五 覚悟
しとどに体を濡らすのは、夏へと一日近づくための優しい春の雨ではなかった。季節を引き戻す冷たい雨だった。手綱を握る指先は手袋の中で冷え切って、すでに感覚が薄い。
けれども、リウの心を冷え冷えとさせている理由はもっと他にあった。
――負けた。
雨の先にぼんやりと灰色にけぶって見えるルォーグの町並みを見つめながら、リウは唇を噛みしめる。
――わたしのせいだ。
降りしきる雨と起伏が激しいルォーグの競路に、前を行く馬と乗手の姿は見つけられない。もしかしたらもうルォーグの町の中に入って、この雨をも跳ね返すような歓声の中、最後の走りを見せているのかもしれない。
中継地でランダットから旗棒を受け取ったとき、リウとバルメルトウは二位だった。しかも一位との差は五馬身あるかどうかといった接戦だった。まだ馬から下りていない一位の組の二走の乗手のさりげない妨害をかわして、リウは中継地を飛び出した。
ぴんとまっすぐ前を向いた両耳を見るまでもなかった。こんなとき、バルメルトウがどうしたいか、リウはよく知っている。バルメルトウは自分の脚に誇りを持っている。自分の前を行く馬を許すことはない。すぐに追いつき、追い抜いて、相手の馬を打ち負かしてやりたがる馬なのだ。
だが、すでに地面は雨にぬかるんでいた。
すぐ前に見える馬にむきになっているバルメルトウが、濡れた下り坂で蹄をすべらせることを、リウは怖れた。
「まだだよ」
リウは手綱を引いた。
「まだここじゃない。いい子だから、おまえの脚を見せてやれる平地がこの先にあるから、いまは我慢して、バルム」
だがバルメルトウは行きたがった。リウの声と手綱に逆らい、好きに走らせろと訴えた。
いい子だから、お願いだからと、リウは懇願した。
それでも前を行く馬を見てしまったバルメルトウは、リウの頼みを聞こうとしなかった。鞍の下の馬体がいつになく強ばったかと思うと、ふっとその走りから力が抜けた。
平地になってリウが合図をしても声をかけても、バルメルトウはもはや応えなかった。自分は走らされている、そんな態度だった。追い立てようとすると、頭を振って逆らった。
こうなってしまっては、バルメルトウが脚を止めないことをよしとするより他になかった。一位の馬からは離され、後から来た三位の馬にまで抜かれた。
ルォーグの広場に到着し、鍔広帽を取ったリウが女であることに気づいた観客が改めて拍手を贈ってくれても、リウはそれに気づけなかった。うつろに完走のリボンを受け取り、おずおずとバルメルトウに顔を向けた。
「……バルム」
いっそう黒みを帯びたバルメルトウの深い色の目は、リウを見ようとしなかった。
雨のむこうの道に騎影が見えた。マントを深く合わせ、軽くうつむいている乗手の顔はわからないが、高々と首をあげた馬の輪郭は見間違えようがない。リウは歩み寄った。
「リウ、どうしたんだ?」
雨粒の落ちる帽子の鍔をあげて、シャルスが驚いた顔を見せる。
リウは帽子もかぶらず、マントもつけず、ずぶ濡れだった。
「ごめん、シャルス。三位だった」
シャルスには一瞬の迷いもなかった。彼はいつもの微笑を浮かべた。
「そう。また次だね」
「わたしのせいなんだ。わたしが、バルムと喧嘩しちゃったから。わたしが上手く乗りさえすれば、少なくとも二位だったはずなんだ。そうしたらもう〈大天馬競〉への出場権が獲得できたのに。わたしのせいで」
「そんな日もある。きみを責めようなんて思わないよ」
「わたしは責めるよ」
シャルスは馬を滑り降りると、自分のマントをリウに着せかけようとした。
リウはかぶりを振り、シャルスの手をよけた。
「先に宿に帰ってて。わたしはランダットを待つから」
「リウ、だったらますますこれは必要だよ。ずぶ濡れでいたら風邪をひいてしまう」
「平気。ちっとも寒くないもの」
「気が張ってるからだよ。こんな冷たい雨に、そんなわけがない」
「本当にいらない。わたしより、バルムを見てやって」
「……わかった」
リウの顔を心配そうにのぞきこんでから、シャルスはまた馬上の人となった。
「だけど、ほどほどで帰ってきてくれ、リウ。先はまだ長いんだ」
「ん、わかってる」
うなずいて、リウはすぐに町の外へと視線を戻した。
それからぽつぽつと何人かの他の乗手が通り過ぎた後、馬と無帽の乗手が見えた。
「お、どした?」
これだけ雨に濡れていても、ランダットの赤毛はたいしてまとまっていなかった。
「ごめん、ランダットさん。三位だった」
「あー」
ランダットは空を仰ぎ、目を細めた顔に雨を受けてから、またリウに向き直った。
「喧嘩した?」
「……はい」
「そ。ま、でも、しょうがないんじゃん? あいつ、割とカッとなりやすいやつだから。リウが手綱を引いてやんなきゃ、転んで脚でも折ってたかもよ」
「……」
「ルォーグの〈天馬競〉が雨だった時点でおれらの負け。ま、次は晴れんじゃない」
ランダットと宿に戻ったリウは、三人で夕食をとった後、すぐに厩舎に行った。
雨はまだ降りつづいている。そうでなくてもすでに日は落ちている時刻だ。灯りはともされていても厩舎は暗く、馬たちの鼻息や身じろぎが聞こえるだけだった。リウはぎゅっと目をつぶり、暗がりに慣らしてからバルメルトウの馬房の前に行った。
バルメルトウの気配はあるが、馬房から顔は出てこなかった。
やっぱり怒ってる、とリウはため息をついた。
「……バルム」
声をかけても、馬房の中の気配はまったく動かない。
