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TEO  作者: 染井
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時折捨ててしまいたくなるくらい恨めしい


 床が綺麗な状態で良かった。そう考えているところで、既に現実逃避が始まっていることをテオは自覚していた。

 蓮見が杏をなだめている。その声を背後に聞きながら、ゆっくり体を起こした。とっさに手が出たために顔が床に激突することは免れたが、手のひらと、衝撃を殺しきれずにぶつかった肘が痛みに痺れている。

「この人も、そうやって、勝手ばっかりしてすぐに除骸のことを壊すんだ!」

 半狂乱になった杏の悲鳴。

「落ち着いて、掃除してくれただけじゃないか!」

「なんでダメなの! 最低限は守ったよ! 煙草の吸い殻はこぼさなかったし、ゴキブリは出ないようにしてた、だからってどうしてそんなことするの!」

「誰も責めてないよ」

「じゃあどうして全部剥がしたの? 除骸が嫌いだから?」

「そんなことは無いだろ。君は嫌われることが怖いから、だから勘違いしているんだよ」

「うるさい!はやくあの人を追い出して! ……離してっ!」

 杏は蓮見の腕に噛みつく。蓮見は特に表情を変えずに「ごめん、 またこのお礼は後でするから」とテオに目配せをした。

「ご、ごめんなさい、あの、杏ちゃん……」

「杏じゃない!」

 さっきまでテオに対しては比較的柔らかい態度をしていたはずだったが、既に見る影も無い状態だった。杏が冷静じゃないのは確かで、テオは逆鱗に触れてしまったらしかった。

 でも、あんなに体調の悪そうな杏を見ていたら、さすがに放置できなかったのだ。

「除骸ちゃん、でも、体が辛いのはきっと、あの壁とか、ぬいぐるみが……」

「ぬいぐるみ……ねえハスミン! あのぬいぐるみどこやったの!」

「洗濯してくれたんだよ。ちゃんと手洗いで……」

「なんで勝手にそんなことするの? 壊れたらどうしてくれるの? 別に床の新聞紙変えるのはどうでも良いけど、なんで他に余計なことするの! こっちは頼んでないのに!」

 もう何を言っても逆鱗に触れるようだった。

 嫌な汗が背中に溜まるのを感じる。確かに杏は掃除を頼んでいない。でもそれを言うなら、テオだって自分から掃除に参加したわけでもない。

 だからといって、手を出しすぎたのかもしれない。テオは蓮見とは違い、彼女にとって部外者だ。

 乱々と輝く血走った目で、杏はテオを睨んだ。

「体に悪そうだからとか、世間体が良くないとか、そういう理由で滅茶苦茶にする奴、大っっ嫌いなの!知らないです正しいことしただけですって善人ぶった顔して、ひっかき回すだけひっかき回す、除骸のこと虐めた奴と何の違いあんの? 偽善者は死ねっ、佐久野天生、死ね!」

 悲鳴は止まらない。部屋の物を勝手にいじられることに対する怒りは理解できるが、杏の血走った目には、それ以外の混沌とした狂乱があった。

 痛い、とテオは背中に手を当てた。その服の下、歪な三日月の形に添って、痛みが走っている。背中の汗が古傷に染みたのだろうか。

 思い出せない傷が、今になって膿み始めたようなじゅくじゅくした痛みを訴えてくる。痛みばかりが残っていて、その他のことがなにも見えてこない。

「なんだお前」

「!」

 開けっ放しだった玄関から入ってきた存在に、杏をなだめ続けていた蓮見が見るからに表情を曇らせた。

「うるせえ、声がダダ漏れだ。それに、テオが、何だ?」

 最悪だ、タイミングが悪い……そう思う一方で、思わず救いを求める目をしてしまった自分自身を、テオは恨んだ。

 黒田は土足のままだった。杏のことを一瞥してから「テオ」とその腕を掴む。

「黒田さんと行って」

 蓮見はそう言った。どちらかというと、黒田をこの場から連れて行ってくれと、そういうニュアンスの強い、焦りのある声だった。

 テオはすぐに黒田の体を玄関の方へ押した。一瞬黒田は杏に目をもう一度戻したが「お願い、出たいんです」というテオの訴えに、とうとう無言で応じた。

 外は既に陽が落ちつつあった。空気が甘く感じる。無心で階段を下りて部屋の前までたどり着いた。おい、と黒田が呼びかけてきたが、うまく喋ることができない気がして「すみません、また今度」とドアノブをひねった。

