保健室の宮島可奈
デジャブだと思っていた今日一日の事柄は気のせいなんかではなかった。前に体験したことがある出来事だった。同じ日付の同じ時間にまったく同じ出来事を、わたしは改めて体験した。
つまり、同じ日をやり直しているわけだ。
今、保健室で寝ているのがその証拠。階段から落ちてきた生徒の下敷きになったのも、意識を失って保健室に運ばれたのも、前に一度体験した。記憶の中の映像と合致するし、痛みも覚えている。
ただ、すべてが同じなわけではない。
たとえば、一度目の終業式では朴田に話しかけていないし、目が覚めたとき保健室は静かだったはず。
現在、保健室には二つの声が響いている。
一つは、長い人生を生きて手に入れた落ち着きある柔らかい声。
もう一つは、人生まだここからのようなハキハキした喋り声。
「え! センセーも三十で結婚したの?」
「そうよ。もう二十年以上も昔ね」
「じゃあ旦那さんと二十年も一緒にいるんだ!」
「その旦那とは離婚したからそんな長く一緒にいないわよ」
うふふと、淑やかに笑う柔らかい声のほうは保健室の先生だ。最近お世話になったばかりだから間違えるはずがない。
もう一人の声は聞き覚えがある気がするのだけど、声だけでは誰かわからなかった。
前と同じ状況だけど、違っていることもある。
一体、何が起こっているというの?
体を起こしてカーテンを開ける。会話の邪魔にならないよう静かに開けたつもりが、レールの音がシャッと音を奏でてしまい二人がこちらを見た。
「久保さん、起きたのね」
回転椅子に座っていた保健室の先生がすかさず立ち上がり、そばまでやってきた。
「頭は大丈夫? ぼーっとするとかない?」
「大丈夫です」
「そう。でも、念のため病院でも診てもらったほうがいいから、今日か明日にでも行きなさい」
わたしは返事の代わりに小さく頷いて、先生の背中越しに見える話し相手に視線を転じた。
もう一人の声の主は同級生の宮島可奈だった。どうりで聞き覚えがあるわけだ。
「おっはよー! ごめんねえ、久保さん。可奈が階段から落ちちゃって」
自らの顔の前で手のひらを合わせて謝ってくる宮島さん。落ちてきたのが彼女だったとは、今初めて知る事実。ガタイがいいラグビー部の男子じゃなくてよかったと思いつつも、相手が宮島さんだとわかって顔が引きつりそうになった。
「宮島さんは大丈夫だったの?」
最低限の会話をしなくてはと質問を絞り出すと、宮島さんは「だいじょーぶい」とピースサインを見せて元気さをアピールしてきた。
「可奈もちょっと気失ってたみたいだけど、すぐ目が覚めてホームルームに出たよ。絶対久保さんに謝らなきゃと思って、ホームルームが終わって戻ってきたんだ!」
「お礼はまた別のときにって帰そうとしたんだけど、宮島さんがどうしてもって粘ってね」
先生が付け足した説明のおかげで、どうして宮島さんがここにいるのかはわかった。
隙をついて壁の時計を窺うと、針は十二時十六分を指している。目覚めた時間は一度目と同じ。何が何やらわからないことだらけだけど、一つだけ明らかに異質なものがある。宮島さんだ。
わたしが朴田に話しかけたことを除けば、朝起きてから保健室で目が覚めるまでに起こった出来事のすべてが一度目の記憶と合致しているのに、宮島さんが保健室にいる状況だけが違う。宮島可奈の存在そのものが異質なのだ。
正直、宮島さんと話すのは苦手だけど、疑問を解く鍵になるなら話してみるしかない。
この後、先生は保健室を出ていく。予定通り、「久保さんの荷物を取りに行ってくるから、少しの間保健室を空けるわね」と出ていった。ついでに担任の先生にも報告しに行って、たしか十分は戻ってこなかったと思う。
「宮島さん。ちょっと訊きたいことがあるんだけど、いい?」
「訊きたいこと? うんなに、なんでも訊いて。なんでも答えるよ!」
テーブル席の椅子にわたしが腰を下ろすと、宮島さんは向かいの席に座った。
保健室にはわたしと宮島さんだけ。妙な緊張感が走るのを、わたしだけが感じ取る。
三年五組の宮島可奈は、接点がなくてもある程度の情報なら誰もが知っている有名人だ。もちろん、うちの学校限定だけど。
そもそも容姿からして目立つ。
茶色までいかずとも明るい髪色は、校則で染髪が禁じられている学校ではとにかく目を引く。生活指導強化週間になると必ずと言っていいほど先生に注意されているけれど、明るくなることはあっても暗くなったことはわたしの知るかぎり一度もない。
その髪をポニーテールに結んで、インディゴのリボンを根元に括っている。
顔ははっきりとした目鼻立ちで、メイクはしているのだろうけど周りの友達と比べるとしていないも同然。それでも浮かないのだから、かなり整った容貌を有している。
容姿が目立てば集まる友達も似たような人たち。ひと言でまとめると、体育祭や文化祭で目立ちたがる人たち。その中心でいつも笑っているムードメーカーが宮島可奈なのだ。
