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三 挑戦の意味



「収穫祭は半年、いや五か月前か……なんだかもっと昔みたいな気がするね」

 目の前で揺れるバルメルトウのたてがみを見つめながら、リウは隣の馬車からのシャルスの声を聞いていた。

「きみがすっかり変わったからかな。収穫祭で仔馬のしっぽみたいな髪で踊っていたきみとは、別人みたいだ」

「シャルスは変わらないね。仔馬のしっぽって言い方もそのまんま」

「はは。たしかに僕は、褒め言葉もうまくないままだ」

 少しばかり沈黙があった。

「……やっぱり〈天馬競〉に出ているんだそうだね。僕がいなくても」

「それしかないもの」

 同地方同業のノア牧に息子がいるという話くらいは、リウも聞き知ってはいた。そして去年の秋のタールーズの収穫祭で、リウは初めて彼に会った。

 収穫祭では男女が組むダンスがある。その年リウはシャルスと同じ組になった。言葉を交わし、ともに踊り、また言葉を交わし。ダンスの後には草競馬に出るという彼の応援にリウは行き、声援を送った。シャルスは見事に勝ち、リウに手を振った。

 横顔に彼の視線を感じる。

「そうかな。今日きみにまた会えて、とても驚いたよ」

「驚いたのはこっちも。まさか会うなんて思わなかったもの。イシャーマ牧の馬をつけてたなんて話、全然しなかったじゃない」

「有名だったからね。ランダルム牧にイシャーマの五男が出入りしていたって話は」

 リウは視線は動かさずにまばたいた。

「……有名、なんだ」

「タールーズどころか北部一、二の大牧と、失礼だけれど農場とたいして変わらない小さな牧だよ。うわさにならないわけがない。知らないのはきみとカズートさんくらいだよ。実際にきみと話してみて、所詮うわさかと思っていたけれど、そんなことはなかったみたいだね」

 リウは眉間に険をただよわせて、シャルスに顔を向ける。

「どういう意味?」

 今度はシャルスのほうが行く手を向いて、リウに整った横顔を見せている。

「去年のきみは、イシャーマ牧に行ったことはないと言っていたよ」

「そう、今日が初めて。わたしが〈天馬競〉に出てるって知ったから、カズートが天馬を見せてくれただけ。天馬を牧の外には出せないもの、わたしが行くしかないじゃない」

「そうだね、天馬を見せるなんて滅多にないことだ。随分と大きな好意だよ。特別としか思えない、ね」

「……そう。わたしたちって、そういううわさになってたんだ」

「なにしろ大牧の御曹司が足繁く通っていたのは、特別なものなんてなにもない小さな牧だったからね。ただ御曹司と同じ年ごろの娘がいるというだけの」

「本当に子供のころからのことなのに? それにカズートはずっと南部に行ってて、一年もうちには来てなかった。なのにそんな話になるの?」

「振ったとか振られたとか、もちろんいろんなうわさがずっとあったよ。いまでもね」

 リウは背中を冷たい手でなでられたような気分になった。

「……簡単な話なのに。カズートは遠乗りが好きで、うちは一休みするのにちょうどいい場所にあって、お互い牧の子供だったから友達になって。たったそれだけのことなのに」

「だけど実際、彼はきみに天馬を見せている。僕はもう何度もイシャーマ牧に行っているけれど、決して与えられることのなかった恩寵だ」

「恩寵って、そんな言い方しないで。カズートがそんなつもりだったら、わたしは今日だって来てない。それにカズートは、わたしに〈天馬競〉をやめさせたかったからって」

「わからないかな。これを恩寵と感じなくてすんでいるだけ、きみは恵まれているんだよ」

 カズートからしたらなんでもない友情のつもりでも。そしてリウがありがたくそれを受けただけのつもりでも。周囲からしたらそれは特別なことになってしまう。

 リウはぎゅっと口を結んだ。うっかり天馬を見たいなどと口走ってしまったことを改めて後悔した。

 シャルスの横顔に淡い微笑が浮かんだ。

「うわさときみと、どちらを信じたらいいのか、僕はずっと迷いつづけていた。そしてきみから〈天馬競〉に出てくれるよう頼まれたとき、僕は結局うわさを信じてしまった」

 その手首が返り、ぴしりと軽く馬車馬を追い立てる。無駄のない腕の動きも、気を抜いた馬のわずかな気配を見逃さない鋭敏さも、馬をよく知った者にしか不可能な技だった。リウが〈天馬競〉を目指す仲間になってほしいと願った、去年のままの手並みだった。

