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六 夢見たもの



 食堂に入ると同時、リウはすばやく壁に目を走らせた。

 ちょっと目を離した隙に幻のように消えてしまいそうな気がして、出入りするたびにそうする癖がついてしまっている。しかし、リボンはいつでも変わらずそこにあった。

 〈大天馬競〉――壁に下げられた金銀のリボンを見ながら、リウはいまだにどこか少しそのことを信じ切れない。

 ずっと先のような、もうすぐのような。

 一か月。

 それだけの時間の後、〈大天馬競〉は開催され、リウはその競技に出る。

「ねえ、リウ。誰かうちに来るみたいなんだけど」

 台所にいた母が顔をのぞかせた。

 リウは夢想を破られてぶるっと頭を振った。

「誰? また馬の仲買人?」

 マーセブルッツでの勝利が評判となり、ぽつぽつと商談が持ち込まれている。とはいえ、それらはすべてバルメルトウを買おうというもので、当然リウはすべて断わっていた。

「外に父さんがいるでしょ。相手したくないよ。この前のやつなんか、どうせこんな牧の馬が〈大天馬競〉に勝てるわけがないんだからいまのうちに売れ、なんて言ってきたし!」

「なんだかそういう人じゃないみたいだけど」

「とにかく父さんがいるでしょ」

「牧へ行ったみたいで、姿が見えないのよ。いまちょっと手が離せなくて」

「はいはい、わかりました、行ってきます」

 と、外に出たリウの目にも来客の姿が見えた。

「あ――」

 母は口ではああ言ったが、客の正体を知っていた。そしてわざとリウにまかせたのだということが、やっとわかった。

 体が鋼でできているのではないかと思わせるような、直立不動の騎乗姿勢。鋭い線に裁たれた漆黒の軍服に、腰に吊った細剣が銀色にきらめいている。

 乗っているのも、また見事な黒馬だった。全身が夜空のように蒼く見えるほどで、ただ額にぽつんと星、純白の白斑がある。リウに気づいた乗手が合図をすると、黒馬は頭をあげて姿勢を正し、膝を胸まで上げる軽やかな歩調に変えてやってきた。

「リウ・ランダルム?」

 馬上から尋ねられて、リウはこくんとうなずいた。それからあわてて「はい」と答えた。

 〈天馬競〉は各地の町が主催するものだが、その上に位置づけられる〈大天馬競〉は伝統を受け継ぎ、王の名のもとに国軍が主催する。

 軍の使者は敬礼し、背につけた筒をはずすと、中から紙を抜いて両手で上下に広げた。

 きびきびした声が読み上げた文のほとんどは、リウの耳をむなしく通り過ぎていっただけで、リウはまったく耳にしたことのない異国の言葉を聞くような気がした。

「――〈大天馬競〉への参加を認める」

 突然、その一文が頭に飛びこんできた。それだけでリウには十分だった。

「は、はいっ!」

 よく見ればまだ三〇歳前後らしい軍の使者は、思いがけずにこりとした。

「私の相棒もタールーズの産だ。こいつに会えただけでもここへ赴任してきた価値があったと思っている。影ながら応援しているよ」

 軍の使者は愛情を込めた手で黒馬の首を叩くと、もう一度にこりとした。

「はい、ありがとうございます!」

 使者から許可証を収めた筒を受け取って、リウは彼らが丘のむこうに見えなくなるまで見送った。それから家の中に走り込んだ。

 期待するように台所から顔を出した母に、出走許可証、と短く告げて筒を振ってみせる。

「母さん、ちょっと出かけてくる!」

 足が飛ぶように軽い。胸がはずむ。リウは再び外へ出ると、バルメルトウを引き出した。

「バルム、行こう!」

 〈大天馬競〉出走許可を伝えに、軍の使者は組代表のリウのところへ来た。仲間にその嬉しい報せを伝えるのは、リウ自身の役目だ。喜びの使者の役目を存分に楽しみながら、リウはまず、より近いジョスリイの町へバルメルトウを走らせた。

 通りで老医者に会った。

「おおリウ、どうだ、その後は馬から落ちてないんだろうな?」

「いまのところはね。先生は往診?」

 笑いながらのあいさつ代わりの質問に、しかし老医者の顔がさっと曇った。

「の、帰りでな。プルノズ農場へ行ってきたところだ」

「えっ」

 リウの顔も強ばる。

「けがですか、それとも病気?」

「ああ、そういえばおまえはあそこと友達だったな。けがじゃない、熱だ」

「ランダットさんが?」

「いや、娘のローナのほうだ」

「ローナが……?」

「おととい勤め先から帰ってきたんだが、どうもドヴァ熱にかかったらしくてなあ」

「ドヴァ熱?」

「タールーズじゃ滅多にないが、西部地方でときどき流行する病気でな。ランダットに言われるまで、わしも最初は風邪かと思っとった。イシャーマにはよその地方からの客も多いから、誰かにうつされたんだろう」

