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TEO  作者: 染井
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わたしたちは『過去』に、いまも歪め続けられている

 わたしたちは『過去』に、いまも歪め続けられている。


 壁に貼られた紙が、サーキュレーターの風を受けて空中を蹴り上げる。深緑のマスキングテープで壁に貼られたそれは、風が過ぎれば静かに壁に沿い、テオを見下ろした……『佐久野 天生』。どうしてこの名前が選ばれているのか、テオには分からない。

「考えれば考えるほど、悪い男に捕まった気分……なんて言ったら悪いんですけど。実際は私が勝手に引っかけられてただけなので。でも、そういうことにしました」

 杏は、実家のアトリエにあるちゃぶ台にコップを置いた。そのせいで机の上から蹴り落とされた絵の具が床に転がる。鮮やかなカドミウムイエローのそれを拾うと「机の上いっぱいでスミマセン」と杏は照れくさそうにはにかんだ。

 テオは曖昧に笑いながら、それを渡して返す。確かに、お世辞も出ないほど実家のアトリエも汚かった。でも両親がある程度の面倒は見てくれているようだった。

「子供みたいですよね。大学生なのに、親の脛かじってる」

「そんな人、他にもたくさんいるよ」

「そうですね……。もう私は、こうだから。その代わり、いっぱい作品描いて稼ぐんです! シナスタジアで良かったって最近は思います。だって、他の人とは違うんだもの」

 これも全部、テオさんのお陰です。

 晴れやかな笑顔にテオは、そんなことないよ、と小声で返した。出してくれた紅茶を口に運ぶ。透明な味がした。今日という日がどのように始まったのかすら曖昧で。

 杏はテオに連絡を取り、家に招くようになった。どうしてこんなに親しんでくれるのか、テオには理解できない。

(酷いこと、したのに)

 昔と変わらず、人の事情を知らずに踏み入って、偽善で自己満足で、引っかき回した。

 杏が回復したのは、紛れもない自身の力だった。それと、蓮見が守り続けた的確な距離感が功を奏したに違いなかった。

 それなのに杏は、事はテオのお陰だと言う。あれだけ慕っていた蓮見のことは『昔ちょっと引っかがった男』扱いだ。

 残酷だと思う。でもそれと同じくらい、テオも残酷なことをした。

「テオさんは、今どうしてるんですか」

「変わらないよ。普通に、仕事をしてる」

 実際のところ、テオは仕事を休んでいる。事実上の休職だった。仕事中に体が動かなくなることが多発した。パソコンの画面が、まるで壁のように見えてくるのだ。表示された文字列は意味の成さない壁画となり、読むことができない。困っていると涙が出てくる。席を立ってなんとか他の場所で時間を潰す、そんな行動をいくらか続けたところで、テオは折れた。

 最近は一週間の内に三日は休むようになり、上司からまとまった休みを薦められている。病院に行って診断書があれば正式な休暇が取れるから、どうするか決めてね、という課題を保留にし続けていた。

 そんな中で、杏がコンタクトを取ってきた。蓮見のアパートから別のアパートへ引っ越したテオに繋がったのは、郵便局に転送届けを律儀に出していたお陰だった。杏が一枚の絵はがきを送ってきて、良ければ会いたいと手紙を書いてくれたのだ。

 絵はがきには、強い色彩で描かれたヒマワリが咲いていた。ビビットな色使いを怖がらない杏らしく、そして、落ち込んでいた気持ちがほんの僅かに引き上げられたのが、テオを動かすキッカケになった。

「どうしてヒマワリ、送ってくれたの?」

 どうして、わたしなんかに。

 テオは持ってきていたそのはがきを眺めながら、机の上を何となく片づける(とはいえ、物を脇に寄せるだけというのを片づけと呼べるかは怪しい)杏の背中に尋ねた。

 杏は少し眉を下げながら「本当は蓮見さんに送るつもりだったの……って言ったら、気分を悪くしちゃうかもしれませんけど。でもどうしてもテオさんに見て欲しくて」と、手にした絵の具を指先で回した。それは、さっきテオが拾ったカドミウムイエローのアクリルだった。

「蓮見さんをイメージして描いたんです。そしたら、結構地味だねって言われて、びっくりして」

「……地味? こんな綺麗なのに」

 この派手な色のヒマワリが、大人しいって?

