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二 天馬の牧



 ランダルム牧に戻ったリウを迎えたのは、父の皮肉と母のため息だった。〈天馬競〉の結果など聞かれもしなかった。

 リウも報告はしなかった。バルメルトウを休ませ、それから数日のあいだ、残していった他の馬たちの世話に集中した。両親にこれ以上苦情を言わせるつもりはなかった。馬房の掃除をし、馬たちの体を拭き、櫛を入れ、ほったらかしにしたお詫びにたてがみもきれいに梳いて編んでやった。仕上げに金槌と釘も持ち出して、厩舎の屋根の修理もした。

「あー、さすがに疲れた」

 リウはバルメルトウの馬房の前に座って去年の干林檎を囓った。

 と、顔のすぐ横に黒い鼻面が突き出てくる。

「おまえは疲れなんてとれたよね、バルム」

 リウはもぐもぐと物欲しげな口もとをなでてやり、林檎の残りをやった。

「わたしも、カズートのおかげでゆっくり眠ってこられたからよかったよ。そうでなかったら、さすがに戻ってきた最初の日は動けなかったと思うもの。小言を言われる日が一日減ってくれただけでも、助かるよね」

 リウは喉をのけぞらせて顔を上に向けた。

「……バルム、どうしようか?」

 別れ際、カズートはイシャーマ牧に来て天馬を見るよう誘ってくれた。一昨年の青天馬の種付があり、しかも相手は何年も前に牧から初めて出した銀天馬とのことだった。

 今日がその日になる。

 リウはこれまで一度もイシャーマ牧に行ったことはない。イシャーマ牧が作るのは軍や貴族、国王が使う高級馬で、常に〈大天馬競〉での勝利を目指す大牧である。軽量荷馬、せいぜい馬車馬か乗用馬として買われていく程度の馬しか作っていないランダルム牧とは、同じ牧とはいってもまったく違う。たとえ見たところでしょうがなかった。

 だが〈天馬競〉で勝たねば廃業、バルメルトウの命すら危ういいまは違う。実際に〈大天馬競〉に勝利した天馬を見るだけでも、なにかの参考にはなるかもしれない。

「……でもな」

 牧童同然の服に綿の風防布。以前は実家をまったく感じさせなかったカズートの、いまの絹スカーフ姿がちらついた。

「気が進まないんだよね……そこまでカズートに甘えていいのかなって思うし、それに」

 〈天馬競〉に実際に出るようになって、リウは改めて勝つことの難しさを知った。だからこそ、やすやすと勝利を手にしているイシャーマ牧とそこの馬を見ることは――

「……怖い、んだ」

 リウはため息とともに自分の感情を認めた。

「そんなことじゃいけないって、わかってる、わかってるよ。だけど、わたしじゃ絶対に無理なんだって思い知らされることになっちゃったらって思うと」

 これまで牧で生きてきたリウは、自分の世界を守る手段を〈天馬競〉以外に持っていない。そのわずかな可能性すらつぶされてしまっては、抗う気力すら失ってしまう。

 そのとき、リウはランダルム牧の廃業を呆然と眺めることしかできなくなる。柔らかにうねる緑の稜線、北の丘の上の二本の木、草の間を流れる水路、そうした風景の中を駆ける馬たちの姿。これまでリウの世界だったものが失われていくさまを。

 バルメルトウが、リウの胡桃色の髪に鼻先をくっつけ、前脚で地面をかいた。

「なに、遊びに行きたいの? じゃあちょっとあたりを回ってこようか」

 リウは立ち上がり、人の心が読めるかのような愛馬の頬をなでた。

「……そうだよね、もやもやしてるときは、走ってくるのが一番だよね!」

 バルメルトウを引き出して馬具をつけていると、一頭立ての小型馬車が道をやってきた。

 ひとりだけ乗っている御者もリウに気がついた。彼は馬の尻を打って速度をあげ、そして驚いて目を丸くしたリウの前で止まった。

「カズート。どうしたの?」

 やはり絹のスカーフをつけていたカズートは、あきれ顔でリウを見下ろした。

「どうしたのって、ごあいさつだな。迎えに来てやったんだよ。見たいんだろ、天馬」

「そんな、いいよ――でも、なんで馬車で? 馬車なんて遅すぎるって嫌ってたくせに」

「うちのやつらにバルメルトウを見せたくなくて来ないのかと思ったんだ」

「バルムを?」

「うちも今度のフラシコの〈天馬競〉に出るって言っただろ。ここから近いし、おまえも出場を考えてんのかと思ってさ」

 そもそも出られるかどうかもわからない馬を、イシャーマ牧の人間が意識するはずがない。リウ自身もまったくそんなことなど思い浮かばなかった。が、〈天馬競〉で勝つためにはまずこういう弱気がいけないのだと、勢い込んでうなずいてみせる。

