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TEO  作者: 染井
6/7

どうなってでも、守りたかった


「俺のこと、分かる?」


 見下ろしてくる顔を、テオはよく知っている。

 小学生の頃、あの時、同じクラスにいたのだから。

 なんでも用意すると、あの時も、そして今もテオに言うのは、彼だけだった。

 問いかけに頷くと、彼は手で押さえつけていたテオの両腕を、その体を跨ぐようにして足の脛で押さえ直し、手で「そこの、茶色のタオル取って」と杏に言った。

 杏は顔だけ呆然としたまま、コクコクと顔を上下させて、彼の指さしたタオルを手に取った。そのタオルは、テオの職場と提携している農産業者が、オレンジデーに配った粗品だった。鮮やかな橙色のそれを、テオは使う場所もなく、袋に入ったまま玄関に放置していたのだ。

 彼はそのタオルを、テオの背中側に挟ませた。腕を押さえられた状態で背中からタオルが体を押し上げるように挟まれるものだから、テオは酷く息苦しく感じた。でも、これも何かの罰かと思えば、特に逃げようとは思わなかった。

「テオ」

 目が合う。テオは、彼に告げた。

「包丁を、取って。欲しいもの、なんでもって言ったよね」

「ああ、そうだったね」

「年上かと思った」

「俺はそんなこと、一言も言ってないけど。それに、最初にちゃんと言ったじゃないか、君がテオという名前であることを、知ってるって。……Uh? もしかして俺が老けて見えるってこと?」

「ふざけてるの?」

「違うよ、責めているだけ。酷いってずっと言いたかったよ。忘れているなんて……結局、忘れられなかったみたいだけれど」

「どうして教えなかったの」

「教えたって信じないだろ」

 蓮見は妙に作り物じみた笑顔を浮かべつつ、テオに体重をじわじわかけた。そんなことをしなくても逃げないのに、とテオは不思議に思う。

「包丁……」

「自分で刺す勇気も無いくせに?」

「ある、大丈夫、もう力もついて、次はちゃんと」

 次はちゃんと、償えるから。

 力が足りないのなら、黒田がいればいいじゃないか。

「黒田さんは、どうしてわたしに、良くしてくれたの?」

 問うと、蓮見は「理由探ししか無いだろうね」とごく淡泊に答えた。

「君が自殺に追いやった妹さんをキッカケに、家庭崩壊までしてるし。さすがに出会った瞬間、妹の敵、なんて言って刺し殺すほど黒田さんは……そう、君は、幼かったんだよ」

「どうして黒田さんじゃないのに、分かるの」

「本人に聞いただけだよ。俺だったら刺してる。……杏、もう出ないと、ご両親を待たせちゃうんじゃないの」

 ビク、と杏が体を震わせた。その目がぐらぐらと、蓮見とテオの間を揺れ動く。

 こんな別れになることが、テオにとって残念でならなかった。

「ごめんね」

 その謝罪には、複数の意味があった。まずは、驚かせてしまったこと。杏の部屋の掃除に対する追加の謝意もあったし、そしてなにより、杏に直接は関わっていなくても、虐めをして人を苦しみに追いやった人間としての、虐めを受けた人への懺悔。

 言葉というのは不便だと思う。こんなの、空気の振動であるだけで、なんの贖罪にもならない。杏の嫌う、綺麗事の一つにしかならない。

 杏はきっと、全ての意味を知ることは無いだろう。彼女にとって、突然テオが異常行動を起こしたようにしか見えないのだろうから。

「ごめん」

 謝ったって、過去は変わらない。杏が過去の虐めに歪められているように、テオも人の人生を歪め、取り返しの付かない形に変形させた。

 テオは、償い方を知らなかった。考えれば考えるほど、自分を殺傷する他無いと思った。日本の司法制度には死刑が採用されていることくらい、小学生だって知っている。

 外傷を負ったショックで失神した当時のテオは、しばらく意識レベルの低い時間を送ったが、正常に回復する頃には、思い出すことが困難になっていた。

(……逃げたんだ、わたし)

 逃げたくて逃げた訳じゃない。

 逃げないと、自分ではいられなくなってしまうだけで。逃げないと、生きていくことが怖かった。

 こんな人間になりたくは無かった。ただそう思うのだ。

(これ以上、悪い子になりたくないから)

