彼氏の花屋に500万円出したのに、店名にあったのはまさかの彼と親友の名前でした
花屋の開店準備のため、私は恋人の桐生悠真と親友の白石美羽と一緒に什器を選びに出かけた。その途中、美羽の指に木のささくれが刺さり、ほんの少し血がにじんだだけなのに、悠真は顔色を変えて彼女の手を取った。
「杏奈、絆創膏を買ってきてくれない? 美羽、痛いの苦手だから」
私は近くのドラッグストアまで走り、ようやく絆創膏を買って戻った。ところが外はすでに土砂降りで、悠真と美羽の姿はどこにもなかった。
すぐにスマートフォンが震えた。
「雨もひどいし、美羽の指も念のため診てもらったほうがいいから、先にクリニックへ行く。杏奈はタクシーで帰ってきて」
びしょ濡れのまま三時間以上待ち、ようやくタクシーを捕まえて店へ戻った。
ドアを開けると、悠真はドライヤーを手に、美羽の濡れた髪を乾かしていた。二人は寄り添うように並び、店にどんな薔薇を置くか楽しそうに話している。
ずぶ濡れの私を見ても、悠真は眉をひそめただけだった。
「鍋に牛乳があるから、自分で温めて飲めば?」
とっくに冷めきった牛乳を見つめた瞬間、何もかもがどうでもよくなった。
私はスマートフォンを取り出し、長い間こちらから連絡することのなかった父へメッセージを送った。
「お父さん、決めた」
「戻る。東雲ホールディングスの話、受けるよ」
1
「杏奈、悠真は私のことが心配で、先にクリニックへ連れていってくれただけなの」
美羽が私の手を取ろうとしたので、私は体をずらして避けた。彼女の手が宙で止まり、気まずそうに引っ込められる。けれどすぐに悠真へ顔を向けると、甘えるような声を出した。
「もう、悠真のせいだからね。杏奈のことも待ってあげればよかったのに」
悠真は愛おしそうに美羽を見つめ、指先で彼女の鼻を軽くつついた。
「だって、ずっと痛いって言ってただろ。はいはい、俺が悪かったよ」
そう言ってから私へ向き直った瞬間、さっきまでの笑顔は消えた。
「杏奈、いつまでそこに立ってるんだよ」
「早く牛乳飲めば? 美羽に持ってきてもらうつもり?」
すっかり冷えた牛乳を見た途端、胃の奥がむかついた。
「私、乳糖不耐症なんだけど」
悠真の表情が固まった。
忘れていたのだ。
きれいさっぱり。
私は昔から牛乳をほとんど飲めない。高校生の頃、クラスメイトの悪ふざけで水筒に大量の牛乳を入れられ、それと知らずに口にしてしまったことがある。しばらくすると腹痛と吐き気に襲われ、最後には立っていることさえできなくなった。
あの日、保健室から家まで私を背負って帰ってくれたのは悠真だった。夕暮れの道を歩きながら、額に汗を浮かべた彼は何度も念を押した。
「杏奈、ちゃんと覚えとけよ。もう絶対に牛乳なんか飲むなよ?」
「杏奈が忘れても、俺が覚えてるから」
あの頃の悠真は、私が牛乳を飲めないという些細なことさえ、私以上に覚えていてくれた。
でも今は、忘れている。
私と悠真は幼い頃から一緒に育った。周囲の友人たちからも、ずっとお似合いの幼なじみだと思われていた。
両親は私が幼い頃に離婚している。私は母方の姓である「神谷」を名乗り、母と月ヶ丘町で暮らしていた。悠真も父とは幼い頃に数回会っただけで、「仕事でほとんど家にいない人」程度にしか認識していなかった。
父の名は東雲宗一郎。
大手企業グループ、東雲ホールディングスの会長だ。
けれど私は父のことをほとんど周囲に話さなかった。悠真も、私の実家は普通より少し裕福なのだろう、くらいにしか考えていなかったはずだ。
大学を卒業した頃、父から一度、東雲家へ戻るよう言われた。将来グループを継ぐことを前提に、経営を一から学ばせるつもりだったのだろう。
けれどその頃、悠真が言った。
自分たちだけの花屋を開きたい、と。
私は父の申し出を断った。
悠真と二人で夢を叶えるために父と激しくぶつかり、用意されていた未来そのものを手放した。
そして白石美羽は、高校時代からの親友だった。
いつからだっただろう。美羽が私と悠真の生活に頻繁に入り込むようになったのは。最初は何の疑問も持たなかった。
けれど気づけば、「私たち三人」だったはずの関係は、「二人と私」に変わっていた。
悠真は気まずそうに視線を逸らした。
しばらくして奥のキッチンスペースへ行き、温かい生姜湯を持って戻ってきた。
「ほら、こっち飲めよ」
「本当に風邪ひくぞ」
以前の悠真は、私が毎月ひどい生理痛に苦しむ時期まで覚えていて、先回りして温かい生姜湯を作ってくれた。掌に伝わる温度は昔と変わらないのに、その温もりはもう心まで届かなかった。
頭では、もうこんなものに縋ってはいけないと分かっている。
それでも体だけは昔を覚えているようで、残されたわずかな優しさから温度を求めてしまった。私は黙ったまま、少しずつ生姜湯を飲んだ。
隣で美羽が笑った。
「悠真って、本当に杏奈には優しいよね。ちょっと羨ましくなっちゃう」
そう言うと、ごく自然な仕草で悠真の腕に自分の腕を絡ませ、そのまま体を寄せた。
悠真は振り払わなかった。
そのまま美羽と店の内装について話し始め、今度はどんなピンクの薔薇を仕入れるかまで相談している。私たちがラベンダーをテーマにすると決め、何日も夜更かししてプランを作ったことなど、もう頭にないようだった。
私はカップを握る指に力を込めた。
「最初に決めたテーマは、ラベンダーだったよね」
悠真が眉を寄せた。