「ごめん。自分でもわかってるんだ。あれくらいの道だったら、おまえなら走れてた。そのまま前の馬をつかまえて、抜いたはずだよね……だけどふっと考えちゃって」
リウは馬房の柵に手を置き、つかんだ。
「もしおまえが、ううん、そんなことはないだろうけど、それでももし、もし脚をすべらせたらって。そうなったらおまえがどうなるかも怖かったし、それに」
ひとつ息を入れ、目をつぶり、それでもリウは苦い真実を口にした。
「わたしもどうなるか、それが怖かった」
走っている馬が体勢をくずした場合、おかしな具合に無理な力がかかった脚が折れることは決して珍しくはない。
と同時、乗手も無事ですむことは少ない。放り出されて地面に体を打ちつけるだけならまだいいほうで、馬の首を越えてその前に落ちることになる乗手には、直後に人の一〇倍近い重さの馬体が迫ることになる。馬にもよける余裕などない。硬い重い蹄で蹴飛ばされるか、踏みつけられるか、悪くすれば馬の全体重がのしかかってつぶされることもある。
といって、鞍から落ちなければ無事というわけでもない。馬が転べば間違いなく下敷きとなるため、むしろ危険度は増す。また、鐙に足がひっかかって中途半端に落ちれば、今度は頭を幾度も地面に激突させることになりかねない。
リウは牧の娘に生まれ、育ってきた。毎日馬に乗り、ときどきは落馬した。打ち身などけがのうちに入らないと思っている。
それでも雨の坂で感じた落馬への恐怖は大きかった。
「わたしがそんなんじゃ、バルムが気持ちよく走れるわけがないよね。今日は本当にごめん、バルム。もうこんな思いはさせないから。約束する。もう怖がらない。だから許して、またわたしと一緒にがんばって、バルム」
馬房の中の気配が動き、柵に置いた手に息がかかった。
「バルム……」
突き出されたバルメルトウの顔に、リウは頬をつけた。
「ありがとう」
漆黒の馬体の体温が冷え切った体に染みわたっていった。
†
ルォーグの〈天馬競〉の五日後、リウはノア牧へバルメルトウを連れ出した。
「バルム、練習してみよう」
軍馬用の調教もするノア牧には、自然な丘を利用して作った坂路がある。馬を駆け上がらせて筋力や心肺能力を鍛えるその路を、リウは駆け下るつもりだった。
あれから十分に乗って、もう一度バルメルトウと心を合わせた。バルメルトウはいつでも勝つために走る。だから、リウも自分の中の恐怖心に打ち勝って、バルメルトウを安全に気持ちよく走らせることに専念しなければならない。それが乗手の役目なのだから。
だが、リウの頼みを聞いたシャルスは眉間を曇らせた。
「お願い、シャルス。わたし、同じ失敗は繰り返したくないんだ。もしそんなことになったら、今度こそバルムはわたしを背中に乗せてくれなくなるもの」
「だけどリウ、あれはそんなふうに使う路じゃないんだよ」
「わかってる」
「もし競路であれくらいの傾斜があれば、誰だって鞍に腰をおろして馬を慎重に歩かせる。それくらいの坂なんだ。それを駆け下ろうだなんて、危険すぎる」
「だからいいの。あそこを下りられたら、あれ以上の坂なんてないもの」
シャルスは、今度ははっきりと眉をひそめて、リウを見つめた。
「決して貸したくはないけれど、ここで断わったら、きみはナユス峡谷の崖でも下りかねないな。わかった、使うといい。ただし僕も近くで見せてもらうよ」
「ありがとう、シャルス! 見物ならお好きにどうぞ」
リウは鍔広帽に髪をたくしこみ、再びバルメルトウにまたがった。
ノア牧もランダルム牧に比べればはるかに広い。柵など見えない緑の丘陵の一部に赤の長絨毯を広げたようにして、坂路はあった。近づいてみると、赤く見えたのはたっぷりと赤砂をまぜた柔らかな土だった。それが広やかな丘の上まで敷き詰められている。
「距離も質も、イシャーマ牧のものとは比べものにならないけどね」
シャルスは自嘲気味に言ったが、リウは聞こえなかったふりをした。
「じゃあシャルス、ちょっと借りるね!」
リウはバルメルトウを丘の上へ進めた。馬を歩かせる分には、平地とは気分が変わって面白いとしか思えない程度の坂だった。大丈夫、とリウは頂上で手綱をひき、バルメルトウを振り向かせた。
その途端、坂は表情を一変させた。
赤い路はまっすぐに、そして長々と丘を下りている。坂の終わりのあたりで馬にまたがってこちらを見上げているシャルスが、棒人形のようにしか見えない。目鼻立ちなどまるで見えず、頭、胴、腕、脚といった体の作りがなんとかわかる程度だ。リウが頂上に着いたと見て取って、片腕が頭の上に持ち上がって振られた。
自分も手を振り返しながら、リウはぞっとした。
距離自体は走る馬に乗っているならたいしたことはない。すぐにでも駆け抜けられる距離だ。だが、ほとんど自分の足の下にいるように見えるシャルスの位置が、リウをおびえさせる。ここからさらに鐙の上に立ち上がってしまえば、その瞬間にバルメルトウの背から放り出されて頭からこの坂の底へと転がり落ちていきそうな、そんな恐怖にとらわれる。
「――だめだめ!」
リウはぶるっと頭を振り、頬をぴしゃりと叩いた。続いてバルメルトウの首を叩く。
「さ、行こう、バルム!」
腹を軽く蹴ったリウの足に、即座にバルメルトウは走り出した。
風が空気の固まりとなって顔にぶつかってくる。いつもよりもさらに鞍の前部分に体が押しつけられて、はっきり自分が坂を下っていることがわかる。懸命に顔をあげようとするが、それでも視界のほとんどは赤い斜面が占めている。
