみの世界で暮らすことはできないんだ。彼はあくまでもイシャーマの人間だ。きみに恵みを施すことはできても、きみの手を取って隣に立つことはできないんだよ。彼にもそれはわかっているはずだ。だからずっと、きみにもなにも言わずに来ただろう?」
それが彼なりの誠実さなんだろうけれどね、とシャルスは言い添えた。
「この〈大天馬競〉で、彼の馬はまたいずれかの天馬の称号を獲るだろう。それを手土産にして、彼は今年の冬もまた南部へ行く。去年の冬は、兄のつきそいとしてだったけれど、今年はきっと彼自身の婚約のためにね」
シャルスの口調は淡々として、すでに起きた過去の事実を語っているかのようだった。
だからかもしれない。不思議とリウに悲しみはなかった。そうだろう、といういくらかの寂しさがあっただけだった。最初から結末はわかっていたからこそ、リウはずっとなにもかも気づかないようにしてきた。いまその結末がやってきた。それだけのことだった。
けれども、だからといってシャルスに甘える理由にはならない。
「……シャルス、わたし」
「返事は片付けをすませてからだよ、リウ」
「え……?」
「ランダットが出ると行っているんだ。ここまで来たら、天馬を獲ろう。バルメルトウにはしばらく乗ってないみたいだけれど、きみたちならすぐに息を合わせられるだろう? きっとランダットがバルメルトウも連れてくる。彼らは僕が待つから、きみは部屋でゆっくり休むんだ。明日のために」
明日のため。
シャルスの言葉はひどくうつろに響いた。明日走って、仮に勝ったとして、それで自分はなにを得るのだろう。
リウは自分の想いをカズートに伝えてしまった。せめて彼に伝えていなければ、牧を続けているかぎり彼とほんの少しでもつながっていられるという夢を見つづけられたかもしれない。けれども一度伝えてしまって存在を知られてしまった想いは、夢を夢のままにしておくことを許してはくれない。
リウがイシャーマ牧と同じタールーズ地方にいるかぎり、カズートはリウのことを、リウの想いを、ずっと意識させられることになる。
――わたしがいたら、迷惑になる。
宿の階段をのろのろとあがりながら、リウはランダットの気まぐれを初めて恨んだ。翻心に感謝こそすれ、恨む筋合いなどないとよくわかりつつも、それでもランダットを恨まずにはいられなかった。
そんな醜い、弱い自分を呪いながら、リウはベッドに体を投げ出した。
†
もやもやとした夢はノックの音で破られた。リウは目を覚ました。
窓の外はまだ暗いが、秋の気配が濃い冷えた空気が夜明けが近いことを教えてくれている。リウは上着をひっかけ、扉に近づいた。
「起きているかい、リウ」
リウは扉をあけた。シャルスだった。ランタンを持ち、その顔は強ばっている。
「ランダットがまだ来ないんだ」
「えっ?」
「ひとまず大広場まで行こう」
「そこでも会えなかったら?」
「残念だけれど、辞退になる。ランダットはもちろん、ユーリシスもバルメルトウもいないんじゃ、それしかない」
むしろそうなってくれればいい、とリウは密かに願った。
あわただしい朝食後にむかった集合場所の大広場は、集まった馬と人とでそこだけ気温が高くなっていた。
年に一度の〈大天馬競〉は、馬に関わるすべての者が出走を、そして勝利を願う場だ。自分や馬の世話係を数名ずつ連れてきている乗手も少なくなく、さらに自分では乗らない馬主も激励に来ていて、混雑ぶりはこれまでリウが見たどの町の〈天馬競〉よりも激しい。
薄闇のむこうの人混みに、ほんのり輝くような黄褐色の馬の頭が見えた。のんきそうに鼻先を伸ばしてあたりを見ながら遠ざかるその馬は――
「ユーリシス!」
リウは叫んだ。
しかしランダットの赤毛頭は見つからないまま、ユーリシスの姿も人混みに消えた。
リウはシャルスに声をかけた。
「エギルを連れてたら遅くなっちゃう。シャルスはもう一走騎の集合旗へ行ってて。わたし、二走騎の集合旗を見てくる」
「待った、リウ。この人混みで別れたら、もう僕たちも落ち合うことなんて無理だ」