「美羽のほうが色とか流行に詳しいだろ。ピンクの薔薇のほうが若い客にも受けるって言ってる」
「こういうのは美羽のほうがセンスあるんだから、任せればいいじゃん」
美羽は悠真の肩に寄りかかったまま、にこやかに言った。
「ピンクの薔薇って可愛いし、恋愛っぽい雰囲気もあるじゃない?」
「写真映えもするし、絶対そっちのほうが人気出ると思う」
悠真は笑いながら頷いた。
その瞬間、ずっと昔、紫色の花畑に立っていた少年の姿を思い出した。
大人になったら、ラベンダーでいっぱいの花屋を一緒に開こう。
あの日の約束は、いとも簡単に彼の中から消えてしまった。
2
翌日の午後、内装を担当するデザイナーが打ち合わせのため店へやってきた。
私が着いた頃には、悠真と美羽はすでに長机の向こう側で肩を寄せ合い、分厚いカラーチャートを一緒に眺めていた。デザイナーが私に気づき、立ち上がって挨拶をしたので、私は軽く会釈して二人の向かいに座った。
たった一枚の机を挟んでいるだけなのに、まるで私は打ち合わせを見学しに来ただけの部外者のようだった。
当初予定していた「紫のラベンダーガーデン」というコンセプトを説明しようとしたところで、美羽が先に口を開いた。
「杏奈、大部分を紫にするのって、ちょっと落ち着きすぎない?」
「今は明るくてSNS映えするお店のほうが人気だし、私はピンクの薔薇のほうが可愛くていいと思うな」
私が答える前に、悠真がデザイナーへ向き直った。
「前のラベンダー案はなしでお願いします」
「美羽が言った感じで、ピンクの薔薇をメインに作り直してください」
デザイナーは一瞬戸惑い、反射的に私を見た。
それも当然だった。
この店の開業準備資金として使われた約五百万円のほとんどは、私の口座から出したものだったからだ。敷金、内装の前金、設備、最初に仕入れる花材まで、ほぼすべて私が用意した。
美羽はそんな視線に気づいていないように立ち上がり、楽しそうに店内を歩き回った。カウンターの位置、植物を並べる棚、壁の色、照明――すでに細かい部分まで考えていたらしい。
悠真は微笑みながらその後をついていく。時折、美羽の頬にかかった髪をそっと払ってやりながら、自分の意見を付け加えていた。
二人のやり取りは、息が合っていた。
まるで、この店の本当のオーナーは二人なのだと言わんばかりに。
私は最後にもう一度だけ口を挟んだ。
「メインの花だけは、ラベンダーを残して」
悠真の表情が一気に険しくなった。
「杏奈、いい加減に意地張るのやめない?」
「ラベンダーは好みが分かれるし、美羽の薔薇の案のほうが客を呼びやすいだろ。店は商売でやるんだよ。杏奈一人のロマンを叶えるためじゃない」
悠真はファイルから数枚のラフデザインを取り出し、机の上に広げた。
どれもピンクの薔薇ばかりだった。
壁、看板、ショーウィンドウ、ラッピング、スタッフ用のエプロンまで、すでに細かくデザインされている。可愛らしくて華やかで、それだけに、私が何年も思い描いてきた店の姿は跡形もなく消えていた。
その紙を見た瞬間、理解した。
私に隠れて、二人はとっくに何もかも決めていたのだ。
空気の悪さを察したのか、デザイナーが少し困った顔をした。悠真と美羽が照明を確認しに離れた隙に、私のそばへ来て声を落とす。
「神谷さんは、お二人の共通のお友達なんですか?」
私は答えなかった。
それを肯定と受け取ったらしい。
「すみません。先ほどは神谷さんも資金を出されている方なのかと思ってしまって」
「ただ、カップルで始めるお店って、最終的には彼女さんの好みが中心になることが多いんですよね。お友達の立場だと、あまり口を挟みづらいですよね」
私は数秒その顔を見つめ、それから笑った。
「そうですね」
「友達が、恋人同士のことに口を出すものじゃないですよね」
何度も夢に見た花屋の中に立っているのに、初めてここが自分の居場所ではないように感じた。
三人はその後も楽しそうに内装の話を続けている。私はしばらく黙って座っていたが、やがて立ち上がった。
「もう方向性が決まっているなら、あとは皆さんで話してください」
「ちょっと体調が悪いので、先に帰ります」
私は店を出た。
背後からは、まだ楽しそうな笑い声が聞こえていた。
誰も引き止めなかった。
それどころか、私がいなくなったことにさえ気づいていないようだった。
3
前日の雨は、やはり体に堪えていた。
その夜には高熱が出て、寒気で全身が震えた。骨の隙間に氷を詰め込まれたように体中が痛み、水を取りにベッドから起き上がることさえつらい。
私はどうにかスマートフォンを手に取り、悠真へLINEを送った。
「帰りに解熱剤、買ってきてもらえる?」
返事はなかなか来なかった。
一時間近くして、ようやく画面が光った。
「今、忙しい」
続けて、ドラッグストアの当日配送を注文した画面が送られてきた。
「薬は頼んだから、家で受け取って」
私はその二行を長い間見つめていた。
薬が届くまでの間、何となくInstagramを開いた。
指を一度滑らせたところで止まった。
美羽が一分前に新しい写真を投稿していた。
場所は花屋だった。
両腕いっぱいのピンクの薔薇を抱え、美羽が幸せそうに笑っている。そのすぐ後ろには悠真が立ち、片腕を自然に彼女の腰へ回していた。
顔と顔の距離も近い。
キャプションには一言だけ。
「私たちの夢のお店、だんだん形になってきた♡」
私たちの夢?