もっと胸を張らないと――リウはその先の緑の丘を、その上の青い空を見ようとする。坂を駆け下っているのはリウではない、バルメルトウだ。前屈みの下手な体勢をとってその脚、ことに負担のかかる前脚にこれ以上の体重をかけるわけにはいかない。
だというのに、恐怖が自然と体をひきつらせる。腕が縮む。背が丸まる。
リウは歯を食いしばり、馬体の下を流れていく赤い地面から無理やり顔をあげた。
その瞬間だった。
窪みでもあったのか、バルメルトウの右の前脚ががくりと大きく沈み込んだ。
右側の鐙に乗せたリウの足が、不意に支えを失った。
一瞬、リウを地面に縛りつける体重が消えた。リウは視界のすべてを埋めた真っ青な空を無邪気に見つめた。はるか高所を飛んでいて、まるで体の下に空があるような気がした。
だがその直後、まるで思い上がった罪への罰のように、リウの全身はしたたかに地面に叩きつけられた。
「――っ!」
強打した体から息が追い出され、声にならない音が口から漏れる。
一瞬の影のようにして、視界の隅をバルメルトウの黒い馬体が通り過ぎた。
青い空がまた、しかし今度はリウの彼方上にと広がっている。全身が痛い。息が苦しい。リウはあえごうとしたが、呼吸の仕方を忘れてしまっている。空気が入ってこない。喉がつまる。胸がつぶされる。
「リウっ!!」
シャルスの声とともに影が覆い被さり、リウは無理やり地面から引きはがされた。ぐいと背中を押された拍子に、空気が喉から胸へと落ちた。
その途端に全身を貫いた激痛に、リウは言葉にならない悲鳴をあげる。体はどうなってしまったのか。にじんだ涙でゆらゆらと目の前が揺れて、吐き気がこみあげる。
それでも、そんな体よりも気がかりなものがある。リウは気力を振りしぼって聞いた。
「ば……バルム……は……?」
「大丈夫、バルメルトウはつまづいただけだ。脚はどうもなってない。それよりきみだ」
「だ……め……バルム……さ……き……」
リウは必死に言葉をつなぐ。
もう状況はわかっている。つまづいたバルメルトウから放り出されて空中で半回転し、背中から地面に落ちたのだ。体のどこが痛んでいるかもわからない広すぎる激痛と、すべての熱が奪われてしまったような悪寒に耐えつつ、リウは自分の体を確かめていく。
右腕、左腕、右脚、左脚、頭。
すべてある。すべて動く。
けれどもバルメルトウがどうなのだろう。不意に乗手を失って、どこまで走っていってしまっただろう。見たい。触れたい。無事を確かめたい。リウは一心に願う。
「バル……ム……」
リウは必死にシャルスを押しやった。
「――わかった」
シャルスが離れた。リウはもう一度四肢に意識をやり、力をこめて伸ばした。
「ぐっ……」
体を起こすだけでうめき声がもれた。
ひどく遠く感じる坂の下に、ぽつんと立つ小さな影。
それが自分の愛馬だと気づくのに、リウはしばらくの時間を必要とした。
「……バルム」
リウは呆然とつぶやいた。そんなことなど決してないと思っていた。どれだけ離れても、どれだけ遠くても、バルメルトウを見誤るなど考えたこともなかった。
ごくり、と喉が無意識に鳴って、リウは自分が震えていることにやっと気づいた。
†
「打ち身と軽い捻挫だな。幸運の女神はまだまだおまえさんを見捨てちゃいないようだぞ」
ノア牧に呼ばれた老医者は、鼻眼鏡越しにリウの顔を見ながら上体を起こした。
「まあ二、三日はおとなしくしてることだ」
痛みを訴え続ける右の肩と腕よりも、ぶるっと震えた自分の体に、リウはぞっとした。
老医者は、すでに腫れているリウの手首をていねいに分厚い包帯で固定しはじめた。
「おまえさんが一日だって厩舎に閉じ込められたくないじゃじゃ馬なのは、わしもよく知ってるよ。だがな、これは大事をとっての日にちじゃないぞ。むしろ、これくらい我慢できなければ二度と前のように馬には乗れなくなると思えという、脅しだからな。たまにはわしの言うことをちゃんと聞くんだぞ」
ジョスリイの町住まいのこの老医者には、リウも生まれたときから世話になっている。落馬後にこうして診てもらったことも、一度や二度ではない。
「シャルスの話じゃ、馬がつまずいた瞬間に、おまえさんは空高くひっくり返ってたそうじゃないか。これだけですんだのは奇跡だぞ。下がよっぽど柔らかい土だったんだろうな」
「ん……」
また体が勝手に震えた。リウはそんな自分を抑えつけて、無理に声を張り上げた。
「だけど、骨は折れてないんでしょ?」
途端、肩がずきりと激しく痛む。
包帯を巻き終えた老医者が、また鼻眼鏡越しにリウを見た。
「だから二、三日と言っているだろうが。わしも若いころはぴんと来なかったが、いまの無理は未来の自分に払わせる借金みたいなもんだ。これ以上借金を増やしたくあるまい?」
「だけど、いまは借りなきゃいけないんだもの。未来のわたしはきっと許すよ」
リウは立ち上がろうとした。とにかくバルメルトウに会いたかった。会ってその背にまたがり、一刻も早く緑の草原を走らせたかった。なにがなんでもそうしなくてはいけないという焦りが、じりじりと胸の底を焼いている。そうした自覚がその焦りをなお強くする。
「いかん、いかん」
だが、老医者は断固としてかぶりを振った。
「自分がしでかしてきた間違いを若い連中にくりかえさせないようにするのが、わしのような老人の役目なんでな」
と、片目をつぶってみせる。
いつもなら笑って軽口を返しているところだったが、いまのリウは視線をそらせて黙り込む以外、なにもしたくなかった。