「やっぱ、びっくりですよね。なんかショックで、蓮見さんにあげるのやめちゃったんです。でも、テオさんが綺麗って言ってくれて、ちょっと救われた気持ちです。やっぱり蓮見さん、私のこと、あまり好きじゃなかったんだろうなあ。そういうサインを出してたんだろうな」

「…………そう」

 蓮見なら微妙にやりそうな手口だな、とテオは口の端を横に引き延ばした。あの人は、理解ができそうに見えて、ブラックボックスが大きい。黒田の方が、今思えば分かりやすいことは多かった。

 蓮見は、テオの無実をテオに何度も説いた。でもテオにとっては、蓮見が意図的にテオを刺したことと言っていることの合流点が見えず、結局は出て行って欲しいと言うしかできなかった。

 杏にとってもだったが、テオにとっても、蓮見は理解に苦しい人物だった。アパートを出てから、既に関わりは無かった。

 当然黒田とも縁は無く、唯一残ったのが杏との関わりというのが、この世の不思議さを見事表している。

 黒田は、今どうしているだろうかとテオは考えた。穏やかであれば良いと思う。幸せになって欲しいと思う。もう、願うことしかテオにはできず、それが、テオの存在の無意味さの証明になっていた。

 そして蓮見に対しては、未だにテオは感情の整理ができていなかった。

「……杏ちゃんは、悪い男に捕まったって、思うくらいが、本当に良いのかもね。蓮見さんの部屋に、女の人、いっぱい出入りしてたし」

 気持ちを明るくしようと軽口を叩いたつもりだが、予想外に杏は「違いますよ!」と深刻そうに反論してきた。

「こういうのペラペラ喋るのは良くないですけど……蓮見さん、EDなんですって」

 は、とテオは固まった。ちなみに、こういうことをすぐ人に漏らすのが、杏の悪いところである。

「女の人が出入りしているのは、なんとなく知ってたので、思い切って聞いたら教えてくれました。しれっと。……そ、それは、よく聞いたなって私も思いますけど、だって当時は、蓮見さんに彼女がいたらどうしようって、焦ってて」

「…………そう、なんだ」

 テオは手の中でカップを無意味に回した。手汗なのか、杏の扱う絵の具がカップについていたのか、ちょっとペタペタする。

 杏は「あの時はいろいろと必死だったんです」と唇を尖らせた。

「精神的なものだと診断を受けているみたいですけど、蓮見さんは全然そんな感じに見えないじゃないですか。一応治そうと、訪問式の治療を受けているらしいですけど、結局永遠カウンセリング状態で進捗は特に無しって」

「……精神的なもの」

 体が重たくなった。その原因は、間違いなくテオにあっただろう。

(どうして蓮見さんがわたしのことを意図的に刺したかなんて分からないけれど、でも、頼んだのはわたしなんだから……)

 あの時は、クラスメイトが自殺し、その容疑がクラスにかかっているという異常事態だった。そんな中でテオの様子にあてられ、蓮見を歪めてしまった可能性は十分だった。

 蓮見も、黒田も、一歩間違えれば杏のことも。

(わたしさえ、いなければ……)

 俯くと、切るのが億劫で長くなった前髪が目に刺さった。それを指で払いのける気力も湧かず深い渦に飲み込まれそうになった瞬間「だからヒマワリだと思ったんですよ!」と、テオの様子に気付かず、杏は少し柔らかい声音に崩した。

