天を翔るペガサス
審判の先生と軽く言い合いをしてから可奈が戻ってきた。
「代打認めてもらえなかったあ。やっぱり愛ちゃんが打つしかないみたい」
イケると本気で思ってたんだ。
「でも、打っても打てなくても関係ないよ!……あ、やば。こう言うと、二組の子たちに怒られるかな」
肩をすぼめながら周囲をキョロキョロ見まわす可奈。聞かれていないとわかると、肩の力を抜いてこちらに向き直った。
「愛ちゃん! 打っても打てなくても関係ない。愛ちゃんはもう勝ったんだよ。自分自身に打ち勝ったんだよ。ここに立ってるのがその証拠でしょ?」
それはそうだ。トラウマを乗り越えたからこそバッターボックスに立てる。トラウマから逃げたままだったら、わたしは今、ここにいない。
そういうことを照れ隠しせずに目を見て伝えられるのは、可奈の凄さであり良さだと思う。言葉や想いを届けられるほうは気恥ずかしいけれど、同時に嬉しくもあり恵まれているなとも感じる。
「うん」力んでいた体の力が抜けていくようだった。
すると、可奈が自分の髪に結んであるリボンを解いた。そのリボンをわたしの首に巻いて胸の辺りで蝶結びを作る。リボンのネックレスが完成した。
「お守りだよ。可奈も、愛ちゃんと一緒に戦うつもりで!」
わたしは静かに頷いて、バッターボックスに向かった。
思い出す特訓の日々。雨の日も風の日も大嵐の日も、タイヤを引いたり砂浜をダッシュしたり、体がくたくたになるまで練習したっけ。……してないね。特訓期間はたった三日。やったことといえば付け焼き刃の技術だ。所詮は自己満足。
けれど、あれらの特訓は技術を磨くことが目的ではない。トラウマに向き合う、精神そのものを鍛えるものだった──と、わたしは思っている。可奈がどうかは知らないけど。
挑む心。
わたしは、バッターボックスに立った。
可奈、ありがとう。バッティング練習もしておいてよかった。見せかけの技術だけど、ここに立つのが不思議と怖くない。
ぎゅっとバットを握り締めてボールを迎え撃つ。
──フォームはこうだよ!
──ボールをしっかり見る!
──一球目から打とうとしなくていいよ。
可奈の声が頭の中に響く。いつもはうるさいと感じる声も、今はそばで見守ってくれているみたいで心強い。
一球目は、ストレートコースから外れてボール。
ピッチャーの彼女は、今日見てきた中で一番速い球を投げる。ソフトボール部の子が「うまい」と感嘆を漏らすくらい上手だ。
けれど、上手なあまり、ストレートを投げるとボールが真ん中よりのコースを走ってくれる。速いけど芯に当たれば飛ぶ、そんな投球だ。
二球目、ストレートコースに入ったボールはキャッチャーのミットに収まる。
わたしは振り遅れてしまった。
「愛ちゃん、がんばれー!」
投球の合間に声援が聞こえてくる。可奈の「愛ちゃん」呼びがいつの間にか浸透して、クラスのみんなが愛ちゃんと呼ぶようになった。
三球目、ボールをバットに当てた。でも、コテンコテンと情けなく転がるボールはフェアゾーンを越えてファールに。これでツーストライクになった。
残り一つ。焦りで汗が滲む。
相手も額の汗を拭う動作をとった。
どちらもプレッシャーは同じくらいだろう。お互い三年生だからこそ、背負う期待も大きい。負ければ高校最後の球技大会が終わる。わたしたちは今、「高校最後」を身をもって体験している最中だ。
四月に入ってから、やたらとその言葉を向けられるようになった。だからなに?と思うこともあれば、ふとたまに、高校最後がもしかしたら人生最後になるかもしれないと思うこともある。人によってもその重みはまちまちだろう。
その言葉の厄介なところが、自分一人のものではないときだ。自分にとっての「最後」が誰かにとっての「最後」になるとき、急にそこにかける想いが強くなる。
今がまさにそう。
わたし一人なら勝とうが負けようがどうだっていいけれど、わたしの手にはチームメイトの「最後」がかかっている。すでに引退しているソフトボール部の子は、大好きなソフトボールで優勝を目指す最後の機会でもある。さらに言えば、他の競技はすでに敗退しているので、応援席に座るクラスメイトにとっても最後となる。