 人を殺して過程を壊してまで、自己保身に走る自分が、嫌いで嫌いでならなかった。こんな自分が優秀なわけなかった。優秀な皮を被らなければ、ろくに外を歩けないほど汚れきっているのだから、必死に周囲に良い顔をするのだ。

 忘れたくせに、過去に歪んだそのままで生きてきた。

 ただ、当時のテオの所業が、どのような形で着地したのかまでは分からなかった。思い出せないというより、本当に知らないのだろうとテオはうっすら感じていた。幼い子供の間で発生したことだ。情状酌量があったのだろう。そして、テオの起こした行動も、その情状酌量に加担した可能性が高い。

(そんなので、良いの?)

 良いわけ無いだろう。

「杏、行きなさい」

 蓮見の怖い声がした。杏は怯えた顔をして、部屋の外へ出て行った。もう二度と彼女と会うことは無いだろう。こんな形で別れることになるとは、テオは想像もしていなかった。

 杏のことは救えたと思った自分が恨めしい。一歩間違えば、あの時と同じことになっていたかもしれないじゃないか。

 偽善で、人を殺すことの、なんと容易いことか。

「蓮見さん……」

「さん付けしなくてもいいんだよ」

「わたしを刺して、蓮見さんはどうなったの」

「俺? 何も。俺も君も、ただバラバラに転校しただけだ。学校側は大変だったみたいだけど」

「どうなったの?」

「知らなくて良いよ。それは君が忘れているんじゃなくて、多分知らせていないんじゃないかな」

「どうして? わたし……あの子だけじゃない、黒田さんの全部、学校もめちゃくちゃにして、それに、蓮見さんにも」

 蓮見の両手は、床に軽く触れていた。どこも汚れていない。でもあの時、わたしの頼みを聞いたときは、激しく濡れただろう。

「どうして、わたしを刺してくれたの」

「刺して『くれたの』か。OK,質問の多い生徒は好きだよ。その答えが間違っていたとしても、可愛いものだよね」

 その時、ふと部屋の中が暗くなった。

 太陽が暗くなったのかと思ったが、床に倒されたテオには、外の様子を伺う手段が無い。

 蓮見は背後を振り返った。そして、やはり何も変わらない様子で「どうも」と会釈した。

「黒田さん、仕事帰りですか?」

「……どういうことか、説明してもらおうか」

「良い知らせならできますよ。彼女、思い出しましたよ」

 テオは天井を見つめたまま、苦しい呼吸を繰り返していた。いっそ蓮見が押しつぶしてくれないだろうか。そうしたら、黒田に対する、もはや真っ黒に塗りつぶされた感情も、報われるのだろうか。何もかもを勘違いして、のうのうと黒田の近くで暮らしていた自分が恥ずかしい。

 消えたい。

 黒田が視界に現れた。顔をしかめて「退け」と蓮見の肩を強く引く。「ああ、ダメです、解放したら多分、台所に一直線で、グサってやって終わりですよ」と軽い調子で蓮見は答える。

「そんなの、意味無いじゃないですか」

「意味がないなら、お前の行為にも意味がないじゃねえか」

 黒田は、蓮見の肩を見るからに強く、後ろに引いた。さすがに力で逆らえなかったのか、糸の切れたマリオネットのように、蓮見がテオの上から退いた。

 蓮見の思うように、台所に走ってみようかと思った。でもすぐに、自分の足を掴む誰かの手を感じた。まるで監獄の鎖だった。

「お前は俺らのことを良く知ってるからこそ、その斜に構えた態度が鼻に付くんだよ」

「俺は黒田さんをアパートから追い出すこともできましたよ。でもそれをやめたのは、俺たちに余計な手出しをしないって契約を交わしたからじゃないですか。やめてくださいよ、黒田さんに力じゃ俺は勝てないんですから。……ただ側で見ていれば良いんですよ。外野は黙っていてください」

