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ブレーキ

作者: 形凹

 満員電車の中に虫が入ってぶんぶんと飛び回っている。虫の姿はよく見えないが羽音の鬱陶しさから、そこそこの大きさを感じさせる。

 身動きの取れない車内で「頼むから自分のところには来ないでくれ」という心の声が充満しているようだ。

 ただ一匹、この中で生き生きと飛び回る虫は右に左へ、人から人へと人間の不自由が私の自由だと言わんばかりである。

 誰の体に触れようと、どんなことをしても、この状況で人は虫に対抗することができない。

 次の駅までの10分間、人はこの虫に弄ばれることが確定している。

 ダンッと誰かがヒールで床を踏みつける音がした。そのあとに虫の羽音が下から上に登っていく。その音の流れを聞いて、足に着いた虫を払おうとしたのだと誰もが理解した。

 しかし、これは悪手である。

 虫は好物を見つけたと言わんばかりにヒールを鳴らした彼女の上でとび続けることにした。

 ゆっくりと虫は上下を繰り返して、彼女の頭から順に羽音で舐めまわしていく。

 頭頂部から後頭部、首の後ろからまた頭の上に。彼女に近づいたり離れたりしながらも、決して肌には触れないよう執拗に羽音を鳴らす。

 羽音が上から下に降り続け、彼女の耳の周りを攻め始める。

 近づいて、離れて、横切って、また近づこうとしたとき彼女は頭をふるった。

 「チッ」

 周りの人に彼女の髪が当たって、その中の一人から舌打ちをされる。彼女はその音を聞いて大人しくなった。

 また虫が鬱陶しい羽音を彼女に聞かせ始める。

 近づいて、離れて、横切る。

 彼女はなぜ自分が狙われているのかを考え始めた。私が足を鳴らしたからだろうか。本当は軽く足を動かそうとしただけだったのに。バランスを崩して音が鳴ってしまっただけなのに。

 それとも、ほかの人のところに虫が行ってくれればいいなんて思ったからだろうか。もし自分以外の人に虫が行ってしまったら、その人が私と同じ苦しみを味わっていたのに。

 そう考えると、私が虫に狙われているのもいいのかもしれない。みんなが快適に過ごせるように仕事をしていると思えばいいのかもしれない。

 虫は彼女が考えている間、離れたところから様子をうかがっていた。彼女が諦めたのを悟ったように、また羽音を鳴らし始める。

 どうせ、ただの虫だ。害はない。ただ気持ち悪いだけ。

 羽音が横切って、近づいて、ぴたりと止んで、うなじにゾワゾワとした感触がうまれる。

 反射的に頭を振った。「ふざけんな」と隣の男が言った。無理だった。体を動かそうとしても周りの人の鬱陶しいものを見る目だけが返ってくる。

 虫はゾワゾワとした感触をうなじからどんどん前に広げてくる。左の首筋から鎖骨にきて、そのまま下の方に広がっていく。

 顎を下げるとそのまま潰してしまうのが気持ち悪くて上を向く。虫はそのまま胸の間を通って服の中に入っていく。

 ゾワゾワとなぶるように虫は進む。少しずつ下がっていって、ブラジャーを通り過ぎる。

 彼女は「んん」と泣きそうな声を出して周りを見た。そこにあったのは心配そうな表情でも、同情でもない。ただ「お前が犠牲になってくれれば俺たちは安心だ」という空気感がそこにあった。