「どんな病気なんです?」

「ひと月ほど、一日おきに熱が出たり下がったりしてなあ。いまはひどい熱が出とるよ」

 老医者の表情から、ローナの症状が決して軽くないことは容易に想像できた。

「大丈夫なんですか?」

「本人は大変だがなあ。それでも薬は手配してあるし、なによりあのランダットがよくやってくれとるよ。あいつがあんなうまそうなパン粥なんぞ作れるとは知らんかったわい」

「そうですか……」

 プルノズ農場に着いたとき、それまでの浮き立つ気分は吹き飛んでいた。

 ひかえめに叩いた扉は前触れもなくいきなり開いて、ランダットが顔を出した。表情こそいつもとまったく変わらないものの、看病でろくに寝ていないのだろう。服はよれ、赤毛もいつも以上にぼさぼさで、目の下にはうっすらと隈がある。

「こんにちは、ランダットさん。ローナが熱って……」

「そ、ドヴァ熱。ま、命がどうこうって病気じゃないし、先生も診てくれてるから。さっきパン粥食って、ちょうど寝たとこ」

「どうぞお大事に。あの、わたしになにか手伝えることはありますか? 買物とか」

「ありがと。ま、おれひとりでなんとかできてるから。ドヴァ熱はうつるしさ。あんまりうちには来ないほうがいいよ?」

「そうですか……あの、それから、話は全然違うんですけど」

 リウはおずおずと当初の用件を切り出した。

「今日、軍の使者が来て」

 ランダットは出走許可証の入った筒を見ると、家の中を振り返り、次にリウを見た。

「それさ。約束だったけど、おれ、だめになった。ごめんな」

「えっ?」

「出れない。だって、ローナがこんなひどい熱だもん。〈大天馬競〉まで練習なんてできっこないし、ローナがその日までにちゃんと元気になるかどうかもわかんないし」

 老医者の話を聞いたときから、どこかでこうなることは予感していた。だが、改めてランダット自身の声でつきつけられると、予感は気休めにすらならず、事実は冷たい刃となって容赦なく胸をえぐった。

 リウはうつむいた。体の前で握りしめられて小刻みに震える自分の両手が目に入った。

 一度この手は全部手放してしまったと思った。もうなにもつかめないと思った。けれどもカズートのおかげで、再びつかむことができるようになった。

 もしかしたら、それまでつかんでいた以上のものにまで届くかもしれない――ついさっきまでそう思っていた。

 思えていた。

「でも……ローナがもし、それまでに元気になれれば」

 顔を上げて、リウはむなしい抵抗を試みる。

「ユーリシスの調教さえしておけば、ランダットさんなら特別な練習なんてしなくたって」

 今度見えたものは、ゆっくり振られた赤毛の頭だった。

「人ってさ、一度傷んだら、そう簡単に元に戻るようなもんじゃないからさ。あんだけ熱が出た後は、ひと月くらいはゆっくりさせてやんなきゃ。だからごめん」

「そんな――」

 そこまでしなくたって、という勝手が思わず口からこぼれかけて、リウはとっさに唇を噛んだ。そうやってどうにか声に出すことはこらえても、自分さえよければ、という心に差し込んだ暗い影はぬぐいきれない。そんな自分に嫌気がさす。といって、このままでは牧やバルメルトウは失われてしまう。自分がどうしたいのか、どうすればいいのか、リウはまったくわからなくなる。

「……これ、ローナには内緒な」

 立ち尽くしたリウに、ランダットが再び声をかけてきた。彼は声をひそめた。

「あいつ、おれとは血がつながってないの。この辺を行商してた男でさ。逃げられちゃってキミイが困ってたから、じゃおれと結婚してもらって、おれの子にしようかなって」

「っ!?」

「おれ、昔のこと覚えてないって言ったじゃん? それって、じいちゃんやキミイや、それからローナがいてくれて、とにかく毎日楽しくってさ。昔の自分なんて思い出す必要がなかったからだと思うんだよね」