「シャルスは出走準備していて。もし出走前にランダットさんにもバルムにも会えなかったら、そっちに行くから」
馬連れでは早歩きも難しいが、人ひとりなら走る余地はまだある。リウはシャルスの返事を待たずに彼から離れた。
集合旗はまだ立っていない。だが、大体の場所はすでに決められている。リウは二走の集合旗が立つ予定の広場の一角を目指した。
馬のいななき、蹄で石畳をかく音。興奮した人の声の中、ときどき聞こえる落ち着いた話し声は〈大天馬競〉の常連だろうか。
きっとカズートも来ているだろう。そしてイシャーマ牧のあの見事な月毛の馬は、天馬の称号を得るに違いない。
月毛の色から連想は勝手に働き、リウはダールグに見せられた金髪の貴族の姫君を思い出す。夢見るような瞳に、ふっくらとした唇。同性のリウですら見惚れてしまうような美しい姫君はきっと他にもいて、リウには一生縁のない華やかな南の地で、もしかしたらいまこの瞬間もカズートを待っているのかもしれない。
「――ばか」
リウは小さく自分を叱りつけて、とりとめもない夢想を追いやった。
ランダットがバルメルトウを連れているなら、カズートも彼からなんらかの話は聞いているはずだった。そして、ひとりでいるランダットより、連れてきた牧童やなんやらで大人数のイシャーマ牧の一行を探すほうが楽なのは間違いなかった――そうは思ったが、リウの目は自然に人の集まりを避けてしまう。
カズートの姿を見たくもなければ、彼に見られたくもなかった。どの称号を得るかだけを問題にしているはずの彼に、いまになっても自分の馬も連れずに、こそこそとほっつき歩いているみじめな姿を見せたくはなかった。
あたりはますます混んできた。小走りしていたリウも、ついに歩くしかなくなった。
集まっている男たちは、当たり前だが皆リウよりも大きい。そんな中を歩いていると、小さい自分がさらに小さくなっていくように感じられる。リウはきっと唇を引き結び、すばやく頭をめぐらせながら先を急いだ。
後ろに残った手が戻る前に、雑踏のなにかが触れた。と、手の中に細長い物が落ちてきたかと思うと、大きな手に包まれてぎゅっとそれを握らされた。
使い込まれてくたくたになった革――手の中にあるのは、これまで何百回何千回と握ってきた、手綱の感触だった。リウはあわてて振り向いた。
「バルム――」
漆黒の馬が突如としてそこにいた。自分の魔法はどうだと言うかのように、深い色の目がいたずらっぽくリウを見つめていた。
リウはおずおずと自分の馬に手を触れた。
丹念に梳かれた黒い毛が、薄らいでいく夜とその秘められた輝きを一身に凝らしたかのように暗く光っている。筋肉はしなやかにみなぎり、風と化すその瞬間を待っている。
行こう、とバルメルトウはぶるると鼻を鳴らし、前脚で軽く地面をかいた。
大広場を見下ろす尖塔から、高らかな金管楽が降ってくる。
それを合図に、一斉に集合旗がひるがえる。
リウははっとあたりを見わたした。
「ランダットさん!」
しかし、二走の馬と人とが旗を目指して集まってきて、混雑はいっそう激しく、リウはすぐにバルメルトウをかばうので精いっぱいになった。この中で特定のひとりを見つけることなどできはしない。
それどころか、自ら動かなければこのまま二走の人馬の中に埋もれてしまいそうだった。リウはすばやくバルメルトウの背にまたがり、甲高くなるのもかまわず声を張り上げた。
「中継地で!」
自分の声がランダットの耳に届いたことを祈りながら、リウは彼方の三走の旗のもとへとむかった。
ランダットに聞こえただろうか。シャルスはちゃんと一走として準備できているだろうか。心配はあとからあとから浮かんでくる。
中継地までの道行きを思いに沈んで過ごしたリウは、ふと別のことに気づかされた。
鞍下に感じるバルメルトウの馬体――問題はなにもない。闘争心の強いバルメルトウだが、まだ走るべきときではないと知っている。だから馬群の中の一頭としておとなしく歩いている。その歩調にはまったく違和感はない。バルメルトウはいつもどおり歩いている。
