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四 葡萄酒の町で



 ともにランダルム牧を出発した朝日が、天頂近くなったころ。丘の上に広がった町が見えてきた。整然と区画された葡萄畑が、つづりあわせた端布のように町を囲んでいる。葡萄酒の名産地として広くその名を知られた、フラシコの町だった。

 しかし馬上のリウが気になるのは〈天馬競〉のことだけだった。

「道しか走れないね」

 農地に馬を入れて土地を荒らすことは、どこでも厳しく禁止されている。これだけ葡萄畑だらけの地形となると、今回は本来の道を通るしかないということだ。

 シャルスも鞍の上からあたりを見わたした。

「だけど、その道は十分に広い。そう気にすることはないんじゃないかな。〈天馬競〉当日は畑仕事も制限されるから、他の馬車や馬もないだろうし」

 たしかにフラシコの周辺の道は通常よりもはるかに広い。葡萄の収穫や、出荷する葡萄酒を考えてのことなのだろう。馬はもちろん相当な大型馬車でも余裕ですれちがえそうだ。

「でも、競路が狭いのって、なんかいやだな。――どう、ランダットさん?」

 リウは振り返った。

 ノア牧の馬の中から適当そうに一頭を選んだランダットは、いまもどうでもよさそうな顔で選んだ馬の背に揺られている。

「こういう狭い競路って、経験ある?」

「んー、それなり。ま、でも、そこまでの勝負になることって滅多にないし」

「今回は?」

「なるかもなー。どの馬も、結構やる気ありそうだもん」

 馬について言うあたりが、ランダットらしかった。

「そっか。でも、人だって負けてないよ」

 通常〈天馬競〉出走者たちは、早めに開催地の町に入って自分や馬の体調を整え、ゆっくり競路の下見をする。しかし、リウたちのように金銭的な余裕がなくてぎりぎりに入るする者たちもいれば、雇い主を捜して延々とうろつく助っ人志願の者もいる。もちろん準備する町の人間もいて、結果フラシコの町に近づくに連れて混雑は増すばかりとなる。

 ごった返す人、馬、そして馬車。

 道は町の中に入っても広さを保っていたが、それでも混雑は抑えきれない。ことに小回りのきかない馬車は身動きがとれないようで、御者の罵声がそこかしこであがっている。

「やっぱり狭いのってよくなさそうだね」

 リウはぼやいた。本来草原に棲まう馬は狭い場所を好まない。リウは少しでもひらけた空間を見つけ出して、バルメルトウをそちらに誘導していった。そうしているうちに、いつのまにかシャルスやランダットと離れてしまった。

 とはいえ、行き先は決まっている。出走受付はどこでも広場で行われるものだからだ。

「広場の北ね!」

 振り向きながらリウが叫ぶと、シャルスとランダットはそれぞれ手をあげた。

 これでバルメルトウと自分だけを心配すればよくなった。リウは方角と、あれこれと物が落ちている足もとに気をつけながら、ゆるやかな坂道を進んだ。

 声がしたのはそのときだった。

「見ろよ……」

 それまでの喧噪が少しずつ静まって、あたりの人馬が動きを止めていく。だけではない。道の真ん中にいた者は、あわてた様子でよけていく。

 よほど偉い者でも来たのかと、リウもバルメルトウを端に寄らせ、肩越しにふりむいた。

「――」

 頭上からの陽光を受けて、乳色、月色、銅色、それぞれの色に輝く三頭の馬が、軽やかな足取りでやってくる。規則正しく石畳を叩く蹄の音は、明日の凱旋の予行練習のようだ。つけられた馬具はつやめき、脚を保護する布までもが装飾品であるかのように美しい。

 馬たちの乗手がどけと声を張り上げたわけではない。だが彼らの行くところ、自然と道はできる。邪魔してはいけない、そんな思いが見る者の胸にこみあげるせいだ。

「主役が来たぜ」

 誰かのつぶやきに、リウは今度こそ息を詰まらせた。

 続いて無蓋の小型馬車がやってくる。すでに天馬のような馬たちに比べれば簡素すぎる馬車だが、そこにひとり乗る絹スカーフの若者を、この場にいる誰もが知っていた。

「イシャーマの五男だぞ」

 馬車の手綱をとるカズートは、馬に乗る姿勢のままだった。自分にふりそそぐ視線を完璧に無視して馬たちのさらにその先を見据えた視線は、まったく動かなかった。

「五男は乗るんだったな。今年は御曹司ご本人が出るのかね」

「あの格好じゃあ違うだろうよ。明日の優勝の見物だろうさ……」

 リウは目をそらせ、カズートを見つめる無数の視線から抜けた。視界の隅をカズートの馬車が去っていった。


     †


 〈天馬競〉の日の早朝、出走者は町の外に集まった。

 ほの暗かった空も次第に白んで光を増していき、丘陵地を眠りから呼び覚ましていく。うっすらと朝露を葉に乗せた葡萄畑が、あざやかな緑に輝きはじめる。

 画家が自分の画布の上に切り取りたいと願うに違いない朝の景色を、だが、リウは一瞥もしなかった。リウの視界も関心も、冬毛のままのような厚い毛に覆われた脚と、不格好なまでに大きな蹄によって占められていた。

「バルム、大丈夫だね。おかしなところはないよね」

 リウはその脚をさすり、蹄を裏側まで確かめた。不穏な熱も腫れも感じられなかった。

 できるだけいつもと同じようにと思っていても、鼓動は早く、大きく、体全体に響いている。ブーツを履いた足もとも、夢の中で雲を踏んでいるかのように浮ついている。リウは息を吸って体を起こし、バルメルトウの肩に手を置いた。

「――よし。行こう、バルム」

 同じように自分の馬の傍らに立つシャルスは、念入りに馬具を確かめている。

 ランダットは、いつもとまったく同じのんきそうな顔で馬に低く話しかけている。

 フラシコまでの道中、シャルスは優雅に、そしてランダットはゆったりと、それぞれ馬を走らせていた。〈天馬競〉の乗手としての経験は浅いが、それでもリウはこれまでたくさんの乗手を見てきている。はっきりした格付けなどできないにしても、彼らは並以上の乗手であると、自信を持って断言できる。

 やれる、きっとやれる――これまでの〈天馬競〉前につぶやきつづけてきたその言葉は、緊張する自分への励ましと淡い希望としてだった。だが、今日はそれだけではなかった。

「がんばろう。わたしたち、きっとやれる」

 リウは彼らに言った。組んだ相手にこうやって声をかけるのは初めてだった。

 シャルスはうなずき、ランダットも飄々とした顔をこちらに向けた。

 リウはそんな仲間たちの姿に集中する。イシャーマ牧のあの見事すぎる馬たちを、雑踏の中に見つけてしまわないように。バルムは絶対に他のどんな馬にも負けない、そんな信念を万が一にも折られてしまわないように。