 重い告白を彼らしくさらりとしてのけたランダットは、ちらりと家の中を振り返った。

「だからローナのいい父ちゃんでいてやりたいんだけどさ。おれ、こんなだから、なかなかなってやれなくて。せめて病気のときくらい、思いっきり大事にしてやりたいんだ」

 ランダットは振り向いた。いつも飄々としていた顔に、いまは強い決意の色がある。

 彼は何にもこだわらないのではない。世の中でただひとつのものだけにこだわり、なによりも大事にするという覚悟を持っていた人間なのだと、リウは初めて悟った。

「本当にごめんな。なに言ってもいいし、いくらでもぶっ飛ばしてくれていいよ。でも、たとえ殺されたって出ることだけはできない。――おれ、ローナの父ちゃんだから」

 それはまさに父親の顔だと、リウは思った。


 大切なものを守るために他のなにもかもを捨て、結果もすべて引き受けると宣言している相手を、いまさら動かせるわけがない。

 プルノズ農場から帰るや否やベッドにもぐりこんだリウは、明け方、やっとそんな気持ちになれた。のろのろと起き出して父と厩舎で一仕事片付けた。父はなにも言わなかった。

「父さん母さん、ノア牧まで出かけさせて」

 リウが頼んだのは、卵とベーコンの朝食を食べ終えた席だった。

 父がちらりと目線をあげる。

「〈大天馬競〉のことか」

「そう」

「行ってこい。――気をつけてな」

 付け足されたひと言に、リウはこれまでの父がこれまでの態度を詫びる気持ちを感じ取った。すまん、とは素直に言えない父の、おそらくは精いっぱいの謝罪を。

「ん」

 リウは微笑んだ。父はすぐに目を伏せてしまったが、十分だった。外へ出てバルメルトウに鞍をつけ、リウはノア牧へと駆けた。


「なんだって?」

 見る間に血の気がひいていくシャルスの顔を、リウはじっと見守った。

 彼を〈天馬競〉に挑ませたきっかけはリウだったかもしれない。だが彼自身が言ったとおり、すでにこの挑戦の結果には彼の未来もかかっている。

「ここへ来てランダットが出ないだって――ユーリシスをあそこまで扱った者は誰もいない。僕だって、あいつがあんなに走れるとは知らなかったくらいなのに」

 問題はそこだった。

 騎士の名誉を賭けた〈天馬競〉は、歴史を経るうちに意味を変えた。勝利を獲た乗手が讃えられること自体はいまでも変わらないが、その能力を血に乗せ次代に伝え残すものとして、馬の価値がより重くなった。

 ゆえに乗手は変更がきく。だが馬は違う。ランダルム組として一度登録した組は、エギル、ユーリシス、バルメルトウという三頭の馬以外で出走することはできない。

 そして、最もおだやかな性格のユーリシスは、実はこの三頭中最も癖の強い馬だった。

 他馬に勝つために走る馬、そうするよう教えられたから走る馬、褒めてもらうために走る馬、鞭を入れられるから走る馬。もともと走るように生まれついた馬でも、おのれの力を尽くした疾走をするには、それぞれの理由がある。

 だが、ユーリシスにはどんな理由もなかった。気立てのいいユーリシスは、その背に赤ん坊を乗せても落とさないように気づかってそろそろと歩くだろう。通常の乗馬の経験がある者が乗れば、普通に走りもするだろう。けれどもそれは、ユーリシスが自分の考えで人を乗せているというだけのことだった。ユーリシスが自分の考えを捨てて乗手の指示に従い、全力をふりしぼって走るのは、その背にランダットを乗せたときだけだった。

「ランダットが出ないなら、〈大天馬競〉で勝負になるとは――」

「わたしが、二走と三走を乗る」

 リウはきっと顔をあげた。

「昨日ひと晩考えて、これしかないって思ったんだ。ランダットさんの代わりなんて捜したって無駄だよ、いるはずがないもの。それよりはわたしが乗るほうがまだまし。これまでユーリシスは見てきてる。それに、わたしのほうがシャルスより軽くて、ランダットさんに近いから。ランダットさんにこつを聞いて、これから練習する」

「連続騎乗なんて、無茶だ」

 言われるまでもなく、リウにもよくわかっている。〈天馬競〉を一度乗るだけで、翌日は体のあちこちが痛み、数日は全身がだるい。連続して二走三走と乗れるのか、自信などまったくない。それでも、というよりはだからこそ、リウは決意を込めて静かに答える。

「無茶でもなんでも、これしかないもの。だったらやるだけ。最初からそうなんだから」

「いや、僕がランダットのところへ行って、説得してくる。こんなことは契約違反だ。〈大天馬競〉までと約束して、それで礼金の額を決めたんだから」

「ランダットさんへのお礼は、全然法外な額じゃないよ。あの腕だったら、倍払うって組だってあるかもしれない」

「そういう問題じゃない、これは契約と信用の問題だ。あの人はあの年で、自分のしようとしていることの意味も重さもわかってないんだ。すぐにでも行ってくる」

 シャルスは本当に歩き出そうとした。

「でも!」

 リウはその袖をつかんでひきとめた。

「ランダットさんはちゃんとわたしに謝ってくれた。自分がしていることの意味くらい、ランダットさんはわかってる。だけどローナが病気なんだよ。ランダットさんからしたら、ローナのほうが大切に決まってるじゃない。それにローナだって病気にかかりたくてかかったわけじゃない。これは誰が悪いってことじゃなくて――」

 止まったシャルスの袖から、リウの手は離れた。

「……もしひとり選ぶなら、それはわたし」

 リウはうつむいた。

「わたしの、運が悪かったから。ううん、それよりわたしの頭が悪かったから。これくらいのことにも対応できないくらい、ぎりぎりすぎる挑戦をしようなんて誘ったから――だからごめん、シャルス。わたしも謝る」