むしろ、いつもどおりすぎるほどだった。
バルメルトウにはひと月近くも乗っていない。これだけ長く離れていたのは初めてのことだ。当然のことながら、その間バルメルトウに調教をつけてここまで仕上げてくれていたのは、リウではない。
馬にもそれぞれ癖があるように、乗手にもそれぞれ癖がある。いい乗手は馬の癖を知って対応するが、いい馬もまた乗手の癖を覚えて、それに対応してくれる。
ただ乗るだけならどんな馬でも問題はない。しかし、自分自身の体の延長であるかのようにぴたりと息の合う馬はなかなかいない。それは相性だけでなく、毎日乗った末にやっと獲得できる繊細な感覚で、つきあいが途絶えれば容易に薄らいでしまう。
バルメルトウに微妙なぎこちなさを感じてもおかしくはなかった。むしろ、感じないことのほうがおかしかった。
リウはほとんど笑うような小さな息をつく。
「おまえ、ランダットさんにどんな調教をつけてもらってたの?」
バルメルトウは耳をぴくりと動かしただけで、もちろんなにも応えない。
リウは今度こそくすりと笑うと、大きく息を入れて顔をあげた。
改めて、自分の戦いに意識をむける。
途端、目に飛びこんでくるのは、周囲の駿馬たちだ。質だけではなく数もまたリウを圧倒する。この三走を走る馬だけでも、各〈天馬競〉の全出走馬くらいはいそうだった。
当然だった。本来〈天馬競〉といえばこの〈大天馬競〉のことで、かつては騎士の名誉を獲ようと国中の人と馬とが集まったものだからだ。
あまりに出走馬が増えすぎ、また〈天馬競〉を主催したいという町が出てきたために、いまのような〈天馬競〉での二勝という出走条件が設けられるようになった。しかし、すべての馬と人との挑戦というそもそもの意識は変わっていない。逆に言えば、どんな馬だろうとどんな牧だろうと、二勝さえすれば〈大天馬競〉の出走を拒まれることはない。
「それが、こんなにいるんだよね……」
〈天馬競〉の一勝で十分だと考えていた以前の自分を、リウはひどくちっぽけに感じた。と同時に、それをちっぽけと感じるいまの自分に驚きもした。
当時はその一勝すら遠かった。だが、いまは二勝し、最初は考えてもいなかった〈大天馬競〉にこうして出ている。あたりの馬はすべて駿馬に見えるが、バルメルトウもまたそうした駿馬の一頭なのだ。
リウは目を閉じる。
バルメルトウがランダルム牧に生まれてくれたこと。シャルスが協力してくれたこと。そしてランダットという希有な助っ人を見つけられたこと――どれもがリウにとっては奇跡だった。そんな奇跡がいくつも起きてくれたからこそ、リウはここにこうしていられる。
「――勝たなきゃ」
自分自身のためではない。
最初は自分自身のためだった。少しでもカズートとつながっていたいと願ったからだった。その願いはもはや永遠に失われて、たとえ〈大天馬競〉に勝ったところで叶うことはない。けれども、勝つ理由は他にもある。勝ちたいと願った自分を助けてくれた人たちのために、リウは応えてみせなければならない。
リウはバルメルトウのたてがみに指をからませた。幸運を求めてのことではなく、くしけずられたたてがみを確かめるためだった。
「こんなにきれいにしてもらって」
リウはにこりとする。
バルメルトウは勝つだけの準備をすっかり整えてもらっている。ランダットのことだ、ユーリシスも同じように仕上げているだろう。そしてエギルの仕上がり具合はリウ自身の目で見ている。
「絶対に勝つよ、バルム」
最初で最後の〈大天馬競〉。
それ以外の結末などありえない――リウは自分に誓った。
緑の草の海が風に揺れている。透きとおった秋の陽に葉の裏がきらめいて、さらさらと涼やかな音を立てる銀の波が広がっていく。
どこまでも、どこまでも。
緑の地平線の、さらにその先へ。
リウは北部の象徴のような景色を飽きもせず見つめていた。不思議なほど心は落ち着いていた。他の人馬はまったく気にならない。生まれ育ったこの地の風になる一瞬を、リウはバルメルトウとともにただ待っていた。