「バルムもわたしも、みんなを信じて待ってるから」

 係員が二走騎・三走騎を集める声があがり、それぞれの集合場所に旗が立った。

「シャルス、がんばって。初めはどうしても競り合いになるから、大変だけど」

「ああ、大丈夫だ。エギルの飛び出しにまかせてくれ」

「ランダットさんも気をつけて。二走の競路は荒れ地で、馬が蹄を痛めやすいんだよね?」

「こいつにも言っといた」

 ふたりににこりと笑いかけ、リウは愛馬の手綱を引いて、三走騎の旗を目指した。

「おいおい、どこのガキだ?」

 同じく旗の下に集まったうちの誰が言ったともつかない声がする。

「馬が見つからなかったからって、なにも兎で出てくるこたあねえだろうがよ」

 無遠慮な笑い声が、とっておきの冗談だと自画自賛するようにあたりに響く。

 リウは自分の鍔広帽を押さえると、その下できつく唇を噛んだ。言い返しはしない。リウの声を聞けば、相手は女と悟ってますます調子に乗るだけだ。

 声を避けてさらに進んだリウの前に、月色の輝きが見えた。イシャーマ牧の馬だった。

「よう、兎のガキ! 見たか、そいつが馬ってもんだぜ!」

 リウを追ってきた声が聞こえたらしい。月毛の馬の前、まるでその従者のように見える若い係員が、少しばかり同情的にリウを見た。

 リウは彼から顔を隠すように、さらにぐいと鍔広帽を押し下げた。

「三走騎の方は騎乗してください。中継地へ先導します」

 係員の声がした。


 胸の中で心臓が暴れまくり、喉はしめつけられたように息苦しく、頭はかっと熱いのに体は底のほうからひんやり冷えていく、奇妙な感覚。リウはやっと三度目の〈天馬競〉で、やっとそうした感覚に慣れつつあった。

 太陽はのろのろと空を渡り、ようやく天頂を過ぎたばかりだ。もし仮にシャルスが一番でランダットにつなぎ、ランダットもそのまま先頭を保ったとしても、競路の半分も過ぎたかどうかというところだろう。

 まだ人馬の姿を見ることはないと知っていながら、リウの視線はつい東に向く。使い込んだバルメルトウの手綱ごと、人に幸運を運ぶというそのたてがみを指にからめてしまう。

 おとなしく立つバルメルトウが首を曲げて、黒い鼻面をすりつけてきた。

「ん。みんな、きっと大丈夫だよ」

 リウは柔らかなその耳にそっとささやいた。

「おまえも昨日、馬房で話した? エギルは強気な子だし、ユーリシスはいい子だったでしょ。だから絶対に、ちゃんとここまで旗棒を持ってきてくれるよ」

 〈天馬競〉では、三組の人馬をどういった順で競路に配置するかも重要な鍵となる。

 全頭一斉に走り出す一走馬には、まずなによりも群を抜け出す速力。一走の馬の作った差を引き継いで走る二走の馬には、持久力と集中力。そして、前の展開次第でどんな走りを求められるかわからない三走馬は、速さだけでも粘りだけでもない、そういったものすべてを総合した力――強さが求められる。バルメルトウの走りを見たシャルスもランダットも、三走馬はバルメルトウだと口を揃えて言ってくれた。

「そして最後はおまえだもの、バルム。おまえはどんな馬にだって負けないよ」

 言いながら、リウは自分の右後方にいる馬をちらりと見やらずにはいられない。

 三走をまかされた二十八頭の駿馬の中にあっても、際立って見事な月色に輝く馬。耳は落ち着いて風に立ち、長いたてがみが飾るすんなりした首には気品、力みなく大地を踏みしめる四肢には風格すら漂わせた、まさに天馬になるために生まれてきた馬。

「な、あれが馬ってもんだぜ。おめえのその不細工とは違えんだよ」

 出発前にもリウをからかってきた男だった。帽子は古び、風防布もかなりくたびれて継ぎが当たっていた。そして小さな目が声音のとおり、意地悪くリウをにらんでいた。

 ざっとそれらを見て取ると、リウは自分の帽子の鍔の影にさらに深く顔を隠した。

 男は、なにもリウを説得して出走を取りやめさせようとしているわけではない。見栄えのしない馬を連れた小柄なリウを時間つぶしに使おうとしているだけだ。そんなものの相手になってやる気は、リウはさらさらなかった。

 しかし、男はなおもからんできた。

「〈天馬競〉はな、ガキが自分ちのくだらねえ馬にまたがって、さあがんばって走りますよ、なんて世界じゃねえんだよ。目障りだ」

 足もとに勢いよく唾が吐かれた。リウは黙って男から離れようとした。

「おい、人に話しかけられたら、はいと答えるもんだぜ。まともなしつけもされてねえガキのくせに、なに一人前のツラしてこんなところにいやがるんだ? ええ?」

 逃げ場を探して頭をめぐらせた拍子に、男の馬の姿が見えた。

 悪い馬ではない。それどころかかなりの駿馬と言っていい。灰色の体に黒いたてがみと尾を持った芦毛の牝馬で、例の月毛さえいなければ十分に人目を惹いたはずだ。牝馬を走らせる者は多数派ではないが、珍しいわけでもない。牡馬を負かすだけの脚を持った牝馬も存在する。この牝馬もそうした一頭なのだろう。

 しかし、それは馬が普通の状態であればのことだった。

「――なに、これ」

 リウは思わずつぶやいた。

 灰色の牝馬の耳はほとんど前から見えないほど後ろに伏せられ、目の縁にわずかに見える白眼は充血している。不自然に強ばった全身の様子は、ひどくおびえているのか体調が悪いのか、ともかく〈天馬競〉に出られるような状態ではないことを明らかに示していた。

 眉をひそめ、リウは男に顔を向ける。

「どういうこと? この子、おかしいよ」

 リウが女だと気づいた男は、大げさに笑いながら声を張り上げた。

「おい、みんな知ってたか? ここにとんでもねえじゃじゃ馬がいるぜ!」

 もしかしたら誰かがなにか答えようとしたのかもしれないが、それよりも早く、フラシコの町から皆を案内してきた若い係員が応じた。

「女性が出ても、規則としてはなんの問題もないですよ。牝馬だって走りますしね」

「そんなことを言ってんじゃねえんだよ! ガキでも許せねえってのに、こんなお嬢ちゃんがおれたちの向こうを張って走ろうってんだぜ? おまえも怒れよ、よくもフラシコの〈天馬競〉をなめてくれたもんだってよ!」