「そんなことはない!」

 突然両肩を引き寄せられて、リウの頭から鍔広帽が落ちた。

 近づいたシャルスの顔が、今度はわずかに紅潮している。

「前も言ったじゃないか。必要以上に自分を責めるのはよくないって」

「シャルス……」

「きみは落馬の恐怖に打ち勝って、立派に〈大天馬競〉への権利を勝ち取ったんだ。僕はそんなきみを誇りに思う。きみは誰もが無理だと思っていたことを、ちゃんとここまでやってのけたんだ」

「ありがとう、でも」

「うちに、馬を売ってほしいと言ってくる人たちがいるんだ」

 不意にシャルスは微笑んだ。

「ひとりは金持ちの商人で、エギルを自分の乗馬にしたいと、かなりの額を言ってきた。あいつは見栄えがいいからね。僕はこの話に乗ってもいいと思っている」

「エギルを売るの!?」

「そりゃあ、僕もできればあいつはうちの牧に置いておきたいよ。エギルとは〈天馬競〉で一緒に戦った仲だ。マーセブルッツで、あの低くした頭で馬混みを割ったあいつの走りは、きみにも見せてやりたかった」

 シャルスの微笑はふわりと広がって、リウを柔らかに包みこむようだった。

「だけど、いまの僕にはなにもかもはできない。まずはもっと牧を整える。そのために、エギルがもたらしてくれる金はとても役立ってくれるはずだ。〈大天馬競〉で評判を落とすくらいなら、いっそ出走しないほうがいい。そのほうがまだいい印象が残ってくれる」

「シャルス……」

「僕は少しずつこの牧を育てていくつもりだ。僕の勝利は、なにも今年の終わりにしか見つけられないわけじゃない。一生を懸けたその先にこそ、本当の勝利があるんだ」

 ここにもだ――リウはまじまじとシャルスを見つめる。ここにも自分の大切なものを持ち、それを守ろうとしている者がいる。

 ランダットにとってたったひとつの大切なものは血のつながらない娘のローナで、〈天馬競〉は金を稼ぐただの手段だった。

 そしてシャルスにとっての〈天馬競〉も、自分の牧を育てるための手段でしかない。ただの手段だからこそ、とらわれることなく、こうしてやめるという決断ができる。

 彼らにとって大切なものは〈天馬競〉ではなく、それ以外のものなのだから。

 じゃあわたしは――ぼんやり考えようとしたリウは、両肩をつかむ手に加わった力に、注意を呼び戻された。

「協力してくれないか、リウ」

「えっ」

 シャルスの真剣な表情に、どきんと心臓が跳ね上がる。

「一緒に牧を育てていかないか」

 シャルスの申し出には言葉以上の意味がある。リウは直感的にそのことを理解した。頬が熱くなる。だが、妙にふわふわとした心の奥にはまた他の感情があることを、リウは自分でわかっていた。

 ――わたしは。

 恥ずかしさをこらえてシャルスを見つめ、答えようと息を入れたとき。

 ふっとシャルスの手が離れた。

「返事は、いまでなくていいよ。とりあえずいろいろ後片付けをすませて、それからで」

 リウは黙って鍔広帽を拾い上げ、髪をたくしこんでかぶった。視線はあげないまま、聞くまでもないと思いつつ確認する。

「……〈大天馬競〉には、ランダルム組は出ないんだね」

「リウ、これはやれるかもしれないことじゃない。やれないこと、やっちゃいけないことなんだ。〈大天馬競〉に出たいのなら、バルメルトウで来年また狙えばいい。だけどいまは、せっかくのエギルの値段を下げちゃいけない」

