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ロマンスの魔法

「わたしね、学校を楽しいと思ったことがあまりないんだ」


 ぽつりと零すように呟いた。気持ちを吐露するときは恥ずかしさからつい声が小さくなってしまうけれど、静かなこの空間ではそれでも十分すぎる声量だった。しっかり可奈の耳に届いて、目を開きながらこっちを向いたのがわかった。

 そんな可奈から目を逸らすように、わたしは正面を向いて言葉を続ける。


「先生がいるからなんとなく通ってただけで、学校が特別な場所だとは思えなかった。青春とか言われてもピンと来ないし、『いつか尊い時間だったと気づく日が来る』って言われても『あっそう』くらいにしか感じなかったし」


 鼻で嗤いそうになった。その考えが馬鹿げていると思ったわけではなく、自分を振り返ったとき「わたしってだいぶ擦れてんなあ」と思ったから。自覚がなかったけれど、青春に対するコンプレックスを抱えていたらしい。


「早く卒業したかったのは、大人になりたかったからだけじゃなくて、学校にいてもやりたいことがなかったから。このまま学校にいても何も変わらないと思ってたからでもある」

「でも」とわたしは可奈を見た。

「可奈と出会って、みんなが言うように学校は楽しいところなのかもしれないって、思うようになった。卒業ばかり考えてたけど、楽しめることがまだまだあるんじゃないかなって今は思ってる」


 可奈の顔が柔らかく崩れる。嬉しいんだって、その表情だけで伝わってくる。

「だけど」わたしが逆接に逆接を重ねると、きょとんとした顔に変わった。


「早くとは思わないけど、わたし、卒業はしたい」


 可奈の話を聞いても、やっぱりそこだけは変わらない。卒業したくない、とはならなかった。

 わたしの想像力が足りていないのかもしれない。未来の暗さをまだ理解できていないから考えが変わらない。だとしても、見てみたい景色が今、明確に見つかったことで卒業への希望はむしろ高まった。


「可奈がいたからわたしの世界は広がった。社会の荒波に揉まれるのは想像するだけで嫌だけど、社会に出ないとできないことだってあるでしょ? お金と責任の問題なんてまさにそう。たとえば……お金を貯めて一緒に海外旅行するのはどう? 高校生じゃまず難しいよね」


「海外旅行?」と不思議そうに首を傾げた可奈は、すぐさま口元を緩めた。

「うん、行ってみたい」

「他にも、貸し別荘で一週間豪遊したりとか」

「いいね! メイドさん雇って身の回りのこと全部頼んだら、一週間贅沢三昧!」

「美味しいものもいっぱい食べたいよね」

「世界の三大珍味くらいは制覇したいねえ」

「世界の三大珍味言える?」

「え!? えっとね……キャビアでしょ、トリュフでしょ。それと……フカヒレ?」

「惜しい。フォアグラね」

「ああ! フォアグラか!……フォアグラってなに?」

「わたしもよくわかんない」

「じゃあ、絶対食べに行かなきゃだね!」


 話しているうちに可奈にいつもの調子が戻ってきた。本調子だったらこの話題で二時間は語り尽くせそう。


「あとは、そうだな……あっ!」


 閃いたことがあって声を上げると、可奈は期待をその目に宿した。


「わたし、もっと勉強してエリート街道目指そうかな」


 だけど、わたしがそう口にすると不服そうに頬を膨らます。


「ええ、なにそれー」

「だって、エリートになったらそういう人とお近づきになれるでしょ。優秀な弁護士と知り合って、可奈を傷つける人を片っ端から訴えていく」


 わたしはまあまあ本気で言ったつもりだった。しかし、可奈は吹き出した。


「ぷっ。なにそれ! そんな邪心でいいの?」


 邪心……。たしかに、邪心だ。でも――


「邪心でもなんでもいい。高校生なんだから、目指せる道はまだたくさんの中から選べるはずだよ」


 こう言うと、脳天気だとか楽天的すぎるとか思われるかもしれない。だけど、今このタイミング――高校三年の夏という、将来を考えないといけない時期に目指せる道の多さに気づけたのは、わたしにとって目から鱗が落ちるようなタイミングだった。