体に固定された右腕の感覚が落ち着かなかった。リウは違和感ごとそんな右腕を抱えながら、厩舎に戻った。シャルスがそこにバルメルトウを入れてくれているはずだった。
「あ、シャルス」
厩舎をのぞきこんだリウは、すぐそこに立っていたシャルスになにげなく声をかけた。
「バルムは――」
その瞬間、シャルスはそっとリウの無事な左の肩に手をまわして外へと連れ出した。
「リウ、いいから今日は家へ帰るんだ。馬車で送っていくから」
「そんな、どうしたの? バルムは?」
逆らって中をのぞこうと顔をねじむけるリウを、シャルスはさらに厩舎から遠ざける。
「大丈夫、脚をひねってもいないし、ぶつけてもいないし、切ったりもしていない。蹄も割れたり削れたりといったこともない。だから自分のけがだけを考えるんだ」
「待って、シャルス。バルムに会わせて。それにもう帰れって、バルムは?」
「今夜はうちで預かろう」
「どうして!」
「バルメルトウも、ちょっと興奮しているんだ。落ち着かせてやらないと」
「だったらなおさら、うちに連れて帰る。ここはバルムのうちじゃないんだから」
「大丈夫だよ、うちの厩舎だって居心地はそう悪くないはずだ」
「……なにがあったの? どうしてさっきからバルムに会わせてくれないの?」
「なにもない。リウ、本当に大丈夫だから」
「待って、ひと目でも会わせて」
リウはシャルスから逃れようとしたが、身をよじった途端に痛みを訴えた肩にひるんだ。
「ほら」
シャルスはまだリウの左の肩に手を置いている。すぐに気づかれた。
「きみは、まずそのけがを治さないと。バルメルトウが心配なら、きみもうちに泊まっていくといい。きみの家には使いの者をやろう。だから、ほら」
「待って、シャルス!」
「……わかった、正直に言うよ。バルメルトウにはまだきみの姿を見せないほうがいい」
「えっ」
「バルメルトウは人間みたいに賢い馬だ。自分がきみを地面に叩きつけたことを、ちゃんとわかっている」
「って……」
「人を近づけないんだよ。馬体を調べるのも大変だった。いまは混乱しているんだ」
「そんな――バルム!」
リウは夢中で厩舎に戻ろうとした。
シャルスの手が強引に、そんなリウを引き留めた。
「だめだ。きみが行ったら、バルメルトウはよけいに興奮する。馬房で暴れたらそれこそ大けがをしかねない。リウ、頼むから僕たちにまかせてくれ」
「だけど!」
がん、と激しい音が響いたのはそのときだった。
リウはその音をよく知っている。落ち着かない馬が馬房の壁を蹴り飛ばす音だ。苛立たしげないななきがそれに続く。
息を詰まらせて見上げたリウに、シャルスは沈んだ表情でうなずいてみせる。
「バルメルトウだよ」
またいななきが聞こえる。リウは耳をふさぎたくなる。
「うそ! バルムじゃない、バルムはこんな声で鳴く子じゃない!」
「だから言っただろう、混乱しているって」
「うそ……」
「リウ、隣の馬房にはユーリシスを入れてある。あいつが今晩はなだめてくれるはずだ。待つんだ。きみはよくやった。ちゃんと銀糸のリボンを獲たんだ、誰だってきみを悪くなんか言わない、いや言わせない」
「っ!」
リウは痛む体のことも忘れて、今度こそシャルスの手をふりほどいた。感情が高ぶりすぎて、シャルスをにらみつける目はまばたくこともできなかった。
「……どうしてそんなことを言うの?」
「リウ」
「どうしてもう終わったことみたいに言うの?」
「落ち着いてくれ、リウ」
「答えて!」
シャルスはあきらめたように息をついた。
「……落馬は、ときとして体以上に心を傷つけるものだということは、牧の娘のきみはよく知っているはずだ。また落ちるんじゃないか、今度はもっとひどいけがをするんじゃないか、もしかしたら今度こそ死ぬんじゃないか――そういう恐怖が生まれるものだって」
「――」
「ただ馬に乗るだけなら、落馬の恐怖を抱えていてもなんとかなるかもしれない。だけどこれは〈天馬競〉だ。限界ぎりぎりの走りをする馬の背に乗るんだ。まして肝心の馬まであんな状態じゃ――無理だ、リウ」
「無理じゃない! バルムは絶対言うことを聞いてくれる!」
「きみは?」
「もちろん、わたしだって――」
「だったらどうして、きみは震えていたんだ?」
一歩ふたりの間を詰めたシャルスに、リウはたじろいだ。
「そんな、震えてなんかない!」
「僕がさっき手を置いたきみの肩は、たしかに震えていた」
シャルスがすっと、さらに前に出た。
「いまだって、ほら」
リウはシャルスを見上げた。そしてきつく唇を噛んだ。
シャルスの手が再び置かれたことで、リウ自身にもはっきりとわかってしまう。おだやかに上から押さえる手に逆らうように、ぶるぶると震えている自分の左の肩が。
「送るよ、馬車で」
リウは体に固定された右腕を抱えた。そのまま爪を立てる。包帯越しに爪が食い込む皮膚だけでなく、肩も肘も手首も苦痛を訴える。だがリウは力をゆるめない。シャルスの言葉に一瞬ほっとしてしまった自分を罰するように、かえってさらに指に力をこめる。
それなのにどうしてもひと言が出てこない。
――怖くなんかない。
たったそれだけの言葉を言うことを、舌も唇も拒否している。
「残念だけれどここまでだったんだ、リウ」
リウはありったけの意志をかきあつめてかぶりを振ったが、その動きは髪ひとすじそよがせることもできないほど弱々しかった。
「――やめよう」
その言葉を聞いてしまった瞬間、リウは目をつぶった。
†
「リウ、あいつはどうするんだ」
朝食の席で父がぶっきらぼうに聞いてきたのは、落馬から二日後のことだった。