「そう! 競争相手だもんね」

 カズートはぶっきらぼうにうなずいた。

「じゃああいつから馬具をはずしてやれよ。帰りも送ってやるから」

「え、ちょっと待って! ありがたいけど、本当にいいってば。午後も仕事があるし」

「だったらおれからも頼んでやる」

 カズートはひらりと馬車から飛び降りると、リウの家へと大股に歩き出した。

「あ、カズート!」

 運悪くちょうど父が家から出てきた。カズートを見た途端、その眉が跳ね上がる。

「こ、これはこれは! 久しぶり――いや、お久しぶりですな!」

 リウは思いきり顔をそむけた。けれども一瞬遅く、ねばっこいような笑顔になって両腕を広げる父の姿は見えてしまった。

「今日は馬車ですか、優雅ですな。さ、どうぞどうぞ、むさくるしい家ですが」

 友好的な態度も親切な言葉も、これまでにはなかったものだ。以前の父は大牧の御曹司のカズートが小さな牧をばかにしに来ていると受け止めている節があり、彼を見かけると急いで牧の奥へと逃げて、決して顔を合わせないようにしていた。

「さあ、どうぞ。北部に戻ってきたのでしたら、また前のように遊びに来てください」

 やはり父もリウと同じように、本当は廃業などしたくないのかもしれない。そのために努力するつもりもあるのかもしれない。だがそれはリウが絶対に認められない努力だった。

「父さん、やめてよ!」

 真っ赤になった顔はそむけたまま、リウは叫んだ。

 のぼった血が、父への怒りのためか、あるいはカズートへの恥ずかしさのためかはわからない。ともかくリウはこの場から逃げ出したい気分でいっぱいだった。カズートが振り向く気配を感じても、リウはまだ顔をそちらに向けられないでいた。

「――行こう、カズート!」

 リウはバルメルトウに飛び乗ると、馬首を道へとめぐらせた。腹を軽く蹴ると、忠実なリウの馬は勢いよく走り出した。


 なだらかにうねる大地を絨毯のような青草が覆い、そのところどころにこんもりと林がうずくまっている。そんな北部丘陵地帯の景色は、ランダルム牧と変わらない。

 だが、

「……これが、牧なんだ……」

 バルメルトウの鞍上で、リウは呆然とつぶやいた。

 勢いで来てしまったイシャーマ牧は、ひたすら広かった。はるか地平の先までがその敷地だという。家や畑、柵といった人工物がなにもなく、一見したところ無人の野としか思えない。しかし牧草は青々と茂り、それでいて白土を露わにした道はきちんと整えられていて、人の手が加わっていることは間違いなかった。

「牧なのに、馬がいない……」

 隣の馬車のカズートがあっさり応える。

「ここには若馬が二〇頭くらいいるだけだから、あの林の影になってるんじゃないか」

「あんたんちの馬って、何頭いるの?」

「さあ、正確なところはな。五〇〇頭よりはいるか。一〇〇〇頭まではいかないにしても」

 来なければよかった、という思いがむくりと頭をもたげた。リウはありったけの意地をかきあつめて、それを押さえつけた。

「ため息も出ないよ。うちとは違いすぎて」

 と、カズートに笑ってみせたが、ちょっとばかり口端がひきつった気がした。

「まだここは入口だ。あの丘を越えるぞ」

 丘を越えた下り坂の先には、柵で仕切られたいくつかの牧と厩舎があり、近くに長屋と白木の家が並んでいた。丘の上からはおもちゃの家のように見えたそれらは、近づいてみると近くの町の公会堂よりも堂々とリウの前にそびえ立っていた。

