黒歴史からのアップグレード
烈日が身を焦がすような午後。わたしのクラスは、予定通り準決勝に駒を進めた。本当に、嫌になるくらい予定通りに。
そしてついに、わたし史上最悪のデスゲームが始まろうとしている。
「礼!」
「よろしくお願いします!」
ホームベースを挟んで三年二組と三年四組の先発メンバーが礼をする。
先攻、四組。二組は裏の攻撃だ。各々のポジションについたら試合開始。
うちのクラスのピッチャー、女子バスケ部の子が豪腕さながらの投球を見せる。それを一球目から打ち返すのは、サッカー部のマネージャー。ガキ大将的な気の強さが垣間見えるバッティングでヒットをもぎ取られる。
二番バッターは三振。三番バッターはゴロでツーアウト。四番バッターのソフトボール部の子が本職の意地を見せてランニングホームラン、一回の表で二点を入れられる。五番バッターの三振で攻守が切り替わった。
その後も試合は続く。ほんとにほんとにほんとに嫌になるくらい順調。
前回と違ったプレーといえば、一、二塁間を抜けた球を、一度目はセンターの子が捕ったのに対し二度目はわたしが捕ったことくらい。どちらにせよヒットになったので、点数に影響はなかった。
おかげで、隙あらば最悪の結末が脳裏を過る。
ここまで予定通りに進んでいるなら、わたしがボールを取りこぼして鼻血を出す結末も予定通りになるのでは?
試合が始まってからずっと、その考えが消えてくれない。
それに、もう一つ問題がある。
わたしは、一塁側にある応援席をちらっと盗み見た。
三塁側に四組の応援席が、一塁側に二組の応援席がある。準決勝ともなればどちらのクラスもほとんどのクラスメイトが応援に来ていて、さらにその後ろには興味本位の見物人もいるので、これまでの試合とは比べものにならないほど人がいる。
そんな大勢の中で、誰よりも目立つ格好で声援を送っているのが、なぜか二組の応援席のど真ん中を陣取っている、三年五組の宮島可奈。
どこから調達したのかわからない「必勝」のはちまきをおでこに巻き、右手には黄色いメガホンを握り締めている。ただでさえ目立つ容姿と通る声を持っているのに、加えて恥じらいセンサーが故障している。そんな人間が、メガホンを通してわたしの名前を叫ぶ。
いっけー、いけいけ愛ちゃん!
おっせー、おせおせ愛ちゃん!
興味本位の見物人のほとんどが、その声に誘われて見に来たのではないだろうか。
あまりのうるささに隣に座る朴田は心底嫌そうにしているし、応援のクラスメイトは声に圧倒されている。チームメイトは「よかったね」と哀れみのような笑みを向けてくる。個人名を出されるわたしは、とにかく恥ずかしくて仕方ない。
試合は、運命の四回表に突入しようとしていた。
「愛ちゃーん! がんばー!」
ポジションの位置まで走っていると、背後からそんな声援が聞こえてきた。
今までも十分大きな声だったけれど、可奈はさらに腹の底から声を出してきた。可奈にはフライがくるタイミングを事前に話してあるから、今ここが勝負の時だとわかっているのだろう。
位置についても、可奈の声援はやまない。
「愛ちゃんならできる! オンリーワンコーチがついてるよ!」
よくわからないことを口にする。
オンリーワンって……。嘘でもナンバーワンって言ってよ。
可奈は、ボックスにバッターが立つまでずっと、周りの目も気にせず独特の声援を続けた。それが少しだけ、ほんの少しだけ、わたしに笑みをもたらしてくれたのは内緒だ。
四回表は、一人目も二人目も空振り。とんとん拍子に試合が進んで、ついにテニス部の子がバッターボックスに立った。
あー……嫌だ。
彼女の日に焼けた素肌が屈強なスポーツ戦士に見えてくる。
逃げ出したい。
心臓が飛び出そう。
気持ち悪い。
一球目、バッターはフルスイングで空振りした。そのスイングの思いきりの良さから、場外ホームランを叩き出してやろうじゃん、という心意気が伝わってくる。だから二球目、彼女はこんなにもきれいなフライを打ち上げられたんだ。
カキーンと、気持ちのいい音がグラウンドに響いて、応援席が湧く。
大空を羽ばたくボールは、ある程度空中遊泳を楽しんだところで、力尽きたかのようにわたし目がけて落ちてきた。
わたしの記憶と、今、目に見えている光景が重なる。
迫りくるボールの恐怖。
鮮明に蘇るトラウマ。
思わずぎゅっと目を閉じてしまった。
──愛ちゃん!
刹那、別の記憶がわたしの耳を支配する。
──愛ちゃん、グラブはボールが見えるようにちょっとずらすの。グラブをお風呂の桶かなんかだと思って、それでボールをキャッチするイメージ! それと、絶対に目は瞑っちゃダメ! お化け屋敷だって、目を閉じてたほうが怖いでしょ。
──目を閉じてたほうが怖くないときもあると思うけど。
──はいそこー。口答えしなーい!
これは、可奈と特訓したときの記憶。
わたしは目を開けた。かっと見開いて、ボールを凝視する。
──大丈夫! 愛ちゃんならできる!