父がバルメルトウのことを言っていることは、すぐわかった。
あれからリウはシャルスに馬車で送ってもらったが、バルメルトウはまだノア牧にいる。
「だって、シャルスからまだなんにも言ってきてないから。ユーリシスとは仲もいいし、バルムも居心地がいいのかもね」
父は無愛想に目線を落とし、自分のパンを割いた。
「うちの馬だぞ」
「だけど、わたしもまだこんなだし」
帰ってきたリウの包帯姿に大騒ぎした母もいまはようやく安堵の息をつき、リウも少しずつ牧の仕事を手伝いはじめたが、それでもまだ薬を塗りつけた包帯はとっていない。
本当はとれるのかもしれない。風呂に入るときは当然とっていて、そこで肩や手首を動かしても、もはや息が止まるほどの痛みはない。だが、リウは包帯をとることをためらった。昨日こちらにも往診してくれた老医者も、きちんと治さないとな、とリウに言った。リウは素直にうなずいた。
「預かり賃はどうする。どこから出す気だ」
「シャルスは気にしなくていいって言ってくれてる。もちろん、後でちゃんと返すつもり」
父はパンを口に放り込み、噛み砕いて飲み込んでから、やけに静かな口調で言った。
「どうせなら、ノア牧のより、イシャーマ牧のに頼ればいいじゃないか」
「父さん!」
リウは席を立った。
「どうせ頼るなら、頼りがいのあるほうがいいだろうが。それとも、おまえの好みは青毛じゃなくて鹿毛なのか」
「やめて!」
「まさか本当にあのお坊っちゃんと喧嘩したんじゃないだろうな? だったらすぐに謝ってこい、とにかく許してもらうんだ」
「喧嘩なんかじゃない。それに父さんには関係ないでしょ」
「関係ないとはなんだ!」
うろたえるばかりの母をはさみ、リウと父はにらみあった。
「……どの口で関係ないなんて言えるんだ」
父が低い声で言う。
「おまえはこの牧をたたみたくないと言ったな。本気でそう思うんなら、天馬だなんてばかな夢を見てないで、もっとたしかな手をどうしてとらないんだ」
「やめてよ!」
「イシャーマの息子だぞ。うちの牧のひとつやふたつ、簡単に買える。なれるかどうかもわからない天馬なんかより、こっちをあてにするほうがずっと確実で、しかも簡単じゃないか。おまえだってあのお坊っちゃんのことは嫌いじゃないんだろう」
「やめてってば!」
「むこうだって、昔からああもやってくるんだ。おまえからその気になってみれば」
「やめて!!」
リウはあらん限りの声で怒鳴った。
だが父は無視した。
「もしかしたら、イシャーマの息子の嫁になれるかもしれないぞ」
リウは呆然と父を見つめた。直前まで暗く沸き立っていた心の一部がすっぱりと切り離されてしまったようで、いまは不思議となんの感情もなかった。見飽きるほど見てきた父の顔が、まったく初めての顔に見えた。冷たい、醜い顔だった。リウの気持ちなど理解するはずのない、その必要すら考えたことのない顔だった。
「……ばかな夢」
リウはふらりと席を離れた。
「どこへ行く!」
答えないまま食堂を出ようとしたリウに、さらに声がかけられる。
「おれの目は節穴じゃない。おまえ、落馬で馬が怖くなってるんだろう」
びくりと肩が勝手に震えた。リウは足を速めた。
それでも無情な声は追いかけてきた。
「そんな状態で〈天馬競〉なんか、絶対に無理だぞ!」
リウは耳をふさいで外に出た。
朝食後に東の端の柵を直しに行くと言っていた父が乗るつもりなのだろう、茶色の老馬が、馬装もすませてつないであった。
「おはよ、ちょっと乗せて」
リウはおとなしい老馬に声をかけ、鞍に右手を置いた。左手で手綱とともにたてがみをつかむ。もう後は目をつぶってでもできる。鐙に左足をかけ、右足でぽんと地面を蹴って、体を鞍に乗せればいい。子供のころから毎日毎日、日々何度もくりかえしてきたことだ。
だが。
「――」
リウはそのまま立ちすくんだ。
体が意志とは関係なく震えている。どうしても膝に力が入らない。左足があがらない。右上半身の痛みが、まるで警告するかのように激しくなる。
馬とはこんなにも大きな生き物だったろうか。そして自分はこんなにも小さく無力だっただろうか。
落馬した瞬間に見た空の色が目の奥によみがえる。真っ青すぎるその色は、どこまでも美しく、どこまでも冷たくて、意識がすうっとその中に落ち込みそうになる。
その色と同時に、なぜか自分の姿が見えている。地面に投げ出され、まるで壊れた人形のような体が。
奇妙な風の音と思ったのは、自分の荒い呼吸の音だった。そうと気づいたリウは、手綱を放り出して走り出した。
「……か……」
漏れた声は自然に消える。リウは唇を噛みしめる。
無性にカズートに会いたくて、そのくせ二度と会いたくなかった。どんな顔をして会えばいいのか、それを思うと決して会えないと思った。
持てる者と持たざる者。
南部の貴族とも肩を並べる大牧の息子と、牧童のひとりも雇えないちっぽけな牧の娘。
丘に馬に乗った人影を見つけると、リウは口ではぶつくさぼやきながら、やかんを火にかける。ひらりと鞍から飛び降りる彼を迎え、また来たと呆れてみせながらお茶を出す。
馬の話と、くだらない言い合いと。カズートが南部へ行ってしまった一年前、特別なことなどなにひとつなかったそんなひとときが失われて初めて、リウはそれがどれだけ自分にとって大切な時間だったのかを自覚した。
その途端、これまでまるで関係ないと思っていたそれぞれの牧の差が、カズートとのあいだの壁となり、溝となった。彼が来ないか期待し、来なくて寂しいと感じてしまうことが、単純な気持ち以外の卑しい計算を意味しているような気になってしまった。
