ノストラダムスの大予言とシミュレーション仮説
その昔、「ノストラダムスの大予言(初刊1973年)」というのが、ブームになった。
1999年7月に「恐怖の大王」が訪れ、人類は滅亡する。―― とかなんとか。当時の若者の中には「どうせ人類は滅亡するのだから、頑張って生きても無駄」と考え、丁寧に生きるのをやめてしまった人間もいたという。結果、大王は訪れず、彼らは見事に人生設計に失敗し、その代償を払うこととなった。
今年の7月、大災害が訪れ、日本は壊滅的な被害に遭う、という話があった。フィリピン海溝で未曽有の海底爆発が起こり、大津波が日本にも押し寄せる、という例のあれだ。7月の終わりには、カムチャッカ半島で大地震があったが、日本には、ちょうど対角で真逆の位置での地震であった。
実は「ノストラダムスの大予言」には、裏話がある。
それは、訳者の好き放題の「意訳」である。
「ノストラダムスの大予言」は、ルバイヤートと同じく、四行詩で出来ている。古いフランス語にラテン語が混ざった、抽象的で曖昧な、多義的な百篇の詩。具体的な年号や事件が、明確に記載されているケースは稀で、そのほとんどが「どうとでもとれる」言葉の羅列。
ノストラダムスは、医師にして占星術師でもあったが、母国フランスよりも、日本での知名度の方が高いという、歪な予言者(予言的詩人)だ。訳者である五島の「二次創作」が、原作を超え、当時の日本人たちを夢中にさせた。というのが、実態であった。
「シミュレーション仮説」
高度な文明が作り出した、現実との区別がつかない仮想空間。そこで我々は生きている、という仮説。
現実と区別のつかないシミュレーションが存在すれば、その数だけ、この宇宙は存在することとなり、我々が本物の現実を生きている可能性は、極めて低くなる。とかなんとか。
オクスフォード大学の哲学者、ニック・ボストロムが2003年に発表した論文。物理学的な領域から来る仮説ではなく、哲学者の思考実験から生まれた仮説だが、これが大いに受け入れられた。何かに似た匂いを放ちながら。
「この世界は、しょせんシミュレーションなのだから、真剣に生きても意味がない」
ノストラダムスの次の「自己免罪符」としての利用。
そもそも、ここでいう「現実」とは、いったい何だろうか?
現実との区別がつかない仮想空間に我々がいるとした場合、我々は「仮想空間の外の真の現実」を知らない。我々にとっての現実とは、この「仮想空間上における感覚」に過ぎない。
だとすれば、我々にとっての現実は、この空間以上のものではない。仮想空間の外の現実こそが、現状では「仮想の空間」に他ならないのだから。
こんな馬鹿みたいに言葉遊びに乗っかるのも、「何かのせいにして、自分の怠惰を赦す」ための利用の心理が、少なからず、そこにはあるのだろう。「こんな現実。現実と認めてなるものか」「悪いのは私じゃない。間違っているのは、この世界の方なのだ」とかなんとか。
もしも、この世界がシミュレーションの中の世界だというのならば、何としてでも、チートコードを見つけ、この世界を改変してみたいものである。
虚無的思考の免罪符は、自分自身の足元にしか落ちていない。自分の外に、理由を探す行為自体が、もはや虚無とは言えない。この世界を否定しながら、その世界に答えを求めるという行為は、二律背反に他ならない。
他責思考は、問題の先送りに他ならない。
けっきょく、必要以上の利息と共に、多重債務者になるだけだ。