 扉は、テオを拒んだ。どうやら鍵がかかっているらしい。杏はテオの部屋で休息をとった後、きちんと鍵をかけてから出てきたらしい。鍵は受け取っていない。恐らく、まだ杏が持っている。

「いい加減、説明しろ」

 黒田が流石に苛立ちを募らせた。この状態から逃げられないことを悟り、テオはできる限り冷静に、状況を説明した。

 説明している最中、テオは何度も記憶に問いかけた。自分はどこで間違えたのか。やはり出過ぎた真似をしたのか、そもそも杏を部屋で休ませなければ……そして、最初に蓮見の頼みを断れていれば、という後悔にたどり着くのだった。

 痛い。

 説明をしながら、テオは背中に手を当てていた。さっきからずっと、我慢はできても無視はできない程度の痛みが続いている。思わず服の下に手を入れて爪を立ててみたが、厚くなった皮の下の痛みには届かなかった。

「とりあえず、俺の部屋でシャワー入れ。薬品臭ぇぞ。……まあ着替えなんざ、俺の服でも着ておけばいい。ひとまず、冷静になれ」

 驚くくらい、黒田の指摘は真っ当だった。杏の部屋に姿を見せた瞬間、黒田が何かをしでかすのではないかとテオは慌てたものだが、冷静を欠いていたのはテオの方だったらしい。

 結局テオは黒田の部屋のシャワーを借りた。黒田の部屋は物が最低限しか無く、浴室にはシャンプーとボディソープと歯ブラシだけが置いてあった。そして、テオの部屋と同じく、鏡が壁に埋め込まれていた。

 鏡で自分の背中を確認する。傷痕はいつもと同じように、ぬめっとした白っぽい色で、そこに三日月模様を描いていた。赤く腫れている様子も、膿んでいる様子も無い。

(痛い……)

 まだ皮膚の下で、断続的な痛みの拍動が続いていた。テオは慎重に体を洗ってから、借りたタオルと服を身にまとう。下着は無いが、厚手のスウェットを借りて、ようやく一息つくことになった。

 黒田は部屋でぼんやりとしていた。テオが身なりを最低限整えて出てきたところで「この部屋にはドライヤーなんて気の利くものは無いぜ」と立ち上がった。

「そこ座れ」

「え、あの、タオル……」

「頭乾かしてやるから、水飲め」

「あの、頭そうされてると、水、飲みにくっ」

「早くしろ」

「い、痛いです、もうちょっと優しく」

「テオ」

「…………」

 子供みたいだ、とテオは慎重にコップに口をつけながら、拭いきれない恥ずかしさを噛み潰す。自分はどうやら、黒田を目の前にすると、少し幼くなる……そんな気がする。黒田より年下であろうと、こちらもそれなりに年を重ねた人間なのだが。

 子供の頃のことは、断片的に覚えている。両親から聞いた話を、自分の記憶としているのかもしれないが……幼稚園のころに家族で行ったイチゴ狩りで食べ過ぎてお腹を壊したとか、卒園式で泣きわめいて先生が総出で慰めてくれたとか、中学の時に初めてテストで一番を取ったとか。

 小学生のことは、あまり覚えていない。そこまで活発な子供ではなかったと思う。先生との関係は良好だったはずだ。そのくらいの、記憶と言うよりは印象というものしか無い。

「テオ?」

「あっ……ごめんなさい、あの、ありがとうございました」

 すっかり髪は乾いていた。手櫛で整えると、まあなんとか、という状態にはなる。コンディショナーが無かったから、少しパサついている。

 黒田は洗濯機へタオルを放り込んでから「どこか痛むのか」と顔をしかめた。

 まず、ぶつけた肘がまだ痛む。見てみると、痣になっていた。これは仕方ないだろう。でもそれより、背中の傷痕が、未だに何かを訴え続けている。あまりにも突然で気づかなかったが、杏は傷痕を叩く形でテオを突き飛ばしたのかもしれない。

