憂鬱なレモネード
苦手なものをたった二時間の練習で克服できるはずもなかった。
十時頃に開始した特訓は、キャッチボールから始まってゴロの捕球練習、フライの練習とレベルアップしていったけれど、まともにできたのはキャッチボールだけ。捕球練習は三球に二球の確率で逃すし、フライに関しては一球も捕れなかった。
捕ろうと見上げた瞬間にトラウマがフラッシュバックして避けてしまう。
鮮血と群衆の嘲笑が頭から離れない。
それでも、もう諦めようと放りださなかったのは、宮島さんのあまりに正確なバッティングがあったから。フライを打ち上げるのはそれなりに技術を必要とするはずなのに、宮島さんは一度のミスもなくしっかりフライボールを上げてくるから、捕れないとしても向き合うしかなかった。
「可奈、片してくるね!」
「ありがとう。わたしは自販機で飲みもの買いたいから」
「オッケー、じゃあ昇降口集合ね! あっ、ついでに可奈のも買っといて! 炭酸系がいい」
なんの進化も見せられないまま練習が終わり、道具一式を片しに行った宮島さんと別れて、わたしは昇降口の方へ向かった。
自動販売機は校舎を入ってすぐのところにある購買部に設置されている。ここは授業がある平日の昼間にお弁当やパンなどを売るためのスペースで、販売業者がいないときは無駄に広い自動販売機設置スペースと化している。
設置台数は三台、うち一台は紙パック飲料の自動販売機だ。水、お茶、コーヒー、炭酸飲料、果汁飲料、清涼飲料。ラインナップは街中に転がっているものと大差ない。値段は気持ち安い。
自動販売機の前に立って、全体を眺める。
炭酸系がいいって言ってたから……これかな。
テキトーに当たりをつけボタンを押そうとして、指を止める。先に自分のを買おう。わずかな差だとしても先に宮島さんのを買って、わたしが何を買おうか悩んでいる間にぬるくなったら嫌だし。
わたしは少し悩んだ後、普段はあまり買わない清涼飲料水にした。
今日は、体育の授業でも球技大会でもかかなかったほどの汗をかいた。着てきたジャージは今やトートバッグの中。渇いた喉とべたつく肌を潤すにはこれが一番いい。
くいっとキャップを捻って、冷えたそれを喉に流し込む。
甘くて苦手なんだけど、不思議と今はそこまで甘さを感じない。むしろ水では足りないエネルギーを補給している感じがして美味しい。
三分の一を飲み干したところでキャップを閉めて、今度は熱く火照った首元を冷やすために使う。あ~きもち~。
「おもしれえもん見た」
誰もいない購買部に愉快な低音ボイスが届いたのは、まさにここ一番の快楽に浸っているときだった。
「ひゃっ!」と思わず変な声が出た。
だってまさか、この人がここにいるなんて思わなかったんだもん……。
「清沢先生」
購買部の入口付近の自動販売機前にいるわたし。ちょっと視線をずらすだけで入口が見える。
そこにいたのは、珍しく白衣を纏っていない清沢先生だった。
ワイシャツの袖を腕まくりして、下はスーツのパンツを穿いている。いつも下ろしている前髪はセンターで分けられている。涼しげがあっていいけれど、やる気に満ち溢れた新人教師みたいで違和感が拭えない。
「久保って宮島と仲良かったっけ」
先生が中に入ってきた。つい距離をとってしまう。
やだな……。汗臭くないかな、わたし。しかも、体操服姿だし。体操服姿ってあまり見られて嬉しいものじゃない。子どもみたいで恥ずかしい。
「どういう繋がり?」
先生は気にしていない様子で、自動販売機を眺め始めた。片手をパンツのポケットに突っ込み、ジャラッと小銭の音をさせる。
セーフ……?