「俺が外野か?」

「外野でしょう。で? テオが思い出したら、どうするつもりだったんです? 俺は黒田さんが何を考えているのか、ずっと疑問でしたよ」

 黒田はテオの側にかがんだ、そして、テオの足を掴む手を……蓮見の手を無理矢理剥がす。

 テオは、唐突に蓮見の手が恋しくなった。気を抜けば、体が勝手に黒田から逃げようとする。そんなんじゃだめなのに。

 いつまでも自分は、自己保身ばかり走る。防衛本能が煩わしい。

 もういっそ、黒田に刺されたい。それでも罪が消えないのは分かる。だからせめて、遺された人の糧として消費されたいというのが、テオの望みの範疇だった。

「何を考えていたか……そうだな、憎い、とだけ」

 テオは手のひらで床をひっかいた。体は動かない。足に力が入らない。恐怖で体のコントロールを一時的に喪失しているのだろう。

 黒田は顔をしかめてから「分かってんだよ」と声を低くした。

「もう何も戻ってこない。過去にばかり見ていたら、今を見失う。失ったものを取り戻そうなんざ、そんなこと……」

「わたし、ずっと、何も知らずに」

「知ってたんだろ。だから俺に深く聞いてこなかった。でも覚えていない顔をしている……そんなお前をどうすれば、俺は、無くしたものを取り返せるか考え続けた」

「なにを、してでも」

「でも、考えても考えても、答えは同じだ。……佐久野天生、お前には、もうなんの価値も無い。過去は変えられない。俺にとってはもう既に、畳の染みみたいなモンだ」

 テオは首を横に振った。どうにかして、少しでも、前に進みたかった。そうでないと、自分がどうしても許せなかった。こんなの、正しいことではなかった。

 でも、悲しいことに、テオにも黒田にできることは思いつかなかった。

(価値が無い……)

 ほんとうに、価値が無いのだ。

「正直、お前が思い出したら、根ほり葉ほり理由を聞こうとも思った。でももうとっくに悟っていたんだ。お前をどうこうしたって、そこに俺の納得する理由なんて無いだ」

 最低な過去の続きに、この暗い今がある。失ったものは戻らず、バラバラになったものは元の形をとっくに忘却した。

 黒田はテオの目を見つめた。

「お前は、俺の妹が憎くて虐めたのか?」

「…………」

「お前には、悪意があったのか?」

「…………」

 声のでない自分が憎らしい。まるで、そうやって罪から逃れようとしているみたいで。

 テオは顔を両手で覆った。頬に爪を立てる。泣くことは許されないのだと、必死に神経を虐めた。

 憎くなかった。悪意は無かった。それが真実なのに、それを口にすれば黒田は何というのだろう?

 あの時の自分の過ちは、許されたくない。

 許される自分でありたくなかっった。間違いは、間違いなのだ。それが消えるなんて耐えられない。

 そんな人間になりたいわけじゃ無かった。

 そんなに汚い人間になりたく無かった。正しくありたかった。でも、正しくあるために……贖うために、自分は汚い人間でなくてはならなかった。

 自分を恨んでいないと、テオはもう自分を認められない。

「わたし、は」

 テオは声をひねり出した。

「あの子を……虐めた。あの子が苦しんでいても構わなかった、可哀想だってレッテルを貼って、自分の承認欲求を、自尊心を満たす道具にした」

 あの時は幼かった。

 でも気づかなかっただけで、もしかしたら、あの時の自分は、分かっていたのではないのか? 今みたいに、こんなに綺麗に、記憶が無かったことになっていたように。

 そうやって、偽善者ぶっていたのではないのか?