「こちらの方は、あなた同様、正式な受付をすませています。問題はありません」

「そういう話じゃねえだろ! フラシコの男どもはどうなってんだよ、自分のとこの葡萄酒で酔っぱらうしか能のねえ腑抜けぞろいかよ!」

 男は、今度は係員に相手を変えようとしている。

 注意が自分から逸れた隙に、リウはよりくわしく男の馬を見た。

 馬は汗をかいている。〈天馬競〉に出ようという馬が、町からこの中継地までの移動程度でここまで汗をかくわけがない。現にバルメルトウは息ひとつ荒げなかった。

「この子、具合が悪いんじゃないの?」

 リウは鋭い声を男にかけた。

 男の顔がはじかれたようにリウに向いた。

「うるせえ、よけいなお世話だ!」

 その瞬間、リウは男の心を理解した。

 男はもちろん、自分の馬の異変に気づいている。気づいていながら、しかし出走を取りやめる決断を下せずにいる。

 これだけの馬だ。本調子であれば、イシャーマ牧の月毛には及ばずとも二位を十分にねらえる。

 男が何者なのかはわからない。だが、相応の時間と費用をかけてこの〈天馬競〉に出てきたことは疑いようもない。今回は見送って次を待つという気にはなれなかったのだろう。

 自分だったらどうしただろう、とリウは考える。今朝、もしもバルメルトウが発熱していたとしたら、あるいは脚に異状が見つかったら。素直に出場をあきらめることができただろうか――その答は出ないまま、リウは男にさらに言う。

「だって、どう見てもおかしいのに!」

「人の馬にかまうんじゃねえ! 女でも容赦しねえぞ!」

「取り返しのつかないことになったらどうするの? 〈天馬競〉はここだけじゃないよ」

「うるせえって言ってんだろ! おまえみたいな道楽で出てるのと違うんだよ!」

「わたしだって道楽なんかじゃない!」

 リウはかっとなった。

「わたしにだって、絶対に勝たなきゃいけない理由がある! だけど!」

 叫ぶと同時、先ほどの答が出た。リウは男を真っ向から見つめるために胸をそらせた。

「それは、バルムがいてくれなきゃ絶対にかなわないことだもの! もしバルムの具合が悪いなら、わたしはあきらめる。バルムだったら次こそ勝つって、信じられるから。自分の馬だよ、どうして信じてやれないの?」

「うるせえ、うるせえうるせえ! 次こそって簡単に言ってくれるじゃねえか! そう簡単に次がねえやつだっているんだよ!」

「だけど馬がいなかったら、次もなにもないじゃない! この子は病気なんだよ!」

「おれの馬はあがり症なんだよ! 見てろ、てめえの兎なんか置き去りにしてやらあ!」

 顔を真っ赤にした男は、脚の運びもぎこちない馬を無理やりひっぱり、リウから離れた。

 リウは助けを求めて係員を見やった。しかし係員はかぶりを振った。

「規則では、棄権は本人の意志がないとだめなんですよ」

 他の乗手たちも、一連の騒動などなかったかのように沈黙している。災難だったなというようにリウに肩をすくめてみせた初老の男がひとりだけで、あとは目を合わせもしない。まして男に忠告などしてやろうという素振りを見せる者など、いるはずもなかった。

 リウは初老の男にうなずき返し、体ごとバルメルトウに振り向いた。

「……そういうこと、なんだろうね」

 二十八人の乗手がいて、二十八の勝ちたい理由がある。そしてそのほとんどが、勝たねばならない事情へとつながっているのだろう。リウ自身、バルメルトウを天馬にするという目標のために勝ちたい。牧を存続させるという目的のために勝たねばならない。

 そんな者たちにとっては、他の馬の不調は自分の幸運なのだ。また別の〈天馬競〉で出くわすかもしれない可能性も考えれば、ただ棄権するだけでなく、無理をしたために脚でも折ってくれれば、さらに都合がいい。

 冷たい世界だった。背が急に薄ら寒くなった。リウは唇を噛みしめ、離れた場所で体をこわばらせている灰色の馬を見つめた。

 自分にはそんな権限はない、しかも女に言われればあの男はさらに意固地になるに違いない、それどころか機嫌を損ねて殴られでもしたら――そんな言い訳の奥に、他の無言の乗手たちと同じ意地の悪い願いがひそんでいることを、リウは認めた。

「……わたしも同じ、冷たいやつだ」

 胸のあたりにいやな固まりがつかえている。リウはこぶしを置いてみたが、少しも楽にはなってくれなかった。

 東の空にぽつんと現われた小さな影が、一直線に旗をめがけて落ちるように飛んできた。

 旗竿に止まったのは鳩だった。係員は慣れた様子で鳩をつかまえ、その足の通信管から薄い紙片を取り出し、すばやく目を走らせた。

 フラシコの商人は鳩を使って遠隔地とのやりとりをするという話を、リウは思い出した。

 係員の顔が紙片からあがった。

「朗報です。二十八組すべてが中継地を発ちました。一着はイシャーマ《黄金姫》組」

 不意打ちの順位発表と出てきた名に、リウの心臓がどきんと跳ね上がった。

「書いてあるのは一着だけなのか!」

 それまで静かだった乗手たちが騒ぎ出す。

「もちろん他も書いてありますよ」

 乗手たちは再び口をつぐむ。

 係員の声を聞きながら、そのくせリウの頭の片隅は勝手に別のことを考えている。

 イシャーマ牧が出す組は、毎年〈天馬競〉どころか〈大天馬競〉の常連だ。複数の組が出る年もある。そのせいかどの年でも、イシャーマとだけ登録される組はない。イシャーマ・ダールグ組、といったふうに、その組を管理している一族の者の個人名も同時につけられる。

「二着、かなり離されたようですが、マグファル組」

 昨日、リウはフラシコの町でカズートを見た。今日出走している組は、だからきっと彼が管理している。だが、彼はその組に自分の名をつけなかった。《黄金姫》などという、以前だったらリウにからかわれることを怖れて絶対に避けたに違いない名前をつけた。

「三着、ゴーブン組」

 そんな柄にもない名前をつけた理由が気にかかる。どうでもいい、関係ないと思いつつ、リウの存在についに気づくことのなかった昨日のカズートの姿が脳裏を離れない。

「そして半馬身差でランダルム組です」

「――え!」

 いまの係員の言葉を聞いたリウと、カズートについて考えていたリウと、くっきり分かれていた自分がまたひとりの自分になるまで、少し時間がかかった。カズートのことを無理やり頭から追い払う。

「四位……」

 シャルスが乗るエギルは胸の狭い鹿毛の馬で、見るからに俊敏そうな引き締まった体躯と黒い四肢を持っている。シャルスが「高慢ちき」と笑うように日ごろ高々とかかげられている頭は、走り出した途端に低く伏せられて風を切る。

