無条件に優しい人なんていない
「助かったよ」
蓮見は、杏を布団にゆっくり降ろしてから、力の抜けた笑みを見せた。
「俺はちょっと複雑な立ち位置だったから、どうしようもなくって。やっぱり君にお願いして正解だった」
「…………」
どことない気まずさが口の中に残っている。杏の気持ちも、蓮見の気持ちも、どちらに大きな間違いは無いのだろう。それでも何故か、これで良いのだと飲み込むには大きな固まりが喉に詰まっている。
沈黙したままでいると、蓮見はテオに外に出るよう促した。先に部屋を出ると、蓮見はどこから持ってきたか部屋の鍵を持ってきて、玄関の鍵を外から閉め、ポストに鍵を戻した。
「どうしてそんな顔をしてるんだい?」
「……いえ、あの、蓮見さんは……除骸ちゃんのこと、どう思ってるのかなって」
「手のかかる子ってくらいかな」
「…………」
「I know,俺だって優しくしたいよ。杏は被害者なんだと訴えている。傷ついていることは確かだしね。……だからといっても、俺は君と殆ど同じ立場の人間で、実際の状況は知らない。俺が杏と知り合った時には、もうあの状態だった。だから、優しくしたところで、それが正しいかも分からないんだ」
蓮見が、横倒しになった紙袋を拾い上げた。それを杏の部屋のドアノブに提げてから、行こうか、と歩き出した。目に痛い幾何学模様の服が視界の端にちらつくのをどことなく見ながら、テオは後について行く。
「本当はね、君ならああやって、なんの事情も理解せずに杏の壁の紙を剥がすと思ったし、暴言を吐くだけ吐いて泣く杏を抱きしめてくれると思ったから、声をかけたんだ」
「えっ」
テオは足を止めた。蓮見は「ゴメン」と、あまり悪びれた様子はなく、階段を下りきった。
「君はすぐに、あの壁は杏の体にとって良くないって思うだろうし、そもそもあんな大学生を放置するような性格をしていないじゃないか」
「それは、蓮見さんだってそうじゃないんですか」
「考えはするけれど、それまでだ。親父に言いつけられてもいるから関わりは持つけれど、そうでなければスルーだよ」
テオは口の中を舐めた。苦いを通り越して、舌が痺れるような感覚がする。喉が乾いたが、飲み込む唾液すら無い。
蓮見自身が言っていたことだが、本当は、黒田みたいな人が杏の面倒を見ていれば良かったのかもしれない。
「でも君は違うね。君は正義感が強いし、良い人なんだよ」
「……わたしのこと、優秀って思いますか」
「思うよ。というか、前言わなかったっけ」
「……偽善って思わないんですか」
「あはは。卑屈だとは思うかな。杏に言われたことを引きずってる? あの子はひねくれているし、感情的だから」
いや、とテオは心の中で首を振った。
杏の言ったことを全て真に受けるつもりは無い。彼女にある程度の認知の歪みがあることは、客観的に理解している。
でも、ずっと痛むのだ。
(どうして……)
立ち止まっている訳にもいかず、蓮見の後を追って階段を下りていく。蓮見はテオを見上げながら「それと、考えておいてね」と人差し指を立てた。
「なにをですか?」
「なにって、この前のお礼。欲しいものとかあれば、何でも用意するから」
「それって、わたしが無理難題を言ったらどうするんですか?」
蓮見は、綺麗に笑った。
「君はそういうこと、言わないから」
どうしてその言葉に、これほど自己嫌悪を感じるのだろうか。
* * *
意外なことに、次は杏の方からテオを尋ねてきた。杏は、いつもの作業着ではなく、まだ折り目の付いた新しいTシャツを着ていた。いつも身にまとっている薬品の臭いもなく、髪は二つの緩い三つ編みに束ねていた。
