ミスマッチな心
わたしたちは道具一式を持って中庭に移動した。
うちの高校は敷地が無駄に広い。校舎を遠くに見渡せるほど広大な中庭、林と化した裏庭、サッカーと野球が同時にできるグラウンド、四面のテニスコート、フットサルができる球技コート、八レーン二五メートルのプール、古いけど現役の柔剣道場と弓道場。校舎と体育館を除いてもそれだけの施設がある。
どうりで毎年球技大会が盛大に行われるわけだよ。
特訓はキャッチボールから始まった。
宮島さんと一定の距離をとって、ボールを投げグラブで捕球。それの繰り返し。特訓というより運動前の肩慣らし――のはずだったんだけど……。
バシンッと重い音を立ててボールがグラブに収まる。
直後、手のひらにジーンと痺れがきた。
「ねえ、本気だしすぎじゃない?」
あまりの重い投球に思わず声を上げてしまった。
肩慣らしどころじゃない。宮島さんの投げる球は、接戦の頑張りどころで投げる球なんだが。
「手加減したよ?」
遠くで宮島さんが首を傾げる。
これで手加減しているなら今後一切本気を出さないでいただきたい。怪我人が出るから。
「お願いだから新たなトラウマを植えつけないで」と、ボールを投げ返した。
やや暴投気味になったボールも宮島さんは難なく捕る。
「こんな感じ?」と、ボールが飛んできた。
さっきと変わらない捕球音が出たけど、いくらか軽くなったように感じる。こういう細かい調整を瞬時にできるのが、運動部っぽいなと思う。
わたしはせいぜいバウンドさせずに届かせるのが精一杯。今もまた暴投気味になってしまった。宮島さんがそれを軽々受け取ってくれるおかげでキャッチボールが続く。
「気になってたんだけど、久保さんとぼっくんって小学校の頃からの友達なんだよね?」
宮島さんは質問とボールを投げてきた。
「友達っていうか、腐れ縁」
わたしは答えとボールを返した。
「それだけ?」と、投げてきた。
「そうだけど」と、投げ返した。
「好きとか、初恋とか、ないの?」投げてきた。
「ない」投げ返す。
「なんで?」投げてくる。
「”なんで”?」
思わずボールを投げる手を止めてしまった。
なんでと訊かれましても……。
「ずっと一緒で好きになったりしない?」
ああそういうことね。
「しないよ。ずっと一緒でもないし」
「そーなの?」
「うん」
わたしはボールを投げた。これまでで一番きれいに投げられた気がする。
宮島さんがキャッチしたところで、わたしも質問を返すことにした。
「わたしも気になってたことがあるんだけど」
「なあに?」
相槌を打ちながら宮島さんがボールを投げてきた。
すでに何往復もしているキャッチボール。依然として宮島さんの投球威力は留まるところを知らず、わたしの左手はピリピリし始めていた。
「宮島さんは人のことをあだ名で呼ぶよね。朴田のことを『ぼっくん』とか。『わーぴー』さんとか『ちぇるん』さんとかもあだ名だよね」
手が麻痺してきたから、というわけではないけれど、わたしは投げ返すのをやめた。
「あはは、なにわーぴーさんとちぇるんさんって! おもろ!」
ヒーヒーと変な呼吸音を鳴らしながら笑う宮島さん。グラブを外したその手で目元の何かを拭う動作をとったことで、涙を浮かべるほど笑いのツボに入っているとわかった。
心外だな。あだ名といえど知らない人を呼び捨てにするのはよろしくないと思って、たぶん宮島さんの友達なんだろうなと思いながらも「さん」をつけたのに。
笑われるのが気に食わなくて、じっとりとした目を向ける。
すると、宮島さんは「ごめんごめん」と謝りながら呼吸を整えて、距離を詰めてきた。
「可奈、あだ名つけるの好きなんだあ」
キャッチボール中は張り上げるように話していた宮島さんの声量が抑えられる。
「特に初対面の人にはね、まずあだ名をつけるの。そしたら十人中九人の確率で仲良くなれる!」
つまり、朴田はその九人から漏れたってことだ。
「朴田くんは、読み方を知らなくて『ボクダ』くんだと思ってつけちゃった。でも、ホノキダよりボクダのほうが合ってると思わない? 改名すればいいのに」
わたしは音から入ったから名前を読めたけれど、一般的に「朴田」は読みにくい類いの苗字なのかもしれない。ボクダと読み間違えられている場面に何度か遭遇したことがあって、そのたびに朴田は面倒くさそうに訂正していた。
だとしても、「改名すればいい」は考え方がぶっ飛んでない?
「ちなみに、わーぴーは『和田P』って呼ばれてたからわーぴーで、ちぇるんは『ちえる』って名前から『ちえるん』、ちぇるんって感じで変換したんだ。どうよセンスあるでしょ?」
首を傾げる。……センスある?