大切な時間を汚さないよう、だからリウは自分の感情に蓋をした。彼が戻ってきても、あるいは二度と戻ってこなくても、それまでと変わらない同じ自分でいることを決めた。
いつでも他愛ない話ができる、彼の友達でいたかった。そのために、牧を営み馬を扱う、彼と同じ立場でいたかった。願ったのはたったそれだけのことだった。
それなのに――リウは厩舎に逃げ込むと、からっぽの馬房の前で膝を抱えた。
こんなときリウの肩先をちょんちょんとつついて、どうしたのと聞いてくれるバルメルトウももういない。
リウはひとりだった。
当たり前、と膝に埋めた顔に歪んだ笑みを浮かべる。ちっぽけな牧を維持するのに精いっぱいで、なんとかしようと身の程知らずの挑戦をし、余裕のないままカズートを傷つけ、あげくたった一度の落馬で馬にも乗れなくなった。
「最初から、わたしには無理なことだったんだ……」
胸がしめつけられて苦しかった。けがの痛みよりも心の痛みのほうがひどかった。
膝に顔を押しつけて、リウは小さく息をつく。胸が痛くてそれ以上の息が出てこない。
「これで、おしまい……」
〈天馬競〉をあきらめて廃業するなら、やらねばならないことがある。まずは牧の馬たちの行き先を決めてやらなければならない。ローナから預かった馬も頼む必要がある。
リウは荷馬車を用意し、ノア牧へむかった。道どおりに常歩で進む馬に引かれた荷馬車での道中は、バルメルトウで駆けたそれまでよりも、ずっと長い時間がかかった。
「……だけどこれが、わたしにはお似合いなんだ……」
リウはつぶやき、目をつぶった。
†
ノア牧にシャルスの姿は見あたらなかった。
荷馬車を下りたリウは牧草地まで歩き、牧童を見つけてシャルスの居場所を聞いた。
「や、知りません」
「出かけたの? でもそれにしたって」
「そうじゃねえです。若旦那ならうちの牧にいまさあ」
「じゃあ知ってるよね。どこ?」
「それが……」
牧童は言いづらそうに顔をしかめた。
「なにかあったの?」
「いえ……」
「言って。シャルスには言わないから」
「……へえ。おれがこんなこと言ってたなんて、若旦那には言わねえでくだせえよ」
リウは約束した。
「今朝どっかからの使いが来てから、若旦那の機嫌が悪くって。うっかりつかまって怒られちまう前にと、朝飯の後はさっさとこっちに出てきちまいまして。急ぎの用でねえなら、お嬢さんもいまは若旦那に会わねえほうがいいですよ」
「じゃあうちの馬は? バルメルトウ。黒い牡馬」
「へえ、たいした暴れ馬で」
「……どこ?」
「若旦那、そのことでもかりかりしてたみてえでね。調教場に連れ出せって、運悪くつかまった奴に言いつけてました。馬も馬で、黒い悪魔みたいな野郎だからね。おととい昨日と、もうおれたち三人が三人とも、こっぴどく蹴られるところでしたぜ」
「……ごめん、それはわたしのせいなんだ。みんなけがはなかった?」
「へえ、大丈夫でさ。気にすることはねえですよ、ランダルム牧のお嬢さん。馬には脚ってもんがついてるだけのことでさ。またあいつの脚は特別長えしね」
牧童はにっと笑ってくれた。
それでもリウの気分は晴れなかった。
調教場まで馬を貸そうと言ってくれた牧童の申し出を断わって、リウは歩いて向かった。
北部タールーズ地方も初夏を迎えている。空には雲ひとつなく、目に染みそうな青がどこまでも広がる。こんな日に緑の牧の中を歩くのは、気持ちがいいことに違いなかった。
「そうだよね」
リウはうなずいた。足もとからたちのぼる草の匂いは近く、頬をなぶっていく風はおだやかで柔らかい。こうして自分の足で歩くのも悪くない――もはやそうすることしかできなくなってしまったとしても。
歌を口ずさみながらゆっくり歩いていったリウの耳に、やがてふたりの男の会話が聞こえた。ただの会話ではない。語気荒く怒鳴り合っている。リウは驚いて走り出した。
上り道が下り坂に変わった道の先に、馬と人がいた。馬は激しく頭を振って逆らい、その手綱を取る人影が振り回されそうになっている。全身黒の馬体はバルメルトウに違いなかったが、こんなにも乱暴なことをする馬ではなかった。
そのことにリウの胸はずきりと痛む。いますぐ走り寄ってなだめてやらなければいけないのに、足がすくんで動かない。
だが、気がかりなことは他にもあった。
バルメルトウから遅れて歩きながら、やはりふたりの男が言い争っている。太陽を受けて輝く褐色の髪と、同じ光を受けながらますます濃く暗く見える黒い髪。
シャルスと、そしてカズートだった。
もう言葉そのものまで聞こえる。
「――だから、無理なんだ!」
珍しくシャルスが声を荒げている。
「お節介はもうやめてくれないか、迷惑だ! こうして言うことを聞くのも、これが最後だと思ってもらいたい!」
カズートが言い返す。
「そんなに自分の意見に自信があるのか! 自分が間違ってるかもしれないとは思わないのかよ!」
「いいかげんにしてくれ! ……大体、このことはどこから聞きつけたんだ。人を使ってこそこそ探り回っているのかい、それとも、イシャーマの御曹司にはみんながご注進してくれるのかな?」
「そんな言い方はやめろ! 医者の家に家政婦がひとりいれば、誰がどんなけがをしたかなんて、広まるのは十分だろ」
「それは失礼、うわさなんて聞こえない耳を持っているのかと思っていたものだから」
「……どういう意味だ」