その言葉を見た瞬間、熱とは別の痛みが胸を塞いだ。
コメント欄では、悠真の友人たちがすでに盛り上がっていた。
「え、ついに公表?」
「やっぱり二人、付き合ってたんじゃん」
「美羽ちゃん可愛すぎる。めちゃくちゃお似合い」
悠真は否定していなかった。
それどころか、一つのコメントに笑顔のスタンプまで返していた。
震える手で、私は悠真へLINEを送った。
「悠真。私たちがどうしてラベンダーの花屋を開こうって決めたのか、まだ覚えてる?」
一分。
五分。
三十分。
返事は来ない。
それなのに、美羽の投稿には悠真のアカウントが何度も現れた。友人のコメントには返信できる。いいねも押せる。
私に一言返す時間だけがないらしい。
思わず笑ってしまった。
私は美羽の投稿に「いいね」を押した。
ほとんど同時に、悠真から電話がかかってきた。
出ても、体調を気遣う言葉はなかった。
「杏奈、お前いったい何がしたいんだよ?」
明らかに苛立った声だった。
「内装のテーマを変えただけだろ?」
「美羽が薔薇を気に入ってるからって、いつまでラベンダーにこだわるんだよ。みんな忙しいんだから、いちいちそんなことで揉めるなよ」
「もう少し大人になれない?」
大人になれ。
その言葉だけが、妙にはっきり耳に残った。
私が手放したものも、何年も守り続けてきた約束も、彼にとっては「そんなこと」にすぎなかったのだ。
Instagramでは、美羽がまだ友人たちに返信していた。
「みんな勝手なこと言わないでよー」
「オープンしたら遊びに来てね♡」
二人が寄り添う写真を見ているうちに、もう限界だった。
視界が真っ暗になり、手からスマートフォンが落ちた。
意識を失う直前、ずっと昔の悠真が見えた気がした。
高校生の頃、学校行事で出かけた先で、偶然一面のラベンダー畑に迷い込んだことがある。紫色の花の中に立つ少年の瞳は、夏の光をそのまま閉じ込めたように輝いていた。
「杏奈、知ってる?」
「ラベンダーの花言葉のひとつに、『あなたを待っています』っていうのがあるんだって」
「だったら、俺が杏奈を待つ」
「大人になったら、ラベンダーでいっぱいの花屋を一緒に開こうよ」
4
異変に気づいてくれたのは、隣の部屋に住む佐藤さんだった。
二日間一度も私を見かけず、玄関前の宅配物も置かれたままだったため、不審に思って何度も呼び鈴を鳴らしたらしい。それでも反応がなく、管理人を呼び、最後には救急車を手配してくれた。
目を覚ました時、私は病院のベッドにいた。
窓の外では、まだ雨が降っていた。
医師から、高熱が原因で肺炎を起こしているため入院が必要だと説明された。
スマートフォンには、父から何十件もの着信が残っていた。
私が最初に送ったメッセージへの返事は短かった。
「まず体を治しなさい」
「そのあと、帰ってこい」
三日間入院したが、悠真も美羽も一度も来なかった。
そもそも、私が入院したことすら知らなかった。
四日目になって、ようやく悠真からLINEが届いた。
「杏奈、この数日どこ行ってたんだよ?」
「電話にも出ないし、LINEも返さないし。店は忙しいし、明日オープンなのに、こんな時にどこほっつき歩いてるんだよ」
その下に、オープニングイベントのデジタル招待状が添付されていた。
画面いっぱいにピンクの薔薇が散りばめられている。
BGMは美羽が昔から好きだったラブソングだった。
私は返信しなかった。
その日、退院手続きをした。
正式オープンの日、私は店へ行った。
入口には多くの招待客や知人が集まり、ピンクのバルーンや装飾が店先を埋め尽くしていた。悠真と美羽は色味を合わせた服を着て、並んで来客を迎えている。
本当に、お似合いだった。
私は人混みの一番外側に立ち、ただ眺めた。
自分の貯金をつぎ込み、父と喧嘩までして守ろうとした夢が、今では二人の恋を祝うための舞台に変わっていた。
イベントの最後、司会者がマイクを手にした。
「それでは最後に、桐生悠真さんと白石美羽さん、お二人から正式なショップサインをお披露目していただきます!」
周囲から拍手が起きた。
悠真は美羽の手を取った。
指と指を絡める。
二人が一緒に、看板を覆っていた布を外した。
そこに現れた店名を見た瞬間、呼吸が止まった。
『Y&M ROSE』
Yuma。
Miu。
悠真と美羽。
私たちが昔、何度もスケッチブックに書いた名前ではなかった。
『A&Y LAVANDE』
Anna。
Yuma。
杏奈と悠真。
あの瞬間、ようやく分かった。
二人が捨てたのは、ラベンダーだけではない。
私も一緒に、そこから消されていた。
友人たちは楽しそうに声を上げている。
「店名って、二人のイニシャルだったんだ!」
「悠真、やるじゃん。めちゃくちゃロマンチック」
「もうそのまま結婚しちゃえば?」
悠真は美羽を見て笑い、美羽は頬を赤らめながら彼の肩へ寄りかかっていた。