「……あんな、怒るなんんて」

「除骸は『見たものが味になる』」

「え?」

「シナスタジア。共感覚ってやつだ。アレは他とは違うんだよ」

 黒田はテオの横に腰を下ろした。そして、スマートフォンの画面をこちらに見せてきた。

 そこには、杏の作品と顔写真、そしてプロフィールが載っていた。

 どうやら、杏が『除骸』として運営している個人サイトのようだった。


 ……昔から、味に惑わされてきました。誰もが、見るもの全てに味を感じていないことに気づいたのは小学生の頃です。それが原因で虐められたこともありました。今では、自分にしかできない表現を追い求めています。そんな私の作品を、一つでも多く見ていただきたいと思います。……


 杏はかなり大型の作品を手がけるようで、中にはイベントに招待されて、大きな幕にその場でイラストを描くというパフォーマンスもしているようだった。

 晴れやかな笑顔の写真が、作品の横に浮かんでいる。その手には、なぜか重たそうな辞典らしき本があり、付箋がおびただしい量貼られている。好きな味のする文字をストックしているのだということを、リンクが貼ってあったインタビューの中で知った。

 文字のストック。

 だから、あの部屋の壁が、あんなことに。

「……悪いこと、しちゃったみたいで」

「蓮見から何も聞かなかったんだろ? 確かに人の病気のあれこれ他人が語るのは御法度だろうが、説明した方が良かった。テオのせいじゃない」

「…………でも」

 確かに蓮見は、テオのやることを止めなかった。それはきっと蓮見も、あの壁のことを、いくら大切なストックでも、杏の体にとって良くないものだと思っていたからだろう。

「というか、何も知らないテオにやらせるために、利用したんじゃねぇだろうな」

「や、それは考えすぎ……だってあの壁、実際見たらびっくりすると思いますよ、ほんと分厚くって、紙粉も出放題で。蓮見さんがそれをどうかしたいと思うのも分かりますし、わたしもあれはどうにかしなくちゃって思ってて」

「でも蓮見は床しかやってなかったんだろ」

「一人じゃあの作業量、無理ですよ」

「どちらにせよ、作業を止めなかった蓮見の責任だ。思い詰めるな」

「…………でも」


 知らないです正しいことしただけですって善人ぶった顔して、ひっかき回すだけひっかき回す。

 死ねっ、佐久野天生、死ね!


 杏には明らかに、過去に傷があった。

 その傷を、テオは知らずとも、かなり的確に刺してしまったようだ。

「もう杏には会うな。蓮見の言うことになんでも従う必要も無い」

「…………でも、ほんと、申し訳なくって。無神経なこと、しちゃったなと」

 背中の傷が痛い。

 目を閉じると、瞼の裏が真っ赤になっていた。絵の具から出したような嘘っぽい赤が広がっていく、そうな気がした。

 ああ、懐かしい妄想。

 背中から血が出ている。床に溢れていく。学校の先生が、友達が、下級生が、同級生が、みんな見ている……。 ずる、と体が落ちていく感覚。血が抜けすぎたのか、目眩を起こしているのかもしれない。

 もう手遅れだから、ずっと落ちていけば良い。先生だけじゃない、クラスメイトの友達にも、上級生にも下級生にも、見せしめのように。

 落ちていきたいのだ。


 そのくらいのことをしたのだ、だから、何をされてでも許されたくて。


「…………?」

「テオ」

 傷痕に触れた手に、黒田の手が重なった。肌が硬い。黒田は日雇いを繰り返しているが、やはり体を酷使することが多いようで、仕事帰りに出くわすと、たまに怪我をしたと言うことも多かった。顔にある傷痕ほど酷い怪我はなくとも、手はよく怪我をするようで、肌には無数のうすら白い線ができて、硬くコツコツしていた。