 冷静な、だからこそ反論の余地もない意見だった。リウは心の中で自分の愚かな質問を笑い、帽子の鍔に顔を隠しながらゆっくりうなずいた。

「わかった。――」

 ランダットが出ない以上、シャルスももう〈大天馬競〉に出る意志はない。そのことをリウは知った。


     †


 わたしにとっての〈天馬競〉ってなんだろう――バルメルトウの背で揺られながら、リウはぼんやり考える。

 ただの手段だったのか、それとも目的そのものだったのか。

 夏の盛りを過ぎて、どこまでも続く丘陵の緑は次第に色を変えてきている。匂い立つような生気の色から、このはるか高い空へそのまま溶けてしまいそうな透きとおった色へ。

 近づいている秋を、そしてその後の長い冬を、リウは予感した。

「バルム……」

 その首にリウは手を置く。厚い黒い毛の下に、研ぎすまされた馬体の躍動が感じられる。

「おまえは絶対、天馬だよ。わたしにはわかる。おまえは一〇年に一頭の馬だって」

 リウはそのまま手をすべらせる。

「だって、おまえは勝ったんだから。わたしを背中に乗せて、それでも勝ったんだから」

 バルメルトウの立った耳が注意深くくるりと回る様に微笑をこぼして、リウはなおも愛馬を褒めた。

「ランダルムの名は忘れられても、バルメルトウ、おまえの名前は絶対に忘れられることはないよ。おまえはこれからも勝つ。勝って、天馬になるんだから」

 リウは軽く合図を送る。

 すかさずバルメルトウは駆け出す。鞍の下のしなやかな背、伸びのある歩調。バルメルトウの走りは、これまでリウが乗ってきたどんな馬も比べものにならないほど快い。

 まるで、空を飛んでるみたい――リウはそっと目をつぶる。

 そうしていても不安は少しも感じない。バルメルトウとリウは一体となり、風そのものとなって駆けていく。

 リウがゆっくりと目を開けたとき、もうそこはイシャーマ牧だった。


 唯一知人と言っていいローナは、いまはいない。イシャーマ牧のただ中にある白木壁の家にのぞんだリウは、少し緊張しながらバルメルトウから下りた。

 少年が駆け寄ってきた。

「どちらさまですか?」

「ランダルム牧のリウ。カズートはいる?」

「カズート若さまでしたら、今日は北の牧へ出かけてらっしゃいます。お帰りはいつになるか、うかがっていません」

「そう……」

 帰ろうかな、という気持ちがじわりと胸の底に広がった。リウはぐっと息を呑み、そんな弱気をもう一度押し込めた。ここで帰ってしまえば、きっと明日またここに来ることはできなくなる。そんな気がした。

「じゃあ、帰るまで待っててもいい? このままでかまわないから」

「でしたら上の者に相談してきます」

「あ、ううん、ほんとに待たせてもらうだけでいいの。ここで立ってるから、だから」

「ですが困ります……」

「どうして?」

「僕にも仕事がありますし、だからといってお客さまを放っておくわけにも」

「ほんとにかまわないで。待たせてもらえれば十分なんだから」

「ですが」

 いきなり横から声が入った。

「なんだ、どうした?」

 上から覆いかぶせるような声には聞き覚えがある。リウは振り向いた。

 カズートには似ていない兄、ダールグが家から出てきたところだった。彼はゆっくり歩いてきながら、立てた指を振った。

「ああ、カズートの友達じゃないか。相変わらず男みたいななりだね。どう、〈天馬競〉はあきらめたの? それでうちで牧童のまねごとでもさせてもらいに来たのかい?」

 その顔に不自然に無邪気な笑みが浮かぶ。

「そうだな、ちゃんとした服に着替えれば、メイドのまねごとくらいならさせてあげられるかもしれないよ。ちょうどひとりいなくなっちゃったところだしね」

 かっと頭に血がのぼる。ダールグは無邪気な無神経を装って、リウをいたぶって楽しんでいる。それでもいまは、この男に逆らって追い出されるわけにはいかなかった。

「……こんにちは、突然押しかけて申し訳ありません。カズートを待たせてほしいんです」

 リウは目を伏せさせ、頼んだ。

「ここでかまいませんから」

「とんでもない! 馬になにかされたら大変だからね。それに馬って神経が繊細なんだよ」

 さすがにリウは顔をあげる。

「なにもしません! これでも牧の娘です、馬の扱い方くらいわかってます!」

 ダールグはやけに思わせぶりに息をついた。

「やれやれ、カズートのやつめ。あれだろ、あいつが留守にしていたときだろ?」

「え?」

「だから、二か月くらい前だっけ。カズートが留守にして、何日か帰ってこなかったとき。あれ、きみの家に行ってたんだろ?」

「なんの話ですか?」

 ダールグは、無邪気すぎる目をさらにわざとらしく見開いた。

「おや、僕はてっきり、きみが大変なことになったと気づいて押しかけてきたのかと思ったよ。きっちりと話をつけにね」

「話ってなんのことですか? わたしはただ、お礼をしようと思って来たんです。カズートはわたしの馬を助けてくれましたから」

「馬を、ねえ」

「そうです、この馬です。わたしが下手な落馬をしたから、バルムも人を乗せられなくなって。だけどカズートが、もう一度人を乗せて走ることを教えてくれたんです」

「あはは!」

 いきなり大声で笑い出したダールグに、さすがにリウは表情を硬くした。

「そんなにおかしいですか」

 だが、ダールグはリウの言葉など耳にも入ってないようだった。

「うそうそ、そんなうそなんてつかなくていいよ! 僕は話のわかる兄貴だからね。お医者さんにはもう行ったの? それともカズートのやつをつかまえてから?」

「お医者さんって、一体なんの話ですか」

「だからさ。もう少ししたらきみのお腹が大きくなっちゃって、周りにも知られちゃうってことだろ」

「なっ――」

 恥じらいどころか怒りすら忘れて絶句するリウを、ダールグはにやにや笑いながら上から下まで眺める。

「それにしても下手なうそだね。カズートが馬に乗った、だなんて。あいつが馬に乗れるわけがないんだよ。なまじずっと友達だったから、そんなこと、想像もつかなかったんだろ? あーあ、ばれちゃったねえ」