わたしは安堵の息を吐いてから答えた。
「流れです。流れで仲良くするしかなかったというか……」
「へえ」
「それ最近よく訊かれるんですけど、おかしいですか?」
「おかしいっていうか、意外。久保が宮島と仲良くしてるのが想像できない」
先生は買うものが決まったようで小銭を投入しボタンを押した。ガコン、と取り出し口にドリンクが落ちる。先生が買ったのは缶コーヒーだった。
ブラックの無糖。
一度飲んだことがあるけれど、わたしには苦すぎて飲みきれなかった。
「奢らねえよ?」
じっと見ていたせいか欲していると勘違いされたらしい。缶コーヒーの口を開けながら、先生の怪訝な目がこちらを向く。
「わかってますよ。自分のはもう買いました」
自分のは買ったけれど宮島さんの分は買っていない。
先生から目を逸らして自動販売機を見る。さっき当たりをつけた強炭酸のレモネードにしよう。夏になると販売される季節限定商品で、前に宮島さんが飲んでいたのを憶えている。
「誰の?」
お財布から小銭を取り出そうとしたら、先生が訊いてきた。
「宮島さんのです」
「奢ったりするんだ」
「いや……奢りかは決まってないですけど」
お金を預かっていないから、ひとまずはわたしの奢りってことになるのかな。
「どれ?」
「え?」
「宮島の分はどれ?」
ちょっと目を離した隙に自動販売機のボタンが光っている。お金が投入された証拠だ。
え、なんで?……あ、そっか。
一瞬混乱したけれど、先生が小銭を入れたのだと理解した。
「宮島の分は俺が奢ってやるよ」と先生が言う。
「え、ずるい!」
「ずるくねえよ。久保にはいつも奢ってるだろ」
「それは部活の一環というか」
「自腹を部活の一環と言うか」
「で、どれ」と先生が続けて訊いてくるので、わたしは渋々商品のパッケージを指した。
取り出し口に落ちたレモネードを渡されて、受け取る。
「ありがとうございます」
受け取ったそれはひんやりして気持ちいいのに、ちょっぴり複雑な気分にさせてきた。
三年間、一度も教科担当になったことがない清沢先生と初めて話したのは、高校一年の五月が終わる頃、衣替え期間を待つより先にブレザーを手放すような夏めく時期だった。
その頃、悩んでいるうちに仮入部期間が終わりクラスでもなんとなく浮いた存在だったわたしは、楽しいんだろうなとぬるい期待を持って入った高校になんの価値も見出せずにいた。
入学式の日に高熱を出したのがすべてのはじまり。
一週間休んで、不安しかない初登校を迎えた。不安は的中し、クラスにはすでにグループができていた。
何人かは同情して話しかけに来てくれたけれど、挨拶を交わしたり業務連絡をしたりする程度の関係に収まってしまった。
スタートダッシュの遅れは部活に入って取り戻そうと思った。けれど、一人で部活を回っても何がいいのか全然わからなくて、気がついたら仮入部期間が終わりどの部活も新たな一歩を切っていた。
さらにそれとは別に、学校生活を憂鬱にさせるものがあった。
そのもう一つの問題が露見したのは五月の中旬頃。
そもそもわたしは、この高校にギリギリで合格を果たした。
どうしてこの高校にこだわったのか今では思い出すこともできないけれど、必死に勉強して、それこそ身を削る思いをしてまで合格した。制服が可愛かったとか校舎の雰囲気がよかったとか、そんな理由だったと思う。
挫折は早かった。
高校の授業の難しさについていけなかったのだ。
それでも、部活に入らなかった自分に価値を付加できるのは勉強しかない、との思いで頑張った。真面目にノートをとって、授業後には先生に質問しに行き、家に帰ったら即復習。誇るようなことではないけれど頑張った。貫いた。
しかし、中間試験の結果は散々なものだった。
まだ一年の一学期。これから取り戻していける。
だとしても、なんのために学校に来ているのだろうと思わずにはいられなかった。
答案用紙をビリビリに裂いて。教室の窓から散らす――勇気はさすがになかったので、破いてポケットにしまった。
そこに声をかけてきたのが清沢先生だった。