しばらくして、ようやく二人は人混みの外にいる私に気づいた。
悠真の表情が変わる。
驚き。
焦り。
最後には、冷たい警戒心。
その目が、何も言わず訴えていた。
今日は店の大事な日なんだ。
騒ぐな。
台無しにするな。
でも私は泣かなかった。
駆け寄って問い詰めることもしなかった。
ただスマートフォンを取り出し、悠真とのLINE画面に短い文章を打った。
「悠真、別れよう」
送信した。
友だちから削除し、ブロックした。
そして長い間、自分からかける勇気を持てなかった番号へ電話した。
「お父さん」
「決めたよ」
「帰る」
「東雲ホールディングスで、もう一度やり直す」
5
一週間後、東雲ホールディングスは経営体制変更に関する記者説明会を開いた。
私は長年伸ばしていた髪を切り、肩にかかる程度のすっきりしたスタイルに変えた。濃いグレーのオーダースーツを身につけ、東雲宗一郎会長の一人娘として、そして新任取締役兼新規事業開発本部長として初めて報道陣の前に立った。
無数のフラッシュが光った。
恋愛のため東雲家から離れ、小さな花屋だけを人生のすべてだと思い込んでいた神谷杏奈が、ようやく本来立つはずだった場所へ戻った。
説明会が終わる頃には、「東雲ホールディングス会長令嬢、経営陣へ正式復帰」という記事が各経済メディアに掲載されていた。
その日のうちに、共通の友人からグループLINEのスクリーンショットが送られてきた。
悠真が書いていた。
「ニュースに出てる神谷杏奈って……俺たちが知ってる杏奈?」
すぐに返信がついていた。
「待てよ。杏奈の父親って東雲ホールディングスの会長なの?」
「悠真、お前、東雲家の婿になるところだったのかよ」
「なんで今まで知らなかったんだ?」
悠真から、その後の返信はなかった。
おそらくその日初めて、私が彼と花屋を開くために何を捨てたのか、本当の意味で理解したのだろう。
翌日、東雲ホールディングスは栞坂市北部の紫苑原で長年凍結されていた大型リゾート開発計画を再始動すると発表した。
プロジェクト名は――
『紫苑の丘』
広大なラベンダー畑を中心に、宿泊施設、ウェディング施設、温泉、フラワーアレンジメント体験、季節観光を組み合わせた複合型リゾートとして整備する。
その企画の原型になったのは、私がかつて花屋のために何度も徹夜しながら作り上げたプランだった。
昔は、それを悠真へ渡したかった。
今度は違う。
これは、私自身のものだ。
その頃から『Y&M ROSE』の経営は徐々に苦しくなっていった。
ピンクの薔薇を使った店は可愛らしいけれど、栞坂市には似たような写真映えを狙った花屋がいくらでもある。開店直後の話題性が落ち着くと客足は減り、仕入れた薔薇が売れ残る日が増えた。
悠真は何度も私へ連絡しようとしたらしい。
しかしLINEはブロック済み。
電話も繋がらない。
ついには東雲ホールディングスの本社まで来たものの、アポイントがないため受付より先へは入れなかった。
一方、美羽からはメールが届いた。
「杏奈、まだ私たちのこと怒ってるの?」
「悠真、この数日まともに食べても寝てもないみたい。すごくやつれてるよ。こんなふうにするの、もうやめてあげて。見てる私までつらいよ」
私は最後まで読み、秘書に転送した。
「顧問弁護士に回しておいて」
「今後、業務とは無関係な私的連絡を控えるよう正式に通知してもらって」
その夜、栞坂市内の企業関係者が集まるチャリティーガラへ出席した。
私は東雲ホールディングスの役員として会場中央にいた。一方、悠真はどこからか招待枠を手に入れ、小規模なフラワーサプライヤーの代表として会場へ入っていた。
何人もの経営者と挨拶を交わす私を、悠真は遠くからずっと見ていた。
あの時初めて、彼は理解したのかもしれない。
私たちの間には、すでに簡単には埋められない距離ができていることを。
やがて九条玲司がこちらへ歩いてきた。
九条家が率いる九条グループは、東雲ホールディングスに匹敵する規模を持つ総合商社グループだ。玲司自身も次代を担う経営者として注目されており、『紫苑の丘』の主要パートナー企業を代表してプロジェクトに参加していた。
何人もの関係者が次々と話しかけてきたが、私が少し疲れているのを察した玲司は自然に会話を引き取り、長引きそうな挨拶をうまく切り上げてくれた。
その時、悠真が意を決したようにこちらへ歩いてきた。
けれど私は玲司と並んだまま、そのすぐ横を通り過ぎた。
足を止めなかった。
視線さえ向けなかった。
背後から、小さな声が聞こえた。
「今の人、誰?」
「花関係の業者じゃない? 神谷さんに営業でもしたかったんじゃないかな」
悠真の足が止まった。
少し前まで、悠真と美羽の隣で、余計な人間のように立っていたのは私だった。
今度は彼の番だった。
6
『Y&M ROSE』の経営は日に日に悪化していった。