「なんていうのかなあ。あだ名をつけたら名付け親になれるかもしれないじゃん? 名前は子どもを産まないと無理だけど、あだ名なら誰でも親になれるし」
「名付け親になりたいの?」
「うん! もしこの先、可奈がつけたあだ名をずっと使ってくれたら、名付け親としてずっと憶えてもらえるでしょ。関わらなくなっても憶えていてもらえるのって嬉しくない?」
宮島さんらしいな、と思った。わたしには絶対にできない考え。
青く高いこの空のように純粋で透き通っていて、むしろ眩しいくらい。直射日光を浴びて焼かれるよう。イカロスになった気分だ。
「でも、わたしにはいまだ『久保さん』だよね」
「うんそーだね。あっ、気になってたことってそれ? もしかして、妬いちゃった? ぼっくんはぼっくんなのに、わたしはなんで久保さんなんだよお、って」
「違う。別に『久保さん』のままでいいし」
「あー! 拗ねてるー!」
「拗ねてない!」
だから宮島さんは嫌いだ。無神経なことを平気で口にする。
「いいよ、久保さんにもあだ名つけてあげよっか?」
「だからいいって」
「久保愛だから……。久保さん、本名があだ名みたいだね」
よく言われます。
「うーん、そーだなあ。『あいあい』とかどう?」
「それならないほうがマシ」
「ええ、かわいーじゃん。猿みたい!」
みたいじゃなくて猿だから。だから嫌なんでしょうが。
「まあでもたしかに、久保さんにはあだ名なくていいかな」
それはそれでカチンとくるのはなんでだろう。自虐しておいて他人から指摘されるのはむかつく、みたいな。わたしって実は面倒くさい人間なのかも。
「可奈、久保さんとはこれからも友達でいたいし」
と、白い歯を見せるようにしてよくわからないことを口にする宮島さん。わたしが眉を顰めると、すぐさま慌てるように説明を付け足した。
「あっ、表面上の友達じゃないよ? 嬉しいことがあったり嫌なことがあったりしたら、呼び出してどーでもいい話をする友達!」
付け足した説明もよくわからなかった。
「どういうこと?」
「だから、どーでもいい友達!……って言うとゴヘーがあるね。どーいえばいいんだろう。大人になってもいつでも会える、みたいな?」
説明になっているような、なっていないような……。
言いたいことは、いくつかの思考回路の検問を経てなんとなくわかったけど。
要するに、友達未満の知り合いだったときに消去法で使う「友達」ではなくて、迷惑をかけたりかけられたりしても迷惑にならない、そんな存在のことを言っているのだろう。
だからといって本当に聞きたかった答えは得られていないから、疑問は膨らむばかり。
「それがどうしてあだ名がなくていいってことになるの?」
宮島さんは一に対して十を返してくるとはいえ、その十が一を修飾するとは限らない。宮島さんが陸上競技部に入った理由を聞いていたはずなのに、気づいたら三年前の冬休みに亡くなったおじいちゃんの話になっていたことがあった。
こっちから積極的に言葉にしないと要領を得ない。それが、宮島さんを相手にして学んだここ数日の一番の成果かもしれない。
さっさと真意を問うていればよかった。
宮島さんは自信満々に答えた。
「だって、つける意味ないじゃん。これからもずっと一緒なんだから。名付け親にならなくても憶えていてもらえるでしょ」
ああ、そういう感じ……。
「だから、久保さんのことはこれからも……いや、どーせなら下の名前で呼びたい! いい?」
「……いいけど」
「じゃあ、愛ちゃん!」
まったく「純」を疑わない目が細くなる。何よりも楽しさを前面に押し出す口の端がつり上がる。その笑顔は、まるで大人になってもサンタクロースからのプレゼントを待ち侘びるようなミスマッチ感があって、目を逸らしたくなる。
というか、逸らしてしまった。
宮島さんにとってあだ名をつける必要のない人は、これから先の人生も共にしたい特別な人らしい。それにわたしが選ばれたわけだ。
たった数日の付き合いで、他の人よりちょっと濃い時間を過ごしただけのわたしが。
わたしにとってはお断りしたい事案だ。自分の未来予想図にこの自由人を含めるとなると、あやふやなものがさらに曖昧になる。とりあえず思案に暮れさせてもらう時間を求ム。交際ゼロ日婚は論外なので。
……けど、まあ。
「宮島さん。早く続きやるよ」
「おっ! 急にやる気になったね。可奈のことも『可奈』って呼んでいいよ」
嬉しくないと言ったら嘘になる。
一番のミスマッチはわたしの心。ツンデレヒロインよりもずっとツンデレしているわたしの心は、とっても厄介だ。




