美談なトラウマ
7月16日(火)はれのちくもり
今日から午前授業になった
さっさと夏休みになってくれればいいのに
家に帰ってからは勉強
数学を中心にやったけど、やっぱり理科より点数の伸びが悪い
夜ご飯は久しぶりに外食してステーキを食べた
おいしかった
*
わたしは一人っ子で、小さい頃に家でやるあそびといったらおままごとか読書だったけれど、一時期──小二くらいだったか、隣に高校生のお兄ちゃんが越してきたときはしばらくお兄ちゃんの家に入り浸ってテレビゲームで遊んでいた。
キャラクターを操作し、画面の左から右に向かってゴールさせるゲーム。オートセーブだからステージをクリアするたびにそこまでのデータが保存されるのだけど、一度だけ、保存前にデータがパアになったことがあった。
苦労してやったステージのゴール目前の出来事だった。お兄ちゃんが母親と口喧嘩を始めたのだ。
どんな理由で喧嘩になったかはもう忘れてしまったけれど、とにかく雷が落ちたんじゃないかと思うほどの激しい応酬で、喧嘩が最高潮に達するとついにおばさんがゲームの電源をコンセントから引っこ抜いてしまった。
電源を入れ直すと、前回のセーブポイントまで戻っていた。
たぶん、わたしに起こっている現象はそれに近いのだと思う。
寝て起きたら前日の朝にタイムリープし、そのリープがループ状態にある。どういう原理かわからないけれど、毎日のはじまりにセーブポイントがあって、一日が終わると電源が引っこ抜かれて最新のセーブポイントごとデータが消える。リセットしたらその前のセーブポイントから復活する。ざっとこういう状況だと思う。
するとゴールはどこにあるのだろう。
仮にどこまでも戻っていくとして、ゲームデータなら工場出荷時の状態。人生だと、誕生したまさにその日?
想像しただけで恐ろしすぎる。精神を保ったまま赤ん坊になって死んでいくとか普通に死ぬより怖い。どう頑張ったってバッドエンドにしかならない。新しい処刑方法ですかって話だ。想像したくもない。
ただ、そんな十数年後の未来を真面目に考えるのはもう少し先でいい。
危惧するべきことが身近に差し迫ってきている今、この現象の行く末を後回しにしてでも考えなければならない問題がある。
七月十六日火曜日。一学期最後の七月十九日を一日目とするなら、今日はタイムリープして四日目。
ああこれはただのタイムリープじゃない。ループでもない。日付を逆行しているんだ、と気づいてからというものわたしの心がじわりじわりストレスに冒されている。
歩く足取りは鉄球が括りつけられているんじゃないかと錯覚してしまうほど重いし、頭はお辞儀しているのかってくらい低いし、手はチンパンジー並みにだらんと垂れていて、おかげで背中は猫背。イラストにしたら顔に縦線を書かれて「ズーン」と効果音を入れられていることだろう。
それもこれも全部、魔の金曜日が迫っているせいだ。
「どーんっ!」
唐突な重力に押し潰されそうになったのは、学校の廊下をあてもなく歩いているときだった。大砲を打つ音を無理やり口で真似たような声と共に何かがのしかかってきて、危うくこの若さでぎっくり腰デビューするところだった。
「あっれー、どしたの? なんか見るたびにやつれていってない?」
わたしのひどく崩れた表情を見て言う。乗っかってきたのは宮島さんだった。
ここ数日で宮島さんへの苦手意識は克服できたものの、この行動力はどうにかしてほしい。
「ちょっと過去に絶望してまして……」
「過去? 未来じゃなくて?……あっ、そんなことよりさ」
そんなことよりとは失敬な。
「もうすぐアレだよ!」
「?」
「またできるなんてサイコーだよね! ちょー楽しみ!」
「アレって……」
まさか。
「わかんない? 決まってるじゃん、球技大会だよ!」
うっわー……こっわー……。笑顔でなに言っちゃってんのこの子信じらんない。
わたしがチンパンジーになってまで憂鬱を隠さない理由がまさにそれなんですが?
