時間と等価交換
「ええ、どーしたの? 可奈、告白でもされちゃう感じ? ええ、どーしよお」
四階から屋上へ続く階段の踊り場に引っ張り込むと、宮島さんは冗談を言って照れたふうな笑みを取り繕った。わたしはきっと、わかりやすくむすっとした表情を作っていることだろう。すぐに「ごめんごめん」と軽い謝罪が返ってきた。
「そんなことより、タイムスリップ!」
迫りながら話を切り出す。
その不親切な単語だけでよく理解できたなと思う。宮島さんの瞳孔がぱっと開かれた。
「ねっ! びっくりだよね! 朝起きたらまた日付が戻ってるんだもん。やっぱり久保さんも戻ってたんだあ。でも、よくジャージ忘れなかったね。可奈、今日が校内清掃日だってすっかり忘れてたよ」
「うんまあ、それは……」
遅刻してまで家に戻ったなんて言えない……。
「でもさあ、どーいうことだろう。ループでもないってことだよね」
わたしは首を振る。
「わからない。調べたらタイムリープって言葉もあるらしいけど」
「タイムリープ?」
さっきスマホで調べたタイムリープの意味を大雑把に説明した。
「聞いたことある! んー、でも……」
宮島さんが言わんとしていることと、わたしが考えていることはたぶん同じだ。
「うん。タイムリープでも説明がつかない」
意識だけ時間を超えているならこの状況はタイムリープと言える。ただ、日付が戻る根本的な原因はわからずじまいだから、その言葉だけでは説明不足に感じる。
「でもまさか、十八日に戻るなんて思ってなかった。もっと真剣に考えないといけなかった」
壁に手をついて項垂れる。
決して楽観視していたわけではないけれど、というか宮島さんがあまりに楽観的だったからわたしくらいは真面目に考えないと、という気負いを持っていたはずなのに、いつの間にか宮島さんの気楽さに充てられていた。
宮島さんがパンッと手を叩いたことで我に返る。
「まっ、なるよーになるさ」
「なるようにならなかったから戻っちゃったんじゃないの?」
「んー……じゃあ、とりま今日のことを考えよう! 昨日は置いといて」縦に並べた手を横に移す動作をとる宮島さん。「今日どうすればいいか」
よくよく考えれば普通の発言だけど、宮島さんが言うと前向きな言葉に感じるから不思議だ。
「どうするの?」
聞き返すと、宮島さんは腕を組んだ。
「昨日は一度目と同じように過ごしたから、そーだな……今日は一度目と違う一日を過ごすとか」
「つまり?」
「つまり、過去を変える!」
注目を集めるようにわざわざ人差し指を立てて言った。
果たして昨日――七月十九日を一度目と同じように過ごせたかは真偽の余地があるけれど、この際置いておいて。何もしなかったことで日付を越せなかったのなら、次はもとの時間軸に戻れる方法を片っ端から試していくしかない。
こんな、一日を犠牲にしての大実験……時間を無駄にしているようにしか思えない。もどかしくもあるけれど、トライ&エラーが実験の基本ならそうするしかない。
「そうだね、過去を変える。でも、何を? 変えようと思えばなんだって変えられる。こうして掃除をサボり続けても過去は変わるよね」
「たしかに! 過去は変えられないっていうけど、案外、簡単に変えられるもんだね」
注釈は必要だけど。ただし、タイムスリップした場合に限る、とかね。
「どうせ変えるなら大きな出来事がいいかもしれない。時間を変えようとしてるんだから、等価の出来事じゃないと」
「おっきなねえ……。何かあったかなあ」
宮島さんが指先をこめかみに添えて思考を始めた。
わたしも思い返してみる。
「七月十八日……木曜日……校内清掃……」
「校内、清掃…………」
「「!」」
二人のひらめきが重なる。
そして、張り上げた声も重なった。
「うさぎの脱走!」
そうだ。七月十八日のニュースといったらそれしかない!