「ヒマワリ?」

「そうです。だって、EDなんて人にそう気軽に言うことじゃないのに、好きな子を守りたくって負った名誉の負傷だって蓮見さんが言ったんです。そんなことある? って思ったんですけど、でもあの時、蓮見さんが……すごく遠くを、じっと見てて」


 俺にとって太陽みたいな人なんだ。正しくて、容赦なく眩しくって、時には人を焼いてしまうくらい危なっかしい。

 好きだったんだ。それだけだ。

 事実なんて、人が思うよりもダサくて、短絡的で単純で、だから理不尽だよ。


 テオの手から、カップが落ちた。

 カップは机の上をくるりと回った後、床に落ちた。砕け散りはしなかったが、ガラスの表面に、稲妻のようなヒビが一本、太く走っていた。

「……テオさん?」








 自分さえいなければ、みんな幸せだったのだろうか。

 太陽が一瞬雲に閉ざされるように、ふとそんなことを考える。







 見上げれば、薄い青空の彼方に太陽が白く溶けていた。陽光を遮るような雲は無い。終わりかけている夏と共に分厚い入道雲は姿を消し、空の色を透かす鰯雲ばかりが広がっている。夏の終わりかけた、明るい秋空。

 すぐ傍を、大きなレンズの付いたカメラを持つ二人組の観光客が通り過ぎる。向かう先には、『百万本のヒマワリ畑』という看板と、眩しいレモンイエローの庭。

 正直、花は好きじゃない。虫が多いから。でもヒマワリは、もっと別の意味で怖いと思う。

 ヒマワリの撮影にきた観光客は、見頃の終わったタイタンの前を通り過ぎる。退廃的な魅力はあると思うが、時折熱心に撮影していく人の姿がポツポツあるばかりで、いずれは眩しく咲き誇る光のエリアへと流れていった。

 同じ方向へと足を踏み出すと「どこに行くの」と声が投げかけられた。もう一度振り返る。やはり、うなだれたタイタンだけが屹立している。顔の大きさ以上ある巨大な頭状花序がこちらを見ている。きめ細かな花の集合体が、総じてこちらを凝視しているような錯覚に陥る。

 ふと、全ての株がこちらを向いて枯れていることに気づいた。

 既に薄い太陽の光に負けてうなだれた陰の群が、こちらを見ているかのような。


「逃げるの?」

「違います」

「なんだ。本当に俺に用事? 怖がって逃げちゃったと思ったら、逆に会いに来るなんて。親父からは聞いていたけれど、まさか本当に来るなんて」


 蓮見が、枯れたヒマワリの陰から現れた。相変わらず目に痛いコントラストの服を身につけている。

 家をひっくり返して見つけた古い契約書から蓮見の家に電話をかけると、蓮見の言う親父さんが出て、不在ならここにいるだろうと聞いたのだ。

 車で二時間半はかかる、海の近くにあるヒマワリ畑。

「蓮見さんって、色弱なんですか?」

 テオは、ここに向かう間に考えて用意していた最初の質問を投げた。

「ん? ああ……杏が何か言った?」

 蓮見は、テオが本当に聞きたいことを先送りにしたのを察したのか、おかしそうに笑いながら首を傾げた。

「違いますけど、杏ちゃんの話を聞いていて、気付きました」

 蓮見は杏のヒマワリの絵を、本気で地味だと思っていたとしたら。

 違和感はあった。テオが記憶を取り戻して蓮見に取り押さえられた時、杏に「茶色のタオルを取って」と言って、橙色のタオルを差したのだ。あの時は細かいことを気にする精神状態では無かったが、思い返せば明らかに変だった。

 常に色の強い服を着ているのも、色弱の影響がでている可能性が高い。

「…………違いますか」

 果たして、蓮見は否定しなかった。「男性には少なくないけどね」と胸にぶら下げたメガネを指先で揺らした。車を運転するときは、補正メガネが手放せないらしい。

 ただ全ての色の識別が難しいのではなく、苦手な色がいくつかあるとのことだった。

「メガネをすれば、比較的ハッキリ見えるから、季節になったらここのヒマワリ畑を見に来るのが習慣になってるんだよね。ちょっと今年は遅かったな。タイタンが枯れちゃって……」