「今日まで僕は、自分を情けない男だと責めてきたんだ。僕に伸ばされたきみの手を、別の手は他の男がつかまえているかもしれないといううわさだけで振り捨てたんだから」

 シャルスの静かな声が続く。

「だけどイシャーマ牧に行くようになったのなら、心配する必要なんてなかったようだね」

「シャルス――」

「いや、勘違いしないでほしいんだ。きみを責めているわけじゃない。牧の男がふたりいて、きみは頼りになるほうのひとりを選んだ。ただそれだけの、当たり前の話さ」

 からからと回る馬車の車輪と馬たちの蹄の音はよどみなくつづいている。だが、ふたりの人間は物音ひとつ立てなかった。

 道の上に落ちた影は次第に伸び、やがてランダルム牧の丘の木が見えてきた。

 それまで続いた長い沈黙をリウは破った。

「ありがとう。ここならちゃんとうちの牧まで送ったってことになるから」

 リウはまっすぐシャルスを見つめた。

「あなたがそんなことを考えてたなんて、わたし、全然知らなかった。いろいろ話したつもりだったのに、わたしたちってなんにも話してなかったんだね」

「僕は臆病者だからね。きみに、ありのままの自分の姿なんて、とても話せなかった」

 シャルスは微笑んだ。

「イシャーマ牧からしたらうちの牧なんて、自分自身の小指より簡単に好きにできるものだ。その機嫌を取るのに精いっぱいで、正直きみに頼まれるまで、自分の力で〈天馬競〉に出るなんて考えたこともなかったよ。そんなちっぽけな存在が実際の僕なんだ」

「あそこと比べたらどこだってちっぽけだよ。ノア牧だって小さな牧じゃないのに」

「それでも内実は、すでにイシャーマ傘下のようなものさ。イシャーマ牧がつきあいはやめたと言ってくるだけで、もううちはどうしようもなくなる。あそこの馬をつけられなくなれば、それだけで馬の値打ちが下がるからね――考えるだけで頭が痛くなるよ。これでも父の共同経営者になったときには、もっと堂々とやっていくつもりでいたんだけれどね」

 シャルスは振り返り、馬車につないだ黄褐色の馬を見た。

「一生懸命育てた馬を間抜けと罵られて、イシャーマの馬には釣り合わない駄馬しかいないと嘲笑われても、愛想笑いでうなずくだけでなにひとつ言い返せない。それが僕と僕の牧だ」

 笑顔と呼ぶには冷ややかすぎるシャルスの表情は、リウの知らない顔だった。

 リウはじっとそんな彼を見つめ、そして唇を噛んだ。

 甘ったるい奇跡、夢だと言った、カズートの言葉が頭の中に響いている。

 そうかもしれない。なにもかもから目を背けて、心地よい夢を見たいだけなのかもしれない。だけど、それでも、わたしはやっぱりあきらめたくない。覚悟が足りないというなら、それだって持ってみせる――リウはバルメルトウからすべりおりた。

「シャルス」

 御者台の彼を見上げる。

「もう一度、去年と同じお願いをさせて。わたしと一緒に〈天馬競〉に出て」

 シャルスはわずかに眉をあげた。

「〈天馬競〉に勝つ意味がある者同士として。お願い。わたしと〈天馬競〉に出て」

 シャルスの表情の下にあるものをとらえようと、リウは目をこらす。勝利の可能性とイシャーマ牧への不満とを天秤にかけたかどうか、そしてどちら側を重いと見たか。

「わたしの望みはひとつだけ。バルメルトウが天馬になれれば、それでいい」

 すでにあらゆるものを持っているカズートには、リウは返せるものを持っていない。だからなにも頼めない。だがシャルスは違う。イシャーマ牧に頼るしかないいまの自分を嫌う彼になら、まだ返せるものがある。

「そのためなら、どんな条件でも呑む」

 シャルスは静かに聞き返した。

「どんな条件でも?」

「出てくれるなら、どんな条件でも」

 シャルスの気持ちがわずかに〈天馬競〉に傾いたように見えた。だからリウは彼の次の言葉、彼が出す条件を予測して心構えをした。複数年のバルメルトウの種付優先権利どころか、ノア牧への貸出自体すら考えた。

 たった一頭の種馬を貸し出してしまえば、ランダルム牧には種付料は入らない。貸出先からの礼金が入るだけだ。それでもリウはかまわなかった。〈天馬競〉で勝つためなら、シャルスという乗手が協力してくれるためなら、すべての言い分を聞く覚悟を決めた。

「……僕は小さな存在だ。〈天馬競〉に出ると言っても、せいぜい身の程知らずだと笑われるくらいで、イシャーマ牧はなにも思わないだろう。それでも僕なりの誇りはある」

 静かだが低いはっきりした声で、彼は言った。

「きみは、〈天馬競〉に勝つまでイシャーマ牧の友達に会わないでいられるかい」

 予想外の条件だった。リウは応えることも忘れて、呆然とまばたいた。

「きみがどうしても出ると言うなら、彼はきっと助けようとするだろう。だけど僕は、自分の勝負にイシャーマの助けなんて借りたくない。この条件を呑めないなら、僕は断わる」

 リウの心をカズートの面影がよぎっていく。大牧の御曹司とはとても思えない姿が、くやしいまでに見事な乗りこなし方が、からかうときには少しだけ柔らかくなる目もとが。追憶の中の彼は次々と変わっていき、絹のスカーフをつけたいまの姿へとたどり着く。