美羽は客が来ない、家賃が高い、在庫が余ると毎日のように不満を口にし、次第に悠真の能力まで責めるようになった。かつては「ロマンチック」と喜んでいたピンクの薔薇も、今では廃棄コストを増やすだけの存在になっていた。
同じ頃、『紫苑の丘』の第一弾コンセプトムービーが公開された。
既存の景観とCGによる完成イメージを組み合わせ、紫色の花畑、ガラス張りの温室、木の遊歩道、ラベンダーに囲まれた宿泊施設を次々と映し出す。
映像はSNSで大きな話題になり、先行予約ページが一時アクセス集中で繋がりにくくなるほどだった。
悠真がようやく私を捕まえたのは、その頃だった。
本社地下駐車場の出口で突然飛び出してきて、私の腕を掴んだ。
目は赤く充血している。
「杏奈、わざとやってるんだろ?」
「このラベンダーのプロジェクト、俺への復讐なんだろ?」
私は落ち着いて彼の手を外した。
「桐生さん、考えすぎです」
その呼び方を聞いた瞬間、悠真の顔から血の気が引いた。
「『紫苑の丘』は、社内で事業性を改めて検証したうえで再始動したプロジェクトです」
「それに、ラベンダーを捨てたのは――」
私は彼を見た。
「私じゃない。あなたでしょう」
悠真は突然すべての力を失ったように、その場で立ち尽くした。
何も言えなかった。
その日、家へ戻った悠真は物置を片っ端から探した。
やがて埃をかぶった段ボールの底から、古びた一冊のスケッチブックを見つけた。
どのページにも、少年時代の私たちが思い描いていたラベンダーの花屋が描かれている。
一ページ目には、
『A&Y LAVANDE』
最後のページには、十六歳だった悠真の文字が残されていた。
「大好きな杏奈へ」
「俺たちの夢は、絶対に叶う」
悠真は床に座ったまま、その文字を長い間見つめていた。
そんな彼を見て、美羽の中に溜まっていた嫉妬が一気に爆発した。物を投げ、悠真にまだ私を忘れられないのかと怒鳴り、二人は知り合って以来一番激しく言い争った。
以前なら、美羽が泣けば悠真はすぐに折れていただろう。
けれどその時は違った。
ただ、疲れていた。
喧嘩の後、共通の友人の一人が悠真を呼び出した。
しばらく迷った末、その人はスマートフォンに保存されていた写真を見せた。
「ずっと言おうか迷ってたんだけどさ」
「店のオープンの日、杏奈、病院から来たんだよ」
写真の私は、大きな病衣を着ていた。
顔色は真っ白で、手の甲には点滴の固定テープまで残っている。
悠真は写真を見たまま動かなかった。
そして思い出したのだろう。
あの日、自分が送った言葉を。
「この数日どこ行ってたんだよ?」
「明日オープンなのに、こんな時にどこほっつき歩いてるんだよ」
その夜から、悠真は何度も電話をかけてきた。
何度も。
何度も。
深夜になって、私はようやく電話に出た。
向こうは長い間黙っていた。
やがて、押し殺していた嗚咽が聞こえた。
「杏奈……ごめん」
「そんなにひどい状態だったなんて、知らなかった」
「俺が最低だった。全部、俺が悪かった」
「戻ってきてくれないか?」
「また昔みたいにやり直そう」
私はオフィスの窓際に立ち、遠くに広がる栞坂市の灯りを眺めていた。
心は驚くほど静かだった。
「悠真」
「今、謝ってるのは、あの時私が一人で病院にいたことを知ったから?」
「それとも、自分が失った相手が東雲ホールディングスの後継者だったって知ったから?」
電話の向こうから音が消えた。
私は答えを待たなかった。
「どっちでも、もう関係ないよ」
そう言って電話を切った。
今さら彼がどれだけ後悔しても、私にはもう何の意味もなかった。
7
どうしても悠真の気持ちを取り戻せないと悟った美羽は、今度はすべての怒りを私へ向けた。
Instagramや共通の友人が入るLINEグループに長文を投稿し、私が東雲家へ戻った途端、平凡な悠真を見下して捨てたのだと書いた。
さらに、東雲ホールディングスの資金力や人脈を利用して『Y&M ROSE』を潰そうとしている、とまで主張した。
事情を知らない人の中には、美羽を信じる者もいた。
金持ちになった途端に昔の恋人を捨てた。
権力を使って小さな店を潰そうとしている。
そんな言葉が並んだ。
私は公には何も反論しなかった。
代わりに、いくつかの資料を整理した。
一つ目。
花屋の開業準備資金として私が悠真へ貸し付けた五百万円の振込記録と、当時作成していた金銭消費貸借契約書。
二つ目。
私が高熱を出していた日に悠真と交わしたLINE。そして同じ時間帯にInstagramへ投稿された、美羽と悠真の写真。
三つ目。
『株式会社Y&M ROSE』の登記事項証明書。
代表取締役――桐生悠真。
取締役――白石美羽。
神谷杏奈の名前は、どこにもなかった。
そして会社の設立日は、私が別れを告げるより前だった。
それらが匿名で共通の友人グループへ送られると、数分間誰も発言しなかった。
その後、一気にメッセージが流れ始めた。