大丈夫、できる。
実際に銭湯に行って、風呂桶でイメトレまでしたんだ。大丈夫。
パンッ──。
気分がスカッとするような音がした。
ボールはどこにもない。恐る恐るグラブを開くと、先ほどまで大空を羽ばたいていたボールが羽を休めるように収まっていた。音は、ボールがグラブに収まる音だった。
審判がアウトをコールした、瞬間。
「わぁ──────!」
応援席から大歓声が轟いた。
すかさずセンターの子とファーストの子が駆け寄ってきて、
「久保さん、ナイスキャッチ!」
一度目のときとは違う、興奮した様子で「すごい!」と何度も言葉をかけてくれる。
応援席に目を向ければ、可奈が頭上でメガホンをぶん回して暴れていた。
「愛ちゃん、よくやったー! すっごーい! 愛ちゃんは世界一!」
そんな可奈を見て、ようやく実感する。
や、やった…………。やった、やった、やった……!
わたし、やったんだ! トラウマを、乗り越えたんだ!
恥ずかしい思いをした過去の出来事自体を、きれいさっぱり忘れることは不可能だ。しっかり脳に焼きついている。記憶消去マシーンでも使わないかぎり、このまま記憶の中に留まり続けるだろう。
だけど、記憶が更新されて、その光景をちょっとだけ思い出にすることができた。黒歴史ノートから卒アルくらいにはアップグレードできた。
トラウマをやり直すくらいなら逃げたいと思っていたけれど、やり直せてよかった。
タイムリープして、よかった。
この感覚を刻みたくて、わたしはグラブを握り締めた。
──と、すべてが終わった気でいた。いやもう、トラウマに向き合ったんだから、このまま球技大会終了といこうよ。
残念ながらいくら願ったところで終わりはこない。
一度目は、ここで退場したことによってわたしの高校生活最後の球技大会が終わりを告げた。では今回、その退場を回避したらどうなるか。
当然、試合に出続けなければならない。
あたりまえのことを、わたしは失念していた。
「ラスト一人! ここ打ち取れば決勝だよ! 引き締まっていこう!」
円陣を組み、闘争心を鼓舞する敵チーム。
「久保、頑張れ! 打って、とにかく次に繋げろ!」
わたしを取り囲み、大いなる期待を寄せてくる味方の応援席。
どうしてこうなった?
予想だにしないことが起こって、正気かと疑いたくなったときに言いたくなるセリフナンバーワンの言葉を、思わず吐きそうになった。
いやほんとに、どうしてこうなった?
試合は二点をリードされて最終回裏を迎えた。つまり、わたしたちの攻撃だ。
一点でも差がつけばこの回で試合終了。三人がホームベースに帰還すればわたしたちの勝ちが決まり、一人ないしはゼロだったら負け。二人なら延長戦にもつれ込む。
そうした条件下で攻撃が始まり、早々に二人の走者を出してイケイケムードになるも、その後二人の三振が続いてツーアウト。
負けるかもしれない。
そんな空気が漂っていた中、八番バッターが意地を見せた。ど真ん中から少し逸れたストレートの球をバットの芯に当て、強い打球を放ったのだ。
ボールはライトとセンターの間を抜けた。三塁にいた子がホームイン、一塁の子が三塁まで進み、打った本人は一塁で止まる。
応援席は湧き上がった。だって、一点が入り二点目の可能性が出てきたのだから。この回での逆転は厳しくても、せめて同点。そんな期待と興奮が渦巻く。
そうしたプレーを経て、わたしに打順が回ってきた。すかさず相手チームがタイムを要求し円陣を組み、その円陣が終わるのを待っているのが今の状況だ。
正気かと疑わずにいられるだろうか? いられるわけがない!
ふざけんなって話だよ。トラウマをようやく乗り越えたと思ったら、今度はプレッシャーを一身に背負わされる役を担うはめに。負けても責められはしないだろうけど、悲壮感は避けて通れない。
なんでドラマを作るかなあ。さっきから震えが止まらない。バットを握る手も体を支える足も、ガクガク震えて言うことを聞いてくれない。
すると、メガホンを帽子代わりにして状況を見守っていた可奈が、意を決したように立ち上がった。
「しんぱーん! 代打、宮島可奈!」
手を挙げて、審判の先生に向かってそう宣言する。
無論、すぐさま拒否が返ってきた。
「ダメに決まってるだろ!」
どっと笑いが起こる。
「ええ、なんでえ?」
「他の人ならまだしも、宮島が入ったら相手チームに不利になるだろ」
可奈が本大会で暴れ回っているのは誰もが噂に聞いている。その可奈が代打で出場したら、まあ試合は簡単に傾くよね。助っ人どころかチート扱いだ。
でも、他の人ならいいんだ。なら代わってもらおうか……。
「久保さん。できるなら私が代わってあげたいけど、すでに打席に立ってるから無理だし」
チームリーダーがそう声をかけてきた。唯一の経験者であり、ここまでチームを導いた立役者でもあり、今日のすべての打席でヒットを打っているソフトボール部の子だ。ただ、彼女は四番バッター。打順に入っている子には代われない。
「あとは誰に代わっても同じだと思う。だから、久保さんが入って。打てなくても久保さんのせいじゃないから」
大人びた顔が優しく笑う。わたしは、ぎゅっと下唇を結んだ。
そこまで言われて、代わってほしいなんて弱音を吐けない。そもそも可奈のような、この状況をとことん楽しめる子が他にいないなら、代わってもらってもこのプレッシャーを押しつけるだけ。わたしにはできない。
運が悪かった。そう思うことにしよう。