期末試験が終わって進路が現実味を帯びてくる夏休み前、唯一の楽しい楽しい学校行事──球技大会。なお、校内清掃は除く。
バスケやらバレーボールやらの球を使ったあそびをクラス対抗で真剣に争う、一部の人間だけが活躍し楽しむ格差的……コホン。懇親的な行事が、まさに四日後の七月十二日金曜日に行われようとしている。
体育祭に比べたらまだ平等ではあるかもしれない。
でも、テニスや卓球が種目にないあたり、団体競技特有の素晴らしき協調性を身につけようという魂胆が丸見えで気持ちわる……どうかと思う。
せめて個人競技にしてくれれば……。
個人競技なら足手まといにならないから勝つも負けるも自己責任で済むのに。
本職──毎日部活で該当競技をやっている人と、素人──体育でしか経験したことがない人が交ざる団体競技なんて、助け合いという甘美な響きに隠れてたくさんの小競り合いがあるんだ。それから目を逸らして美談で済ませるのは欺瞞以外の何ものでもない。
わたし、球技大会に関しては親の仇かってくらいなじられる。
特に今年の球技大会は。
「どーしてそんなに嫌なの? 球技大会楽しかったじゃん! 特に今年は最後の球技大会だったから、ドラマもたくさんあって良い思い出だよ」
これだから根明は。
活躍し英雄として称えられた側の人間に起こったドラマは、そりゃあ良い思い出でしょう。こちとら出くわしたドラマは最悪のハプニングだったよ。感動も何もない。あったのはシラけ、ただそれだけ。
「可奈、せっかくだから今度は違う種目に飛び入り参加しよっかなって思ってるんだ。ソフトにも出たかったんだよねえ」
「わたしは休む」
「えっ! なんで!?」
「出たくない」
「なんでなんで? 運動嫌いだから?」
「それもあるけど……」
思い出したくもない。思い出しただけで自分に腸が煮えくり返る。
それはそう……ひと言で言えば、トラウマだ。
球技大会は、男女別で一人一種目以上に必ず出場しないといけない。女子の種目はバレーボール、ソフトボール、ドッジボールの三つ。うちのクラスは個人の希望制で出場種目を決めていって、わたしはソフトボールを希望した。
バレーボールは論外。協調性の権化みたいな種目は、いつもクラスをまとめている人たちがやればいい。宮島さんのような。
ドッジボールとソフトボールの二択だったら、なるべく体力を使わず個人競技に近いソフトボールのほうがいいと思った。打順は後ろで、守備は外野手。球技大会程度なら大きなフライが来ることはそうそうないし、「ソフトボール部は投手禁止」ルールがあるから速い球を捌かなくていい。
とまあ、結果から見れば、わたしは高を括っていた。
クラスに一人ソフトボール部の子がいて、それが運の尽きだった。わたしのクラス、三年二組はリーグ戦を勝ち抜いて、不運にも準決勝まで駒を進めてしまったのだ。
それまでは順調に黒子に徹していたわたし。大きなミスをすることもなく自分の役割を全うしていた……と思う。
しかし、事件はその準決勝で起こった。
三年二組VS三年四組。五回制の四回表、守備。ツーアウト、ワンストライク、走者なし。バッターはテニス部の元部長で、引退してもなお残る日焼けが特徴の子だった。
一球目をフルスイングで空振った彼女は、二球目でバッドに当てた。その球は大きく空に弧を描き、きれいなフライを校庭という名の球場に作ってみせた。
あのときの感情はよく憶えている。
敵でありながら「ホームランになれ」と強く願った。
フライのボールは、外野の右を守る人──つまりはわたし目がけて落ちてきた。
一ミリも動く必要のないドンピシャの位置。プロの試合だったら余裕のアウトで交代に湧き上がることでしょう。しかし残念ながらこれは素人集団の試合。そして、そのフライを受けるのはしがない天文科学部員。