「えっ!?」

 ダールグにリウは詰め寄った。

「どういうことですか! カズートが馬に乗れないって!」

 ダールグは半歩後ずさり、リウの息が乱したとでもいうように胸もとを直した。

「どうもなにも、そのまんまの意味だよ。あいつは馬には乗れない」

 リウの脳裏を、これまで見てきたカズートの騎乗姿が通り過ぎていく。自分よりはるかに大きな馬をやすやすと御していた子供のころ。大胆に体を委ね、鞍下で疾走する馬とひとつの生き物のようだった少年のころ。リウは彼をこの世で一番の乗手と信じてきた。

 だが、一年の不在の後、考えてみれば馬に乗ったカズートをリウは一度も見たことがない。彼はいつも馬車に乗っていた。いつも馬に乗っていた以前とはまるで違っていた。

「……カズートが馬に乗れない……?」

「そう。去年、南部で落馬したんだよ。それで、馬の蹄がなんだかやけにうまくぶつかっちゃって、首がざっくり切れちゃってね。あたり一面、真っ赤っかだったってさ」

 ダールグが無神経にやってみせた首をかき切る仕草に、リウはぞっと身を震わせる。

「運ばれてきたときの顔といったら、掛け値なしに真っ白だったよ。僕もこれはだめだと思ったね。まああいつは丈夫なたちで、一年かけて天国寸前で引返してきたけど、それきり馬には乗れなくなったんだ。一度あいつが馬に乗ろうとしてたところを見ちゃったけど、いやあ、さすがにかわいそうになったね。顔がまた真っ白になっちゃっててさ」

 でも、とリウは弱々しく抗う。

「……カズートは、本当にバルムを……」

 ダールグの笑い声がリウのつぶやきをかき消した。

「ねえ、だからいいんだよ、そんなうそつかなくて。あいつにできるわけないんだからさ」

 頭がひどく混乱する。バルメルトウを元のバルメルトウに戻してくれたのは誰だったのだろう。本当にカズートだったのだろうか。リウがやはり変わってないと感じた彼は、知らずに夢見てしまった都合のいい幻だったのだろうか。

「正直に言っちゃいなよ。カズートに責任取って結婚してもらうか、それが無理なら手術代も含めたまとまった金が欲しいんだろう?」

 ダールグは相変わらず、一見無邪気ににこにことしている。だが、その目の奥には冷ややかな光がある。持てる自分とは違う、持てざる者を蔑む光。

「ずばり、いくら? きみの場合こうなるまでも長いから、相当ふっかけてくるよね」

 混乱の中、相手への怒りよりも、悲しみばかりがこみあげる。そんな自分にいらだつどころか、ますます悲しくなっていく。この人にはなにを言ってもわからない、わかってもらえない、そんな絶望が胸を押しつぶしていく。なにもかもを持つ彼は、この牧の人間は、持たない者であるリウの心を決してわかってはくれない。

「……わたしは、ただ……」

「ああ、だからだめだめ! あいつがどんな調子のいいことを言ったか知らないけど、そんなことはありえないから」

「ただ……カズートに……」

 ありがとう――そう伝えたかった。ごめんなさい――そう謝りたかった。

 そのふたつの気持ちだけを伝えて、三つ目の気持ちは口にするつもりもなかった。誰かにわかってもらうどころか、そんな想いがある気配すら絶対に感じ取られたくないと思っていた――はずだった。

 それなのに、しかも相手は望みどおりリウの感情を無視してくれているというのに、どうしてこんなにも心が傷つけられるのだろう。

 ダールグはかまわず、やれやれといったふうに両手を広げる。

「こんなことになるんじゃないかと、昔から思ってたんだ。あいつにも何度も忠告してやったんだよ。イシャーマの人間が軽々しくふるまうな、ってね。きみもさ、つい期待しちゃったんだろ? イシャーマの一族に加われるんじゃないかって。地元の、それも無名の家の娘がそうなるなんて、絶対にありえないんだけどねえ。――ほら、見てごらん」

 ダールグはリウの横に来ると、首からさげた細長いペンダントを開いて見せた。

 リウは逆らう気力もなく、視界に入ってきた親指ほどの細密画をぼんやり見つめた。

 きっとこれひとつでランダルム牧が買えるほどの値段だろう。永遠に色あせないエナメルに美しい姿を残しているのは、白い首に真珠のネックレスをつけた金髪の姫君だった。

「僕の婚約者だよ。南部の伯爵姫。冬にまたむこうに出かけて、春になったら式をあげるんだ。立派な式になるよ。北部南部の高名な家の者が全部集まって、陛下のご臨席も仰いで。なにしろ足かけ二年がかりで準備したからね」