こうしていると、本当にファッションモデルの一つでもできそうだが、この容姿も虐められる原因になったのだろうか。
テオが理不尽の味を噛みしめていると「ちょっと、あの、話だけしようかなって、思って」と杏はシャツの裾を引っ張りつつ、言った。
「ごめんなさい。迷惑、色々かけてしまって」
それに、ゼリーもありがとうございます。
丁寧に頭を下げると揺れる三つ編みが、まだ過ぎ去らない鬱陶しい熱風に揺らされる。
杏はかなり落ち着いているように見えた。「佐久野さんに綺麗にしてもらってから、喘息が良くなりました」とはにかんだ顔も、前見たときよりもずっと血色が良くなっている。
「壁にはまた紙を貼っちゃっていますけど、たまに変えようって思ってますし、ぬいぐるみもちゃんと洗います」
「そ、そっか……」
テオは漠然とした落ち着きなさを感じながらも、素直に嬉しいとも思っていた。雨降って地固まるというのが、これなのだろうか。
「でも、わたしこそ申し訳ないことしたって、今でも思ってて」
「そんなこと無いです。なんか……ハスミン……蓮見、さん、に、来てもらっていた時より、ちょっと、スッキリしちゃいました。それで、ずっと蓮見さん、甘えるなって言い続けてたんだって今気づいて」
「蓮見さんは厳しすぎるよ」
「そうだったかもしれませんが、でも、そうじゃないとダメだったんだなって。結局、佐久野さんに甘えちゃいましたけど、でもそれでようやく、ちょっとは、受け入れられたかも……」
自分で理解していても、理不尽な現実を受け入れるのが難しかった。
「今だって、どうしてって思いますけど。でも、理不尽な現実だから、佐久野さんは、こんな自分を抱きしめてくれたんだって思いました。あんなに酷いことをしたら皆離れていくのに。佐久野さんって、理不尽ですよね、良い意味で」
これって褒められてるんだよね?
複雑になりながらも、晴れやかな杏の顔を見ているとどうでも良くなってくるから、人の心というのはある程度単純だ。
「除骸……じゃなくて、私。私は、今日もうアパートを出て行くんです」
「えっ」
それこそ、青天の霹靂だった。
杏はどうやら、親にずっと帰ってくるよう言われていたらしかった。それを無視して、このアパートに籠もっていたらしい。それも全て一度精算してやり直すのだと、杏は未だに服の裾を握りしめながらテオに告げた。
「たまに親が家に来てたんですけど、絶対出てなかったんです。私が玄関を開けてたのは、ハスミン……蓮見さんか、それか、佐久野さんが来た時だけなんです」
「そうなの?」
「味で誰が来たか分かるんです。基本的には文字ですけど、人の気配にもうっすら、味を感じることもあるんです。蓮見さんと佐久野さんは、同じなんです。だから好きで、文字も壁に貼ってたんです」
蓮見は杏のシナスタジアに懐疑的だが、テオには杏が嘘をついているとは思わなかった。そんなことが可能なのか、とは思うが、不思議な説得力が杏にはある。
(尋ねたとき、ハスミン? って聞かれたこともあったし)
その理論だと、杏はテオだから玄関を開けたのではなく、蓮見と見分け(味分け?)がつかないから、玄関を開けていたことになるが。細かいことを気にしたら負けだろう。
それで結局大団円なら、それで良いのだ。
「あと、黒田さんにとって価値が無いって言ったのも、謝りたくて」
「ああ、そんなこと」
「だって佐久野さん、黒田さん好きなんじゃないですか。黒田さんだって、凄い大事にしてるって、蓮見さんから聞きました。それも私、悔しくなって、あんな酷いことを言ってしまって」
テオは目を泳がせた。あの管理人は、余計な情報を杏に吹き込みすぎだ。それと同時に、杏の言葉を積極的に否定しようとしない自分にも辟易した。