 馬車を止めたカズートに、ブーツを履いた少年がすぐさま駆け寄ってきた。

「お帰りなさいませ、カズート若さま」

 カズートはじろりと横目にリウを見た。

 そのまなざしが投げかける無音の言葉はわかっている。リウは大真面目な顔で答えた。

「ご心配なく、からかいませんとも、カズート若さま。だって当たり前のことじゃない、カズート若さまが自分の家の人にカズート若さまって呼ばれるのは」

「……やめろ」

 カズートはむすっとしたまま、少年に馬車を片付けておくように言いつけた。

「あと、こっちの馬の世話もだ。気をつかってやれよ」

「かしこまりました、カズート若さま!」

 少年にバルメルトウの手綱を預け、リウはさっさと歩き出していたカズートに並んだ。

 カズートはリウより頭ひとつ近く背が高い。しかも手脚の長い体つきで、歩幅も広く、速い。リウは少し急ぎ足になる。ほとんど背が変わらなかった昔が遠く思い出された。

「ちゃんと呼んでもらえてるってことは、ごくつぶしの五男坊ってわけでもないんだね」

「そんなふうに言うのはおまえだけだって、ずっと言ってんだろ」

「だって、しょっちゅううちに来てたから。家にいづらいのかなって心配してたんだよ――ちょっぴりね」

 カズートが眉をあげた。

「そんな気持ちがちょっぴりでもあったなんて驚きだな。人を見ればごくつぶしだの暇人だの目つきが悪いだの、好き勝手言ってくれてたやつが」

「変わり者だの馬ばかだの男おんなだの、好き勝手言ってくれてたのはそっちも同じ。それに、残りは本当のことじゃない。うちで暇つぶししてたのも、あんたの目つきが悪いのも」

 リウは行く手を見ながら答える。

「だから、ちょっぴり心配してたのも本当。一年前いつもどおりに帰っておいて、それっきり急に来なくなっちゃったし。もしかして、ついに家を追い出されたのかもって思って」