「それならもう少しいろいろ慎重になれただろうに、ということだよ」
カズートが言い返すより早く、シャルスはさらに言葉をかぶせた。
「わかったのならこれを最後に引き下がってくれ、わからないなら帰ってゆっくり考えてくれ! 迷惑なんだとはっきり言っただろう、僕も、それにリウ自身もだ!」
なんだろう、なんの話だろう、そんな疑問がぐるぐるとリウの頭の中で回っている。すぐ目の前に答はあるのに、わざわざ目をつぶって手探りしているかのようだ。彼がどんな言葉を返すかそれだけが気になって、リウはカズートの横顔をうかがった。
黒い頭がわずかに揺れる。カズートが答えようとしている。
リウはますます体を強ばらせて、そのときに備える。
「――あいつが本当に、自分からやめるって言ったのか?」
低い声がつむいだ言葉は、否定でも肯定でもなく、質問だった。
すぐに、今度はシャルスの頭が動いた。
「言わせることもないだろう。すでにいっぱいいっぱいになっている子に、どうしてそこまでやらせる必要があるんだ。周りから止めてやるのが思いやりじゃないか」
「だから、それが信じられないんだ。おれが知ってるあいつだったら、そんなことをされたら怒るはずだ」
「……だったら聞こうか、きみはリウのなにを知っているんだ? リウは元気で、まっすぐで、いつだって明るく笑う子だ。だけどそれはリウの優しさなんだ。こちらに笑ってみせる顔の下で泣いていることだってあると、きみはわかってやれないのか?」
そうだろうな、とシャルスはカズートに返事を言わせずに続けた。
「わかってやれるような男だったら、あんなふうにうわさになるほどランダルム牧に出入りしたあげく、南部へ行きっぱなしで音沙汰なしなんてことはしなかっただろうね。わからずにそうしたならきみは無神経な男だし、わかっていてのことなら不実で無責任な男だ」
その声は別人のように冷たかった。
「きみのところの牧へ出入りしていたあいだに聞いたよ。あの洒落者の四男だけじゃなくてきみも、将来の結婚相手を南部の貴族の姫君から選ぶことになったそうだね。今年の〈大天馬競〉で天馬を獲って、それを手土産に堂々むかうと聞いたよ。あの馬たちにふさわしい黄金のような姫に贈るとね。だから組の名も《黄金姫》とつけたそうじゃないか」
カズートがやっと言い返す。
「誰に聞いたか知らないが、おれが行くのは兄貴の供でだ。〈天馬競〉に出している馬も、たしかに伯爵に贈る予定だが、おれのじゃない、親父のだ。組の名前をつけたのも兄貴だ」
「無理はしなくていいよ。一年も帰ってこなかったんだ、よほど南部が気に入ったんだろう。馬への興味もなくしたようだし、一体どうして帰ってきたんだい」
「なんだってそんなことを言われなきゃならないんだ!」
「不思議だからさ。帰ってくる必要なんてなさそうなのに。実際そんなスカーフで着飾って、もうすっかり貴族の若さまのようじゃないか」
「これは――」
「ある意味、感心するよ。きみこそよく人のことに口をはさんでこれるものだ。それともイシャーマの一族なら当然許されると思っているのかい? 恵み深き御曹司のお情けをかけてもらった者は皆、喜びの涙を流してありがたがるものだとでも?」
カズートの足が止まった。
「やめて!」
リウは道の上から叫んでいた。カズートがこれ以上傷つけられる姿を見たくない、ただその一心だった。
ひっぱたかれたように振り向いたふたりが、リウを見上げた。
自分で叫んでおきながら、彼らの視線にさらされることが耐えきれなくなる。リウはとっさに身をひるがえし、彼らとは逆の方向へと走り出した。
リウ、と呼んだシャルスの声に、カズートの声が重なった。
「待ってろ! おまえの馬は、絶対におまえに返すからな!」
彼の声に背中を突き飛ばされるように、リウはさらに加速した。
足音が追いかけてくる。
「リウ!」
呼ばれて腕をつかまれるより先に、リウはそれがどちらの男なのかを知っていた。
「リウ……来てたのか」
ほんの少しだけ息を切らせていたのはシャルスだった。彼は優しく微笑んだ。
「けがは、どう?」
リウは答えることなく、目をそらせた。
「ごめん、もう帰る」
「大丈夫かい? 送ろうか?」
「平気、馬車だから。……ごめん」
「それは、なにについて? お茶もしていかないことかい、それとも〈天馬競〉に出られなくなったことかい」
シャルスはリウの恐怖心を知っていた。そのことがよけいに、彼を見ることをできなくさせた。リウはますます顔をそむけた。
「二番目のことなら、気にすることはないよ。しょうがないことだったんだ。必要以上に自分を責めるのはよくない。胸を張っていい。きみはよくやった。世界中のどんなやつにだって、僕はそう言える」
だけどわたしは――リウは自分の手に視線を落とす。うんざりするほど無力な手。結局この手はなにもつかめなかった。それまでつかんでいたものまで手放してしまった。
「……また相談に来る。馬たちのこと」
「ああ、待っているよ。いつでもいいから、そのときはお茶を飲んでいってくれ」
リウははっきり答えもうなずきもしないまま、荷馬車でランダルム牧へ戻った。そして父に見つからないうちに厩舎へと逃げ込んだ。
いまの時間、馬たちは牧へ出されて、馬房はすっかり空になっている。
昔より馬が減って空いた馬房の多い厩舎はそうでなくても寒々しかったが、いまはなおのことだった。ことに、寝藁も敷いていないバルメルトウの馬房は。
バルム、と飾り文字を刻んでやった木板が、むなしく馬房の柱にかかっている。