 くすくす笑うダールグは、ぱちんとペンダントを閉めた。

「わかるだろう、これがイシャーマの結婚なんだ。あいつも、あれでも僕と同じイシャーマの人間だからね。きみとは住んでいる世界が違うんだよ」

 草原を吹き抜ける風が遠い。夢を見ているときよりも夢のようだ。

 もしかしたら、むしろこれまではっきりしていると思えたものこそが、夢だったのかもしれない。牧の馬たち、駆けてくる騎影、たわいないやりとり――彼の隣にいた時間。

「わたしは……」

 がらがらと馬車の車輪が勢いよく、ほとんどはずれそうに回る音がやってきたかと思うと、突然止まった。

「兄貴!」

 その声にリウが凍りついているあいだに、足もとに新たに別の影が差し、傍らに立っていたダールグがいきなりよろけていなくなる。

「なにしてた、なにを言った!」

「なんだ、ごあいさつだな。僕はおまえの客の相手をしてやっていただけじゃないか」

「うそつけ! 一体こいつになにを言ったんだ! どうせよけいなことなんだろ!」

「よけいなことじゃなくて、大切なことだよ。大体、そもそもおまえがきちんと話しておかなければいけなかったことじゃないか」

「なんだ、言え!」

「おいおい、それが兄さんに対する言葉なのか? 僕はおまえの友達にありのままを教えてやっただけだよ」

「言えって言ってんだろ!」

「まったくしょうのないやつだな。だから、ばかな夢はさっさと捨てて、いくらならいいんだって聞いたんだよ」

「いくらってなんだよ!?」

「白状しろよ、結婚するとかなんとか甘いことをささやいて、この子のお腹を大きくしちゃったんだろ? 軽はずみなことはするなって、あれほど――っ!」

 言葉にならない叫びとともに、どさりと重い物が倒れこむ音がした。

 リウはのろのろと振り向いた。

 地面に尻餅をついて、ダールグが頬を押さえた顔に怒りの表情を露わにしている。だがそれ以上の怒りが、兄を見下ろすカズートの顔を強ばらせ、その肩を震わせている。

「ふざけんな!!」

 かえってそれ以上の言葉は口から出てこないらしかった。

 ダールグが頬をぬぐって立ち上がった。怒ったままのその顔に不気味な笑みが浮かぶ。

「ふん、乱暴なごまかし方だな。違うとは言わせないぞ。この前の留守のあいだ、この子はおまえが馬に乗っていたなんて言ったんだ。これがうそじゃなくてなんなんだ?」

「うそじゃない! おれはずっとうちの牧にいた。ただ家に帰らなかっただけだ!」

「へえ、うそじゃないっていうなら、兄さんに見せてくれよ。昔から僕の乗り方にはさんざん駄目を出してくれたじゃないか。あのころみたいにお手本をさ、ほら!」

 ダールグは家の前の横木につないだ馬を指さした。

 カズートはダールグをにらむと、すたすたと馬の横に行った。手綱をつかむ。

「――!」

 リウは目をみはった。

 鞍に置いた手がぎこちなく固まっている。両足はいつまでも地面に張りつき、表情の消えた横顔はここからでもわかるほど青ざめている。

 こんなカズートをリウは見たことがない。けれども、いまの彼と同じものは知っている。馬に乗れなくなったときの自分を。

 カズートが馬に乗れない――信じられない光景に呆然としたリウの手の中から、そのときするりと手綱が抜けた。

「……バルム」

 リウは勝手に歩き出した愛馬をぼんやり眺めた。

 バルメルトウはカズートの肩に鼻面をすりつけた。

 カズートは肩越しに振り返り、バルメルトウに無言で微笑んだ。それから体ごと向き直る。バルメルトウの影に隠れる寸前、彼はリウをちらりと見た。

「カズート、無理は――」

 しないで、とリウが声をかけるより早く、バルメルトウの背にカズートの姿が現われる。顔はまだ青ざめている。体には不自然な力が入り、手綱をつかむ手もぎこちない。まるで特別怖がりな初心者だ。リウの心に焼きついているあざやかな騎乗姿は見る影もない。

 だが、それでも彼はたしかにバルメルトウに乗っていた。

「っ!」

 ダールグが息を呑んだ。それからひどく怖い顔になって家へと帰っていった。少年がおろおろと、そんな彼についていった。

 カズートは兄に一瞥もくれず、ゆっくり歩き出したバルメルトウにまたがっていた。あたりをぐるりと一周してバルメルトウが止まると、彼は鞍を下りた。そして手綱を引いてリウのところへ戻ってきた。

「……悪かった」

 リウは彼を見つめた。

 絹のスカーフがなくなった首もとには、大きな傷痕が見えている。馬の蹄にえぐられたという、リウの知らない彼の傷。目はその傷痕に吸い寄せられて、自分こそ謝らなければならないと思っているのに、他の言葉がこぼれてしまう。