「……わかった。それがあなたの条件なら、カズートには会わない」

 シャルスはじっと、リウの心の底までさらうような目で見つめている。

「できるのかい」

「わたしだって借りは作りたくないもの。もともと助けなんて借りるつもりはなかったよ」

「わかった」

 一緒に〈天馬競〉に勝とう、とシャルスは微笑んだ。


     †


 バルメルトウがぱくりと髪を噛んだ。

「わ、こら!」

 牧の柵の前で座り込んでいたリウが声をあげると、柵越しに首を伸ばしたバルメルトウはすぐに口を離し、笑うようにぶるっと鼻を鳴らした。

 リウは、バルメルトウに乱された髪を両手でかき上げ、頭を振った。

 どうしたの、と言うように、バルメルトウがちょんちょんと鼻先で肩をつついてくる。

「ん、お金があとどれくらい使えるかをね、ちょっと」

 馬に答えながら、リウはそろえて曲げた両膝をかかえて息をつく。

 どう考えても、余裕などまったくない。

 〈天馬競〉開催地までの旅費や滞在費を、野宿と前日到着と空きっ腹で極力抑えるにしても、三人目として出てもらう助っ人への礼金まではひねりだせない。仕事でも見つかればいいのだが、そう都合よくいくとも思えない。そもそもランダルム牧にはまだ馬がいる。それらの世話をしてからさらに働くことは難しかった。

「相談……するしかないね。バルム、遊んでるところを悪いけど、ノア牧まで行こう」

 バルメルトウは喜んで頭を上下に振った。

 馬具を取りに歩き出したリウの目に、見覚えのある馬車が入った。その御者をはっきり見てしまう前に、リウは顔をそむけて厩舎に逃げ込んだ。壁に背をつけて唇を噛みしめる。

「なに逃げてんだよ? なんか見られたくないことでもしてたのか?」

 冗談と受け取ったらしいいつもどおりのカズートの声に、リウは泣きそうになった。

「ごめん、会えない!」

 彼に聞こえるようにというよりは、自分のそんな気持ちに負けないように、精いっぱいの声を張り上げる。

「今年一年は会わないから! 悪いけど帰って!」

 張り上げたせいでいまにも裏返りそうな自分の声に、リウはぞっとした。高すぎる。もっと低く、カズートに負けないくらい低い声を出せればいいと、心の底から願う。

「は? 一年? どういうことだ?」

 それでも声を出さないわけにはいかない。

「わたし、やっぱり〈天馬競〉に出るから! だから会うわけにはいかないの!」

「……あのな。出るなら出るで、利用できるものはしろって言っただろ」

「なにも返せないのに、そんなに甘えられないよ! お願いだから放っといて! 大体カズートだって出るんじゃない!」

「だから乗手になってやるなんて言ってないだろ。おまえ、意地っ張りにも限度があるぞ」

 カズートの声が不穏な気配を帯びてくる。

 優しいから――ぎゅっと、リウは背に回した手を握る。口が悪くて、目つきも悪くて。だけどカズートは優しいから。昔なじみの苦労を見ているだけなんてことはできないから。

 けれども、そんな彼に甘えることなどできない。

「お情けなんてかけないで!」

 リウは叫んだ。

「わかってるよ、わたしがいま喉から手が出るくらい欲しいものなんて、カズートからしたらたいしたものじゃないって。貸しだとも思わないでくれてやれるものなんだって。だけど、だから、絶対にもらいたくない!」

 だめ、と思う自分より早く、勢いづいてしまった口が動く。

「わたしに本気で『カズート若さま』って呼ばせたいの!?」

 自分がなにを言ったか悟った直後、リウは呆然とした。自分の大きな息づかいだけが聞こえ、上下に揺れる肩をぼんやり感じていた。

 だから、長すぎる沈黙に気づいたのはかなり後になってからだった。

 カズートが帰ってしまったのではないかと、リウは壁から背を離して窓を見やった。けれども、窓から見える道に、いつまでたっても馬車は現われなかった。

 カズートはまだ外に立っている。見なくてもわかる。いい乗手の証である昔からの姿勢のよさに、いつのまにか首もとに絹のスカーフをつけ加えた、いまの姿で。

 けれどもリウはこれ以上の言葉を持たない。無理になにか言おうとすれば、さらにとんでもないことを口走ってしまいそうで、リウは懸命に息苦しい沈黙に耐えた。この我慢比べにだけは負けるわけにはいかなかった。

「……わかったよ」

 やっと沈黙を破った彼の口調は平坦で、なんの感情も読み取れない。

 リウの体はびくりと震えた。口から言葉がこぼれかけた――違う、わたしはただ。

 鋭く鞭が鳴った。車輪が回り、馬車が去っていく音がした。

 リウは厩舎の壁に背中をあずけ、そのままずるずると座り込んだ。


     †


 自分の分の馬の世話と厩舎の掃除を終えると、もう昼近かった。あわただしく昼食をすませたリウは荷馬車を引っ張り出して、近くのジョスリイの町へ買い出しにむかった。

 ジョスリイは北部のどこにでもある田舎町で、草原の道が北東と北西の二股に分かれたところに開けている。目抜き通りには平石が敷き詰められ、両脇にも石造りの建物が並び、各種の店が入っている。

 適当な場所に荷馬車を止めて飛び降りると、リウはその中のひとつ、イスラの店のドアを開けた。リウがまだ子供のころから老婆だった店主のイスラは、カウンターのむこうでしなびた手をあげてみせるあいだも、同じく老婆の客と早口のおしゃべりを続けていた。