「店の金、ほとんど杏奈が出してたってこと?」
「彼女から金借りて店を作って、会社の役員は自分と彼女の親友?」
「しかもYumaとMiuでY&M?」
「これ、さすがに誤解じゃ済まないだろ」
美羽が何年もかけて築いてきた「優しくて控えめな女の子」という印象は、一晩で崩れた。
彼女を庇っていた人たちも、次々に投稿を削除した。
美羽は最後にはInstagramのコメント欄を閉鎖した。
それで終わりにはしなかった。
私は顧問弁護士を通じ、契約に基づいて貸付金五百万円と遅延損害金の返還を正式に請求した。
『Y&M ROSE』はすでに赤字続きだった。
その返済は、経営を終わらせる決定打になった。
ほどなく店は営業を終了し、設備も在庫も処分された。
何もかも失った美羽は、東雲ホールディングスの本社まで私を訪ねてきた。
泣きながら面会を求めた。
「杏奈、本当にごめんなさい」
「あなたはもう全部持ってるじゃない。どうしてそこまで私たちを追い詰めるの?」
私は上階の窓から、彼女を一度見ただけだった。
「警備の方に、お引き取りいただいて」
謝罪はいらなかった。
言い訳を聞くつもりもない。
悠真は借金を返すため、両親から残された小さなマンションを手放した。
長年乗っていた車も売った。
返済を終えた日、栞坂市には激しい雨が降っていた。
悠真は返済に関する書類を持ったまま、東雲ホールディングスの建物の前で一晩中立っていた。
まるであの日、雨の中に置き去りにされた私と同じことを自分に課しているようだった。
翌朝、出社した時も、まだそこにいた。
髪も服も濡れきっている。
顔は青白かった。
一台の黒い車が入口に止まった。
玲司が降りてきて私に傘を差し、温かいコーヒーを差し出した。
「今日は冷えるね」
「これ、持ってて」
彼は何も聞かなかった。
車のドアが閉まる。
雨音も、外に立つ悠真の青ざめた顔も、見えなくなった。
私は温かいカップを両手で包んだ。
そしてようやく気づいた。
過去は、本当に過去になり始めていた。
8
借金を返し終えた悠真は、栞坂市の中心部を離れた。
残ったわずかな金で郊外の小さな土地を借り、そこにラベンダーを植えた。
自分で壊してしまった約束を、今さら植え直そうとしていたのかもしれない。
けれど私は、もう必要としていなかった。
数か月後、『紫苑の丘』のプロジェクト発表会が開かれた。
玲司も九条グループの代表として登壇した。
正式な発表と質疑応答が終わった後、玲司は予定通り退場せず、報道陣の前で私を見た。
「今日のプロジェクトとは関係のない話を、一つだけしてもいいでしょうか」
会場が静かになる。
玲司は少し笑った。
「杏奈と知り合う前の私は、仕事で成功することが人生で一番大切だと思っていました」
「でも彼女と仕事をするようになって、一人で誰かに勝つことよりも、心から尊敬できる人と一緒に何かを作るほうが、ずっと価値があると知りました」
カメラのフラッシュが一斉に光った。
私は返事をしなかった。
否定もしなかった。
ただ、彼を見て笑った。
まさかその直後、会場入口で騒ぎが起きるとは誰も思っていなかった。
悠真が、咲き始めたラベンダーの鉢を抱えたまま警備を振り切り、会場へ入ってきた。
大勢の報道陣が見ている前で、彼は私の前に膝をついた。
「杏奈、俺が悪かった」
「本当に分かったんだ。俺が全部間違ってた」
彼は震える手でラベンダーを持ち上げた。
「見てくれよ」
「俺たちのラベンダーだ」
「ちゃんと咲かせたんだ」
「何でも返す。だから、もう一度だけチャンスをくれないか?」
会場が一気にざわめいた。
カメラがすべてこちらへ向く。
大手企業グループの後継者。
落ちぶれた元恋人。
公衆の面前での復縁懇願。
翌日の記事になるには、十分すぎる材料だった。
私はフラッシュの中を歩き、悠真の前まで行った。
震える手から鉢を受け取る。
悠真の目に、一瞬だけ希望が灯った。
けれど私は振り返り、その鉢を秘書へ渡した。
「きれいに咲いてますね」
「同じ品質の鉢植えの市場価格を調べて、一番高い相場で桐生さんに代金をお支払いしてください」
悠真の表情が凍りついた。
遅すぎた想いも。
後悔も。
最後に残っていた自尊心も。
その瞬間、一鉢の商品として値段がついた。
私は彼を見なかった。
壇上へ戻り、もう一度マイクを手にした。
「ラベンダーの花言葉のひとつに、『あなたを待っています』というものがあります」
少し間を置いた。
「子どもの頃、私もその言葉を信じていました」
「だから、本当に長い間待っていたんです」
会場が静かになった。
私は悠真を一度だけ見て、すぐに視線を外した。
「でも後になって分かりました」
「一人だけが同じ場所に立ち続ける関係なら、どれだけ待っても望んだ答えは返ってこない」
私は玲司を見た。
「今は、別の考え方のほうが好きです」