とっさにリウは木板をつかんで窓から投げ捨てた。それから壁にもたれて座り込んだ。下を向くと涙がこぼれそうな気がする。リウは頭をのけぞらせて上を向き、目を閉じた。
頬に感じる陽射しは移ろい。
いつのまにか、リウは半ば眠ってしまっていたのかもしれない。馬車の車輪の音にも足音にも気づけなかった。だから窓から降ってきた声は突然だった。
「やっぱりここか」
ぎくりと体がひきつった。
「かっ――」
カズート、という言葉が、声にならない。
「安心しろ、すぐ帰る」
カズートはそう言ったが、リウは背が触れた壁板に彼の体の重みを感じた。
厩舎の外、リウとは壁を挟んだ背中合わせに、カズートが座っている。
「おまえ、出ろよ」
「……」
「怖いのは、落ちた人間だけじゃない。落とした馬もだ。おまえもさっき見てただろ。バルメルトウがどれだけ嫌がってたか。あいつに鞍をつけるまでも大変だったんだぜ」
「……」
「でもな、あいつは絶対もう一度走るようになる。走らせてみせる。あいつは走るために生まれてきたんだ。だから走らせてやらなきゃいけない」
「……」
「あいつもこれからがんばるんだ。だからおまえもがんばれ。やれるだけのことは全部しろよ。結果もしだめだったとしても、自分をなにもできない臆病者、大事なところで逃げ出した卑怯者だと思い続けてこれから先ずっと生きてくよりは、いくらかましだろ?」
壁から重さが消えた。
「ま、これはおれの考えだ。おまえがどうするかは、おまえが自分で決めればいい。ただ、あいつはまた走れるようになって、必ずおまえのところに帰ってくるからな」
さっき捨てた木板がぽんと落ちてきた。
のろのろと体を伸ばして引き寄せようとしたリウの頭に、続けてふわりと、ひどく柔らかなものが降ってくる。
「あいつを天馬にしてやるのは、おまえの役目なんだぞ。それだけは忘れんなよ」
遠ざかる足音を聞きながら、リウはするすると頭から滑り落ちようとする布を取った。カズートの絹のスカーフだった。
ぎゅっと両手で握りしめる。
これは返さなきゃ――きつく唇を噛みしめながら、自分に誓う。
返しに行かなきゃ。
ちゃんと勝って、胸を張ってカズートに返しに行かなきゃ。
ありがとう、って言いに行かなきゃ。
永遠にそれができないまま終わるより怖いことなんて、なにもないんだから――リウは立ち上がり、きっと顔をあげた。
†
五日後、丘を越えてランダルム牧にやってくるひとりの男と二頭の馬を見つけたとき、リウはすぐさま自分がまたがる老馬をそちらに走らせた。
「シャルス!」
エギルの鞍にバルメルトウの手綱を結びつけてつれてきたシャルスは、出迎えたリウに微笑んでみせた。その笑みは少しだけこわばっていた。
「バルメルトウを返しに来たよ」
リウが聞くより早く、彼は疑問に答えた。
「もう心配ない。うちの牧からここまで、バルメルトウはずっと素直についてきた。元のままのバルメルトウだよ」
それからシャルスは、眉をわずかによせてリウの顔をのぞきこんだ。
「きみの、そのけがは?」
リウは肩をすくめて小さく笑い、かさぶたになった鼻の頭のすり傷を指の腹で押さえた。
「昨日、ちょっと落ちちゃって。見られなくてよかったよ、顔から落ちるなんて、あんな格好悪いのはさすがに初めてだったから」
「大丈夫だったのかい?」
「平気。わたしがあんまり変な落ち方をしたものだから、この子まであーあって顔になってたよ。落ち方の上手下手も、馬ってわかってるよね」
シャルスは鞍を下り、バルメルトウの手綱をといてリウに渡した。
「――どうやって、また乗れるようになったんだい」
手綱を受け取りながら、リウはシャルスとバルメルトウに笑ってみせる。
「びくびく怖がってる場合じゃないって、わかっただけ」
「それにしたって楽なことじゃなかったはずだ」
「ん、だからなにかする前には絶対乗るようにしたの。だって毎日のご飯と毎晩の眠りがかかってたら、もう乗るしかないでしょ?」
シャルスはかすかに息をつくと、振り返った。
「昨日ジョスリイの町で、ランダットに会ったんだ。そろそろ、って聞かれたよ」
「シャルスはなんて答えたの?」
「答えたくないな。結局間違っていたんだから。ここの帰りにすぐにランダットをつかまえて、訂正するつもりだ」
「ん、よろしく」
シャルスが顔を向けた。
「半月後、マーセブルッツの〈天馬競〉がある。それでいいのかな」
「わたしはね。それに、バルムも」
リウはバルメルトウに微笑んだ。
漆黒の毛を輝かせたバルメルトウの体はしなやかに引き締まり、風に首を振り立ててたてがみをなびかせたところは、いますぐ思いきり走りたくてうずうずしているようだった。
「半月後じゃ、遅いくらい」
マーセブルッツの〈天馬競〉は平坦な競路が特徴で、ただ三走路の最後に、馬上からは足もとが見えないほどの急な長い下り坂がある。ここまで走ってきた馬の脚に大きな負担をかける危険な場所で、前年の〈天馬競〉ではここで二頭の馬が前脚を折り、乗手も鞍から放り出されてまだ普通には歩けないという。
今年の〈天馬競〉は接戦だった。その坂にまでもつれこんだ三組の勝負は、坂道に臆するどころか、傾斜を無謀なまでの速さに変えて駆け下った馬と乗手の勝利で幕を閉じた。
「あいつは悪魔の馬だ!」
二位で入ってきた乗手がうめいた言葉が、勝者を讃えていたマーセブルッツの広場をさらにわっと沸かせた。
頬をうっすらと染めたリウはふたつめの、そして今度こそ金色に輝くリボンを手に入れた。