 彼女の店は雑貨を扱っている。リウは棚に積まれた布地にむかった。先日生まれた仔馬用の馬服にできる布がさらに値を下げていないか、慎重にメモ書きと照らし合わせていく。

「……あの、リウさんですよね?」

 おずおずとした声に、リウは振り向いた。

 やっぱり、と両手を合わせたのは、質素だがこざっぱりとした服の少女だった。一昔前の型の帽子をかぶって、ふっくらしたあごの下できゅっと幅広のリボンを結んでいる。

「この前はありがとうございました! おかげでお仕事もあまり怖くなくなりました」

 少女の言葉とイスラの店にわずかに残る香りが、頭の中でつながった。

「ああ――イシャーマ牧の」

 あのときコーヒーを出してくれたメイドだった。

 少女はうれしそうに白い歯をのぞかせてうなずいた。イシャーマ牧でのお仕着せ姿はもっと幼い雰囲気だったが、こうしてみると十三、四歳くらいにはなっているらしい。

「はい、メイドをしています、ローナです」

「こんにちは、ローナ。おつかい?」

 いいえ、とローナはかぶりを振って、帽子からこぼれる亜麻色のお下げを揺らした。

「昨日と今日お休みなんで、うちに帰ってきたんです。この近くなんですよ」

「え、そうなの?」

「はい。えっと、ご存じですか? プルノズ農場です」

 昔は牧だったのだと、父の思い出話に聞いていた農場だった。自分のすぐ足もとにもぽっかり口を開けている廃業という穴を否応なく思い出させられ、リウは一瞬返事が遅れた。

 その間にローナが申し出た。

「あの、もしお時間があったら、お茶でもいかがですか? 遠くじゃないですし」

 え、というリウのとまどいを、断わられる前触れと思ったらしい。ローナは顔を赤くし、咳き込むような勢いで話し出した。

「あたし、リウさんにはほんとに感謝してるんです! あたしなんか、イシャーマ牧みたいに立派なところで働けるわけないってずっと思ってて、旦那さまも奥さまも若さまたちも、それに他の使用人も、なんだかみんな怖くって、それでよけいに失敗ばかりで! だけどあのあとカズート若さまが、リウさんはあんなふうに言ったけれど絶対に本気にするんじゃないって、すっごく真剣な顔で言ってきて、あたし、それがもうおかしくって」

 勢いばかりがあふれていて、ローナの話は要領を得ない。自分でもわかっているのか、ローナはあせったようにますます早口になっていく。

「あの、それで、それからあたし、すうっと気が楽になって、お仕事もなんだか楽しくなってきて! だから、それで、みんなみんなリウさんのおかげだって!」

 とりあえず、あふれんばかりの感謝の気持ちだけは伝わってきた。

「そう、よかった。だけど気にしないで。わたしはただ昔なじみで、カズートが誤解されやすい顔をしてるのはよく知ってるってだけだから」

「でもあたし、本当に助かって!」

 ぽっちゃりと柔らかなローナの両手が、リウの手をつかまえる。

「だから、ぜひ、よかったら!」

 よかったらと口では言っているが、断わりでもしたらこの場で泣かれそうな勢いだった。

「あ、ありがとう……それじゃあ、ちょっとだけ」

「はい!」

 ローナの手が、さらにきつくリウの手を握りしめた。


 町を北東に出て、丘をひとつ越えたところにあるプルノズ農場は、農場と呼ぶのもはばかられるほどこぢんまりとしていた。黒っぽい石垣のむこうに、低い林檎の木と母屋と納屋とその横の狭い畑、それで全部だ。その背後に広がるかつては馬が駆けていたであろうなだらかな丘陵は、いまは深い草むらが風に波打っている。

 ローナはリウの荷馬車から降りると、石垣の継ぎ目の扉を開けてリウが通るのを待ち、そろそろと閉めて慎重に閂をかけた。

「羊だけはまだ何頭かいるんです」

 そんなローナの言葉どおり、もこもこと草地から生えているような羊たちの間を抜けて、リウは母屋の前に荷馬車を止めた。ローナがまた荷馬車から降りた。

「よかったら、ここでいかがですか?」

 ローナは母屋のポーチデッキを示した。頑丈そうな板間には簡素な長椅子が置かれてあって、たしかにちょっとしたお茶には十分そうだった。

「ありがとう。そうだね、今日は気持ちのいい日だし」

 そもそも長居するつもりもない。リウは素直にうなずき、長椅子に座った。

 仕度をしてきますね、とローナは家の中に入った。

 壁のすぐむこうに台所があるのだろう。窓が開いた後、楽しげなおしゃべりにも似たかちゃかちゃと陶器が触れ合う音が聞こえてくる。

 ちょっとくすぐったい心持ちになりながら、リウはのんびりとした羊たちを眺めた。

 男は、そんな牧歌的な景色の中に突然現われた。

「お?」

 好き勝手な方向に散った赤毛に、細い顔。シャツを痩せた胸もとまであけて、両手の親指をベルトにひっかけている。

 あまりに男の出現が突然で、リウは驚くより前にとまどった。

「客?」

 男はリウに尋ねたが、返事を待つ気配もなく、横を向いてあくびをした。

 年齢も正体もよくわからない男だった。贅肉のかけらもない体や顔には少年の面影が濃いが、顎先に生えた不精髭はそれなりの年齢に思わせる。ローナの兄にしては農場で働いている雰囲気がなく、といっていかがわしい場所で酒と賭博にいれあげているといった崩れた気配もない。ただここにいるとでもいったふうの、不思議な空気をまとっている。