「いろいろあって長引いたんだよ」

「なに? 商談?」

「だからいろいろだよ」

「そう……まあ追い出されてなくてよかったよ。――あ、種付相手ってあの子?」

 カズートにさらに尋ねることはせず、リウは行く手の柵の近くにいる馬に駆け寄った。

 立派な馬格の黄褐色の馬で、目の前をひらひら舞っている蝶に興味があるのか、じっとしたまま鼻先だけを伸ばしている。体格とは裏腹に、見るからにのんきそうな馬だった。

「馬違いだ。大体、そいつは牡だぞ」

「だね。ふふ、でもかわいい子だな。あんな変な顔しちゃって」

「面白そうなやつだよな。おれだったらもらっとくんだが」

「誰かが売りに来た馬なの?」

「こいつの母馬に、四番目の兄貴の持ち馬をつけたんだ。牝だったらむこうの牧に残して、牡だったら買い上げる約束だったんだが、兄貴じゃたぶん――まあいい、行くぞ」

「ん」

 あっ、という小さな声がした。この馬を連れに来たらしい。引き綱を手にした褐色の髪の青年が、リウを見つめている。

 そんな青年を見たリウも表情を消した。

「……なんだ?」

 カズートが目を細めて聞いた。

 リウはぎこちなく笑った。

「ん、知り合い。こんなところで会うと思ってなかったから。――久しぶり、シャルス」

「――ああ、久しぶりだね、リウ」

 ぎこちない表情は、相手も変わらなかった。

「……どうするんだ? 旧交をあたためたいなら、そうしてもらってかまわないぜ」

 カズートは歩き出した。

「天馬を見に行くよ、もちろん」

 リウはあわてて後を追った。

 それでも自分の背中を見つめる青年の視線は、痛いほどわかっていた。


 青天馬となった牝馬は美しかった。揺れるたてがみは透きとおるようで、牝馬らしい繊細さと天馬の称号にふさわしい力強さが、輝く馬体に違和感なく溶け合っていた。

「……この子はお嬢さまだね。この大牧の大事なお嬢さま」

 リウはため息をついた。

「それに、すごい美人。圧倒されそう」

 カズートがにやりとする。

「ま、たしかにこいつには手をかけてるからな。朝のおめかしの時間なんか、どうせ顔を洗って終わりのおまえより絶対長いぜ」

「言い返す気もしないよ。専任の牧童がいるの?」

「こいつにかかりっきりになってるのがひとり、他の馬も一緒に見てる補佐が三人かな」

「はー……もうお姫さまだね」

「今回のがうまくついたら、本物のお姫さま行きだ」

「王様にあげるの?」

「いや、南部の伯爵だ。四番目の兄貴がそこの姫と婚約してるんだ」

 雲の上の世界を垣間見た気がして、リウはまたため息をついた。

 柵の周囲に男たちが集まってきた。皆一様にブーツを履いているが、その服装はさまざまで、磨き上げた新品から乾いた馬糞がこびりついた古靴まで、ブーツもいろいろだった。

 その中心にいた恰幅のいい若い男が、こちらを見た。

「なんだ、カズート。出かけたんじゃなかったのかい」

 ひとりだけ明らかに金額の違う身なりだった。

「こいつを迎えに行ってたんだよ」

 男の顔がリウに向いた。無邪気さを装った鋭い目が、全身を露骨に眺めた。

 無言の疑問に答えようと、リウはあいさつした。

「はじめまして。ランダルム牧のリウです」

「ああ! カズートの友達の、あの」

 男はわざとらしい声をあげた。

「まったくおまえは、悪趣味な上に考えなしなやつだな、カズート。仮にも若い女性に馬の種付を見せるなんて信じられないよ」

「見せるのは天馬のほうだ。どうせ奥の牧には入れてくれないだろ、ダールグ兄貴は」

「当たり前じゃないか、部外者なんか入れてなにかあったらどうするんだ。これは僕の婚約者への大事な贈り物なんだぞ」

 やっぱり、とリウは内心納得する。

 南部の伯爵姫と婚約したというカズートの兄だった。しかし弟と似ていると言えるのは上背と黒髪くらいで、同じ切れ長の目もとも雰囲気がまったく違う。

「ふうん、だから種付で出してきたところをねらったのか。友達に天馬を見せたいなら、こそこそ人の隙をうかがわないで、堂々自分で勝ち取ってからにしたらどうなんだい」

「それじゃ遅いんだよ。こいつが出るのは、今年の〈天馬競〉だからな」

「この子が〈天馬競〉だって!?」

 ダールグは芝居がかった仕草でリウを真っ向から指さした。

「ああわかった、思い出作りに出るんだろ。まさかきみ、勝てるとは思ってないよね?」

「……勝つつもりですけど」

「え、なんだって? 聞こえなかったよ」

 だから、とリウはもっと大きな声を出そうと息を吸いこむ。

 と、カズートが割って入った。

「いいだろ、人のことはどうだって。ダールグ兄貴は自分の仕事をしてろよ」

「おまえの友達だと思って、親切で言ってあげてるんだよ。〈天馬競〉に女が出たってただの無駄じゃないか。完走できたらお慰み、けがをしないうちにやめておくほうがいいよ」

「完走なら、こいつはもうしてるぜ」

「なんてことだ、経験があるのかい! カズート、馬好きな友達を絶望の海に突き落としたくないのなら、幸運がまだついてくれているいまのうちに、やめさせておかないといけないよ。そんなことはおまえにはよくわかっていると思ったけどね」

 するとカズートは口をぐっと引き結んだ。眉間が狭まり、細められた目がきつくなった。

「――ダールグ若さま。準備ができました」

 年配の牧童がひかえめに声をかけてきた。

 わかったというように牧童に指を立ててみせ、ダールグは薄く笑った。

「まあ、こうして来てしまったんだから、見ていけばいいさ。どうぞごゆっくり。おまえも今年の参考にするといいよ、カズート」

 そう言い残して、彼は待っている牧童たちのほうへと歩いていった。

 仲のいい兄弟には到底思えなかった。リウはカズートの横顔をうかがった。

「……もしかして、無理させちゃってた?」

「気にしなくていい。あんなことを言っちゃいるが、実際は兄貴の持ち馬ってわけじゃない。兄貴はただ、あの馬の管理を一昨年からまかされてるだけだ」

「でも、ごめん……天馬を見たいなんて、変なこと言っちゃって」

「だから気にしなくていい。――ほら、来たぞ」

 芦毛の銀天馬が連れてこられた。勝ち得た称号にふさわしく、毛色は渋い銀灰色となっている。肉付きのいい勇壮な馬体は、たくましさそのものといった様子だった。

 牝馬の尻尾が手際よくくくられ、当て馬が入れられ、そして種付が始まった。

 牧童たちの声と馬の荒い呼吸が飛び交う激しい行為を、リウはぼんやり眺めた。

 その隣で、カズートはそわそわとあちこちを見やったり、指で柵を叩いたりしていた。

「あー、そろそろ行くか?」

「そうだね、もう終わりそうだし」

 リウはぼんやりしたまま答えた。

「当て馬にくすぐられて女の子はすっかりその気だし、男の子も種付け上手みたいだもんね。あ、ほら、終わった。ほんと上手。毛も銀色で、男の子っていうより素敵なおじさまって感じかな。女の扱いなんて慣れきってるっていうか」