「いま何時!?」
訊きながら自分のポケットを弄る。ポケットには数日前に利用したコンビニのレシートしか入っていなかった。スマホはバッグに入れたままだ。
どうやら宮島さんも持っていないらしい。
「わかんない。スマホ置いてきちゃった。あっ、教室の時計で確認できる!」
わたしたちは階段を滑るように駆け下りて、一番近い教室のドアを開けた。
校内全域で一斉清掃を行っているため、授業数が少なくてほぼ空き部屋と化しているような教室にも生徒がいる。ここ――物理講義室にも。
宮島さんがあまりに勢いよくドアを開けたもんだから、物理講義室を担当しているどこかのクラスの人たちが、事前に示し合わせていたのかと勘ぐってしまうようなシンクロ具合でこっちを見た。
うわあ……めちゃくちゃ注目浴びちゃってる……。恥ずかしい……。
「九時五十分。うさぎが脱走したのって何時だっけ?」
宮島さんの辞書には恥じらいが欠けているらしい。多数の視線を跳ね除けて時計を確認する。
「わたしの耳に入ったときは十時半を過ぎてたと思うけど……ていうかドア、閉めて。失礼しましたあ……」
わたしはそそくさとドアを閉めた。宮島さんが有名になる必然性を今、身をもって思い知った気がする。
当の本人は何事もなかったかのように話を続けた。
「可奈が知ったのは、掃除が始まって一時間は経ってたかな。だから十時過ぎくらいだと思う。校長センセーが追いかけっこしてるのを見て、それで可奈も加わったの」
「ということは」十時にうさぎが脱走したと仮定して、今が九時五十分。「まだ間に合うかもしれない」
「レッツゴー!」
宮島さんが手をグーにして前に突き出す。
わたしたちは地面を蹴るようにして走りだした。
うちの高校には飼育小屋がある。
感染症や劣悪な飼育環境などの問題から小学校ですらその数を減らしているのに、農業系でもない普通の高校にそれがあるのはけっこう珍しいのではないだろうか。
どうしてあるのかは知らない。いつからあるのかも、飼育小屋が建った当初にどんな動物を飼っていたのかも知らない。でも、「生物部の歴史に飼育小屋あり」と言われるほど古くからあるらしい。
飼育小屋の管理は、おもに校長先生と生物部がしている。
管理――つまり、鍵を持ち出せるのが校長先生と生物部の管理職レベルの生徒(部長や副部長)、それと理科の先生たち。それ以外は、近寄ることはできてもドアの開け閉めができないので、許可なしに触れることも餌を与えることも禁じられている。
徹底した管理下に存在する飼育小屋。事件はそこで起こった。
──なんかうさぎが脱走したらしいよ。それで先生たちが追いかけっこしてる。
階段を一段一段、雑巾で磨いていたわたしへの第一報がそれだった。どうやら飼育小屋からうさぎが脱走したらしい。それも、飼っているうさぎ六羽全部。
階段の窓から外を覗いたら、軽く林と化している校舎裏を捕獲網振りかざしながら先生たちが走り回っていた。
生徒も何人か加わっての捜査網は夕方まで敷かれたという。
その後伝え聞いた話によると、校長先生がすぐ戻るからと鍵をかけ忘れたのが原因だったらしい。システムはでき上がっていても、ヒューマンエラーが起こったらどうしようもない。起こることを想定していても起こってしまうのがヒューマンエラーなのだから。
では、前もってどんなエラーが起こるかわかっていればどうだろう。「想定」ではなく「把握」していれば。
だからわたしたちは飼育小屋に走る。うさぎが脱走する前に──できれば校長先生が鍵をかけ忘れる前に、エラーを防いだら万事解決だ。
飼育小屋に到着した。小屋にはうさぎの他に鳥もいるけれど、鳥側のドアはきちんと鍵がかかっている。問題はうさぎ側。小屋のドアは……わずかな隙間を作っていた。
「うわっ! 開いてるよ!」
「間に合わなかった?」
とりあえず、二重になっているドアの外側を閉める。
閉めてから中のうさぎを確認。一、二、三、四、五……。もう一度、数えてみよう。
「一、二、三、四、五……」
「五匹しかいない! 一匹逃げちゃってる!」
宮島さんが焦りに声を荒らげた。
わたしの数え間違いではなかったらしい。
「探そう」
「そだね! あ、でもどーしよ。鍵かけないとドア開いちゃう?」
ドアを押さえるわたしに宮島さんが問いかけてきた。
鍵はかんぬきに南京錠を差し込むタイプのもの。よくあるステンレスのかんぬきだ。穴に挿す。南京錠はなくてもこうしておけば、ひとまずドアが勝手に開く心配はない。これがしっかり刺さっていなかったから開いてしまったのだろう。
「大丈夫みたい」
「よし、探しに行こ! いなくなったのは……茶色の子だよ。耳が短い子」
宮島さんは残ったうさぎから、いなくなったのがどんな特徴を持ったうさぎかを割り出した。さすが捜査網に参加しただけある。
校舎裏の庭に逃げ込んだと仮定して、その情報を頼りに探しに向かった。