「やったよ、バルム」

 バルメルトウの深い色合いに染まった瞳の底で、ちかりと光がまばたいた気がした。

 ん、とリウはその瞳にうなずいた。

「ユーリシスもきっとやってくれる。だから、わたしたちもがんばろう」

 係員の発表が終わった。さらに緊張の高まった中継地で、乗手たちは飽きもせずにそれぞれの仲間が走ってくるはずの東を見つめた。ゆるやかにうねった大地を吹きわたる風、そして馬たちの足踏みや息づかいばかりの中、人の声はまったくあがらなかった。

 来た、という誰かのつぶやきが、だからやけに耳に響いた。

 背にひらりとまたがった乗手を乗せて、かっかっと蹄を鳴らしながら踊るような足取りで位置についたのは、イシャーマ牧の月毛の馬だった。その首はほどよく曲がって、きつからずゆるからず手綱を受け止めている。それは乗手の見事な手並みによるものなのだが、まるで馬自身がこれから走る自分へ気合いを入れているかのように見えた。

 緑の地平線を描く草原に現われた点は、見る間に乳色の馬とその乗手の姿へと変わった。

 月毛の馬は十分に皆から遠ざかり、他の馬も乗手もなんの邪魔にもならない。それでも、おそらくは無意識のうちに圧倒されて、さらに数歩をよけた者たちがいた。

 リウはよけなかった。けれども、まばたきを忘れたような顔は、自分も彼らとまったく変わらないだろうと思った。

 天馬の疾走が始まる――この場に居合わせた者はすべてそのことに心を奪われていた。

 やってきた乳色の馬の乗手には、顔を覆った風防布をとって笑う余裕すらあった。月毛の馬の乗手は落ち着いて旗棒を受け取り、仲間に片目をつぶって馬の腹を軽く蹴った。

 薄く張りつめた月色の皮膚には、十分すぎるほどの合図だった。月毛の馬が走り出した。鋭い蹄にえぐられてはじかれた土くれがリウの足もとにまで飛んできた。

 残された者たちは、ため息すら出なかった。

 仲間を見送った乳色の馬の乗手はそんな観客たちに一瞥すら送ることなく鞍を下り、軽く息をはずませながら、水を求めて係員に近づいていった。

 次は――リウは再び東へと目をむける。

 たしかに、すでに金糸のリボンの行方は決まっているかもしれない。それでも銀糸のリボンはまだ残っている。リウは観客としてここに来たつもりはない。勝利を勝ち取り、〈大天馬競〉への出場権を獲るためにここにいる。

 お願い、とリウは口の中でつぶやいた。

 ランダットがノア牧で選んだ馬は、以前ダールグに買い取りを拒否されたユーリシスだった。シャルスは別の馬をランダットに見せようとしていたのだが、彼は通りがけに見かけたこののんきそうな馬に目を止め、こいつ、と簡単に決めた。

「こいつは真面目に走るよ」

 ユーリシスは、性格のいい、優しい馬だとリウも思う。しかし走る馬、それも〈大天馬競〉に勝ちうる馬だとはとても思えなかった。けれどもランダットが勝ちたいならこの馬だと主張したため、シャルスもリウもその意見を認めるしかなかった。

 半馬身差の四位で旗棒を渡されて、ユーリシスは前の馬に追いつくことができただろうか。考えれば考えるほど、むしろますます差を広げられるさまが浮かんでくる。

「……だけど」

 〈天馬競〉は、まっすぐで短い草地の競路を駆け抜ける草競馬とはまったく違う。競路は長く、曲がり、荒れて、自然のままの坂も少なくない。そんな厳しい競路を長時間走らされる馬の中には、すっかりくたびれて、走ることにうんざりしてしまう馬もいる。ユーリシスが真面目に走る馬だというのなら、少なくともそうしたことはないだろう。

「がんばって。がんばって」

 リウはまた手綱とともにバルメルトウのたてがみに指をからめる。

 わずかにバルメルトウが身じろいだ。

 リウの指のせいではない。不注意なほど近くを、あの無礼な男が灰色の馬にまたがって通りがかったせいだった。

「気をつけて!」

 リウは抗議した。馬は本来臆病な生きもので、不意にひきあわされれば、相手が同じ馬といえどもおびえて混乱する。運が悪ければ思いがけない事故にとなりかねない。

 だが、男は鼻を鳴らしただけだった。

「気をつけるのはそっちだろうがよ。ちゃんと聞いとけ、次に来るのはうちなんだぜ」

 二位と発表があったマグファル組の者らしい。

 リウはむっと眉根を寄せながら、バルメルトウと相手の馬とのあいだに体を入れる。

「礼儀正しく名乗ってもらえたんなら、そういうこともわかったかもしれないけどね!」

「ああうるせえな、女の声は甲高くて耳に痛えや。おとなしく台所で歌でも歌ってろよ」

「わたしにかまうより、自分の馬を気づかってやったら」

「うるせえ! おれの馬はおまえと違って使える女なんだよ!」

 東にまた一騎、姿が見えた。

「急げ、こっちだ! 来い、急げ、ぐずぐずするな!」

 鞍上の男は、片手を振り上げたり西を見たりと、あわただしい。

 そのたびに身じろぐ灰色の馬の足踏みは、先ほどの月毛の馬とは違い、気合いを入れているのではなくいらついているだけだ。リウは目を細くする。だが、この哀れな馬のためにできることは、まったく見つからなかった。

「くそっ!」

 奪い取るように仲間から旗棒を受けると、男は馬の腹を思いきり蹴りつけた。馬は半ば躍り上がるようにして駆け出した。ぱしっ、とかすかに風に乗って聞こえた音は、男が早くも入れた鞭代わりの平手だ。

 男は勝負をあきらめていない。先行してとっくに姿も見えなくなった月毛の馬を追いかけ、追い抜くつもりなのだろう。

 それは競技においては褒められるべきことなのかもしれなかった。けれどもリウにはどうしてもそう思えなかった。

「嬢ちゃん、ランダットと組んでるランダルム組ってのはあんただろ? 出番だぜ」

 灰色の馬の行方を見つめていたリウは、その声にはっとわれに返った。

 先ほど肩をすくめてみせた初老の男が、東を指さしている。

「帽子もかぶらないであの赤毛頭を見せびらかしてるのは、あいつくらいのもんだ」

 ちょうど雲の切れ間からのぞいた陽射しが馬と人とに降り注ぎ、それぞれの毛をそれぞれの色にきらめかせている。日ごろは熟し切った大麦のようなユーリシスの毛色は、いまは天頂高く輝く太陽のようだ。その上下する馬首のむこうに、赤毛が見え隠れしている。