 こうも突然現われたということは、おそらく母屋の裏にいたのだろう。少なくとも自分よりは年上でローナに近しい人間には違いないと、リウはひとまず結論づけた。

「はい。あの、お茶に呼んでもらいました」

「あ、そ。ローナ、帰ってきてんだ?」

「家の中にいると思いますけど」

「ふうん」

 男も家の中に入っていった。

 すぐにローナの甲高い声が聞こえてきた。

「やめてよ、それはリウさんの分! 父ちゃんの分はちゃんとほかにあるってば!」

 リウはぱちくりとまばたいた。

「……父ちゃん?」


「もう、ほんっとにすみません! 父ちゃんが失礼をして……」

 真っ赤な顔で謝るローナのむこうで、彼女の父だという男は長椅子の上に両膝を立てて座り、他人事のような横顔で茶をすすっている。

「う、ううん、別に……」

「変わってるんです。もう三十二にもなるのに、すっごく子供みたいで」

 ローナの赤い顔はまだ元に戻らない。

「昔っからこうなんです。死んだ母ちゃんも、父ちゃんは猫みたいなもんだから、いるってだけで満足しなきゃいけないって。そうしたら鼠の一匹くらい獲ってきてくれるって」

 目の前の娘にいいように言われる若い父親は、ふわあと顔の半分を口にしてあくびをした。たしかに赤縞猫にどこか似ている。

 ローナがお茶をふるまいながら語ったところによると、彼はある日ふらりとプルノズ農場に現われ、ランダットと名乗って居着いてしまったらしい。そのうち農場の娘と結ばれ、ローナが生まれた。三年前にその母が、そして今年に入って祖父が死んで、農場を続けられないと判断したローナは、つてをたどってイシャーマ牧へ働きに出たということだった。

「父ちゃんも、いるときはいろいろやってくれるんですけど、ときどきふらっとどっかへ行っちゃうから。あたしひとりで羊と畑なんて、とても無理だし」

 と、ローナは十三歳の少女にしては大人すぎるため息をついた。

 どう言葉を返せばいいのかわからなくて、リウの相づちはあいまいな音にとどまった。

 だけど、とローナは体をかがませて声をひそめる。

「父ちゃん、帰ってくるときにはお金を持ってくるんですよ」

「お金を?」

「どうしたのって聞いても、絶対教えてくれないんです。鼠、って言うだけで。あたしもう、どっかで悪いことしてるんじゃないかって心配で心配で、保安官さんの奥さんにこっそり聞いてみたんです。だけど泥棒とか強盗とか、そういう悪い人はいないって」

「そうだね、このあたりでそんな話は聞かないな」

「だから大丈夫かなとも思うんですけど」

「ん、変わってるかもしれないけど、全然悪い人には見えないよ」

「だけど、父ちゃんがちゃんと働いてお給金をもらうところなんて、想像できなくって」

 ローナはまたリウが答えにくいことを言うと、吐息をつきながら振り向いた。と、すぐに声を張り上げる。

「あああもう父ちゃん! ひとりで全部食べちゃだめ!」

 ローナはランダットの手から小さなパンケーキを積んだ皿を奪い取った。

「お、そうなの? だっておまえら、さっきから全然食べないから」

「お話してただけ! 父ちゃん、子供みたいなことやめてよ、恥ずかしいんだから!」

「蜂蜜、要る?」

「要る!」

 手から手へと移動した小さな壷は、ランダットが渡したのかローナが奪ったのか、難しいところだった。

「ほんとにごめんなさい。あの、どうぞ」

 ますます顔を赤くして、パンケーキをすすめてくるローナの姿に、リウはくすりとした。

「でも、いいな」

「はい? なんですか?」

「ん、ローナとお父さんが」

「どっどこがですか! あたし、もっと落ち着いてて大人っぽい父ちゃんがいいです!」

「だけどうちの親となんて、こんな楽しい感じにはならないよ。いまは特に、わたしのやることには反対だから」

 いただきます、とリウはパンケーキを口に運んだ。昔はリウも粉まみれになりながらパンケーキを焼いて両親にふるまったが、いまはそんなこともなくなっている。

「まあ、わたしに反対するのは、父さんや母さんだけじゃないんだけどね」

「それ、カズート若さまのことですか?」

「……なんか言ってた?」

「いえ、特には。ただ若さま、最近ますますぶすっとしてるから――あ、すみません、これ若さまには内緒にしてください!」

「もちろん……そっか。カズート、そうなんだ」

「ええ、そうなんですよ。だからリウさんと喧嘩したのかなって思って」

 喧嘩なんていいものじゃない、とリウは目を伏せた。昔なじみを一方的に傷つけてしまったという苦い思いが胸の底で疼いた。

「それに、もともとみんな心配してたんですよ。カズート若さまって馬が好きで、乗るのも上手で、昔から牧の人に人気があったんですよね? なのに南部から帰ってきたら様子が変わってて、今年まかされた馬も、管理はしてるけどあんまり興味ないみたいだって」