黒田は優しい。杏にとってテオがそうだったように、テオにとって黒田は理不尽だった。
ふと上を見上げた。今朝も黒田に会った。いつも通り、お互いの顔を見て、特に深い話をすることもなく、今日は黒田が先にアパートを出て行った。テオは基本的に土日は休みだが、日雇いを転々とする黒田にそういったルールは無い。
踏み出さず、踏み込まず。そのはずなのに、奥深くにまで染み込んでくるような黒い存在が、テオの毎日に根付いている。
杏はテオの顔を見て、いたずらっぽく「佐久野さんがいて、きっと黒田さんは良かったと思います」と笑った。
「黒田さん、年の離れた妹がいたんですって。でもその子も……私みたいに学校に馴染めなくって虐められちゃったみたいで。それで、幼い頃に、亡くしたって」
「…………そうなんだ」
「それを苦にしたのか、家が離婚でバラバラになって、黒田さんはこのアパートに来たって……あっ、ごめんなさい、ここだけの話で! 蓮見さんに怒られちゃう。最近ちょっと、そう聞いたから」
(知らなかった)
テオは、扉のドアノブにかけたままの手を握り拳にした。自分にたまたま縁が無かっただけで、杏や黒田の妹のような人は、驚くほどどこにでも存在している。杏が、このアパートには『ヤバい人』しかいないと言ったのは、黒田も当然のように含んでいたらしかった。
「でも、黒田さんが探していたのが、佐久野さんみたいな人で良かった。てっきり、いじめた子を探し出して復讐しようとしてるのかな、とか思っていたので。全然違いました、そんなワケ無いですよね」
自分の手が不思議と冷たいことに、テオは気づいた。いつのまにここまで力が入っていたのかと緩めようとしたが、何故か手はドアノブを離さない。
年の離れた妹……黒田……大丈夫、本当に覚えていない。
「ちなみに、そのいじめっ子のことは」
知ってる? という言葉が、喉の奥に粘りついた。
「さすがに知りませんよ。でも、なんでしたっけ、凄い話を……そうだ、なんか、自分で背中に包丁を刺しちゃって、もうそれで大変だったみたいで。周りの同情引きまくって、それなりの制裁は受けたと判断されたのか、こっちも可哀想だったとか、そんな感じでうやむやになったらしいですよ。いじめる人間って、ほんっと全員くたばれば良いのに」
背中を、包丁で。
テオは、拳にした手の内側にドアノブが食い込むのを感じた。
「それって、黒田さんの妹さんが、いつ頃の……?」
「え? えーっと、えっと」
杏は眉間に深い皺を寄せて、多分だけど、と声を細くした。
「小学生だったっけ」
背中の、傷が痛い。ずっと。
木々の揺らぐ音が、風と共に耳元をかき乱していった。次第に大きくなっていくその音が怖い。早く、あの静けさに、穏やかさの元に戻りたい。暗い、星の光ひとつない、あの吸い込まれそうな目を見たい。
風が、耳元で唸っている。
テオと呼ぶ声が、どこからか聞こえてきた気がした。でも聞こえなくたって、あの声を、いつでも鮮明に、テオは脳内で繰り返すことができる。
出会った瞬間に、覚えているかと尋ねられた。でも本当に記憶が無く、ただ背中から広がる赤い液体の感触だけを記憶していて。
親は何も言わなかった。だから聞かなかった?
そんなわけ無い。
聞けなかったのだ。親が何を思っているかなんて。
黒田にだって、聞けなかった。
ただの偶然?
無条件に優しい人なんて、いない。
そんな都合の良い理不尽が、本当にあるのか?
大団円であれば良いのか?
黒田が特別テオを気にかける優しさの裏に、何もカラクリが無いなんて、そんなことがあるのか?
杏のことを抱きしめテオには、純粋な優しさしか無かったのか?