 リウはバルメルトウにまたがった。頬はむしろ冷えてきているのに、その内側にかあっと熱い血がのぼっていく。興奮してる、とリウは自分自身を分析し、知らず笑う。

 三位。こんな上位で旗棒を受け取ったことは、まだ一度も経験がない。シャルスとエギルが、そしてランダットとユーリシスが、この順位を勝ち取ってくれた。バルメルトウに初めて他の馬とのまともな勝負の場を与えてくれた。

 ユーリシスが、そしてランダットが来る。

「リウ、気楽にな」

 なにより本人がそう実践しているに違いない顔で、ランダットは旗棒を差し伸べた。

「ん!」

 リウは旗棒を受け取ると同時に、バルメルトウの腹を軽く蹴った。ぐんと心地よい手応えが返り、バルメルトウは走り出した。

 旗棒を背のベルトにねじこみながら、リウはユーリシスの顔つきを思い出す。馬は自分の走りに満足したようにいつもよりなお楽しげで、まだまだ走りたそうな様子だった。

 リウはぴんと前をむいたバルメルトウの耳にむかって話しかける。

「わたしたちも楽しく走って、そして勝つよ、バルム」

 事前の準備は十分とは言えない。宿代がなく競路を自分の目で見ることは叶わなかったが、それでもシャルスやランダットが人脈や過去の経験から情報を集めてくれた。

 だから知識はある。フラシコの三走の競路は、前半と後半でがらりと様子を変える。

 前半は、ほぼ人の手の入ったことのない草地になる。野鼠や野兎の巣穴、草に隠された思いがけないぬかるみや岩に注意し、馬に足場のよい場所を走らせてやるのが乗手の役目だ。リウは少しの異変も見逃さないよう、次々迫る地形に目をこらす。

 馬の背は、リウが楽々後ろに寝転がれるだけの広さがある。しかし〈天馬競〉で疾走する馬の背にかぎっては広くはない。

 疾走する馬の邪魔にならないよう、〈天馬競〉ではできるだけ馬に触れる自分の面積を少なくする。鞍にすべての体重を預けて座ってしまうのではなく、盛り上がった鞍の前部に体を押しつけながら、鐙の上にほぼ自力で立つのだ。

 町育ちの娘より体力はあると自負していたリウだが、初めて出た〈天馬競〉では脚がつった。それほどの負荷が体にはかかった。しかしリウが楽をした分はすべて、バルメルトウが引き受けることになる。それを思えば、完全に座ってしまうことなど考えられない。

 行く手、短い若草の生えた地表が一部見えない。窪地だ。迂回か跳躍か。リウは瞬時に判断し、手綱で合図を送る。

 バルメルトウはわずかな手綱の力加減をすぐに悟り、地面を蹴る。

 一瞬ふわりと空を飛んだリウの体を、すぐに着地の衝撃が襲った。リウはそれをできるだけ柔らかく受け止め、かつ上体も揺れないように精いっぱい踏ん張って、バルメルトウの体勢をくずさないように努めた。走る馬でも二時間はかかる六リーグの競路はまだ続く。バルメルトウの脚に少しでも楽をさせてやらねばならない。

「――あ」

 風防布の下、リウは小さく声をあげた。風に細めた目に、なだらかな坂道を下った先を走る馬の姿が飛びこんだ。

 〈天馬競〉の全競路は十八リーグにもなり、主催側もそのすべてをいちいち監視などしていない。入りこむ部外者がいないとは言えないが、名誉の競技として尊重される〈天馬競〉を邪魔するような者は、少なくともリウはこれまで聞いたこともない。

 出走者だ。

 だが走りに鋭さはない。脚の伸びは悪く、運びもぎこちなく、すべてが重そうに見える。

 バルメルトウはぐんぐんと距離を詰めていく。

 もうはっきりと馬と乗手が見える。あの灰色の馬と男だ。

 男もリウの接近に気づいた。乱暴な声がし、丸められた男の背がぐいぐいと動きだした。

「ひどい……」

 リウはつぶやく。

 馬の首を押してやれば走りの助けになる。だが、このような長距離で、しかも走れるような状態ではない馬をそうするのは、馬の気持ちを無視した乗手の暴力でしかない。

 バルメルトウが並びかかる。

「やめなよ!」

 リウは顔をねじむけて叫んだ。

 歯をむいた男の顔は、人というより獣のようだった。

「うるせえって言ってんだろ!」

「でも! ここで勝ったって、その子が無茶のせいで壊れたらなんにもならない!」

 直後、男の目もとが不意にゆがんだ。

 それが笑顔なのだと理解するまでやけに時間がかかり、そして理解した瞬間、リウはなぜかぞっとした。

「……だったら、ちょいと助けてもらうぜ」

 灰色の馬がぐらりとこちらによろけかかった。

 とっさにバルメルトウをよけさせようとしたが、反射でしかないリウの合図より、最初からその行動を計画していた男の手のほうがわずかに早かった。

「っ!」

 ずるりと鞍が引き戻された気がした。

 体を傾けた男の手が、バルメルトウの鞍下に置いたキルトをがっしりつかんでいる。男の手で二頭の馬は結びつけられ、速力に勝るバルメルトウはいまや灰色の馬をひきずりながら走っていた。その脚にかかる負担は、いつもの倍だった。

「やめて!」

 リウは叫んだ。怒りと、それよりもさらに大きな恐怖で、自分の声が裏返ったことにすら気づけなかった。

「へん、ちゃんと女らしい声も出せるじゃねえか」

 男はキルトをさらに手の内にたくしこんだ。体の下でずるりと鞍まで動いた気がした。

 馬体に触れる足と手綱から、バルメルトウの困惑が伝わってくる。思うように走れない困惑はまもなく苛立ちに変わり、そしてバルメルトウの性格ならば無理やりにでも飛び出そうとするだろう。

 この不安定な状態で、そんなことになったら――リウの全身の血は逆流しそうだった。

「やめて! 離して、離してよ!」

「女の泣き声は嫌いじゃねえんだよな、特に生意気女の泣き声はな」

「こんなことして、どんな意味があるの!」

「あるんだよ、いろいろとな!」

「どこまで自分の馬をばかにする気!? 馬だけじゃない、自分自身まで!」

「自分をばかにして勝てるんなら、いくらでもばかにしてやらあ!」

 男の手は離れない。それよりも刺し縫いにした丈夫なキルトの布地が裂けるほうが、まだ可能性が高そうだった。

 その間もバルメルトウは走っている。四肢にかかるいつもの倍の重さと、そして片側にひきずられる不快な感覚を必死にこらえている。

 リウは男の手をはらおうとしたが、体をひねった無理な姿勢で、しかも女の力ではたく程度では、男の手はびくともしなかった。

 わたしがバルムを助けなきゃ――リウはとっさに自分の鍔広帽をつかみ、半ば投げつけるようにして鍔のへりで男の目もとを薙ぎはらった。

「がっ!」

 男が悲鳴をあげて両手で顔を覆った。

 不意に自由が戻った。リウはすかさず体を前に倒した。バルメルトウは一気に加速した。風は耳もとでうなりをあげて、鍔広帽を失ったリウの髪を大きく背後に跳ね上げた。

 心臓がどくどくと壊れそうな激しさで動いている。

 男がどうなったのかわからない。あのまま落馬したかもしれない。もしかしたらけがをしたかもしれない。自分はとんでもないことをしてしまったのかもしれない。けれども、あれ以外どうすればよかったのか、まったくわからない――混乱する思いが、さらに鼓動を激しくさせる。