「……〈天馬競〉に出す馬?」

「はい。また冬には皆さん南部に行くみたいですから、ダールグ若さまのほうがやきもきしてるんです。イシャーマ牧が勝たないと、婚約したお姫さまに格好がつかないって」

「あはは。カズートもちゃんと仕事しないといけないね」

 リウは無理に愛想笑いを浮かべた。

 それをそのまま受け取ったのか、ローナは力強くうなずいた。

「そうですよ、よかったらリウさんからなにか言ってあげてください。みんな、本当に心配してるんですよ。あんなのカズート若さまじゃないみたいだって」

 リウの愛想笑いが崩れそうになった、そのとき。

 悲鳴のような甲高いいななきがあがり、ごとりと重い不吉な物音がした。

 大虻にしたたかに刺されたか、あるいは鼻先をかすめた蜂かなにかに驚いてしまったらしい。すぐに辞去するつもりで荷馬車につないだまま待たせていた馬が、大きく前脚を跳ね上げている。後ろの荷馬車までもが持ちあがり、ふたつの車輪が浮きかけている。

「危ない!」

 荷馬車の重量で体勢をくずせば、馬はあっというまに倒れる。けがをせずにはすまない。

 馬をなだめに走ろうとしたリウよりも、さらに早く。

「お」

 赤毛の頭が手すりを跳び越えた。

 走った勢いそのままに、すばやく片手でたてがみをつかんだ細身の体が、直立しかかった馬の背に飛び乗った。すかさず両の脛で馬の胴をはさんで立ち上がる。荷馬車用の長い手綱を引くと同時、おびえきってぺたりと伏せられた馬の耳に静かな声でささやきかける。

 目の前で起きた一連の出来事を、リウはただ見守ることしかできなかった。

 馬がゆっくり前脚を下ろした。ぶるっと頭を振り、荒い鼻息をつくと、いらいらと片脚で地面をひっかいた。

 ランダットは平らに戻った背に軽やかに腰を下ろし、馬の首を優しく叩いてやっている。まだパンケーキの残りを頬張ったままささやきつづける不思議な言葉は、もしかしたら馬の言葉なのかもしれない。馬はじっと耳を傾けている。

「父ちゃん――」

 ローナの目はすっかり丸くなっていた。


     †


 風が吹きわたる北部の緑の丘陵地帯は、詩人たちに草の海にも例えられる。

 そのただ中を、バルメルトウは規則正しい歩調でゆったりと駆けていく。

 ひとたび〈天馬競〉ともなれば、道ばかりを走るわけではない。〈天馬競〉で定められているのは、出発地、中継地、終着地だけだ。通常は一ファラ――一〇分の一リーグごとに目印となる競路柱が立てられているが、それに沿って走らねばならないという決まりはなく、また競路柱そのものが本来の道からはずれていることもある。

 バルメルトウを自然のままの地表に慣らすためにも、リウは普段からできるかぎり道以外の場所を通らせるようにしていた。

 一時間ほど走りつづけて、さすがにバルメルトウが汗をかきだしたころ、ノア牧の入口が見えてきた。胸の高さの門扉は閉じられている。リウは道に戻り、バルメルトウに体勢を整えさせてからもう一度駆け出させ、門扉をひと息に飛び越えた。

 そっくりで見分けのつかない犬たちのさわがしい出迎えのあと、馬に乗って牧を見回っていたらしいシャルスが姿を現わした。

「見えたよ。普通に門を開けてくればいいのに」

 と馬上のシャルスは苦笑したが、リウは表情をくずさない。

「〈天馬競〉ではなにがあるかわからないから。いざというとき、困るのはバルムだもの」

「歴戦の勇者のような心がけだね」

 シャルスの苦笑がいつもの微笑に変わった。

「牧へ行こうか。バルメルトウも歩かせてやるほうがよさそうだ」

 バルメルトウは汗をかいている。いきなり足を止めて休ませては、筋肉によくない。しばらく歩かせて筋肉をほぐし、少しずつ体温を下げていってやらなければならない。

「ん、お願い」

 リウがバルメルトウから降りる間に、シャルスは自分の馬を厩舎に戻し、毛布をもってきてバルメルトウにかけた。リウはその手綱を引いて、シャルスと牧へと歩き出した。

「今日はどうしたんだい」

「三人目について相談しようと思って」

 一〇歩分ほど、シャルスは返事をしなかった。それから顔をリウに向けた。

「なにか、よくないことでも?」

「え?」

「さっきから、ずっと怖い顔をしているよ」

 リウは一瞬固まったあと、ぎこちなく微笑んだ。

「……お金、ないもの」

「必要なのかい」

「三人目になってほしい人がいるの。その人に払う礼金が要るでしょ」

「誰?」

「プルノズ農場のランダットさん」

 シャルスは、物静かな顔立ちにふさわしく、片方の眉だけをぴくりと動かした。

「あのいつもぶらぶらしている赤毛の人?」

「そう、その人」

「あの人が馬に乗ったところなんて、見たことがないな」

「わたしは見たよ。昨日プルノズ農場に行ったとき、うちの馬車馬が暴れたの。あの人、立ち上がった馬に飛び乗って、あっという間になだめちゃった」

「それはすごいな……」

 リウはバルメルトウの手綱を握る手に力をこめる。

「そのときにぴんと来たの。あの人、たぶん〈天馬競〉の助っ人をしてるって」

「勘?」

「馬の乗手って、それもとても上手な人って、なんとなくわからない?」

 それは細身でしなやかな体躯かもしれず、そこにぴんと一本すじを通したようなまっすぐな背かもしれない。あるいは、尻込みを知らないまなざしかもしれない。

 〈天馬競〉出走など考えられない小さな牧、それも女に生まれついてはいても、リウはそうした天性の乗手をよく知っている。天から資質を贈られた少年がどんなふうに一人前の乗手になっていくか、つぶさに見てきたのだ――カズートという昔なじみを。