 黒田の手が、テオの手をそっと押しのけて、服の下に入った。それでもテオはじっとしていた。そこまでこの男を信じることになったのかと、まるで別人のことを見ている気分になっていた。

 黒田は傷口に触れて「結構デカいな」と、その形をなぞる。

「黒田さんの顔のそれと同じくらいじゃないですか」

「それでも、こっちの方が幾分か深いだろ」

 触って分かるものなのか、傷ができたことを知っているのか。黒田は「本当に覚えていないのか」と穏やかな声で囁いた。

 何も覚えていない。それが残念で、切なくて。

「思い出すことは、本当に何も?」

 黒田の手の感触は、白く盛り上がった傷痕の中央当たりで途切れる。その辺りは、感覚が鈍くなっている。

 成熟瘢痕は基本的に自然治癒はしない。気がついた頃から、傷痕の中央当たりに感覚は無かったのだが、かなり時間がたった今も戻ってきていない……これほど、傷痕の奥に、未だに痛みがとぐろを巻いているのに、傷痕自体には表面の形ばかりで他に何も残っていない。

 これは諦めに近かったが、もうこの傷痕の感覚も記憶も戻ることはないのだろうとテオは考えていた。特に両親もテオに詳しく語ることはなかったし、両親の様子を見て、あまり触れるような話ではないのかもしれないと思って育った。

 だからかもしれない。黒田にも、この傷の何を知っているのか、尋ねられないのは。無駄な徒労になることが、目に見えて。

「黒田さんは、その傷、何したんですか?」

「質問に質問で返すな」

 黒田は不満そうだったが「ただ転んだ」と答えた。それ以上は語らない。誰も彼も、傷については喋りたがらない。それとも、語るべきほどのものでも無いのか。

 なんとなく、黒田が見せてきた杏のサイトにあった作品を思い出した。杏の作風は、かなり派手だった。それこそ傷口を思わせる、コントラストの強い赤をこれでもかと大きな画面に主張させた、生々しい画面。

 あれは傷なのだろう。

 あの作り物じみた露骨な赤い色は、繰り返し頭の中に広がる色と同じだった。

「……赤い、ことなら、頭に浮かびます」

「赤?」

 黒田は首を傾げた。

「わたしが倒れていて、友達とか先生が近くにいる……こんな光景、ただの妄想だと思うんですけど、昔から同じ事を繰り返し思い描くことがあるんです」

「…………」

「落ちていきたくなる。血が流れ落ちていくみたいに、そのまままっすぐ下に、そんな気分になるんです。どうしてか、すごく」

「へぇ……痛みは無いのか」

「さすがに、頭の中だけで……でも、苦しい感じはします。痛みというより、怪我をしていることへの恐怖だけはリアルで。でも、怖いけれど、このまま落ちていきたくなるんです。みんなの前で」


 そうしたら、許してくれるのではないかと。


(痛い……)

 黒田の手の下、傷痕が、杏のことがあってからずっと痛む。

 善人ぶった顔して!

 杏の叫び声が、まだ耳の裏にある。彼女の訴えが、無視できない場所に刺さっている。そう、善人ぶった顔をして、周りから見て正しそうなことをやって、自分が嫌でも仕方ないという気持ちで。そういう自分が嫌いで、そのくせに杏に糾弾されて、自分はそんなんじゃないと主張することもできず。

(でも本当に、そんなつもりじゃなかった……)

 こんな人間になりたくは無かった。

 その時、部屋のチャイムが鳴った。黒田はテオにその場にいるように言いおいて、玄関に出て行く。

「ああ、やっぱり。良かった、鍵を返しに来たんです」

 蓮見だった。部屋にいるテオの姿を見るなり、ほっとした様子で肩を下ろした。その手には、テオの鍵がぶら下がっている。

「まずいと思いましたけど、黒田さんが来てくれて逆に良かったのかもしれません」

「お前、杏がシナスタジアだって言ってなかったんだろ」

「ああ……それ。シナスタジアが本物かは、僕には正直判断しかねます。確かに彼女は同じ文字を見ると、かなり昔の映像と同じ味の回答を返します。でも彼女は過去に色々ありましたし、精神的なものなのか、体に生じている、いわゆる障害に近いものなのか、そんなの……分からないでしょう。嘘の証明はできませんが、本物の証明もできない。医学的にも解明されていない。だから俺からはなんとも」

