綱の上
「森さんは、そろそろ結婚しないの?子供欲しくないの?」
頭のてっぺんが少し薄い中年男性に、事もなさげに聞かれた。多分、若い頃はもてていたんだろうなと思われる顔立ちをしている。目がきょろっとしていて人中が長く、ほのかに猿のような顔立ちだ。若い頃は、サッカー部に所属していたらしい。先日、噂好きのパート主婦沼田さんから聞いた。周囲に誰もいないことを確認して、私は答えた。
「ええっ!急に、どうしてですか。」
わざとおどけたように答える。よかった、そういえば今は昼休みなので、隣の席の同僚はランチに出て行っているようだ。
「いやいや、森さん、彼氏いるんでしょ?この前、沼田さんから聞いたよー?結構長いの?彼氏、結婚したがってるんじゃないの?子供を産むのは早いほうがいいよ。俺は結婚したの、24の時だったからなあ。」
コンビニで買ったと思われる、クリームのかかった甘そうな長いパンをかじりながら猿男が続ける。ああ、もうこれ以上この話題は触れてほしくないのに。焦りで掌から湧き出る汗と、鉛みたいに重くなってきた心臓をふりしぼって、数秒考える。これは、正直な理由を答えるところ?それとも、適当な理由であしらうべき?数秒迷って、半分ずつで答えることにした。
「結婚はしたくないですねえ….結婚したら何か変わるんでしょうか?それに、子どもも欲しいと思いません。お金も時間もないですし....」
困ったような口調で答えると、猿男は困っていることなど意にも介さず、私にこう言った。
「そうなの?好きな人と結婚することが幸せじゃないの?お金がないのは、言い訳だよ。俺らの時代もお金なんて全くなかったけど、なんとかなるもんだよ。」
大きな目をぱちくりさせながら、そんな風に言われた。もう私はこれ以上この人に何か言っても無駄だと思い、ちょうど昼休みが終わったのをいいことに、仕事に忙しいふりをしてパソコンに向かった。
社会人になって、ちゃんと見始めたニュースの記事には毎日毎日、心臓がどんよりするような重たいニュースばかりが流れている。高齢者の運転による交通事故、上がり続ける税金、異常気象....中でも目を引いてしまうのは、少子化。1度目を通すと同じような記事が出てくるような仕組みになっているのか、私のマイページには毎日少子化のニュースが出てくる。少子化のニュースが出てくるたびに、記者や世の中の人々から煽られている気持ちになる。
『結婚して、子ども(未来の納税者)を産んで、働いて、税金を納めろ。』
見るたびに、見るたびに。世間の見えない圧力に押しつぶされそうになる。今日もコメント欄で議論が巻き起こっている。
『今の若者は娯楽で溢れているから、恋愛に興味がないんだ』
『給料は私たちよりもらっているはずなのに。若者にお金を配るのはおかしい。自分たちは氷河期世代で、自分たちの時代は....』
『甘やかされて、忍耐力がないせいで少子化が進んでいる。』
自分、自分、自分.........
自分のことしか考えてない、様々な年代からの推測が飛び交っている。皆自分が正しいと思って生きているので、仕方がないことなのかもしれない。社会に出てから、自分と違う意見に耳を傾けようとする者など、この世界にはほとんどいないことを知った。一度彼氏にこのことを話そうとしたら、スマホを見ながら面倒くさそうにあしらわれたので、それ以来、もう二度と彼氏にネガティブな話はしないようにしている。
満員電車の中で黙ってやり過ごし、電車に揺られること40分。20時、帰宅すると何もする気が起きず、地べたに横たわる。1時間後にやっと起き上がり、21時に夕食だ。自炊を心掛けてはいるけれど、もうこの時間から何かを作る気は起きない。昨日の残り物の味噌汁と、冷凍の餃子を解凍してyoutubeを観ながら黙々と食べる。一人暮らしを始めて3年になるけれど、これ以上ないほど快適だ。
『こんにちは!ミキです!今日は、私のGRWM(Get Ready With Me)を紹介しま~す。』
見始めてかれこれ4年目になる、お気に入りのyoutuberミキさん。社会人になってめっきり友人と会うこともなくなり、今ではyoutubeが友達のようになっている。面倒なプレゼント交換もしなくていいし、交際費も掛からない。有益な情報を教えてくれる。楽しい気持ちになれる。まるで友達と過ごしているような気持ちになれる。会うのに時間とお金がかかり、たまにあっても私のことなんて興味がなさそうで、自慢ばかり聞かされる友達よりも、画面越しに癒されているほうがいいと思ってしまう私は、他人に話せば寂しい人間にみられるかもしれない。でも1日働いてもう何も体力も気力も残っていない私にとっては、その方が都合がいいのだ。きっとyoutuberにとっても。
次の日、また猿男に聞かれた。
「森さんは、結婚しないの?子どもは欲しくないの?」
……もう昨日の会話を忘れたのだろうか?猿男の顔は、眠ったら前の日の嫌なことはすっきり忘れている子どもみたいに、無垢な顔だった。私は混乱した。
だったらどうすればこの話題を撒けるだろうか。
たとえば「子どもが嫌いなんです」と言えば、なんでなんでと聞かれる。
たとえば「体があまり丈夫ではないので」と言えば、きっと知り合いのおすすめの病院を紹介される。
たとえば「その話、あまりしたくないです」と正直に言えば、空気をさっと悪くする。
——結局、何を言っても面倒なやり取りが待っている。
だったら、私がこれ以上会話をしたくなくなるような“面倒な人”になってしまえばいい。
「そうなんです。実は私は母子家庭で、母が一人で大変な思いをして育ててくれたのを見ていたので、私は結婚したくないんです。だって離婚したら女性がいろいろ大変になるから。」
少しだけ目を伏せて、苦笑を混ぜながら言った。
なるべく、“触れてはいけない過去”があるように見せるように。
心の中では、ため息が渦巻いていたけれど、表面だけを整えた。
すると猿男はまたおどけたように大きな目をぱちくりさせて、
「そうなの。じゃあ、なおさらお母さんに、親孝行しないとね。」
とだけ言った。
この人に何を言っても、伝わらないんだと思った。
それは別に、この人が悪いわけじゃない。
わたしが話そうとすることは、たいてい、誰にも伝わらなかった。
だから私は、あまり喋らなくなった。
心の中の声を、誰にも気づかれないように寝かせておくのが、世界で一番安全だった。
どんなに長い時間をかけて一緒に過ごしても、その人を変えようと思っても、変わらないということを私はすでに嫌という程学んでいた。
なので猿男とまともなコミュニケーションをとることを、この時に私は、諦めた。