そんなものを背負わされちゃったらさ、熱くなるしかないじゃん。
みんなと同じように勝ちにしがみつくしかないじゃん。
これが青春というやつなら、そんなものに染まってしまった自分が自分じゃないみたいで気味が悪い。青春とは無縁だった久保愛はどこへ行ってしまったのだろう。
なんとも言えない感情が渦巻いて歯を食いしばると、ピッチャーの子が投げるフォームを作った。肩をぐるりと回し、ボールを放つ。
わたしはバットを握る手に力を入れた。
その一球で勝敗がついた──。
気味の悪さを吹き飛ばすように思いきりスイングしたバットは、ボールを芯で捕らえ、作られた効果音のような気持ちいい音を響かせた。
そのままボールは空高く打ち上がり、遠くへ遠くへ、飛んでいった。
瞬間。大地を裂くような歓声が、応援席からだけでなく見物人からも上がった。
わたしは飛び立っていくボールを見届けながら一塁に向かって走る。一塁にいた子は二塁へ、三塁にいた子はホームベースに向かって走っているだろうけれど、わたしはとにかく自分が塁を踏むことだけに集中して走った。
限りある力を振り絞って、ベースを踏んだ。振り返ると、三塁の子がホームに帰っていた。一塁にいた子は三塁のベースを踏もうとしていて、さらにその先へとスピードを止めない。
ボールはというと、地面に落ちて転がるのをライトの子が追いかけて拾い、ホームベースとの間にいるセカンドに向かって投げる。何回かバウンドしたボールを受け取ったセカンドの子は、今度はキャッチャーへ──投げようとして、投げられずに動きを停止した。
ホームベースがちょうど踏まれたところだったからだ。
二点が入った。わたしたちは、逆転勝利した。
勝ちが決まった瞬間、応援席のクラスメイトたちが雄叫びを上げながらホームインした二人を取り囲みに行った。「おっおっ」と野太い声を発しながら、まるで何かの儀式のように飛び跳ねる。
「愛ちゃん!」
わたしもみんなのところへ戻ろうとしたら、可奈が両手を広げて走って向かってくるのが見えた。なんだか嫌な予感……。
「愛ちゃん、すっごい! 最っ高!」
「ぐえっ」
予感的中。可奈が飛び乗るように抱きついてきた。
この運動バケモンめ、あまりの勢いに死ぬかと思ったよ。
「久保さん、ありがとう! あの場面でよく打った!」
猿のように抱きつく可奈を引き剥がすと、今度はソフトボール部の子がやってきて肩を組んでくる。
さらにはチームメイト、クラスメイトたちも駆け寄ってきて、わたしはあっという間に囲まれてしまった。
みんなの顔から、普段の生活では見られないくらいの笑みがだだ漏れている。三か月同じ教室で学んできた仲間なのに初めて見る表情のような気がして、一度も話したことがない子たちまで「愛ちゃん、すごい!」と称えてくるのが不思議だった。
数か月後には散り散りになる。どうせ離れ離れになるのだから、わざわざクラスに溶け込む必要はないんじゃないか。そうしてこれまで距離を置いてきたけれど、この笑顔を見られて今は嬉しく感じる。見逃さずに済んでよかったと思っている自分がいる。
彼らの笑顔が、ようやく肩の荷を下ろしてくれた。
「可奈。ありがとう」
「ん?」
「これのおかげ。打つ直前まで可奈がそばにいてくれた」
これと言って、首にかかるリボンを見せた。
可奈は照れたような笑みを咲かせ、大きく頷いた。
「うん!」
勝ててよかった。打ててよかった。トラウマを乗り越えられてよかった。
良いことずくめだけど、今ここに可奈がいて、一緒に勝利を喜べることが何よりも嬉しかった。
その後、決勝に駒を進めたわたしたち二組は、善戦したものの優勝には一歩届かなかった。
ドラマのようにすべてがうまくいくことは叶わなかったけれど、高校生活最後の年にこのような体験ができただけでわたしには十分だった。
ろくな思い出がなかった高校生活。早く卒業したいと思っていた。
でも、残りの高校生活でやれることがまだあるのかもしれない。