 このまま胸が破裂して死んでしまいそうだった。リウは片手を離して胸もとを押さえた。

 手綱の力が変わったことを不審に感じたバルメルトウが、わずかに速度をゆるめた。

「――ごめん、バルム!」

 自分にかまけている場合ではない。リウはすばやくぴしゃりと自分の頬を打って、また両手で手綱を取る。

 バルメルトウとリウはともに〈天馬競〉を戦う仲間なのだ。実際に走るのは馬といっても、その背にただ乗っているだけでは、乗手は鞍の上のお飾り人形と変わらない。リウにはリウの役目がある。バルメルトウを心地よく走らせるという役目が。

「行くよ、フラシコまで一直線に」

 バルメルトウの脚にまた力が戻った。

 やがて、あたりは整地された葡萄畑ばかりになり、リウは広々とした道の果てのフラシコめがけてさらにバルメルトウを走らせる。

 葡萄の葉で飾られた門を一気に駆け抜けると、左右から観客の祝福の声が降りそそぎ、銀糸がきらめくリボンを持った係員が迎えてくれた。

 だが、そこにはもう月毛の馬はいなかった。


     †


 バルメルトウの馬房の前で、リウはずっと座り込んでいた。

 長時間騎乗した体は節々がこわばり、背のあたりが特に痛む。本当ならすぐにでも休みたい。だが、シャルスが個室をとってくれた今夜の部屋に戻る気が、なぜか起きなかった。

「……二位、か」

 リウは指先に引っかけたリボンを顔の前にぶら下げた。あれだけ欲しいと熱望していたものをこうして手に入れたのに、少しも心は晴れない。リウは両膝に顔をうずめた。

 厩舎に人の気配がした。

 リウはびくりと体をすくませ、だがそのまま顔は伏せていた。

「――リウ、お祝いをしないか。ささやかなものだけれど」

 シャルスの声を聞いてやっと、リウは顔をあげた。

「ありがとう、だけどいいよ。余分なお金はないから」

 もともとは騎士の名誉を賭けた挑戦だった〈天馬競〉の賞品は、本来勝利や完走を讃えるリボンだけだ。だがいまの〈天馬競〉は大きな祭であるのと同時、開催する町の力を四方から集まる見物客に誇示するという面が大きい。よってどこの町でも一位と二位には豪華な副賞をつけ、勝者に贈る。

 フラシコの町の副賞は、去年フラシコ一番の出来と認められた葡萄酒の大樽だった。もちろん持ち帰っていいのだが、そのまま町の葡萄酒商人に引き取ってもらうこともできた。

 リウは自分の取り分をそうして現金に換えると、シャルスにはこれまで立て替えてもらった費用を、またランダットには助っ人の礼金を支払った。それでも手もとにはまだ残っていたが、それも今後の参加費用にあてるつもりだった。

「費用は気にしなくていいって言っているじゃないか。これは僕の戦いでもあるんだ」

「そう、だからシャルスは払ってくれてる。だけどこれは、わたしの戦いでもあるよ。それなのに義務を果たさないなんて、自分でいやだ。自分の分は出させて」

「そうか。じゃあ今日は、気分をよくした僕のおごりということで受けてくれないか。初めての〈天馬競〉で自分も四位、組も二位だったんだから」

 リウはシャルスを見つめ、静かにかぶりを振った。

「……ごめん。本当のこと言うと、お祝いする気分になれなくて」

「やっぱりあのことを気にしてるのかい?」

「……」

「気にする必要なんてないんだよ、リウ。きみは到着後すぐに自分のしたこと、その男のしたことを報告したし、係員と他の乗手も中継地で男がきみにつっかかっていたことを証言している。きみのしたことは正当防衛だ」

 リウは黙って唇を噛みしめた。

「さっき、その男が広場に着いたよ」

「えっ」

「到着を僕も見ていたんだ。相当にひどい乗り方をしたんだろう、鞍を下りていたよ。頭を振って逆らう馬を引っ張ってきた。自分は不当な暴力を受けたんだとわめきたてながらね。僕も抗議しようとしたんだが、それより早く誰かが野次を飛ばしたんだ」

「なんて?」

「要は女にやられた大まぬけってことだろ、ってね。その場にいたみんな、係員まで吹き出したよ。それで自分の情けなさがやっとわかったんだろうね、すごすご立ち去ったよ」

「……そう」

「僕たちの二位は正式に認められたんだ」

 リウはうなずいた。だが、誰にどう言ってもらおうと、自分がしたことは自分が一番よくわかっている。男と馬が無事に戻ってきたことで少し気持ちは楽にはなったが、少なくとも今日は、リウは自分の二位を喜ぶ気にはなれなかった。