「……あのな。なにか言う前にもう少し自分の年と性別を考えろ」

「牧の娘になに言ってんの。種付くらい」

 リウは柵から離れ、ため息をついた。

「反応悪いな。お気に召さなかったのか?」

「まさか、そんなこと」

 リウは振り返り、牧童たちを従えるようにして奥の牧へと帰っていく銀天馬を見送った。

「やっぱりすごいね、天馬って。〈天馬競〉を走ってたころは体もしぼってあって、もっと精悍な感じだったんだろうし」

 手を組んで伸びをする。そのまま見上げた空が青い。

「あんな馬と競らなきゃいけないんだなって思ったら、さすがに気が遠くなってさ」

 リウはじっと空を見る。吸いこまれそうな青、そして風に流れる雲の白。そのあいだに本物の天馬の姿を見ることができたら、銀天馬の面影をぬぐえるかもしれない。このままバルメルトウのところへ戻ったらなにを考えてしまうのか、リウは自分で自分が怖くなる。

「まだ夕暮れまで余裕はあるな。うちでひと息入れてくか?」

 カズートの声がした。リウは親指で家のほうを示す彼の姿を見たように思った。

「ん……そうだね、じゃちょっとだけ」

 瞼の裏に焼きついてしまった銀天馬の姿を少しでも薄らがせたくて、リウはありがたく招待を受けることにした。


 通された白木壁の家の居間は、ここと隣の続き間だけでリウの家ほどもありそうだった。

 リウはおそるおそる華奢な猫足のソファに座った。

 カズートはむかいの寝椅子に無造作に腰を下ろし、メイドの少女になにやら言いつけた。

 壁の飾り棚には〈天馬競〉を完走した者に与えられるリボンが飾られている。そのすべてに金糸銀糸が見える。

 しかし、リウの目はすぐに、続き間に置かれたもっと大きな飾り棚に吸い寄せられた。ここからでは中は見えないが見当はつく。

「ああ、あれな」

 カズートが身軽に立ち上がる。アーチの下を通って続き間に行くと、リウを手招いた。

 リウは呼ばれた犬のような素直さで従った。

「わ、やっぱり!」

 もはやリボンなどという言葉では物足りなかった。中央に宝石が飾られた金銀の布は〈大天馬競〉完走の勲章だった。

「どうせならこっちだろ」

 カズートが示した別の飾り棚には、両手で持てそうなくらいの、馬の青銅像が並べて置いてある。像の首には色あざやかな細い布がかかっている。色は四種類、銀、青、赤、白。

「うわあ……これって〈大天馬競〉の」

「ああ」

 興奮でかえってぼんやりしながら、それでもリウは頭の一部で冷静に計算する。

 〈天馬競〉のリボンの数より〈大天馬競〉のリボンは少なく、この像はさらに少ない。イシャーマ牧のような大牧ですら、楽々と勝利にたどりつけているわけではないのだ。そのことは、それぞれの勝利の証の数がはっきりと物語っている。

 しかし、そうした事実は少しも気を安らがせてくれない。それに比べて、と思考はついそこにたどり着く。馬はバルメルトウ一頭だけ、組む相手もいない自分が勝利をつかむなど、本当にできるのだろうか。――

 昔なじみを視界の端に感じながら、リウは飾り棚を見つめたまま口をひらく。

「わたし、〈天馬競〉で勝ちたいんだ。自分でも無謀だってわかってる。でも、それでも勝たなきゃいけないんだ。どうすれば少しでも勝ちに近づけるか、打つ手はあるかな?」

 短い、けれども深い沈黙のあと、やっとカズートの声がした。

「おまえは、組を作るだけの馬も人もそろえてない。勝つための一番最初の条件もまだ満たしてない。打つ手もなにも、それ以前だ」

 視線はそのままに、リウは唇を噛んだ。覚悟はしていても、はっきりずばりと言われることは、やはり心にこたえた。胸のあたりがすうっと冷え、逆に頭は熱くなる。

「……やっぱり、そこからか」

「ああ。まずは馬、それからちゃんとした三人を集めないとな」

「人も?」

「〈天馬競〉の始まりは、騎士たちへの試練だ。馬と人とが一体となって乗り越え、自らの能力を証す挑戦だった。いまだって、ただ馬につかまってれば勝てるってものじゃない。自分の馬をよく知った、勝つ気のある乗手が要る。おまえ、心当たりがあるのか?」

 リウは胸もとにこぶしをあてて、さらに強く握り込んだ。

「……〈大天馬競〉は、秋だから」

 かつてとは違い、現在の〈天馬競〉は各地の町が主催しており、月二回ほどある。理屈では〈大天馬競〉まであと一〇回は出走できる――リウはあえて楽観的に考える。

「だから、これからでもちゃんとした組を作れたら」

「ってちょっと待て。おまえ、ただ〈天馬競〉で勝ちたいだけじゃないのかよ?」 

「……ん、そのつもりだったよ。だけどいまは〈大天馬競〉に出たい」

 リウはさびついた扉のようにのろのろとカズートに顔をむけた。

「さっき、銀天馬を見せてもらって思ったんだ。あれだけ見栄えのいい馬なら〈天馬競〉の勝利だけでも種付けしたがる人はいるかもしれない。でもバルムは違う。だから、そこらのきれいな馬より強い心臓と脚を持った馬なんだって、もっとはっきりわからせないと」