「花の香りは、自分から誰かのところへ歩いてはいきません」
「本当にその香りを知りたいなら、自分から近づけばいい」
私は玲司の隣へ歩いていき、その腕にそっと手を添えた。
「私はもう、何度も別の人を振り返る誰かを待ち続けるつもりはありません」
「今、私のそばにいる人は、私を一人の人間として尊重してくれる」
「一緒に未来へ歩いていきたいと思える人です」
玲司が私の手を握った。
会場から拍手が起きた。
悠真はまだ、その場に膝をついていた。
けれど、もう関係ない。
彼がどれだけ苦しんでも。
どれだけ後悔しても。
それはもう、私の人生の一部ではなかった。
9
あの発表会の後、美羽は栞坂市を離れた。
一連の騒動でそれまでの人間関係も崩れ、同じ業界で仕事を探すことも難しくなったらしい。結局、地元へ戻り、ごく普通の生活を送るようになった。
共通の友人によれば、今でも時々Instagramには写真を投稿しているという。
カフェ。
旅行。
花。
どの写真も丁寧に加工され、穏やかで幸せそうに見える。
ただし、コメント欄はいつも閉じられていた。
私はそれ以上聞かなかった。
悠真も、それきり私の前には現れなかった。
小さなラベンダー畑を守りながら、精油やドライフラワー、サシェなどを販売するオンラインショップを始めたという。
売上の一部は、地方の子どもたちの学習支援を行うNPOへ匿名で寄付しているらしい。
誰に見せるわけでもない、長い贖罪のようだった。
父は玲司をずいぶん気に入っていた。
『紫苑の丘』での協業が進むにつれ、九条家と東雲家の交流も増えた。やがて両家の顔合わせが行われ、その後、正式に結納の日取りまで決まった。
結納の前日、父に書斎へ呼ばれた。
長い間私を見つめた後、父は肩を軽く叩いた。
「杏奈」
「お前が悠真のために家を出ていった時、私は本当に腹が立った」
「でも今になって思えば、一度自分で外へ出なければ、本当に何が欲しいのか分からなかったのかもしれないな」
目の奥が少し熱くなった。
父は笑った。
「玲司君はいい男だ」
「ただ、それ以上に大事なのは、今のお前が自分の人生をちゃんと生きていることだ」
私は静かに頷いた。
結納を終えた夜、玲司はそのまま私を家へ送ろうとはしなかった。
車は月ヶ丘町の外れにある九条家の別邸へ向かった。
到着して顔を上げた瞬間、私は言葉を失った。
夜の闇の中、大きなガラス張りの温室が柔らかな灯りを放っている。
その周囲には、風に揺れる一面のラベンダー。
私はゆっくり中へ入った。
木製の長机。
窓辺の本棚。
紫色の花に囲まれた壁。
隅にあるアンティーク調の照明。
入口近くのフラワーラックの位置まで、高校時代にスケッチブックへ描いた店とほとんど同じだった。
私は振り返った。
「どうして、これを知ってるの?」
玲司は少し黙った後、笑った。
「実は俺、杏奈の高校の先輩なんだ」
「二つ上」
私は固まった。
遠い記憶の中に、ぼんやりと一人の姿が浮かぶ。
文化祭の日、講堂の入口で係をしていた先輩。
式典で壇上のマイクを調整していた人。
確かに、見たことがある。
玲司は私を見つめた。
「たぶん、杏奈は覚えてないよね」
「俺が初めて杏奈をちゃんと意識したのは、文化祭の開会式だった」
「クラス代表で講堂のステージに立って話してただろ?」
「その後、悠真とずっと一緒にいることも知ってた。彼のために東雲家から離れたことも」
玲司は少し間を置いた。
「あの頃の俺には、杏奈の人生に入っていく資格なんてなかったから」
彼は温室の奥から、小さな木箱を持ってきた。
蓋を開ける。
中には、何十枚もの古びた便箋が入っていた。
「高校の頃に書いたもの」
「一通も出してない」
私は一枚ずつ読んでいった。
大げさな愛の言葉は書かれていなかった。
私自身も忘れていたような、小さな出来事ばかりだった。
体育祭で走る方向を間違えたこと。
文化祭が終わった後、後輩たちと一緒に最後まで机を片づけていたこと。
放課後、ずっと鞄に入れていた手紙を渡そうと校門まで来たのに、悠真と並んで夕暮れの道を歩く私を見つけて、結局その手紙をまた鞄へ戻した日のこと。
読み進めるうち、文字が滲んでいった。
私が知らなかった時間の中で。
こんなふうに静かに、私を好きでいてくれた人がいた。
玲司は私の手を取り、温室の外へ連れ出した。
一面のラベンダーが、夜風に揺れていた。
その花畑の前で、玲司は片膝をついた。
小さなリングケースを開く。
「杏奈」
「俺は君の過去にはいなかった」
「だから、過去を埋め合わせてあげるなんて言うつもりもない」
彼はまっすぐ私を見上げた。
「聞きたいのは一つだけ」
「これからの人生を、俺と一緒に歩いてくれる?」
「結婚してください」
涙がこぼれた。
それでも私は笑っていた。
手を差し出す。
「はい」
薬指に指輪が通った瞬間、初めて知った。
涙は、悲しい時だけに流れるものではない。