 ぐいと後ろに引き戻したバルメルトウの頭の動きで、リウは自分が知らないうちに手綱をきつく引きすぎていたことを知った。ごめん、とふりむいてバルメルトウに謝る。

 バルメルトウは離れた大きな両眼をじっとリウに向けて応えた。深い色に輝くその目は、リウの心のうちをすっかり知っているかのようだった。

 大丈夫、となんとなくうなずき返して、リウはまた前を向いた。

「それに、ときどきどこかに出かけてお金を持ってくるって。間違いないと思わない?」

 シャルスはわずかに表情を硬くした。

「……たしかイシャーマ牧に新しく入ったメイドは、プルノズ農場の子だったね」

「そう、ローナ。ほら、この前イシャーマ牧に行ったときに会って、昨日、偶然ジョスリイの町でも会って。それで家に招いてくれたの」

「じゃあ、ランダットもイシャーマ牧に関係が――」

「そんなことない。ローナだってランダットさんが馬に乗るなんて知らなかったんだよ」

 それから、とリウは眉間に力をこめる。

「約束どおりにしたから。イシャーマ牧のことはもう気にしないで」

「どういうこと?」

「カズートに、もう会えないからうちにも来ないようにって、ちゃんと言った。だから、この話はこれでおしまい」

「……わかったよ」

 同じ言葉でも、シャルスのそれはカズートとはまったく違った。彼は優しくうなずくと、それから微笑した。

「ランダットに会ってみたいな。その上で話がまとまるようなら、礼金はまかせてくれ」

「ん、悪いけど、半額貸しといて」

「僕を引き込んでおいて、まだわかってないのかい? これはもう僕の戦いでもあるんだ。そのための出費は当然だよ」

「そう、わたしの戦いでもあるよ。だから半額出すのは当然」

 リウは振り向いて、規則正しく歩くバルメルトウの澄んだ両眼を見つめた。

「絶対に勝って、そのお金で返すから」


 ローナの休暇が終わったプルノズ農場はまったくの無人に見えた。散らばった羊たちは、羊飼いにも牧羊犬にも見守られることなく、彼らの先祖がそうしていたように、好き勝手に草をはんでいる。夜も家畜舎に入れられることなく、よりそって眠るのかもしれない。

 うちの羊なんて売れ残りのやせっぽちばっかりだし、わざわざ盗むような人もいないです――そんなローナの苦笑まじりの言葉を思い出しながら、リウは母屋へ行ってみた。

「こんにちは!」

 外から呼ばわってみたが、家の中に気配はない。

「いないんじゃないのかな」

 シャルスが言った。

 リウはバルメルトウの手綱をシャルスにあずけ、裏手にまわってみた。

「あのー!」

 裏庭には使われなくなって久しいとおぼしき二輪の荷馬車が傾いたまま放っておかれて、片一方が折れた引き棒を地面に投げ出している。

 なんとなく予感があったのは、牧にふらりとやってくる野良猫が、よくそんな感じで眠っているからかもしれない。リウはこちらからは見えない荷台の前へと回り込んだ。

「……お?」

 傾いた荷台の上、赤毛の頭の下で手を組んで寝転がっていたランダットが、眠そうに片目をあけた。

「こんにちは、ランダットさん。ランダルム牧のリウです」

「あー。知ってる」

 ランダットは荷台から上体を起こすと、ふわあとあくびをして、ぼさぼさの髪をかいた。

 妙な返事にあきれたリウに、ランダットはさらに意外な返事をした。

「ここに来たとき、最初に見たから」

 ランダットはリウの表情にはおかまいなしに、今度は両手を頭上に伸ばしながら、またあくびをした。

「ランダルム牧。道から看板が見えて、なんかいいって思ってさ」

 たしかに、馬を買いに来る客への案内として、街道からも見えるように看板を立ててある。そのことを言っているらしい、とやっとリウは理解したが、しかしそれでなにを彼が伝えたいのかはまだわからない。