 陽気に話を続ける蓮見に、テオは一歩踏み出した。

「そ、それは、精神的なもの?」

「違うよ。これは生まれつきだし」

「そう…………」

 沈黙。テオは手のひらに爪をたてた。

 昔だったら、もっと簡単に言えていたのだろうか。

 そうやって、蓮見のことを助けることができたのだろうか。

「なに。急に尋ねてきたと思ったら。なんか顔色もあまり良くないように見えるし……俺にそう見えるって、相当だよ。俺の目がおかしいだけ?」

 蓮見はおどけた調子でメガネをかけて、「やっぱ顔色悪いよ。早く涼しい場所に戻りな」と目を細めながらメガネを再び外す。

 観光客が、側を通り過ぎていく。明るいレモンイエローの光へ向かい、歓声をあげて写真を撮っている。

「駐車場まで送るよ。それともバスで来た?」

 汗が首を伝って落ちる。

 どんなに人を傷つけても、殺しても、壊しても歪めても、不気味なくらい自然に今を生きている。

 テオが人を死に追い詰めても、蓮見がテオのことを刺しても、白々しく時間は過ぎていく。

「テオ?」

 あの時、わたしたちは幼かった。

 誰もが必死だった。間違え続けて、失敗ばかりして、そうやってでしか今を掴み取れなかった。

 テオは、ゆっくり言葉を吐き出した。

「ありがとう、何もかも失わなくちゃいけないわたしに、今をくれて」

 蓮見は目を見開いた。その瞳に、背後の眩しいヒマワリの光が映り、鮮やかに染まる。きっと、テオと蓮見では、それは違う色に見えるのだろう。

「わたしがこうやって生きていること、きっと天国のあの子に、恨まれます。黒田さんだって、きっとわたしを許さない。でも、蓮見さんに、感謝してる……これって、矛盾しているんですか。歪んでいるんでしょうか」

「……テオ、君には罪は無い」

「そう言うのは蓮見さんだけです。それなら……蓮見さんにだって、罪は無い」

「人を刺したのに?」

「わたしだって、人を殺した」

「追い詰めたかもしれない、でも拡大解釈だ」

「………………でも、加害者です」

 テオは言葉を絞り出した。口にしているだけで、今すぐにでもこの世界から消えるべきだと、誰かが耳元で叫んでいる気がした。この声は、蓮見にも聞こえているのだろうか……見上げたその表情は、僅かに曇っている。

「正直、他の人に許されたいなんて思わない。ただ俺は、君がこれ以上追い詰められるべきではないと思ってる」

「……それは、蓮見さんも」

「そうだろう。だから、良いんだ。過去は無くならないし、綺麗にはならない。過去は不幸のままで……変わらないんだ」 

 過去は手指をすり抜けて、二度とつかめない。

 汚れきったその上に、わたしたちは立っている。

「だからせめて今だけは、お互いがここまでたどり着いたことを分かち合いたい。そう思うくらい、許しも何も必要ないだろ」


 二人でいる時は、お互い、罪を過去にした、ただの人だ。


 風が二人の間を吹き抜けた。テオは、唇についた髪を手で払いながら、そうですね、と息だけで答える。蓮見は手にしていたメガネを無造作にポケットに入れてから、テオの手を取った。テオもその手を握り返し、蓮見を見上げる。長年引きずり続けた暗闇が、この瞬間だけは溶け落ちていく。さすがに泣きたくは無いと、テオは何度も瞬きをした。でも、いいんだよ、という蓮見の濡れた声が、全てを崩していく。


 項垂れたヒマワリの群れが太陽の沈みと共に影となり、二人を静かに世界から覆い隠した。

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