西の丘の上に煙が立った。合図の狼煙だった。ざわめく参加者たちの前に、軍人が姿を見せた。
「まもなく最初の二走騎がこの中継地へ入ってくる。それが自分の組の者でない場合は適宜移動し、他の出走を妨げないよう。また万が一、他者への妨害、乱闘などがあった場合は、状況により失格者を判断し……」
軍人の説明は続いているが、まもなくの出走と聞いた出走者たちはうわついて、それどころではないようだった。鞍帯どころか手綱まで確認しているのはまだ落ち着いているほうで、中にはむやみに鞍に飛び乗っては飛び降りることをくりかえす者までいた。
そんな姿に苦笑し、自分にこうも余裕があることに驚きながら、リウもバルメルトウの鞍帯を確認した。
「ユーリシスも、きっとすぐに来るよ」
思わず「ユーリシスも」と言ってしまったのは、当然のように馬群から進み出てきた月毛の馬を視界の隅に見てしまったからだった。
リウはちらりとそちらを向いた。
軽く曲げた首の長いたてがみが、かすかな風にそよいでいる。月毛の馬は相変わらず神々しさすら感じさせるほど美しく、その足取りも踊るようだった。
あの馬を連れて、カズートはこのあと南部へ行くのだろう。同じく月色に輝く金髪の貴族の姫君に会いに行くのだろう――そんな考えがまたよぎり、リウは顔をそむけた。体を倒して、バルメルトウの首をぽんと叩く。
「大丈夫」
励ましにも慰めにもならない、まったく意味のない言葉は、バルメルトウというよりも、急に落ち着かなくなった自分自身に向けたものだった。
心が揺らいだ途端に、周囲の馬も乗手全員が、バルメルトウや自分など相手にならないほどの実力者ぞろいに見えてくる。
不安がとめどなくふくらんでいく。勝てるのか。これだけの駿馬の中、五着までに入れるのか。そんなことが本当に自分にできるのか。
自分自身の将来も賭けてくれたシャルス、ずっとつきあってくれたランダット、そしてリウを許してくれた両親。
リウをこの場に連れてきてくれた彼らに応えることが、こんな自分にできるのか。
「来たぞ!」
誰かが声をあげた。
ゆるやかな緑の丘を越えてきた乳色の馬体は、見覚えのあるイシャーマ牧の馬だ。
乗手たちの口から、感嘆とも羨望ともつかない吐息がもれる。
月毛の馬と乗手が進み出た。
リウは唯一絶対のものを見つめる大勢のひとりとして、月毛の馬を見つめた。
一度だけ同じ〈天馬競〉で走った。姿を見られたのは中継地までで、リウが二位として町に入ったとき、月毛の馬はとっくに自分の馬房に帰っていた。一位と二位、表面上の差はそれだけでも、実際には大きな差があった。どうやって埋めればいいのかわからないほどの差だった。
今回もそうなるのだろうか。いくら手を伸ばしても空の月には決して届かないことを、また思い知らされるのだろうか。
「おい!」
驚いたような声に、リウは首をねじむけた。
乳色の馬の後ろ、緑の丘を越えてきた馬がもう一頭いる。
草の波を押し割り、力強い前脚で大地をかきこむように駆けてくる黄褐色の馬。
「ユーリシス!」
疾走準備というよりもその姿をよりよく見るために、リウはバルメルトウに飛び乗った。
いまは空の太陽にも似た輝きを放つ巨体が躍動している。前を行く乳色の馬に追いすがっているのではない。追い上げ、襲いかかろうとする走りだ。馬と同じ姿をした、しかしなにか別の猛々しい獣のようにユーリシスは走っている。
そうさせているのは、その背の乗手だった。大胆に力強く自らの体と馬を御し、まさに人馬一体の獣となっていた。ぐいぐいと馬の首を押しやって、馬とともに走ってくる。
帽子のないむきだしの頭は、それまでの〈天馬競〉で見てきた赤ではなく、バルメルトウのたてがみにそっくりな漆黒で――
「――カズート」
夢だとすら、リウは思えなかった。
目の前の光景がただ信じられなかった。
乳色の馬は逃げている。馬体から汗を散らし、必死に逃げている。
黄褐色の獣がそれを追っている。蹄ひとつ分でもその差を詰めようと、こちらも全力を振り絞って追っている。