「…………、そうか、分かった、もういい」

 黒田の気配が、引いていった。

「俺はお前に、何を期待していたんだろうな」

 夜の明ける空を思い出した。眠れない夜、一生そこに広がっていそうな夜空が薄まっていくのが、テオは嫌いだった。

 黒田の目が持つ、深く暗い穏やかさが好きだった。その暗がりに、テオは知らずの内に、自分の過去に覆い被さる暗闇を重ねていた。

 それが、自分から離れていくのを感じる。

「じゃあな」

 足音が遠ざかるのを聞き届けてから、テオはうめき声を漏らした。同時に、手のひらに溜まっていた涙が、指の合間から床に落ちた。

 ごめんないと、子供のように黒田にすがりたかった。黒田が許したいと思うなら、許されたかった。でも今のテオには、黒田の望みを叶える価値が無かった。

 ……なんて、無力な。

 自分さえいなければ、誰も不幸にならなかったじゃないか。

「テオ、」

「蓮見さんだって」

 蓮見が語りかけてきたのを遮り、「人を刺させてしまった」と吐き捨てた。

「思い悩んだ、でしょ、人殺しだって、誰かに言われたでしょ」

 小学校の悲劇を、誰もが沈黙で貫き通したと考えにくい。どんな事情があったって、字面では「男子児童がクラスメイトの女子児童を刺した」になる。ゴシップに飢えた世界がこのネタをどうおもしろおかしく扱うかなんて、分かり切ったことだ。

「わたしのせいで」

 事情の知らない夥しい世間が、テオ達をどんな目で見て口で叩くかなんて、目を閉じていたって。

(わたしのせいで、全て歪めてしまった)

 蓮見は、テオの手を掴んだ。顔を覆ったまま体を硬くするテオの指を、頬に突き立てた指先を、ゆっくり剥がしていく。

「誰一人、俺のことを責める人はいなかったよ」

「嘘!」

「ほんとう」

「お願い、そういうの、いらない、優しくしないで」

「俺は優しくない。事実を言っているだけだ」

 蓮見はテオの手を握った。涙が二人の手の隙間を伝い落ちた。

 テオは蓮見を見る。未だ朧気な記憶の中の蓮見青年より、ずっと大人になった顔。

「じゃあ、どうして?」

「君は自分で刺したことになってる。君が俺に刺して欲しいと頼んだのを知っているのは、俺だけだ。君は自分で刺したと供述した。俺は君に包丁を運んだだけになってる」

 自力では無理のある場所に刺さったと思うけれどもね、と蓮見は喉の奥を鳴らした。

「君は頭が良い。あの歳でそんな嘘が付けるなんて、才女だとしか俺には思えないけれど。俺もあの時、なんで君がそんなことを言うのか分からなかった。遅れて庇われたことを知ったよ」

「庇ってない」

 事実、庇おうとしたとしても、それはテオの自己満足だ。他人に自殺ほう助をさせた勝手な償いでしかない。必要のない罪を蓮見に被せる必要は無いのだ。

 しかし蓮見は、やけに静かに「違う」と言った。

「テオ、君は自意識が過剰で、衝動的で、正義心に突き動かされる、本当に分かりやすい子供だったよ。自分のせいで誰かを死に追いやったことに気づけば、過剰な行動に出るのが目に見えるくらい」

 でも俺は違った。


 蓮見はテオに微笑み返した。



「俺は、君が刺したくて、刺した」



 さっと部屋が暗い橙に染まった。

 南中の状態でアパートを正面から照らす太陽が、西にゆっくり沈む。強い夕焼けは、アパートを自身の暗がりに追い込む。フローリングは、固まった血と同じ色になり、テオと蓮見の周囲を取り巻いた。

 蓮見の微笑みは変わらない。

「刺したよ。刺したかった。痛いと泣いた君に、もう少しと力を込めたことも、ちゃんと覚えてる」

「…………な、んで」

 うん、と蓮見は相づちを打った。

「分からないよね。良いよ。でもこれだけは知って。君は、君の意図しないところで、本当に俺を庇ったんだ」

 微動だにしなくなったテオを蓮見はゆっくり抱きしめた。その拍子に、テオの背中に張り付いたタオルが床に落ちた。服にうっすら血の染みたそこを、蓮見は撫でた。

「痕になっちゃったね」

 慈しむような声で、蓮見は事実だけを告げる。まるで悪びれもせず、謝ることもなく、テオの体を真綿のように包み込む。

「君は悪くない」

 テオには、蓮見の言っていることが、全てが全て、理解できなかった。

 


* * * 



 少女テオの動きが変わったのを、少年蓮見は感じた。腕にかかる重みが増える。慌ててテオの体を支えると、包丁の差し込みが緩んだのか、ボタボタと音を立てて血が床に落ちて跳ねた。

 体の発達は、男児より女児の方が早い。蓮見はクラスメイトの男児の中では背の高い方だったが、それでもテオと変わらなかった。ましてや、体重はテオの方が少し重いくらいかもしれない。