 虫は彼女の臍まで到達している。ただの虫。害はない。気持ち悪いだけ。

 虫が前の人と自分のおなかに挟まれて潰れないように必死に力を籠める。人の熱気か緊張のせいか、彼女の体は汗だくになっている。

 虫がつぶれて、その体液が自分のおなかにべっとりと広がるいやな想像が膨らんでくる。いやだ。いやだ。

 上に上げていた腕を前の人の背中に当てて押し込んでいく。少しでも隙間が欲しい。

 力を入れれば入れるほど背中は反発してくる。前の人のイラついている感情と虫がつぶれる想像がどんどん大きくなる。

 彼女は音もたてずポロポロと涙を流す。

 いやだ。いやだ。いやだ。

 限界になった彼女の腕から力が弱まり、背中がおなかに当たった。ゾワゾワとした感触がぐっとお腹にめり込んで――虫は潰れずにぽたりと床に落ちていった。

 彼女はすっかり安堵した。電車を降りて、早く服の中を確認したい。あの虫が這いまわった部分をすぐにでも洗い流したい。

 上着の袖を使って涙をぬぐう。こんなことで泣いてしまうなんて。前の人にも申し訳ないことをした。それでも何とか乗り切った。

 そういう達成感が彼女にはあった。

『次は、くれはね。くれはね。お出口は右側です』

 聞きなじんだアナウンス。満員電車の中の殺伐とした雰囲気が和らいでいく。あと一分もしないうちに駅に着くだろう。

 彼女に対して冷たい感情を持っていた周りの人間も、少しだけ心配そうな視線を向けている。

 早く電車を降りたい。そう思った時に脛のあたりにソワソワとした感触があることに気づいた。

 彼女は軽く足を上げてトンッと振り下ろす。感触はなくならない。

 もう一度振り下ろす。感触はなくならない。でも何かが動く感じもしない。

 スカートが脛に当たっているだけだと思った。出入り口の掲示板を見る。「くれはね」という文字が光っている。もう少し。

 何となく。ソワソワとした感触がまだ上に登ってきているような気がする。

 足を上げて、降ろす。コロンと何かが落ちた音がする。

 ソワソワがゾワゾワに変わり、あの虫がついさっきまで這っていたことを実感させられる。

 お願いだから、もう私のところに来ないでくれ。

 虫が羽音を立ててスカートを飛び出した。一瞬にして虫の感触が消え、彼女には少しだけ余裕ができる。

 掲示板に目を向ける。『くれはね』という文字の横に、虫がとんでいる。

 大きさは大人の親指ほど。頭部とお尻が大きく、その間は細い。そして、その虫の頭部は真っ黒の水晶のようになっている。眼球も口も何もついていない。

 虫はこちらに腹を向ける形でその場をとび続け、腹に生えている無数の小さい触手を見せつけている。

 蝉でも蝿でも蟻でもない。見たことも聞いたこともない異常な虫。

 彼女は目が合っているような気がした。その虫が自分を見ているような気がした。

 虫は動かない。それでもその視線だけで今まで全身を這いまわったあの感触が何度も何度も体を駆け巡る。

 体中の産毛が逆立って冷や汗をだらだらと流し始める。

 視界の中で少しずつ虫が大きくなってきている。腹の触手がうねうねと動く様子がより鮮明になり、頭部の水晶には自分の姿が反射している。

 羽音が少しずつ大きくなっていく。

「い、嫌っ」

 自分の心の中にあるものが自然に漏れた。彼女の目からは涙がこぼれ始める。

 虫は彼女の視界から外れて、左の耳に近づいていく。

 彼女はその羽音から逃げるように頭を右に傾けようとする。

 動かない。体が動かない。

 羽音が近づく。どんどん大きくなる。

 耳のすぐそばもう数センチもないような近さで羽音が聞こえる。

 声も出せない。

 電車のブレーキがかかり始める。

 残り十秒もかからずにドアは開く。

 彼女の顔は涙でおおわれる。

 早く。早く。

 虫の腹に生えている触手が耳に絡みつく。

 羽音は鼓膜を貫くようになり続ける。

 彼女は足の間から小便を漏らした。

 惨めさより、足が濡れる不快感より、この羽音から逃れたい。 

 全身に力を入れ、どうにか動こうとする。

 電車が止まった。ドアが開くまでもう少し。

 虫が頭部の先を耳の穴にあてると、ぬめぬめとしていることがわかる。

 高速で動く羽の感触が耳から直接伝わるようになり、頭の中で羽の音と虫の感触が縦横無尽に駆け巡る。

 虫は触手と羽の力で耳の奥にどんどん進んでいく。

 頭が入り。体が入り。電車のドアが開くと同時に、その体を全部耳の中に収めた。

 乗客は次々に電車を降りていく。彼女は耳の穴から何かを垂らしつつ、電車の中から外側をぼーっと眺めている。

 「フフッ」

 耳の中から虫の感触は消えてなくなっていた。

 彼女が電車を降りると待っていた人たちが電車に乗り込む。濡れた床も、ひどい顔をした彼女のことも気にする人は1人もいなかった。

 彼女は電車の中で舌打ちをしてきた男の後ろをついていく。人を縫って、階段を上って、別のホームで電車が来るのを待つ。

 『間もなく、8番線にとこすがら行きがまいります。危ないですので黄色い線までお下がりください』

 前に立っている男は片足に体重をかけて、気だるげに携帯を眺めている。

 右側から電車の音が聞こえて、しばらくすると電車の姿も見え始める。

 彼女は男の後ろでボーっと背中を眺め、電車が彼女と男の前を通り過ぎるとき、その男の背中を蹴り飛ばした。

 急ブレーキと、人がひしゃげる音でホームはいっぱいになった。

 緊急停止ボタンの煩わしい音と人のざわめき、そして彼女のバクバクという心臓の音は、耳の中にいる虫の羽音ととても良く似ているものだった。

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