地味な大掃除
タイムスリップとタイムリープは違うものらしい。
もっと言えば、タイムスリップもタイムリープもタイムトラベルもタイムワープも同じ時間移動なのに、状況によって使い分けられるらしい。
ブラウザの検索バーに「タイムスリップ」と入力して検索すると、上部に辞書サイトとかそれっぽい説明をした記事とかが出てきて、下へ下へと画面を滑らせるとだんだんタイムスリップものの小説や漫画、アニメなどの公式サイトのリンクページに画面が支配されていった。
思いのほかヒットした。だけど、定義はそれほど厳密には決まっていないらしく、タイムスリップで検索しているのにタイムトラベルの説明が出てくるほど無秩序な場所だった。わかったのは、結局のところ呼び方の満足感の差なのではないかということくらい。
ただ、タイムスリップは「偶発的な事故で時間移動する」「自身の体ごと時間移動する」、タイムリープは「自らの能力で時間跳躍する」「自分の意識のみ時間跳躍する」といった意味で使われやすいらしい。
廊下を駆けながらわたしは、そんな検索結果の画面に絶望した。
校舎の三階廊下には雑巾や箒を持った生徒たちがうろついている。すでに掃除が始まっているらしい。スマートフォンをトートバッグに入れて――とその前に、再度日付を確認する。
7月18日 木曜日
何度見たって変わらない。あわよくば夏休み初日を、無理でも終業式の日を迎えるだろうと思い目が覚めた今日は、一学期最終日の前日だった。
朝起きて画面に表示された日付を見たときは愕然とした。
――日にちが、戻っている?
明日を迎えられなかったら今日を繰り返すのだと思っていた。まさか昨日に巻き戻るなんて思いもしなかった。どうしてこんなことに……。あまりに理解できない、ううん、理解したくない現実の直面に、自分が一度目の七月十八日をどう過ごしたかも遡及しないで家を飛び出した。
今日がどういった日なのかを思い出したのは、自転車に跨がってしばらく漕いだコンビニの前でうちの学校の生徒を見かけたとき。
その女子生徒は青藤色のジャージを着ていた。白と黄色がポイントに配色された学校指定のジャージを。
通常なら、校章のワッペンが胸元に縫われた学校指定の白色ベストもしくは水色のワイシャツを着て、グレーのチェック柄のスカートもしくはパンツを穿いていないとおかしい。それがうちの学校の制服だし、現にわたしもそれを着ているのだから。
彼女だけなら部活か何かでジャージ登校しないといけないのだろうと思えたけれど、同じジャージを下だけ穿いて上はなんの変哲もない体操服を身につける男子生徒が彼女に声をかけているのを見たとき、ようやく思い出した。
今日は校内清掃日だ!
午前をまるまる使って校舎を一斉清掃する日。前日のホームルームで「明日はジャージもしくは体操服で登校してくるように」と先生からお達しがあった、と今になってフラッシュバックする。
すっかりそのことを忘れて制服を着てきてしまったわたしは、遅刻確定なのを承知で家に戻って着替え直してから登校した。
学校に到着する頃にはもう始業していて、出席確認のホームルームも終わったのだろう、すでに校舎全体に生徒が散らばって掃除を始めていた。
そんな中をわたしは走っている。
「おはよう。遅刻?」
教室に駆け込むと、朴田がなんてない顔をして出迎えた。
「うん。先生は?」
「体育館の方に行ったよ。久保の班は東側の階段担当だって」
知ってる、とは答えずに荷物を置いてさっさと教室を出ようとした。足が半分教室を出たところで、朴田が引き止めてきた。
「そうだ。さっき宮島可奈が来たよ。五組の。久保を探してたけど、仲良かったっけ?」
宮島さんの名前を聞いて、ただでさえ走って倍速だった心臓が大きく脈を打った。
探していた。ということは、宮島さんもわたしと同じように記憶を保持したまま七月十八日に巻き戻っている。でなければ、わざわざわたしを探したりはしない。
「まあ、ちょっとね」
適当にごまかして、今度こそ教室をあとにした。
向かう先は体育館――ではなく、東側の階段――でもない。三年五組の教室。教室にいた男子生徒から宮島さんの担当場所を聞いてそこに向かう。
宮島さんの担当は化学室らしい。
……嫌だな、化学室に行くの。化学室の掃除ってことは、指導の先生は理科担当の誰かだよね。清沢先生じゃないといいけど……。
ちらりと教室を覗く。
「棚の中は開けんなよ。実験器具とか入ってて危ないから。その代わり、棚の上とか裏側は丁寧にやれ」
落ち着きのある声が怠そうに指示を出している。
あーあ、清沢先生だ。……うわっ。
清沢先生の姿を確認したのとほぼ同時、宮島さんを見つけて変な声が出そうになった。
「棚の上はセンセーやってよ。背高いんだから」
先生の隣で楽しそうに話している宮島さん。その格好を見て、わたしは思わず吹き出しそうになった。
宮島さんが着ているのはジャージではなく、まして体操服でもない。青いワイシャツを腕まくりにして、チェックのスカートを穿いている。普段は目立たないのに、今日だけは異様に映るほど目立つ――制服姿。ハロウィンの仮装イベントで一人だけ地味ハロウィンしているみたいだ。
どうして制服なのかは安易に想像がつく。たぶん、わたしと同じミスしたのだと思う。校内清掃日なのを忘れて制服を着てきてしまったんだ。
ただ、恥じらいなくその格好で登校できてしまうのが、宮島さんの宮島可奈たる所以だろう。
宮島さんのような鋼の精神を持っていたら、遅刻することなく化学室の前で立ち往生するはめにもならなかったのかな。こうして、どうやって宮島さんを呼びつけたらいいのか悩まずに済んだのかな。
清沢先生に見つからないように、どうしたら宮島さんだけを――。
「久保さん? どうしたの?」
手をこまねいていると、後ろから声をかけられた。
振り返ると背の高い男子生徒がいた。
名前はたしか……茂手木くん。華のサッカー部員で、宮島さん同様、知名度が高い男の子だ。
「えっと……」
そうだ! 茂手木くんに頼んでこっそり宮島さんを呼んでもらおう。茂手木くんは宮島さんと仲が良かったはず。
「ん? ああ、もしかして宮島に用? さっき久保さんを探してたみたいだから」
おお、すごい洞察力。助かる。
「うん。だからあの、こっそり……」
「宮島ー! 久保さんが呼んでるっ!」
うわあ! そんな大声でわたしの名前を出さないで! サボりと思われちゃう!
茂手木くんの口を塞ごうにも時すでに遅し。彼のでっかい声に誘われて、宮島さんだけでなく清沢先生までこっちを向いてしまった。ばっちり目が合う。
「あ、久保さーん!」
宮島さんが手を振って駆けつけてくるけど、わたしは一刻も早く逃げ出したい気持ちだった。さっと死角に隠れて、宮島さんがわたしのもとに来た瞬間、彼女の手を取って駆けだす。
一応、茂手木くんに「ちょっと宮島さん借りるね」とだけ残して。