「……ん、でも、ごめん」

「わかった。だけど、ここはもう引き上げたほうがいいな。きみは疲れている。僕たちはあともう一回、勝たないといけないんだよ。休んで体調を整えるのも義務のうちだ」

「ん、そうする。でもあとちょっとだけ、ここにいさせて」

「本当に大丈夫かい、リウ?」

 リウは無理に笑顔を作った。

「大丈夫」

 ふたりの視線が合ったまま、一瞬の間があった。

「――」

 シャルスがさらに近づいて体をかがめかけたのと、リウがはじかれたように立ち上がったのは、ちょうど同時だった。

 先ほどよりもっと短い間を埋めるため、リウはすかさずにこりとした。

「ね、大丈夫だって」

 視界の下のほうで、さりげなくシャルスの手が引き下がった。彼も微笑んだ。

「ほどほどで部屋に戻るんだよ、リウ」

 シャルスは立ち去った。

 リウは半ば無意識に胸をおさえ、胸の中がからっぽになるほど大きな息をついた。

 後ろでバルメルトウがぶるっと鼻を鳴らす。

「もう、のんきに笑ってないでよ! ……びっくりしたんだから」

 リウは唇をとがらせ、体ごと馬に向きなおると、差しのばされたバルメルトウの首に抱きついた。そしてそのまましばらくそうしていた。

 今度はぱたぱたと小走りの足音が厩舎の外から聞こえた。

「――リウさん、いらっしゃいますか?」

 心細そうな少女の声がリウを呼び、厩舎の入口にひょこりとローナの顔がのぞいた。

「ああよかった、リウさん!」

「ローナ! 来てたの?」

 走り寄ってきたローナはあいさつもせずに泣き出しそうな顔になり、心配で心配でたまらないというように両手を揉み合わせた。

「どうしたらいいんでしょう! あたし、もうリウさんしか思いつけなかったんです!」

「え? ねえローナ、落ち着いて。ランダットさんになにかあったの?」

「今日は父ちゃんじゃないんです! あの、カズート若さまが」

 不意に聞いてしまった名前がちくりと胸を刺した。リウは懸命にその小さな疼きを否定しながら、ローナの話をうながした。

「カズートが、どうかした?」

「あの、あたしに馬をくれて!」

「え?」

「馬なんですよ、馬! 木馬とか屋台のおもちゃとかじゃなくて、本物の! だけどあたしただのメイドだし、牧にもうちにもそんな馬なんて置けないし、だからってまさかいただいた馬を売っちゃうわけにもいかないし、もうどうしたらいいかわかんなくって!」

「馬? どうして?」

「わかんないです! さっき若さまが宿に戻ってきたと思ったら、いきなりやるって言って。冗談かと思ったんですけど、ほんとに宿の厩舎に見慣れない馬がいるんです! 一緒に来てる牧の人に言っても、よかったなとかいい馬だぞとかって笑ってるだけで!」

 まだその目に涙がないのが不思議なくらいだった。

「あの馬、どうしたらいいんでしょう、リウさん……」

 リウは腹が立ってきた。シャルスとの約束がある以上、そしてひどいことを言ってしまった以上、カズートに会うわけにはいかない。それでもこの勝手ぶりはどうかと思った。

 まずはローナを落ち着かせてやらなければならない。

「とりあえず、どんな馬なのか見せてもらおうか? わたしでよければ、だけど」

「はは、はい! ありがとうございます!」

 ローナが案内した宿は、宿屋の多いフラシコでもひときわ目立つ大宿だった。これならカズートと顔を合わせることもないだろうと、リウは広い中庭を横切り、厩舎へ入った。

「この馬なんです……」

 壁に反射する夕暮れの残光に照らされた馬房には、あの体調を崩していた灰色の牝馬がいた。こちらに尻尾を向けていらいらと馬房の中で体を揺らしているものの、体はきちんと拭いて毛布をかけてある。あの男が自分の馬にそんな手をかけてやっていたとは、リウには信じがたかった。

「この子、ローナが拭いてあげたの?」

「まさか! 牧の人の話だと、若さまがいきなりこの馬を連れてきて、自分で世話をしてたって。すぐ戻るからって、またその後どこかに行っちゃったみたいですけど」

 おいで、とリウは低い声で灰色の馬を呼んでみた。牝馬らしい華奢な頭が振り返った。だが、なにかがおかしい。リウは目をこらした。

 違和感の原因はすぐにわかった。馬の鼻先をすっぽり覆う口かごがかけられている。

 おいで、とリウはもう一度呼んでみた。

 馬はゆっくり脚を運んで体の向きを変え、リウが差し出した手のひらの匂いを口かご越しに念入りに嗅いだ後、ちょんと触れた。

「おまえも今日、がんばったんだもんね」

 リウがそうっとなでてやると、馬はわずかに動き、ぶるっと鼻を鳴らした。

「ほんと、どうしよう……」

 ローナが困り切った声でつぶやいた。

「あたしがここに来たのは、若さまにあらかじめお部屋を準備しておくようにって言われたからなんです。たしかに、お掃除とかも宿の人にまかせないで、ちゃんとしときましたけど、だからってこんなご褒美をもらうようなことじゃ……ああ、フラシコ行きなんて断わっとけばよかったです。父ちゃんも出るって聞いて、だったらなんて思っちゃって……」

「でもとってもいい馬だよ、この子。わたしたちと三走で走ったんだから」

 けれどもローナは、そうですか、としょんぼりした上目づかいになっただけだった。この持て余すしかない贈り物をどうしたらいいのか、それだけで頭がいっぱいなのだろう。

「――ローナ。もしよかったら、この子、うちの牧で預かっておこうか? 一頭くらい増えたって、手間はそう変わるものでもないし」

「えっ! ほ、ほんとですか!」

「ん、いいよ。うちだって一応は牧なんだし、それにランダットさんにはお世話になってるから。わたし、お金がなくってお礼を十分払えないから、せめてその代わり」

「そんな、お礼だなんて! ああ、だけどほんとに、ほんとにありがとうございます!」

 ぱあっと明るくなったローナの表情に、リウもつられて微笑んだ。

 そのとき、言い争う男たちの声が聞こえた。

 ひとりはカズートだった。リウはあわてて厩舎の窓辺にはりつき、外をうかがった。

 中庭に長々と影を落としてこちらに大股に歩いてくるカズートを、牝馬の持ち主だったあの男がまとわりつくように追っている。

「やいやい、これっぽちの端金であいつを持ってく気か! あいつはおれの相棒だぞ!」

 大きく傾いた日が影を落とすカズートの顔は、いつもにも増して鋭く見える。

「なにが相棒だ、体調の悪い馬を走らせて疝痛で殺しかけたやつが、笑わせんな」

 やっぱり、とリウはわずかに眉をひそめた。馬は疝痛――腹痛を起こしやすい。放っておくと、苦しみ抜いた末に死んでしまうこともある。水を飲ませて歩かせ、症状が落ち着いた後もこのように口かごをつけて絶食させて、しばらく様子を見なければならない。

 馬を扱う人間にとっては常識だ。男の顔が真っ赤なのは、夕日のせいではないだろう。

「う、うるせえ! おれが取り上げて育ててきた馬だぞ! おれが一番わかってらあ!」

「ああ、馬だってわかってるだろうよ。走ったばかりの、しかも具合の悪い馬をほったらかしにして早々に酒場行きとはな。おまえはどうしようもない、やられっぱなしの大まぬけだ」

