最初から自分なんかいなければ、みんな幸せだった。
優しいね、と頭を撫でる教師の手が心地よい。
その手に笑いつつ「これでもっと元気になるかな」と、掲げた赤い折り紙を胸の前で抱きしめた。
テオの学年には、不登校気味の児童がいた。数日は登校していたのだが、いつも暗い顔をして、何かに怯えているようだった。
仲間外れはいけない。だからテオは、その手を引っ張って、いつも昼休みに外に遊びに行った。
「いいよ、テオちゃん、外は嫌だから」
「そんなことないよ! 怖くないよ、わたし付いてるから!」
いつも怯えているその子を守らなくては、という、子供ながらも正義感に溢れ、テオは毎日張り切っていた。様々な学年が入り交じったドッヂボールに誘って、ボールを当てられて泣きじゃくるその子を保健室に連れて行ったし、行きたくないと怖がる授業に、一緒について行くからと必死に背中を押した。
困っている子は、助けなくちゃいけないから。
次第にその子は学校を休むようになり、テオがその子の笑顔を思い出せなくなるくらい長い間、学校に出てこなかった。
テオは毎日手紙を書いて、教師に預けた。教師は「いつか来たら渡そうね」とそれを、紙の箱に入れて貯めていた。大量の手紙を目の前にして喜ぶあの子の顔が早く見たくて、テオは毎日「あの子が元気になりますように」と空に願った。
褒められるのが嬉しかった。喜ばれるのが嬉しかった。嬉しいから、どんどんやった。
それは善意だったが、主観的なものに違いない。
そういうのを、偽善と言うのだと、当時のテオは知らなかった。
ついに、あの子が登校してくるらしい。
テオには直接その情報は入らなかったが、同じクラスの子が職員室でそんな話を聞いたらしく、その噂はすぐに耳に届いた。
テオは、折り紙でいくつも花を折った。それで、あの子の机を飾り付けた。親にねだって、少し高い金色の折り紙まで買ってもらった。親は、友達のこと大切にしていて偉いね、とテオのことを褒めた。
テオの世界は、何一つ間違えていなかった。友達のことを大切にする、という大儀をもって、その倫理的祝福のど真ん中に立っていた。
果たして、噂通りあの子は教室に戻ってきた。正確には、保健室登校になるから、その時に必要な荷物を自分で教室に取りに行こう、という話になっただけのことらしいが。
テオは、あの子の机の上を、これでもかと飾り付けた。早く一緒に遊びたい、テストでいい点数をとれるように一緒に勉強したい、一緒に笑顔になりたいと、机に直接書き付けた。
あの子は、その机を見た。表情は変わらなかった。ひどく穏やかで……いや、静かで、波風一つ立たせず、リアクションの期待に満ちたテオのことを見た。
テオはかすかに、そういえばこの子はどんな顔をして笑うんだっけ、と記憶を探った。何も出てこなかった。
「いいよね、テオちゃんって」
それだけを言って、あの子は去った。
テオは訳も分からずに泣いた。クラスの誰もがテオを慰めた。あいつ反応悪いって、と貶し、テオは正しいことをしたと言った。
そして、その子は本当の意味で、この世を去っていった。
残ったのは、授業のプリントの裏側に書き残した、遺書と言えるのか分からないくらいの文章。
詳細をテオは知らない。ただそこには、テオの存在が苦痛であったことと、テオを中心としてクラスの誰もが悪口を言ってきた旨が書いてあったらしい。
実際にクラスの誰がそんな情報を仕入れて広げたのかは分からない。でも、噂は瞬く間に広がり、誰もが「テオちゃんが泣いているから言っただけで自分は虐めていない」と言った。
テオは、誰もが嘘をついているとは思わなかった。あの子の手紙も、周囲のクラスメイトも、誰もが正しいことを言っているとしか思えなかった。
だって自分が、一番あの子に話しかけて、嫌がるその手を引っ張っていたのだから。あの子の笑顔が思い出せないくらい、否、知らないくらい、無理を強いた。
だって自分が泣いたから、クラスの誰もが、今までそんなことを一言も口にしなかったのに、途端にあの子のことを悪く言い始めたのだから。
テオは分からなかった。テオは、良いことをしているつもりだった。悪意は無かった。ただ誰かに喜ばれたくて、そして褒められたかった。でも、止まらない現実に直面した時に、全てが間違っていたことにようやく気づいたのだ。
泣かないで。何か欲しい物はある? テオの好きなもの、なんでも用意するから。
そんなことを確か、誰かに言われたのだった。
テオは、剣か銃か包丁が欲しいと言った。きっと、誰もが望んでいるだろうからと。
手に入ったのは、包丁だった。確か、五年生か六年生になると、家庭科の授業で調理実習があるとのことだった。普段は鍵のかかった家庭科室からどうやって持ち出したかは知らなかったが、テオにとってどうでも良かった。
先生、みんな、そして友達だと思って疑わなかったあの子に、贖いたかった。
自分は良い人間であると、ずっと思っていた。誰にでも褒められる、立派ないい子なんだと。自分がどこで間違えたのかが分からず、でも、誰もがテオを悪いと思っていることは、子供ながら感じていた。
恐怖はあった。前からは難しかった。背中は都合の良い的だった。でも背中なんて、自分では届かない。
「刺して、お願い」
包丁が躯を裂く感覚が愛おしかった。
全部、自分さえいなければ良かったのだ。
これで、皆は喜んでくれるのだ。きっと、あの子も。
本当は、最初から自分なんかいなければ、みんな幸せだった。