追うものと追われるもの、みるみる縮まる二頭の距離に、周囲からどよめきがあがった。
その声がやけに遠い。リウは声をあげることも忘れ、呆然と見つめることしかできない。
カズートがユーリシスに乗っている。鞍上の激しい動きに襟もとが乱れ、風防布の端はほどけかけて、自らが作り出した風にたなびいている。
乳色の馬が逃げ込むように中継地に入ってきた。今回は乗手に余裕はない。無言のまま月毛の乗手に旗棒を差し伸べ、渡す。
一瞬の差でユーリシスも飛びこんできた。
突き出された旗棒を、リウは反射的につかみ取った。
「リウ、行け!」
息を弾ませ、露わになった額に汗をにじませながらにやりと笑ったカズートの顔に、はっとわれに返る。
と同時、彼に押されでもしたかのように、バルメルトウが走り出した。
どうしてカズートが――リウは振り返りたがる自分を懸命に押しとどめた。それでも内なる声がささやきつづける。夢、まぼろし、なにかの見間違い。振り返ってごらん、カズートなんているわけがないんだから。ばかじゃないの。
でも、とリウは震え出しそうな手でぎゅっと手綱を握りしめる。
「こうして、走ってる!」
バルメルトウはその間も駆けている。すぐ目の前の月毛の馬をとらえ、追い抜き、打ち負かすために。
やっぱりわたしはばかだ、とリウは鞍上でひとり笑う。
振り返る必要などない。やってきたカズートはまぼろしでも見間違いでもない。
バルメルトウの乗り心地がこうも変わっていない時点で気づけたはずのことだった。どれほど技巧が優れていても、ランダットには絶対に無理なことだったのだから。
リウの乗馬の手本は、常にカズートだった。
まだ背丈が変わらなかったころはもちろん、体格も筋力もまるで違ってしまっても、リウはカズートの騎乗姿を脳裏に浮かべてはなぞってきた。
その彼が調教していてくれた。だからバルメルトウは変わっていない。カズートの乗り方は、そのままリウの乗り方なのだから。
苦笑は次第に変わって、リウはいつのまにか笑顔になっていた。それでいて涙がにじんで視界がぼやけた。
ここに来られたのは、奇跡の積み重ねがあったからだと思っていた。
だが、最後にもうひとつ、とっておきの奇跡が起きた。
カズートが来てくれた。以前のとおり、リウの心に焼きついたそのままの姿で戻ってきてくれた。
だからいま、こうして風が体を吹き抜けていく。
今度はリウ自身が奇跡を起こすために。
リウは頭を振ってにじんだ涙を振り払った。
「バルム、聞いて」
ぴんと立った愛馬の耳にささやきかける。
「あの子はおまえに気づいてる。少しでも引き離したくて、一生懸命に逃げてる。だからまだ。あの子が逃げ疲れたそのとき、おまえの脚で一気に行こう」
くるっとバルメルトウの耳が回った。
前を行く馬に注意を残しつつ、リウは地面の様子に集中する。手綱と脚とで合図を送るまでもない。鞍上でリウが感じることをバルメルトウは同時に感じ、リウがしようとすることを同時にする。リウが見つけた走りやすい地表へと、バルメルトウは自然に動く。大地を蹴る脚は、疲れるどころか一歩ごとにますます軽さと力強さを増していく。
バルメルトウの蹄の轟きは、月毛の馬も乗手にも伝わっているに違いない。尾は神経質に小さく振られている。耳も落ち着きなく動いている。乗手は懸命になだめているが、月毛の馬は背後に迫った追手を意識し、しかもいらついている。
おまえはとてもいい馬だから――リウは心の中で呼びかける。だからこんなふうに追いかけられたことなんて、これまでないよね。走っても走っても引きはがせなくて、いつまでもいつまでもついてこられる、そんなしつこい相手になんて会ったことなんてないよね。
「バルム、がんばって。まだだよ、まだ」
全力を出さないようにほんの少しだけ遊ばせた手綱に、バルメルトウは聞き分けよく従っている。リウを信じ、その合図を辛抱強く待っている。自分に最高の走りをさせるための判断を、リウにゆだねてくれている。