 蓮見は慎重にテオを床に横たえた。それから刺さったままの包丁の傷口を注意深く観察した。とりあえず、何かしらの臓器が飛び出してくることは無さそうだ。

 うつ伏せの形にして、呼吸の音を確かめる。ショックで呼吸のリズムに乱れはあったが、雑音はしない。刺すにあたり一番心配だったのが肺だった。主要な臓器の少ない背中の右辺りを狙ったが、左右対称に配置された肺を傷つけないかが、一番の課題だった。

 ピッと蓮見の頬に血が吹き飛んできた。テオの不規則な呼吸にあわせて傷口が歪み、包丁との隙間から細い血柱が立つのだ。蓮見はすぐに着ていた上の服を包丁に巻き付けて、服が血を吸って重たくなるのを待った。本来はずっと圧をかけ続けるべきだったが、時間が惜しく、隣の蓮見は理科室の入り口付近に取り付けられたAEDのボックスを開けた。これで三つ階の離れた職員室には通知が入るはずだ。

 テオの服を破くのには苦労した。包丁の刺さった場所は服を巻き込んでおり、服を脱がせるには包丁を抜くか服を切るかしかない。己の非力を早々に認めた蓮見は、家庭科室から包丁と共に持ち出していた裁ちばさみで、ざっくりと服に切れ込みを入れた。

 AEDを取り付けている間に、大人の声がした。大声で叫べば、事務員の澤野が蓮見たちを発見した。

 できれば英語教師の中園教諭が良かった、と蓮見は不運を呪った。中園は養護教諭の免許も持っており、蓮見とも仲が良かったから、信頼できたのだが。澤野はいつも職員室でぼんやりしている、普段何をしているのかよく分からない人間だった。

 しかしさすがの緊急事態に、大人の行動は早かった。あっという間に救急車が手配され、子供である蓮見はテオから離された。念のための蓮見も救急車に乗せられた。

 車内で職員や救急隊から色々と聞かれたが、蓮見は沈黙を保った。意識を取り戻したテオがどう言うのかに、今後の蓮見の行動が左右されるからだった。

 結果的に、蓮見はテオに脅されて包丁を持ってこさせられた、可哀想な男児として取り扱われることになっていた。男としては少々格好の付かない状況だったが、蓮見は、テオがそこまで蓮見にとって都合の良い状況を作り出したことに感動していた。

 佐久野天生は間違いなく、神の贈り物だと思った。

 入学式の頃から、ずっとテオだけは違うと思っていた。天真爛漫で、笑顔が多く、正義感が強い。若干空気の読めないようなところはあったが、その純粋さは、ある程度性根の擦れてくる学年になっても変わらなかった。

 蓮見はどちらかというと、生徒から敬遠される方だった。言動が大人びている、と言えば聞こえは良いが、妙に人を舐めた態度を取る、それこそ擦れた性格をしていた。蓮見は早々に学校生活が退屈であり、この世は下らないという、ある意味子供らしい巨視的な虚無感に苛まれる毎日を送っていた。

 でも、そんな世界の中で、テオだけが常に太陽のように輝いていた。テオは蓮見に対しても態度を変えなかった。体育で男女ペアを作れと言われれば、孤立しそうになった蓮見を一瞬で見つけたし、顔を合わせる度に屈託のない挨拶をした。外連味の無い天真爛漫さが、蓮見が日常を諦めない基礎になっていた。

 テオだけが、次第にクラスに出てこなくなっていた例の女児を気にしていた。周囲は付和雷同も良いところで、テオの勢いに飲み込まれるようにして振る舞っていた。ただ、女児が自殺したことをキッカケに、テオを攻撃し始めたのが残酷だった。

 蓮見にとって、女児の死はどうでも良かった。特に仲が良かったということもなく、正直会話した記憶すら無い。それは、騒ぎ立てる周囲だって同じだろうと、白々しい気持ちで蓮見はクラスメイトを軽蔑した。

 テオの性格は、相性によっては毒になるだろうことは分かっていた。でも考え得る最悪な結果になろうとは、さすがの蓮見も考えていなかった。女児が完全な不登校になって幕を閉じるだろうと高をくくっていたのだが。