 ランダットはリウを上目づかい気味に見上げた。

「で、考えてみたら、おれの名前、ランダットって気がしたんだよね。だからさ。ランダルム牧って、よく覚えてる」

「……考えたら?」

「そ。おれ、ここに来たとき自分がどこの誰か忘れてたから。ま、どうだっていいけど」

「え」

 ランダットがあまりにさらりと言ったので、リウの反応は一瞬遅れた。

「ええっ!? よ、よくないじゃないですか! ――あ、でも、自分の年がわかるってことは、そのあと思い出せたんですよね?」

「あー、全然」

「だ、だってローナが三十二歳って」

「うん、じいちゃんが十八くらいだなって決めて。そっから十四年だから、いま三十二」

「十四年も思い出せてないんですか!?」 

「うん」

「た、大変なことじゃないですか!」

「なんで?」

 ランダットはきょとんとしている。

 当たり前と思い込んでいたことを改めて説明するのは、ひどく難しかった。リウは口をあけたまま、眉間にしわをよせた。

「なんでって、えーと……だから」

 さっきリウがあげた声が聞こえたらしい。

「どうかしたのかい?」

 馬をつないできたシャルスがやってきた。

「……あのね。ランダットさん、自分の昔のことずっと思い出せないんだって」

 彼の眉もはねあがる。

 かえってランダット自身のほうが、他人事のような顔だ。

「なんでふたりともそんなに驚いてんの?」

「そんな、驚くに決まってるじゃないですか! 自分のことがわからないなんて」

「そうかなー、おれ、ちっとも困んなかったけど」

 ランダットはますますきょとんとした顔で、リウを指さした。

「わざわざそんなこと言いに来たの?」

「ち、違います! っていうか、そんなこと初めて知りました!」

「だよなー」

 リウは一度こぶしを胸に置いて、うっかり忘れそうになった本題を切り出した。

「わたしは、ランダットさんに聞きたいことがあって来たんです。〈天馬競〉」

「〈天馬競〉?」

「ええ。ランダットさん、〈天馬競〉で助っ人してませんか?」

「してる」

 ランダットはそれまでどおりの態度で、あっけらかんと認めた。

 かえって調子をくずされた気がしたが、すぐ本題に入れるのはありがたい。この様子なら、報酬額について長い駆け引きなどせずにすむだろう。

「リウ」

 シャルスが短く呼びかけてきた。続きを聞かなくても、その顔でわかる。シャルスはランダットを仲間にすることに不安をおぼえはじめている。

 その気持ちはリウにもわかる。昔のことが思い出せないという問題そのものより、むしろその問題に対するランダットの軽すぎる態度が不安をかきたてる。

 ちゃんと約束を守るのか、しっかり走ってくれるのか。忘れた、となってそのままほったらかしにしてしまわないのか。

 〈天馬競〉の助っ人と、一口に言ってもいろいろある。自分ひとりでは組を作れないからせめて助っ人で参加したいという者もいれば、どうにかして礼金だけをくすねたいと考える詐欺半分のような者もいる。

 ただ、彼らには〈天馬競〉に出たいという気持ちか、それを持っていると見せかける演技力、最低でもそう演技しようとする意志があった。

 しかしランダットにはそうしたものが一切ない。あっさり助っ人を承知しそうな半面、同じくらいあっさりやめたと言い出しそうな、そんな印象を受ける。自分自身にこうも無関心な男が、挑戦や名誉や金銭に関心を持つだろうか。

 それでも、とリウはこのとらえどころのない男をじっと見つめる。あのあざやかすぎる手並みは本物だった。彼は馬を知っている。そのことだけは疑いようもなかった。

「だったら、今年の秋まで、わたしたちと組んでくれませんか」

 リウは言った。

 ランダットは立ち上がった。華奢な男だが、それでもリウより上背はある。

「一緒におまえが出んの?」

「もちろん」

「それと、そっちのおまえ?」

「ええ」

 シャルスも答える。

「ふーん」

 ランダットはまた髪をかいた。

 それをなんらかの疑念と受け取ったらしい。シャルスはきっと頭をもたげた。

「僕はノア牧の共同経営者、シャルスだ。あなたへの礼金なら十分に払える」

「十分?」

「ああ。とはいっても、要求が法外なものだったら、もちろん払う気はないけれどね」

「礼金って、おまえが決めんの?」

「もちろん」

「どうやって? 一位いくら二位いくら、それ以下だったらいくらって?」

「そうだ。当たり前じゃないか」

「じゃ、鼻差の二位と、一位のやつらが風呂もすませたころに着いた二位も、まるっきりおんなじ? 三位と、夜になって戻ってくるようなびりも?」

 シャルスはとまどい、表情が揺らぐ。

「あはは。な、だからそんな細かいこと言わなくていいって。勝ちたいって、それだけで」

 小さく口をあけたまま止まってしまったシャルスを視界の端に見ながら、リウはなぜかこみあげた微笑をそのまま頬に浮かべた。

「ええ、勝ちたいんです。だから勝つ方法を教えてください」

 ランダットはふりむいた。

「教えるもなにも、いい馬を気持ちよく走らせればいいじゃん。なんか難しいわけ?」

「あなたにとってはそうかもしれない。だけど、わたしたちはそうじゃない」

 リウはじっとランダットを見つめ、まっすぐ手を差し出した。

「だから、一緒に出てくれませんか」

 ランダットは片手をポケットにひっかけると、もう片手で頬をかいた。

「んー……」

 視線をそらした顔は、なにやら考えるふうだ。

「リウ」

 シャルスが小さく声をかけてくる。

 だが、リウはそれでもランダットから目をそらさなかった。予感がする。この変わった男はきっと助けになってくれる。

「わたし、勝たなきゃいけないんです。どうしても」

 手を差し出したまま、リウは言った。

「それに、うちのランダルムって名前。ランダットさん、結構好きなんですよね?」

 ふっと小さな笑い声と同時、リウの手は意外な力強さで握り返された。

「いいよ。やってみっか」


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