「せ、世話の前にちょいと一杯ひっかけようとしただけだ!」

「だから好きなだけ飲んでろよ。馬を手放せばいくらだって飲んだくれてられるぜ」

「よけいなお世話だ! とにかく返せ!」

 カズートは財布をつかみだし、ちょうど自分の前に回り込んだ男に投げつけた。

「てっ!」

 男の胸にぶつかった衝撃で財布がひらき、澄んだ音をたてて金貨が中庭に落ちる。まるで星が出る場所を間違えたかのように、そこかしこがまぶしい金色にきらめいた。

「まだ不満か」

 男ははっとカズートを見上げると、すぐさま這いつくばって散らばった金貨をかきあつめた。そしてもう一度、地べたからカズートを見上げた。

「い、いえ、考えてみりゃ、あいつもイシャーマ牧に行くなら幸せってもんで……へへっ」

 冷たく見下ろす鋭い目に、金貨と財布を両手でかかえこんだ男は卑屈な笑い声をあげる。

「行けよ」

「へ、へえ、どうも、若さま」

 男がカズートを気にしながら中庭を出ていっても、再び大股に歩き出したカズートはそちらをまったく見ようとしなかった。

 厩舎の前、馬が一頭もつながれていない横木にさしかかって、不意に立ち止まる。

 あ、とリウが小さく声をあげるのと同時、カズートはその支柱を思いきり靴底で蹴りつけた。音が中庭に響き、空の横木が目に見えて揺れるほどの勢いだった。

「カズート……」

 リウはつぶやいた。

 金では買えないものがある。だが、買えるもの、買えてしまうものもたしかにあって、それを買ったカズートは、むしろ買えたがためにいらだっている。金で人の心を変えた自分自身に怒っている。

「どうしたんですか?」

 ローナの声に、はっとわれに返る。

「そうだ、ローナ。わたしはここにはいないことにして!」

 返事も待たず、リウはすでに暗くなった厩舎の隅の空いた馬房に飛びこんだ。

「え、えっ? ――あ、カズート若さま!」

 ローナの声に続き、カズートの声がする。

「なんだ、見に来てたのか」

「あ、えと、あの――その、リウさんに見てもらってたんです」

 自分の名前が出た後の一瞬の沈黙に、リウは息を止めた。

「――預かるって、あいつ、言ったか?」

「あ、は、はい! ……あの、どうしてわかったんですか?」

「別に」

 ぶるる、と馬が鼻を鳴らす。聞き取れない低いカズートの声は、ローナではなく、馬に話しかけたものだろう。

 ためらいがちにローナが切り出した。

「あの、若さま、御用はございませんか?」

「今日は好きにしてていいって言っただろ。父親とお祝いでもしてきたらどうだ。あの宿の食堂が気に入らないなら、こっちに連れてくればいい」

「いえ父は、あっちの宿のほうが気が楽だって絶対に言うと思うんですけど。……あのう」

「なんだ」

「若さまのご親切には、あたし、ほんとにほんとに感謝してます。父もここの〈天馬競〉に出るって知ったから、それであたしに会わせてやろうとしてくださったんですよね」

「宿を押さえておいてもらっただけだ。おれは昨日まで来られなかったから」

「でも、こんなすぐに父の宿まで調べてくださって」

「ついでだからな。せっかく同じ町にいるのに会わないままなんて、ばかがすることだろ」

「あのう、だけど、そんなによくしていただくと、もったいないっていうか、どうしたらいいかわかんないっていうか……」

「気にしなくていい、おれの勝手だ。この馬を押しつけたのも迷惑だったよな」

「い、いえ、そんな」

「ダールグ兄貴がうるさいんだ。助けると思ってもらっといてくれ」

「はあ……」

「とにかく気にしなくていいから、お祝いに行ってこい」

「は、はい。あの、でも、若さまは?」

「こいつの様子を見てる」

「牧の人を呼んできましょうか?」

「たいした時間じゃない。それに、あいつらも祝杯をあげてるはずだ。邪魔するな」

「ですけど、勝ったのは若さまの馬ですよ?」

「おれのじゃない、親父の馬だ。いいから早く行ってこい。日が暮れるぞ」

「あ、は、はい、すみません!」

 小さな足音がためらいがちに去っていった。

 窓から入る夕明かりも、次第に暗くなってきている。

「あのばか、おまえに乗ってたやつを帽子で殴りつけたんだって?」

 灰色の馬に話しかけているらしい、カズートの声がした。

「おまえも驚いただろうな。だけど許してやってくれよ。それくらいの本物のじゃじゃ馬でないと、〈天馬競〉なんて勝てないんだ。あいつの二位は、バルメルトウだけじゃなくてあいつも本物だったってことだ――よかったよ」

 カズートは息をついた。吐息にはわずかな笑い声がまじっていた。

「あいつ、口先ばっかりだからな。日ごろは威勢のいいことを言ってるくせに、妙なところで気が弱いんだ。ああ見えて、これまで誰かをひっぱたいたこともないんだぜ。鞍を引きずられて落馬しそうだったのは自分だっていうのに、それでも相手を落馬させたことをうだうだ悩んでたんじゃないかと思ってた」

 む、とリウは唇を曲げる。カズートの推測の正しさは認めるしかないが、それでもこうも的確に言い当てられるのは口惜しい。

 声はさらに続く。

「でも、おまえを見に来て、預かるって言ったんだろ。落ち込むよりおまえとローナを心配する気持ちのほうが勝ったわけだ。あいつもこの一年で、少しは大人になったんだな」

 偉そうに、とリウは内心言い返す。頭の中で彼への文句を並べ立ててやろうとする。

 だが。

「っ……」

 衝動は突然だった。

 熱い固まりが胸の底からこみあげて、喉につかえた。

 すぐに瞳の奥が反応する。じんとした熱が涙となってこぼれ落ちる前に、リウは曲げた両膝を抱え込んで顔をきつく押しつけた。


 ――本気で『カズート若さま』って呼ばせたいの!?


 リウはカズートが一番嫌うことを言った。イシャーマの金と力を振り回しているとなじった。彼が純粋な好意で助けてくれようとしていることはよくよくわかっていながら、それを拒絶した。彼の気持ちを冷たく踏みにじったのはリウだった。

 なのに、カズートはリウを許してくれている。

 よかったよ、と自分の牧の馬の一位よりもリウの二位を喜んでくれている。

 カズートはやっぱり変わっていない。一年見なかったあいだに、綿の風防布から絹のスカーフに変えてはいても、中身はリウが知っているカズートのままだ。

 彼の前に出て行きたかった。黙って聞いてれば勝手なことばかり、と思いきり舌を突き出してやりたかった。きっとカズートは驚いて、たじろいで、それでもすぐに気を取り直して、実際そうだろうがと言い返すだろう。そしてその後ぶっきらぼうに、やったなと祝福してくれるだろう。

「……」

 リウはますます膝を抱え込んで、さらに体を縮める。

 まだだ――リウは自分に言い聞かせる。まだカズートには届かない。自分の力でそこまで行って、そうしたらやっとリウは対等の立場だと自分を思える。彼と向き合える。彼にちゃんと謝ることができる。また前のように話をする資格があると、胸を張って彼に会える。

 馬を気づかうカズートの声を聞きながら、リウはずっと膝に顔を埋めていた。

 しばらく馬の様子を確かめてから厩舎を出たカズートを見送って、そろそろと立ち上がったときには、すっかり体は強ばっていた。


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