 動かないカズートの表情に、かえって救われた気がした。だからリウはさらに言った。

「それに、あの子はこのイシャーマ牧の馬だけど、バルムは〈天馬競〉にだって出たことのないランダルム牧の馬なんだよ。どこの牧の馬か、たったそれだけのことでも、ばかにする人はばかにする。いま言ったじゃない、能力を証す挑戦だって。バルムには誰にでもわかる証が要る。それがないと、バルムも、それにうちの牧も――」

 そのとき、メイドが戻ってきた。

「え、えっと、そちらにお運びするほうがいいですか?」

 続き間にいるふたりの姿に、困ったように立ち止まっている。

「ああ、そこに置いといてくれ」

 メイドの少女は危なっかしい手つきで銀盆をテーブルに置き、落ち着かない様子でエプロンの前で両手を組み合わせた。

「あ、あの、他にご用はございませんか」

「いや」

「あ、あの、でも」

 あどけない頬がくしゃりとゆがむ。

「――やっぱりカズート若さまは怒ってらっしゃるんですね!」

「は?」

「あたしが今朝、思いっきりスープをひっかけちゃったから! でもあたし、そんなことなんてする気はなくって、ただうっかり指がすべっちゃっただけで……はっきりお叱りになってください、そうやって黙っていつまでも怒られてるほうが怖いです!」

