幸せな緞帳
胸に抱えた教科書が何度も滑り落ちそうになるので、何度も抱え直して廊下を歩く。すると、体育館と特別棟を結ぶ通路に見知った男女を見つけた。
一人は、ポニーテールの根元にインディゴ色のリボンを結ぶ女子。もう一人は、サッカー部の練習着を纏う高身長の男子。可奈と茂手木くんが、何やら楽しげな雰囲気で話している。
何を話しているのかは聞こえないけれど、茂手木くんが口を開けば可奈が嬉しそうに答え、可奈が調子づいたような表情を浮かべれば茂手木くんが肩をつつく。誰が見ても幸せそうな……カップルのような光景。
途端に、わたしの心に暗黒の帳が下ろされていく。
黒く、見るからに重そうな緞帳が、心を蝕んでいく。
なにこれ。気持ち悪い。
すごく、嫌な感じ。
悪いことを考えているみたいで、嫌だ。
「愛ちゃん!」
罪の意識に呑み込まれそうになったとき、可奈の声が聞こえてはっと息が漏れた。いつの間にか茂手木くんと会話を切り上げていた可奈が、幸せオーラを垂れ流しながら駆け寄ってくる。
来ないで。
そんな拒絶とは裏腹に、わたしの口は話をしようとする。
「茂手木くんとなに話してたの?」
わたしの前まで来て、タンッと足を揃えて立ち止まった可奈にそう訊いた。
可奈はにこやかに答える。
「部活のミーティングが終わった後、どっか食べに行かないかって誘われたんだ。まあ予定通りなんだけどね。前もそーだったし。あっ、今日は作戦会議しないよね?」
わたしたちは休み時間や放課後に時間を見つけて作戦会議をしている。これはタイムリープしたとわかったその日からずっとしていることだ。
その日に何があったのか、一度目とどう違うのか、起こした行動によって何か変わったり気づいたりしたことはないかなど、お互いの情報をすり合わせながらループを抜け出すきっかけを探っている。
大抵話が脱線して作戦会議どころではなくなってしまうけれど(特に最近はそれが顕著だった)、それでも日付が戻っていく現象に向き合ってきた。向き合うのをやめれば思考を停止したのと変わらないから。必要なことだ。
だけど、茂手木くんとの約束を断るほど優先しなければいけないことかと訊かれると、そんなことはない。むしろ、寝る前の電話やメッセージで済む話だ。茂手木くんとの約束は誘われた今日でないといけない。
そんなことはわかってる。わかっているけれど……。
「するよ」
わたしの口がいじわるなことを吐いた。
可奈の顔が引きつる。
「え、そーなの? でも、明日とかでもいいよね。そんな急ぐことじゃ──」
「するの!」
自分でもびっくりするほど大きな声が出た。自然と感情が乗って、怒ったみたいになってしまった。なんとか冷静を装って、言葉を続ける。
「言ったでしょ、わたしは早く卒業したいって。こんなところで燻ってる暇はないの」
口にした後に良心の呵責に苛まれた。
だってこれは、完全に八つ当たりだ。幸せそうな可奈を見て、嫉妬した。
この黒い緞帳の正体は嫉妬心。
わたしは可奈みたいにはなれない。
わたしが失ったものを可奈は持っている。
ずるい。むかつく。
そんな負の感情からくる八つ当たり。
可奈は戸惑いながらも、歯向かってきた。
「愛ちゃんの気持ちはわかるけど……。でも、卒業したってつまんないよ。愛ちゃんは恋愛対象になりたいから早く卒業したいって言ってたけど、毎日会えるのは学校に通ってるからで、卒業して生徒じゃなくなったらあたりまえに会えなくなるよ。それならこのままのほうがいいって、愛ちゃんも思うかも」
そう言ってわたしの肩に手を置こうとする可奈を振り払った。
可奈の言葉にイライラする。態度にイライラする。八つ当たりは醜いとわかっているけれど、それでも止められなかった。今この瞬間だけは可奈への憎さを正当化する。
「可奈にわたしの気持ちがわかるわけない!」
せっかく冷静を取り戻した感情は、簡単に崩れ去った。
「可奈はいいよね。友達だから卒業した後も仲良くできるし、同じ年齢を重ねられるし。わたしは、可奈ほどのんきにしてる暇はなかったの」
嫌みがつらつら出てくる。視界はぼやけ、声はうわずり、鼻の奥がツーンと痛む。
情けなくても言わずにはいられなかった。
涙を涙袋に溜めておくことだけが、冷静でいられる唯一の手段だった。
可奈は俯いて、唇を結びつつ頬に空気を溜め込んだ。そして、
「愛ちゃんだって、可奈の気持ちわかってない」
モゴモゴしながらもわたしに届く声でそう呟いた。
怒っているのだと、声を聞いて初めてわかった。怒らせるようなことを言った自覚はあったけれど、まさか言い返してくるとは思わなかった。可奈が言い返してきた事実に驚いて、言葉が出てこない。
どうすればよかった? はじめから言わなければよかった?
でも、感情を抑えられなかった。
それなら今から謝ればいい?
でも、謝ったところでそう簡単にこのモヤモヤは晴れてくれそうにない。こうなることは避けられなかった。
わたしは、この場から立ち去ることで逃げた。
冷静でいられた唯一の手段は走りながら崩壊していた。
本当の意味で頭が冷えたのは、帰宅した後だった。
ベッドに仰向けになり、腕を額に乗せて目を閉じる。あんなにヒートアップしていた心はすでに落ち着きを取り戻していて、静かなまどろみの時間を作ることで可奈の言葉を客観的に振り返られた。
そうだ。わたしだって可奈の気持ちをわかっていなかった。わかっていないのに、自分だけ被害者ぶって当たり散らして……本当に最低だ。
のんきな可奈にイライラした。でも、先生のことは可奈には関係ない。関係ないし話してもいないから、きっとわたしの言葉は一割も伝わってない。わめき散らすだけ散らす、子どもみたい。かっこわる……。
瞼をおもむろに開くと、部屋の電気に目が眩んだ。上半身を起こす。部屋の入口に投げ捨てたリュックサックを見て、再びベッドに倒れ込む。
酷い態度をとった。可奈に謝らないといけない。わかっていても、リュックの中のスマホに手が伸びなかった。
そうして可奈にどういう顔して会えばいいのかわからないまま、四日の時が過ぎた。