落ちてきた球を、一応、気合い(重大な責任感)でグラブに当ててやった。
が、球はグラブの先端で弾かれて、見上げていたわたしの顔面にクリーンヒットした。
一度グラブに当てたことで衝撃を和らげ命拾いした──のかもしれないけれど、今にして思えば無理してフライを捕ろうとせず地面に落としてから捕ったほうがよかった。体育で「二」を取ったことがある自分の才のなさを、今一度改めるべきだった。
わたしの顔面にヒットしたボールはコテッと地面に落ち、そして、わたしはその場に蹲った。
どっちの応援かわからない「ワァーッ!」という盛り上がりが耳を劈く中で、鼻の辺りにたらりと生温いものを感じ取った。
センターを守っていた子は駆け寄ってくるなり、鼻を押さえながら顔を上げたわたしを見てぎくりとした。片手では受けきれないほどのぬめりとした赤い液体が溢れていたからだ。
その後、プレーがどうなったのかは今でも知らない。試合は負けたらしい。
「ああ! そーいえばソフトで鼻血出した子がいるって聞いた。可奈、そのときバスケの試合観てたから知らなかったけど、鼻血出した子って久保さんだったんだ!」
そうだよ、わたしだよ。準決勝という見学者の多い試合で鼻血を出して途中退場した笑い者がわたしだよ。
おかげでクラスメイトには同情され、一部の空気を弄ぶ連中からはネタにされた。
しかも、保健室に行く道中で清沢先生と出くわして鼻血姿を見られちゃったし……。
うわああああああああああああ! 思い出しただけで死にたい!
そのときの記憶だけマジで無くなってほしい!
「トラウマかあ」と、露骨に腕を組む宮島さん。何を言うかと思えば、
「んじゃ、むしろやり直すべきじゃない?」
鬼畜なことを言いだす。
やり直すとは、トラウマをやり直せと?
「せっかくタイムリープしてるんだから、やり直してそのトラウマを良い思い出に変えちゃおーよ!」
あはは、なんかこの子おもしろいこと言いだした。……冗談でしょ?
「トラウマを乗り越える。これこそ神より与えられし力の使い道だよ」
大げさに手を広げて大層バカなことを口にする。宮島さんに何が乗り移っているのでしょう。
「絶対やだ」
「なんで?」
「トラウマを克服したいとかじゃない。もう二度とあの場に立ちたくないの」
思い出しただけで死にたくなるレベルのトラウマなんだよ。そんなトラウマを抱えた状態で、もう一度あの場に立てるとは思えない。というか、立ちたくない。
そうなるとわかっているなら回避すればいいだけ。出なければいい。
タイムリープってのは本来そういう使い方をするんだよ、きっと。
「でも、久保さんはそれでいいの?」
宮島さんがじっと見てくる。
「なにが?」
「休むっていっても前の日に連絡は入れられないよね。てことは、当日ドタキャンするってことじゃんね」
「そ、そうだね……」
「クラスメイトに迷惑かけてもいいの?」
「…………」
痛いところを一切の狂いなく突いてくる。
事前に休みの連絡を入れようとすると、どうしたって当日の朝にならないと入れられない。
仮に当日の朝に連絡を入れて休んだとして、わたしが休むことで開く穴は他の種目に出場するクラスメイトの誰かに埋めてもらわなければならない。一種目以上に出場が必須のルールは複数種目に出る人がいるのが前提のルールだけど、急遽となれば負担になってしまう。
三か月前に偶然同じ組になったクラスメイトに情はない。
だからといって、負い目を感じないと言えば嘘になる。
「可奈が特訓してあげる! 特訓して自信がつけば、トラウマなんて乗り越えられるよ!」
宮島さんのどんぐり眼がやる気に満ちている。
悲しくなるくらい無垢な目が……。
ああ、嫌になる。
多少の負い目に目を瞑れないわたしも、楽しいを信じて疑わない宮島さんも。