 いつのまにか、組み合わせた両手が胸の前まであがっている。

 疲れたような吐息が聞こえた。リウはちらりと昔なじみを見上げ、小さく笑った。

「怒ってはないみたいだよ?」

「えっ?」

 メイドはリウとカズートを見比べた。

「勤めだしたの、最近? あのね、こいつ、目つきが悪くて見た目は割と怖いけど、中身は意外とそうでもないから」

 リウはカズートの脇腹を肘でつついた。

「自覚して気をつけなよ。黙ってたら怒ってるみたいなんだからね、あんたの場合」

「ほっとけ。よけいなお世話だ」

「わ、どの口でそんなこと! 無駄に元気だなとか狭い家は落ち着くだとか、いつだってよけいなこと言って喧嘩売ってきたくせに」

「おまえがいちいち曲解してんだよ。大体それを言ったら、いきなり初対面で強盗扱いした上に、人の目つきがどうだこうだと喧嘩を高値で売ってきたのはおまえだろ」

「もしかして本当に自覚ないの? やってきたのがどこの強盗かと思ったって無理ないよ」

「自覚もなにも、あのときのおれはたったの八歳だぞ?」

「この目つきの悪さなら子供だってわからないって思ったの」

 ぽんぽんと言い合うリウとカズートのやりとりを、メイドはぽかんと口をあけて眺めていた。

「あ、ごめんね。だけどわかった? 本当はこんな感じのやつなんだ。だからそんなに怖がらないでいてやって。カズート、こっそり傷ついちゃうから」

「あ、は、はいっ!」

 メイドは勢いよくうなずいて出ていった。

「……最後まで滅茶苦茶なでまかせを吹きこむな」

「でまかせじゃないし。大体、家の人とうまくやれないで仕事なんかできないでしょ」

「なんだそれ」

「……だから、気をつかってあげたんだよ!」

「よせよ、柄にもない」

「そんなこと言って。カズートだって柄にもなく、わたしに気をつかってくれてるじゃない。こんなふうに呼んで天馬を見せてくれたり」

「なりゆきだ」

「照れない照れない。大丈夫だよ、わかってる。なんかそうなるよね、昔なじみって。久しぶりに会ったら、ちょっと親切にしてみたくなったりして」

 カズートは居間に戻ると、メイドが持ってきたカップを取り上げ、立ったまますすった。

「お行儀悪いよー、若さま」

 リウも居間のソファに戻った。メイドが持ってきてくれたのはコーヒーだった。受け皿ごとカップを持ち上げると、こうばしい香りがリウの鼻先をくすぐった。

「うーん、これこれ」

 リウが買い物をするジョスリイの町の店には、コーヒー豆は二週に一度ほどしか入らない。リウはこの香りが好きだったが、なにしろ品薄な上に高額で滅多に買えなかった。

「コーヒーって、淹れるときもいいよね。ネルにお湯が入ったときに、ふわんて香りが」

「あのな」

 だしぬけにカズートは話を遮った。その声にはひんやりしたなにかが忍んでいた。

「……な、なに?」

 リウは思わずカップを置いた。

 カズートは自分のカップをにらむように見つめている。

「たしかにおれは、おまえに天馬を見せたかった。自分なりの親切のつもりでもあった。それでもおまえは、おれのしたことが親切だとは思わないだろうよ」

「どうして。そんなことないよ。とても親切にしてもらえたって思ってる」

「おれは、おまえがやめるって言い出さないかと期待したんだ」

「え?」

「なのにおまえは、かえって〈大天馬競〉まで目指そうとしはじめた。おれも悪かった。下手な小細工なんてしないで、最初からはっきり言えばよかったんだ」

「ちょっと待っ――」

 言い終わる前に、カズートの声がリウの言葉を冷たく消す。

「おまえが〈天馬競〉に勝つのは無理だ」

 リウは反射的に立ち上がった。

 カズートがカップから視線をあげた。

「断言できる。競技場をうろついてるような助っ人に〈天馬競〉を一緒に勝てるやつはいない。小金目当てでなければ、他の組が全部棄権する可能性もないじゃないと考えるような能天気だけだ。牧を続けたいなら、もっと有意義な金の使い方をしろ」

 ひと言ひと言が胸を切り刻む。リウはぐっと唇を噛みしめてカズートをにらみつける。言葉よりもなお鋭いその眼光に負けないよう、自分も懸命に目に力を込めて。

「そんなの、もうさんざん考えたよ。どうしたら牧を続けられるか、眠れなくなるくらいいろんなことを考えたんだよ。だから教えてよ。〈天馬競〉以外、どんな手があるの?」

 カズートはむすっとした顔のまま応えない。

「ほら、やっぱり思いつけないじゃない」

 リウはうっすらと笑う。

「無茶なのはわかってる。だけどこのままじゃうちの牧は、どうしたって廃業なんだもの。馬を売って、小さな農場に作り替えてやってくしかないんだもの」

「そうしたっていいだろ。よければ馬はおれが買う。ここなら見に来れるだろ」

 リウはなけなしの笑みすら引っ込めた。

「天馬を見せてくれてありがとう、感謝する。だけど借りなんか作りたくないって、あと何回言えばいい?」

 カズートはすばやく一瞬目をつぶった。まばたきのようなその仕草のあと、彼の目はますます鋭さを増した。

「わかった、じゃあこれも言う。おれにはおまえが思ってるよりまだ金があるんだ。親父や兄貴に頼まなくても、おまえのところの馬くらい、全部おれ個人の判断で動かせる金だけで引き取れる。こんなのは貸しでもなんでもない」

「……この前、馬車に寝かせてくれたのと同じってわけ」

「そうだ。考えてみろ、仔犬を拾ったはいいが、親に飼えないと言われた借家の子がいるとするだろ。そしておまえには牧の敷地と家がある。その子から仔犬をもらってやって、牧に遊びに来ればいいと言ってやって、それで貸しがあると思うか?」

「……わたしは無力な子供ってわけ」

「この場合はな」

「そうだね、子供ならどうしようって泣いて誰かの助けを待つだけかもね。だけどわたしは子供じゃないよ。そんなのはいやだ。たとえだめでも、最後まで自分でなんとかしたい」