(ああ……死ねばいいのに……)
テオは、自分の内側がゆっくり冷めていくのを感じた。
「わたし…………」
気持ちが悪い。
記憶が無かったのは、本当のことだった、はずだ。その癖に、頭では分かっていたのだ。
本当に記憶が無い、でも、覚えていることを知っている。忘れてなんかいない、でも記憶に無いのだ。矛盾が全て一つの体に入っている。この強烈な違和感。
知っているのに、知らない。そんな気味の悪さが、自分の内側からせり上がってくるのを、ゆっくりと首を締め付けてくる感触を、テオは確かに感じていた。
このままでは、内側から千切れる。
「……佐久野さん?」
「いや、なんでも、ない」
テオは後ろに下がった。数歩歩くと、玄関の段差にかかとがぶつかる。サンダルが脱げて、尻餅をついた。
杏が部屋に入ってくる。テオに両手を伸ばしつつ、何かを言っている。でもそれより、耳元で唸る風の音が、部屋の中へ追いすがってくる。
知らないです正しいことしただけですって善人ぶった顔して、ひっかき回すだけひっかき回す。
偽善者は死ね。
どうして虐めたやつは全員忘れて、綺麗な心をして生きてるの? 虐めなんか知りませんって顔して。悪いことしてないって、ずっと言い訳して、それがどうして通ったの?
(違う、これは、わたしに向けられた言葉じゃない)
テオは爪を立てる。耳元が騒がしい。体が風に揺らされている。
知らない、違う、何も記憶に残っていないのだ。でも、分かっている、もう、全部……。
「佐久野さん!」
杏の悲鳴。いつのまにか杏がテオの両腕を掴んで、テオを激しく揺らしていた。
「やめて!」
「え……別に、なにも」
なんでもないから、と、テオの腕に手をかけた。その手から、不意に赤い色が杏の服に染み込む。
「あれ……」
テオは自分の手を目の前に持ってくる。
右手の人差し指と中指に付いたそれが、肘まで一気に伝い落ち、フローリングに落ちた。肌の上では安っぽい赤色をしたそれが、フローリングの上では黒い染みに変わった。
痛い。
「痛い……」
「佐久野さん、背中が」
「背中……」
そう、背中が、傷痕がずっと。
「だめ、もうそれ以上引っかいちゃだめ!」
引っかいたって届きはしない。もっと奥の痛みには届かない。掘り起こそうとしたって、これ以上強く爪を立てたって。
杏に捕まれた手を見る。赤い。でも大したことは無い。爪の間に満ちた赤よりも、もっと大量に見たことがある。このくらいで人は死なない。杏は大げさだ。
テオは、体をひねって後ろを見た。そこには、つるっとしたフローリングしか無い。掃除はされている。服が肌に張り付いて、傷口を引っ張る感覚がした。テオは服をまくり、引っ張る。肌着に赤色がべったりと付き、白い何か分からない組織も付着していた。
(傷痕、引っかいてたんだ)
テオは、見た目よりもその傷が深くないことを、知っている。
ドラマや小説、そして実際に見ていた人間にとって、包丁が体に突き刺さる感覚を「スルリ」と表現することが多いが、実際に体の内側に入るそれは、テオが表現するなら「ブツブツッ」に近い。
幼い躯で比較的柔らかくても、刺す人間も幼ければ刺すには力が必要だった。三徳包丁の刃渡りは百六十センチ程度で、その全ては刺さりきらなかった。
かなり出血はしたが。
(そうしたら、許してくれるんじゃないかって)
刺された瞬間の痛みこそ、記憶が無かった。それよりも、これで良いという安心感と一種の興奮に包まれて、当時のテオには世界が輝いて見えていた。
玩具みたいな赤色が足下に広がっていくのが、眩しかった。
「テオ」
声がした。
体が勝手に、声とは逆の方向へ乗り出した。それでもすぐに腕を捕まれ、思い切り床に叩きつけられた。
痛みは感じなかった。それよりももっと、別のところが痛い、細胞の一つ一つが膨れて、膿んで、爛れていく感触。
(痛い)
助けて、と誰かに手を伸ばす資格なんて、無いのだ。
これで良いのだという安心感が、あの時の記憶が、痛みの陰に隠れてテオを誘っている。もっと痛めば良いとすら思うくらいの誘惑。
視界が赤く染まる。