「……馬、乗れなくなったって……」

 カズートは小さく舌打ちをすると、ダールグが消えた家をにらみ、傷痕に手を置いた。

「よけいなことばっかり言いやがって」

「でも、いま、バルムには……」

 カズートは視線をリウからそらせたまま笑った。

「人を乗せるのが怖くなった馬と、馬に乗るのが怖くなったやつとで、気が合ったんだよ。だからなんとか乗せてもらった」

 彼の傍らのバルメルトウが、そのとおりと賛同するかのようにリウを見つめた。

「あーあ、それにしてもみっともないとこ見られたな。おまえがおれを褒めるのなんて、馬乗りだけだったのにな」

 以前そのままに作った口ぶりが、かえって彼の心の傷の深さを感じさせて痛々しい。

 たいしたけがもなかったリウでさえ、再び馬にまたがるまでには自分の中に巣くった恐怖を克服しなければならなかった。落馬がそんなに怖いならこのまま食べず眠らず死んでしまえばいい、そんなところまで自分自身を追い詰めて、やっと再び乗れるようになった。

 まして落馬事故で死の寸前まで行ったというカズートの恐怖は、どれだけのものだったのだろう。このようにまた馬の背にまたがることができるようになるまで、どれだけの勇気を奮い起こさなければならなかったのだろう。

 傷痕に置いた彼の手が離れた。

「ま、今回にかぎってはそれでよかったってことにしとけよ。おかげでこいつと気が合ったんだから」

 視線が戻ってくる。

「リウ、絶対にバルメルトウを天馬にしてやれよ。こいつは一〇〇年に一頭の馬だ」

 切れ長のその目が笑った。

「――」

 彼が残していったスカーフは持ってきている。イスラの店でさりげなく絹の手入れの仕方を聞き込んで、さらさらとすぐにくずれてしまう生地に苦労しながらきれいにたたみもした。だが、いまそれを差し出すことはリウにはできなかった。傷痕を隠すことをやめ、勇気を奮ってもう一度馬に乗ってくれた彼にこれを返すなど、この上ない侮辱だと思った。

 彼に伝えなければならないことは、そうでなくても他にもたくさんある。

 いくら言っても足りない謝罪とお礼。〈大天馬競〉をあきらめることになったこと。できればバルメルトウを引き取ってもらえないか、来年の〈天馬競〉にカズートの馬として出してはもらえないか、そのことも頼まなければ。――

「あのね」

 だが次の瞬間、リウの唇は勝手に動いた。

「わたし、ずっとカズートが好きだった」

 ひとつだけ伝えたのは、それらすべてをひっくるめたよりなお大きな想いだった。

「だけどわかってたから。お兄さんの言うとおりだって、ずっとずっとわかってたから。わたしたちは住む世界が違ってて、一緒にいられるはずがないって、わかってたから」

 友達としてか、もしかしたらそれ以上なのか。彼が自分をどう思っているのか、だからリウは気にしたことがない。最初から友達以上の関係などありえないと知っていた。だから彼が友達として扱ってくれれば、それで十分だった。

「だから勝って牧を続けたかった。もし牧を続けられれば、これからも馬を飼っていられれば、カズートとほんのちょっとでもつながっていられる気がしたから。もちろん全然違うけど、でもまだ少しは近い世界にいられるって思えたから――そんな夢を見てた」

 ランダットにとって、そしてシャルスにとって〈天馬競〉が手段だったように、リウにとってもやはり〈天馬競〉は手段だった――自分の夢のための。

 けれどもそうした夢すら許されないほど、ふたりの世界は違っていた。

「……バルムを、もらってくれないかな」

 つぶやくように頼んで、大きく息をつく。

 自分がすっかりからっぽになってしまったようで、もう何も出てこなかった。立っているというよりは、周囲の空気に押しやられて立たされているような気分だった。

 さらさらと草が鳴っている。

 草を鳴らす風は、からっぽになったリウの心も吹き抜けていく。

 バルメルトウはリウにとっては間違いなく天馬だった。リウを乗せて風となり、決して届かない空までも駆けていくこともできるような、そんなひとときの夢を見せてくれた。

「……もらえばいいのか」

 風の中にカズートの声がした。

「ん」

 ありがとうと言うことすら、リウは忘れていた。もう自分は乗ることのできない風をただ見つめていた。

 あの、というためらいがちな呼びかけに、リウは顔をあげた。

 少年が困り顔を隠しきれずに立っていた。

「お送りするよう、カズート若さまから言いつかりました」

 リウは少年のむこうを見た。

 広大な牧には風だけが吹いていて、カズートもバルメルトウもすでに姿を消していた。

「……ありがとう」

 最初に言うつもりだった言葉がやっと口を出た。


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