結婚を控えたある夜、差出人のないメールが届いた。
長い文章だった。
数行読んだだけで、悠真からだと分かった。
少年時代のこと。
一緒に花屋を開こうと夢見ていた頃のこと。
いつの間にか美羽から頼られることを心地よく感じるようになったこと。
そして、私の存在も、私のしてくれることも、当たり前だと思うようになってしまったこと。
最後には、こう書かれていた。
「杏奈、幸せになって」
「許してくれなくていい」
「自分でも、一生許せないことをしたと思ってる」
「このラベンダーは、昔は杏奈のために植えた」
「でも今は、待つための花じゃない」
「自分が何を壊したのか、忘れないための花になった」
最後まで読んだ。
返信はしなかった。
静かに削除した。
そしてゴミ箱からも消した。
10
私と玲司の結婚式は、『紫苑の丘』で挙げることになった。
当日、丘一面のラベンダーが満開だった。真っ白なバージンロードが紫色の花畑をまっすぐ横切り、ガラス張りのチャペルまで続いている。
風が吹くたび、紫色の波が遠くまで広がった。
昔、何度も夢に描いた結婚式だった。
ただ一つ。
その先で待っている人だけが、昔想像していた相手とは違っていた。
悠真は来なかった。
式が始まる前、昔からの共通の友人が一つの木箱を持ってきた。
中には店舗の権利譲渡に関する書類と、一本の鍵が入っていた。
店名を見て、私はしばらく黙った。
『A&Y LAVANDE』
友人によると、悠真はラベンダー畑とオンラインショップで何年もかけて貯めた金を使い、栞坂市に小さな路面店を用意したらしい。
内装は、昔のスケッチブックに描いたものをそのまま再現していた。
「ずっと遅れてたプレゼントだって」
「これを杏奈に渡したら、栞坂を離れるって言ってたよ」
玲司も書類を見た。
怒ることはなかった。
ただ私の手を握った。
「杏奈が残したいなら、残していいよ」
私は首を横に振った。
「ううん」
「もう、いらない」
その後、店舗の権利は適正な価格で譲渡し、得られた金額は子どもの教育支援と、若い女性を対象にしたフラワーデザインの職業訓練事業へ全額寄付した。
昔のものを、無理に取り戻す必要はない。
誰かの新しい未来に変わるなら、そのほうがずっといい。
結婚式を終えた私と玲司は、新婚旅行へ出発した。
最初の目的地はフランスのプロヴァンス。
本物の、果てしなく続くラベンダー畑の中に立った時、昔の自分が少し可愛らしく思えた。
一種類の花に、あまりにも多くの意味を背負わせていた。
約束。
待つこと。
恋。
裏切り。
後悔。
でも結局。
花は、花だ。
咲けばきれい。
それだけでいい。
数年後、共通の友人から悠真の近況を偶然聞いた。
栞坂市を離れ、遠くの白波町という小さな海辺の町へ移ったらしい。
町外れに小さなラベンダー畑を作り、一階でハーブ製品を販売する小さな宿を営んでいるという。
結婚はしていないらしい。
私は一言だけ返した。
「そうなんだ」
それ以上は聞かなかった。
彼のこれからは、もう私の人生とは関係がない。
その後、私と玲司には双子が生まれた。
兄は薫。
妹は紫乃。
二人の名前を初めて聞いた時、私は少し驚いた。
玲司は娘を抱きながら、嬉しそうに笑った。
「薫は、花の香りの『薫』」
「紫乃は、あのラベンダーの紫を思い出せる名前にしたかった」
私は思わず笑った。
「結局、二人ともラベンダーなの?」
玲司は真面目な顔で頷く。
「でも、昔の約束とは関係ないよ」
「これは、俺たち家族の思い出だから」
よく晴れた午後。
私は二人の子どもと、別邸のラベンダー畑で遊んでいた。
紫乃が花の前にしゃがみ、小さな手で一房のラベンダーをそっと持ち上げる。
「ママ」
「どうしてママは、ラベンダーがそんなに好きなの?」
私は少しだけ黙った。
ちょうど玲司が後ろから歩いてきた。
楽しそうに私を見る。
「俺も聞きたい」
「どうして?」
私は風に揺れる紫色の花畑を見渡した。
ずっと昔。
一人の少年が教えてくれた。
ラベンダーには、「あなたを待っています」という花言葉があるのだと。
私は長い間、その言葉を信じていた。
本当に、ずっと待っていた。
でも今はもう、誰かが振り返ってくれるのを待つ必要はない。
私は娘の柔らかな髪を撫でた。
「きれいだからだよ」
玲司が一瞬目を丸くした。
それから、声を上げて笑った。
二人の子どもはもう蝶を追いかけて遠くへ走っている。笑い声が風に乗り、花畑の向こうから聞こえてきた。
玲司が後ろから私をそっと抱きしめる。
私はその胸に体を預け、陽の光に照らされた花畑を見ながら笑った。
かつては一生消えないと思っていた傷も、長く穏やかな日々の中で、いつの間にか薄い痕跡へ変わっていた。
大切にすべき愛は、一人だけが同じ場所に立ち、苦しみながら待ち続けるものではない。
花畑を越えて、自分からあなたのもとへ歩いてきてくれる人もいる。