声に聞き覚えがあったのは、つまりそんな訳があってのこと。
ついでにもう一つ情報を加えると、大会出場のたびに横断幕を掲げてもらえる陸上競技部に所属している。「そんな部活あったんだ」と言われるのが関の山の天文科学部に所属するわたしとは大違い。
一方のわたしはというと、特筆できる点を探すのが困難な普通の女子高生。
楽だからと首のラインで切り揃えた黒色のボブヘアは、高い位置で括ろうとするとアホ毛がぴょんぴょん出て疲れているように見える。体育の授業で結ばないといけないときは大抵首近くの高さで一つに結うけれど、まあおしゃれさは出ないよね。
顔立ちは、第一印象で「おとなしそう」「落ち着いてそう」と言われるような、良く言えば大人っぽい、悪く言えば幸薄系。
唯一自慢できるのが眉の形が整っていることくらいで、クラスの女子がプールの授業終わりに「アイラインは引けなくてもアイブロウだけはしたい」と言っていたのを聞いて、眉って重要なんだと知った。
宮島さんとは二年と三か月、同じ校舎に通っているわけだけど、ただの一度も顔を向かい合わせたことがない。こうして話すのは言うまでもなく初めてだ。
有り体に言うと、わたしは宮島さんが苦手だ。
嫌いではない。嫌いになるほど相手のことを知らないから。でも、一対一で話すのが億劫になるくらいには苦手意識がある。
落ちてきたのが宮島さんじゃなかったらもっと気楽に話を訊けるんだけどなあ。
言ったところで始まらないので、意を決するしかない。
「久保さんと話すの初めてだよね! なんて呼べばいい?」
口を開きかけたところで、先に宮島さんが切り出した。
「そのままでいいよ」
「ええ、あだ名とかつけよーよ。ちなみに可奈は『可奈』って呼ばれてるよ。中学のときは『みやかな』って呼ばれてた。あだ名なのになんで長くなるんだろーね?」
あはは、と苦笑を返すしかないわたし。
したい話ができない……。
「久保さんはなんて呼ばれてた?」
「な、なんだったかな。特になかったと思うけど」
「そーなの? つけやすそーだけどねえ。可奈の友達にも久保って苗字の子がいて――」
やばい、本当に話ができない。
さっき時間を確認したばかりなのに視線が無意識に宮島さんの後ろ、壁のアナログ時計を向いて、カチカチと時を刻む秒針に焦りが募る。
このまま微苦笑を浮かべていては宮島さんのペースに呑み込まれるだけだと思い、わたしは強引に話を戻すことにした。
「それより、訊きたいことがあるんだけど」
「ん? ああ、そーだったね! なに?」
かなり強引だったけど特に気にする様子もない宮島さんの態度に、バレないよう息をついてから話を紡ぐ。
「どうして粘ってまで保健室に留まったの?」
断崖絶壁に容疑者を追い詰めて「犯人はおまえだ!」と問い詰める。頭の中ではサスペンス劇場さながらのシーンを想像しつつ、実際は本題の口火を切ることしかできなかった。
「訊きたかったことってそんなこと? なーんだ、そんなの決まってるじゃん。謝りたかったからだよ!」
まあそう答えるよね。さっきも「謝らないと」って言っていたし。
要領を得ない質問だとわかっていながらも二の句を継ぐ。
「でも、先生の言う通り、あとでもよかったんじゃないかな」
「んー……可奈もそれで一回は納得しちゃったけどさあ。でもよく考えてみ? 今日、一学期最後の日だよ? 今日謝れなかったら夏休みに入って機会を逃しちゃうかもじゃん」
「わ、わたしが言いたいのは」フラストレーションが溜まっていく感じがして、居ても立っても居られなかった。「他にも何か理由があるのかどうかってこと」
宮島さん相手にずいぶん強い口調になってしまった。
彼女は不思議がって「ん?」と短く反問した。
「だから、宮島さんがここにいるのはわたしに謝りたいだけじゃなくて、他にも理由があるんじゃないかなって」
語尾を抑えつつ改めて言い直すと、宮島さんがポンと手を打った。
「ああ、そーいうこと!」
合点がいって嬉しそうに微笑を零す。さらには、
「なくはないよ」
そう追伸したので、わたしの体が前のめりになった。
「他の理由ってなに?」
「え? いやいや、謝りたいって気持ちが一番だよ? ただ、こう……なんていうのかな。可奈の中で留めておけなくて、誰かに言いたくて仕方ないことがあって。別に久保さんに聞いてもらう必要もないんだけど」
買うかどうか決めあぐねている人みたいにまごつく宮島さん。
言い淀めば淀むほど期待値が上がるんだけどな。
わたしが「聞かせて」と促すと、ほんのりコーラル色に染まる唇が堅く引き締まった。視線が右に左に揺れて。思い見る間を置いてから締めた唇を解き、意味深な言葉を口にした。
「久保さんって科学部だったよね?」
正しくは「天文」科学部だけどまあいい。意味深なのは後ろに続いた言葉。
「タイムスリップに興味ある?」