 意図的に大人がテオに伝わらないよう、発生した事故(周囲は事件と考えるだろう)の情報をひた隠しにしつつ職員会議をしていることに、蓮見はいち早く気づいた。そして、考えた。時間が無かった。あのエネルギッシュなテオが真実を知ったらどんな手段に出るかなど、悠長に考えている暇もない。蓮見が事を知ったということは、確実に情報は漏れている。特に、職員室に近い一年生……は、頭が追いつかないかもしれないが、二年辺りからはかなり怪しい。最近はネットの影響で、良くも悪くも、口の回りの良い下級生は多い。

 結果的にテオは転校した。蓮見も転校せざるを得なくなった。ただテオは、良心故の過ぎた行動に気を病んで自殺未遂に及んだ、というインパクトを残し、対岸の火事だからと面白おかしく事を見ていた児童を全て黙らせた。大人は、複雑な事の対応に追われた。

 テオが記憶を失っていることは、転校した後に面会に来た以前の担任が漏らした。蓮見は安心した。テオの頭脳は、テオの精神を徹底的に守ることに決めたらしい。

 脳は、精神を司る。誤解されやすいが、決して精神が脳を制御するわけではない。脳はテオという自分自身を守るため、テオの精神がそれを許さなくても、過去から逃避することを選んだ。

 それで良いのだと、蓮見は思った。そして安心した。時間が流れて記憶が虚ろになればなるほど、大切な太陽は、また空に昇るのだろうから。

 そう、記憶など、虚ろになれば良い。

 より強い痛みに傷ついて、丸ごと忘れ去ってしまえば良いのだ……。

 当然、蓮見にも酬いはあった。一般的に見れば、特に男性から見れば、それこそ人生に関わる負債だったが、蓮見はテオの存在さえあれば良いのだと思っていた。

 

 蓮見は神じゃない。全てを仕組むことはできない。

 だから、自分の家族が管理するアパートにテオが入ってきたのは、そしてそれを知ったのは奇跡だった。

 約二十年ぶりに顔を見たとき、蓮見はテオと、どうしようもなかったにしろ、離れていたことを悔やんだ。


 テオは以前の輝きを失い、大人しく気の小さな、常に不安につきまとわれたような目をしていた。

 忘れているはずなのに、その過去はテオをも歪めてしまっていた。

 世の中の理不尽さには、幼い頃から気づいていた。だからあえてその理不尽さを嘆くなんて馬鹿げたことはしなかったが、この時初めて、蓮見は理不尽を呪った。

 確かにテオは、一人の死のきっかけになった。子供らしい正義感で人を傷つけたかもしれない。

 でも実際には、テオは純粋に、人の助けになりたいという気持ちがあっただけじゃないのか。

 テオには、最初から罪なんて無かったのではないか。

 蓮見は、心の底からそう思う。幼いころの確信は、ずっと蓮見の中で続いていた。

 理解されなくたって良かった。肩入れをしているとか、思い違いをしているとか、幼いころの思い出に目が眩んでいると言われても構わなかった。実際に、目は眩んでいるだろう。おしまい、蓮見にとっては、テオの存在が太陽なのだから。

 自分に対して、刺して『くれた』などと言うテオの愚かさも含めて、見るからに抱えているその一途な激しい自己嫌悪も含めて、愛しかった。昔の頃と変わらない、眩しいくらいの激しさが、そこだけ生き残っていた。

 記憶が無くなったって、目に見えた輝きが失われていたって、人は簡単には変わらない。それを彼女は不幸と感じるかもしれないが、残念ながら蓮見は違う。

 

「テオ。君は何も悪くないんだ」


 この言葉の真意が届かない、行き場の無いやるせなさが、蓮見に背負わされた十字架だった。


 蓮見は目を閉じるたびに、テオを刺したときの色が見える。

 

 刺した瞬間、ここまですれば誰もこれ以上テオを傷つけることが無いという安堵と、小さな体から大量の暖かな血が流れ出ていくおぞましさが、いっぺんに両腕を這い上がっていく感触を思い出す。

 そうしてでも、守りたかった。



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