月毛の馬をまかされた乗手は、当たり前だが上手い。イシャーマ牧一番の馬に乗るのだから、イシャーマ牧一番の乗手に決まっている。それだけに、馬は気分よく走ることしか知らずにきたはずだ。このように不愉快な状況での走りには慣れていない。尾の動きはますます高ぶり、耳も頻繁に動いている。
「あの子は、我慢させられたことがないんだから。わたしみたいなへたくそに乗られた、おまえと違って」
リウはバルメルトウの耳にささやいた。
「だけど、もう絶対におまえの邪魔にはならないから。ふたりで――ううん、みんなで勝つよ、バルム」
一瞬で背後へと過ぎ去ってゆく草原の景色のほとんどを、リウは見ていなかった。次々と迫る地表とバルメルトウと月毛の馬と。その三つのものしか見ていなかった。意識は風の中に溶けていた。
二頭の馬はどこまでも駆けていく。いつまでも、どこまでも駆け続ける。草原を吹きわたる風となり、地平のさらにその先まで。
だが、視界に飛びこんだ四つめのものが、リウの意識を引き戻した。
月毛の馬のむこう、行く手の空に、ストローンの城壁が淡い灰色の影となって見えている。ついさっき中継地を出発したと思っていたリウは驚いた。
けれども気づけば体の節々はこわばり、喉はひびわれて思えるほどに渇いている。風を受けつづけた頬はじんと冷たい。馬上に長時間を過ごした感覚が不意によみがえってくる。
リウは夢の終わり、風となっていた時間の終わりが近づいていることを悟った。
冷静な思考へと切り替える。町が近づいている。終わりは近い。ここで仕掛けるか。もう少し待つか。リウはじっと月毛の馬の様子に目をこらす。
ここまでいらだち続けながらもその脚色に鈍さがないのは、この馬の資質と乗手の技量双方の優秀さを物語っている。
だけど、とリウは瞳をいっそうきらめかせる。馬と乗手はひとつではない。馬は馬で考え、乗手は乗手で考えている。もっと早く走らせろともがく馬と、耐えて力をたくわえておけと抑える乗手と。
全力を出させないためにずらされた口の馬銜をとらえようと、月毛の馬が頭を振った。
その瞬間、リウは手綱を動かした。ぴたりと馬銜がはまった手応えが返った。
「バルム!」
声も合図も必要がなかった。馬銜をがちりと受け止めたバルメルトウは、残していたすべての力を爆発させた。
鞍下でバルメルトウの馬体が踊る。大地を蹴り、宙を駆ける。
バルメルトウの追い上げに気づいた月毛の馬の乗手も馬銜を取らせた。腹を蹴り、尻をぶち、気合いを入れた。月毛の馬の脚がぐんと伸び、蹄が跳ね上げた土くれが飛んできた。
だが、バルメルトウの脚の伸びのほうが、いまは大きい。四肢が完全に地面を離れる時間が長い。大地を蹴る合間に宙を駆けるのではなく、宙を駆ける合間に大地を蹴っているかのようだ。
一歩ごとに両馬の差は縮まり、並び、そして前へ出る。
「行くよ」
月毛の馬を一気に置き去りにして、バルメルトウはストローンの城壁の間を駆け抜けた。
優勝馬を告げる金管楽に乗せて頭上から巻かれた花吹雪が、リウの行く手を真っ白に埋め尽くした。
†
「ランダットさん!?」
広場の縁の人垣に見つけた赤毛頭に、リウの声がひっくりかえる。
優勝馬と乗手に少しでも近づこうとする観客を押さえる兵士の隣で、ランダットはのんきに手を振った。
「おー、おめでとう」
その横でローナも頬を真っ赤にして身を乗り出している。
「リウさん、リウさん!」
人混みにもまれたせいか、服がくしゃくしゃになっているが、元気そうだった。
「ローナ、来てくれてたの!」
ランダットが口をとがらせる。
「こんな遠出なんてさせたくなかったんだけどさー。おれが出ないってわかったら、すっごく怒んだもん。連れてってくれないならひとりでも行くって言い張るから」
「ローナ、ありがとう」
こくこくとローナはうなずいた。真っ赤になった顔が見る間にゆがんでいく。
「だって父ちゃんが、父ちゃんのばかが、あたしの熱なんかたいしたことないのに、ないのにこんなことして――わあああああ!! 勝ったああ!!」