 可奈は何も言わなかった。その代わり、ひと言では言い表せない複雑な顔を浮かべた。表情が陰っているわけでも苦悶しているわけでもないけれど、純粋な微笑みとも違う。


「その道を歩いている途中でもし過去の恋に足を引っ張られたとしても、恋を上書きするのは恋だけじゃないと思う。好きなアイドル、好きなアニメ、大好きな親友。道がたくさんあるみたいに、心を埋めてくれるものもなんだってあるんじゃないかな」


 そのときに自分が何に心を惹かれるかわからないけれど、少なくとも一つはもう見つけている。わたしから自然に笑みが零れた。可奈を見て言う。


「わたしがもし、この先、恋ができなかったとしたら、そのときは可奈が責任とってね。可奈が自分で言ったんだよ?『これからも一緒にいたい』って。責任とって、死ぬまで一緒にいてよ。わたしはそれだけで、十分楽しい人生が送れそうだよ」


 公園の電灯に星明かりが手伝って、可奈の反応がよく見える。可奈の目にじんわりと涙が浮かんでいた。

 水面のように揺らぐその瞳があまりにきれいで、じっと見つめていると、可奈が隠すようにそっぽを向いた。それでも頬だけは見えて、一粒の涙が輪郭をなぞった。鼻を啜る音もして、小さく泣いているのがわかった。


 可奈は涙を拭く動作をとると、またこちらに向き直った。


「愛ちゃん、ありがとう。可奈も、愛ちゃんと出会えてよかった。愛ちゃんと同じ時間を生きられて、本当によかった」


 わたしは小さく頷いた。

 頭上の星空は相変わらず瞬いていて、淡い光だったり明るい光だったり強さの違う星が動いている。星が動いて、空が流れている。ただきれいだと見ていた星空が、生きているように感じた。


 わたしたちの未来は夜空なのかもしれない。

 真っ暗で先が見えない。だけど、目を凝らせば光が見えて、輝く無数の星のように道しるべとなり照らしてくれるものがある。それは一つじゃない。いくつもあって、それを目指して歩いていく。


 わたしが今日見つけたのは、可奈という星。

 可奈を見続けていれば、未来への道を歩けそうだ。


 ――なんて、やっぱり七夕にはロマンチックになりやすい魔法があるらしい。



 そろそろ学校に戻らないと、とわたしが切り出してジャングルジムを降りた。可奈も学校に行くか誘ったけれど断られたので、公園の前でお別れだ。


「愛ちゃんは何かしたいことある?」


 別れ際、可奈に呼び止められた。すぐさま「高校生のうちに!」と言葉が付け加えられた。

 わたしは少し考えて、


「花火」

「花火?」

「うん。花火が見たい。星空を見てたら、今度は夜空に打ち上がる大きな花火が見たくなった」


 思いつきだったけれど、可奈と一緒に見る花火も楽しそうだ。

 すると、可奈が胸の前で「よし!」と両手を叩いた。


「じゃあ見に行こう!」


 まるで明日にでも見に行こうというテンションで提案してくる。


「花火は夏休みにならないと見れないんじゃない?」


 近所の花火大会は毎年八月の第一日曜日に開催される。日付を逆行中の今、どうしても見たいなら来年を待たないといけない。


「大丈夫。可奈が見せてあげるよ! 浴衣着て、二人で一緒に見よ」


 約束、と言って可奈が小指を差し出してきたので、わたしはその指に自分の小指を絡ませた。

 何が大丈夫なんだろう。でも、可奈がそう言うなら大丈夫なんだろうな。

 指切りげんまんをして、小指を離す。


「じゃあね!」

「うん、また明日」


 そうしてわたしたちは別れた。



 翌日、わたしが目覚めたのは、七月二十日の朝だった――。

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