「心意気は見上げたもんだ。だがな、本当にそれでいいのか?」

「――」

「たとえだめでも、って言ったな。だめなんだよ、それじゃ。やるだけやってだめなら満足なのか? 無駄に金をつかうことでバルメルトウまで手放すことになっても、それで」

 カズートは容赦ない。リウは視線をそらせたが、それでも言葉は終わってくれない。

「わかるつもりではいる。バルメルトウがおれの馬なら、きっと同じように感じたと思う」

 びくりとリウの肩がひきつる。

「あいつなら天馬になれるかもしれない。そう思って、どれだけ無理をしても挑戦させたくなっただろうな。あいつさえ走ればなんとかなるなんて、甘ったるい奇跡を信じて」

「違う!」

 リウは思わず声をあげる。

「それに、夢を見てるあいだは、他のことは見なくてすむ」

「ちが――」

「当たり前だよな。自分の馬が天馬になるのは、馬飼いにとって最高の夢だ」

 リウはうつむき、唇を噛む。

「だがな、夢を見てるだけじゃ、絶対に天馬は獲れない。いまだっておれに、組む馬や人を貸すよう頼み込む覚悟もないじゃないか」

 カズートがカップを置いた音がやけに響く。

「……頼めるわけないじゃない。だって今年もイシャーマ牧は出るんでしょ」

「出る。今年の組はおれが管理することになってる」

 カズートも〈天馬競〉に出る――リウの心はさらに冷える。

「だったらなおさら、そんなこと頼めっこない」

「じゃあ勝てないな」

 半ばは抗い、半ばは祈るような気持ちで、リウは顔をあげる。

「……昔なじみでも、こういう気持ちまではわかってもらえないんだね」

 カズートは見下ろすようにリウを見つめ返した。

「おれに借りを作りたくないって、おまえの気持ちはわかるつもりだ。ただ、そんな綺麗事じゃ勝てない。あれもこれもと欲張ることはできない。そういう話だ」

 目つきが悪いとさんざんからかってきたその顔に、リウは初めてかすかな恐怖を感じた。


 送っていくというカズートの申し出を、リウは断わった。それで彼はついてきた。

「ほんと、いいから。大丈夫だから」

 リウは早足に歩きながら、もう何度目かの断わりを口にした。自然と彼から目をそらせてしまう自分の弱さが情けなかった。

「もう日も落ちかけてるのに、そういうわけに行くか。いいから送らせろ」

 リウの精いっぱいの早足にも、カズートは楽々とついてくる。

「貸しがどうの借りがどうのって、みみっちいことを気にするようになったよな。どうせなら種馬も一緒に連れてこいって、前は平気で言ってたくせに」

 そんなふたりの違いがいらだたしく、また少し悲しくて、リウはさらに足を速める。

「一〇歳やそこらの子供ならまだしも、この年でそんなばかなこと言ってられないよ」

「ちゃんとした年だっていうなら、送らせるのも礼儀だろ」

「牧の娘ならひとりで帰るのなんて普通だよ。迷子を捜しに行ったりとかするし」

「それは牧の中での話だろうが」

 ふりきれないと悟って、リウは足を止めた。目をそむけたがる自分自身に見えない鞭を入れ、まっすぐにカズートを見上げる。

「カズートも変わったよね。この一年、どんなお姫さまたちとつきあってたの?」

 思いがけず、カズートはわずかにひるんだ。

「そうだよね、ずっと南部へ行ってたんだもんね。ひらひらの傘をさしたお姫さまたちばっかりと話してて、このあたりの娘がどんなだったか、忘れちゃったんじゃない?」

「……近所だってだけでおまえとひとくくりにされたら、文句言うやつが出てくるぞ」

「とにかく、わたしは誰かについてきてもらわなきゃ道も歩けないようなお姫さまじゃないってこと。バルムだっているんだし」

 リウは再び歩き出した。

 その先に、傾いてきた日に影を伸ばして、黄褐色の馬を引いた青年がいた。

 リウの足はまた止まった。

 追いかけてきたカズートも立ち止まった。ちらりとリウを見やると、青年に声をかけた。

「シャルス、どうした?」

 青年はリウを見つめてからカズートに視線を移し、淡く微笑んだ。

「こんな間抜けた馬はいらないそうです」

「……そうか、残念だな。ダールグ兄貴は好みがやかましいんだ。おれだったらこの馬は買うんだが。でも口出しするなって、兄貴がまたうるさいか……」

「気持ちだけで十分です。それに、たしかにユーリシスは間抜けたところのある馬ですから。人も仲間も馬房の壁も一度も蹴ったことがないのはまだしも、隣の馬に横から飼葉をとられても黙って見ているようなやつです。なにより脚が遅くて」

「そうなのか? そいつはキラムの仔だろ?」

「ダールグさんの言うとおり、うちの牧の母馬の血が悪かったんでしょう」

 シャルスはさらに淡く微笑んだ。

「もう帰るのか?」

「一目できっぱり断わられましたから。粘ってみても無駄でしょう」

「――じゃあ、悪いがこいつをランダルム牧まで送っていってやってくれないか」

 シャルスはゆっくりまばたき、リウを見た。

 リウはかっとなって声を高くした。

「いいって何度も言ってるじゃない!」

「知り合いなんだろ。それにノア牧なら途中まで道は一緒だ。いいか?」

 カズートが最後の言葉をかけた相手は、明らかにリウではなくてシャルスだった。

「は、はあ……」

「だったらまかせた。頼む」

 言うなりカズートはくるりときびすを返して、さっさと戻っていってしまった。

 その背を見送ったリウとシャルスの視線が、互いにためらいながら、それでもようやくぶつかった。

「――行こうか、リウ」

 シャルスが言った。


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