「お、お? おまえ、なんで泣いてんの? だから言ったじゃん、カズートが出るんならおれなんか出なくたって大丈夫だって。あんだけ上手いやつがあんだけ本気にやってたんだから、絶対また乗れる、大丈夫だって言ったじゃん?」
「わああああああ!!」
「だからー、ちゃんとこうして勝ったじゃん。な、なんで泣くわけ?」
「わああああああああ!!」
おろおろとうろたえるランダットなど初めてだった。リウは小さく吹き出した。
親子と別れて先へと進む。歓声が、拍手が、口笛が、周囲の高い建物から降ってくる。リウは無理やり胸を張って前だけを見る。が、ふと失礼かもしれないと思って鍔広帽を取った。
こぼれ落ちたリウの髪に、広場を包む歓声がまた大きくなった。
「――リウ!」
その中に自分を呼ぶ声を聞きつけて、リウは振り向いた。
観客から守られた広場の中央に、エギルを引いたシャルスがいた。
中継地でカズートに旗棒を渡した後、すぐに戻ってきていたのだろう。鞍を下りたリウはすぐにその顔をうかがったが、彼はなにも見せるつもりはないといった笑みを浮かべた。
「おめでとう」
「わたしだけじゃない、シャルスだって」
「僕は二位だったよ。イシャーマの馬に姿も見えないほど離された、ね。とはいえ三位にも差はつけられたから、中継地で面食らっても旗棒を渡せるくらいの時間はあったよ――彼、だったんだね」
シャルスは長々と息をつくと、町の外を見やった。
「あれだけのものを捨てられるわけがないと思っていたけど、違ったんだな。彼は自分がしてやれるかたちでじゃなくて、きみが望んだそのままのかたちで助けてくれたんだ」
そうだ――リウは改めて彼のしてくれたことを噛みしめる。
カズートは自分の牧の馬と競ってくれた。勝ちたいというリウの夢を助けてくれた。
そしてリウは、シャルスの知らないことも知っている。
カズートは馬に乗れなかった。バルメルトウの鞍にまたがるのがやっとだった。再びあのように乗れるようになるまで、このひと月、カズートは毎日どれだけの恐怖と闘ってくれていたのだろう。――
いつまでたってもやってこない優勝者にしびれを切らしたのか、盛装した軍人が近づいてきた。その手には花のように豪華なリボンがあった。リボン中央の宝石のきらめきに誘われてそちらに目を向ければ、むこうに据えられた台の上には馬の青銅像が並んでいて、その首には五色の布が光っている。
「――だめ、わたし、受け取れない」
輝かしい名誉の証から、リウはとっさに顔をそむけた。シャルスに訴える。
「カズートを迎えに行ってくる! あれをもらっていいのはわたしじゃなくて、カズートだもの!」
シャルスの口が開いたが、声はなかった。一瞬の沈黙の後、彼はにこりと微笑んだ。
「わかった、彼を迎えに行ってくるといい」
「ありがとう!」
リウはバルメルトウの首をぽんと叩いた。
「ごめん、バルム。もうちょっとだけ」
バルメルトウは喜んで頭をあげた。
リウはまだつけたままの鞍に飛び乗ると、驚いた軍人の声と周囲のどよめきを後にした。
町から飛び出したリウとバルメルトウを、誰も〈大天馬競〉の優勝者とは気づかなかった。草原に三走の騎影が現われるたびに歓声はあがるが、それは町を離れていくリウたちにむけられることはなかった。
リウ自身、そうした周囲に注意はまったく払っていなかった。
中継地でひと息入れた二走の馬と乗手は、今度は無理をせずに三走の競路を帰ってくる。仲間の順位が気になって急ぐにしても、すでに二走の競路を走らせた馬を、また全力疾走させることなどあるわけがない。
だがリウはそんな常識すら忘れていた。駆けてくる人馬を見つけるたび、リウはそれがユーリシスとカズートではないか確かめ、またすぐに次の騎影を捜した。
舌を出して必死に走る栗毛の馬の後、ついにリウは待ち望んだ姿を見つけた。
草原をゆっくりと駆けてくる黄褐色の馬と、その背に見える黒髪の乗手。
リウはバルメルトウを止めると、鞍をすべりおり、走った。
「カズート!」
鞍を下りた世界は急に低く、走る足はもどかしいほどのろく。リウは改めて自分の無力さを思い知る。けれどもこの低さが、この遅さが、本来のリウのものだ。さっきまでのあのひらけた世界、風になったひとときは、周囲がリウを助けてそこまで押し上げてくれたからこそ、感じられたものだ。
そのことにお礼を言わなければ。
誰よりも、なによりも支えてくれたひとに。
「どうした!」
自分も鞍を下りたカズートの強ばった顔に、リウは微笑みかける。
心配しないで、優勝だよ。一番の金天馬だよ。みんなみんな、全部カズートのおかげだよ――そんなすべての言葉を言った気になって、リウはぶつかるようにカズートに抱きついた。一瞬ゆらいで、けれどもすぐにしっかと受け止めてくれた体に安堵した。
「……勝ったんだな?」
目をつぶってこくりとうなずく。
額を押しつけた彼の体から、ふっと力が抜ける。
「あせらせるなよ……なにかと思った」
だって、みんなカズートのおかげだから、少しでも早く報せたくて――会いたくて。
言葉はまったく出てくれなかった。だからリウは、力いっぱいカズートを抱きしめた。なにも言うことができなくても、想いがすべて彼に伝わってくれるよう。
そっと背中に置かれた彼の手に、リウは自分の願いが叶ったことを知った。
と同時、自分がいつのまにか泣いていたこと、彼の服を濡らしてしまっていること、そしていま自分がなにをしているかということに、やっと気づく。
「今度はなんだ?」
やけに察しのいいカズートの声に、かあっと全身の血が逆流した。
「……どうしよう」
「なにが?」
「……後のこと、なんにも考えてなかった」
「後のこと?」
「……は、恥ずかしいよ。こんなことして、顔、もう合わせられない――」
もともと合わせるつもりなんてなかったけど、このままこうしているわけにもいないし、そうなると顔を見せないわけにもいかないし――リウの頭は同じところをぐるぐる回り、そうしている分だけこの状態が長く続いてしまうことにもまた気づいて、さらに混乱する。
カズートが笑った。
「怖いからって避けてると、その後苦労するのはお互い経験済みだろ。いまのうちだ」
彼の手が肩にかかってリウを離そうとする。
「わ、やだ、だめ!」
「おまえ、本当におれのことばかり見てたんだな。バルメルトウに乗ったとき、驚いた。初めて乗った気がしなかった」
「うう……やめてよ、お願いだから……」
「安心しろ、どんな泣きべそ顔見たって冷めやしないから。――まさかまだわかってないのか? おれだっておまえだけを見てたんだぞ。金持ち嫌いのじゃじゃ馬を」
「っ――」
「おれはずっとここにいる。おまえがいる、ここに」
一瞬息が止まるほどきつく抱きしめられた直後、リウは優しく引き離された。といっても彼の手はまだ肩にある。リウは、そうすれば自分が見られることはないとでもいうかのようにぎゅっと目をつぶり、顔をそむけた。
「思いきりの悪いやつだな」
笑い声まじりの吐息。
「二度と顔を合わせてくれないってことになると、おれは路頭に迷うんだが」
「……なに、それ」
リウはごしごしと涙をぬぐい、目を開けた。
見かけの鋭さの下に隠された優しさが露わになったまなざしが、リウを見つめていた。
「いまさらイシャーマの名や金が欲しいって言っても、無理だからな。おれが持ってるのはもうおれだけだ。ただ、いまならバルムもついてくる。おまえにもらった、おれの馬だからな」
リウは呆然とまばたいた。
目を細めたカズートの顔が赤くなる。
「……あのな。うん、とか、はい、とか、どっちか言ったらどうだ?」
リウは思わず笑った。
「それ、どっちだって同じ!」
笑った途端、最後に残った涙が目尻から落ちた。
「当たり前だろ、こっちだって後がないんだ。うちの牧の馬も出てるってのに、別の馬に乗って、しかも勝ったんだぞ。おまえのところ以外、どこへ帰れっていうんだ」
まだ顔を赤くしたまま、カズートも笑った。
草原を風が吹いていく。
二度と乗れないと思っていたその風を、リウはまたつかまえた気がした。
《了》