「お前は杏の言うことを信じていないということか?」

「そういうわけでは。ただ、判断しかねるという話であって」

「適当にダラダラ喋ってりゃそれっぽく聞こえるのか? だから教師ってのは信用ならねえんだよ」

「いえいえ、教師は関係ないですって。確かに生徒指導とかしていましたから、ちょっと説教じみているというか、言い訳がましく聞こえるところは認めますけど」

 どうやら蓮見は教師であるらしい。杏に対する接し方も、態度の悪い生徒への指導だと思うと、蓮見の教師の姿もおかしくはない。

 英語の教師だろうな、とテオは勝手に想像した。

「杏には感覚が鋭いところが確かにあると思います。繊細ですしね。共感性が高い。……そこに、シナスタジアって名称を、まるで看板のように掲げるのはどうかと思う。それだけです。それが誰かに食ってかかったり、誰かを傷つけたりする原因にはなるかもしれませんが、万能の免罪符というわけにもいきません」

「…………」

「本当は黒田さんに杏の面倒を見ていただきたいくらいです。俺は親父がやっていたことの延長にいるだけで……分かるでしょう、理解があるわけでは無いので。でも貴方は違う人に夢中なようだから」

 ね、と蓮見は突然テオに語りかけた。

 テオは顎を引いて、唇を横に引き結ぶ。とんでもないキラーパスが飛んできたが、生憎都合の良いような返事は思い浮かばなかった。

 黒田はとりわけ否定することなく「これ以上勝手なことに巻き込むな」と蓮見を睨みながら、その手から鍵を取り上げた。蓮見は鍵をひったくられた自分の手を見てから「ごめんね、お詫びも兼ねて今度、何かお礼を用意するから。欲しいもの、考えておいて。何でも良いよ、君の欲しい物を用意するから」とテオに声をかけて、消えていった。

 外は陽も落ちて、夜が訪れていた。月明かりにうっすらと雲の陰が浮き上がり、その奥は星の光ひとつ無い暗闇が広がっていた。既に蓮見の去った玄関を、ドアが開いたままにして黒田は佇んでいた。その姿が、黒い出で立ちと相成って、外の暗闇に溶けて埋もれていきそうだった。

 テオはゆっくり黒田に近づき、「黒田さん?」と声をかけながら、恐る恐る服を引っ張った。

 振り返った黒田の目は、やはり吸い込まれそうな闇の色をしていて「テオ」と呼びかけながら、その傷に触れてくるのだった。

 テオは不思議だった。こうやって人の傷に躊躇無く触ってくることも、そして止めもせず触らせている自分も。

 そうすることで慰めようとでもしているのだろうか。


 ……どちらが、何の傷を?



* * *



 杏の部屋の前に立っては戻り、また階段を上っては立ち尽くし、その繰り返しを三十分は続けている。

 テオは、お中元でよく見る箱に入ったゼリーを袋に下げて、杏にどう話しかけるべきかを迷い続けていた。

 関わってしまったのは仕方ない。でもどうしても、謝りたかった。そうしないと、胸の痼りも、傷痕の痛みも引いていかない。そんな確信があった。

 傷痕の痛みは、杏の件があってからずっと続いていた。とはいえ、病院に行くほどの痛みもない。ただ夜ベッドで横になると意識してしまうくらいの、ズキズキとした痛みがあった。

 蓮見に付き添って貰った方が良いのではないか。テオは何度もそう考えたが、声をかけようと部屋を出た瞬間に、見知らぬ女の人が蓮見の部屋に入っていくのを見てしまい、やめた。

 蓮見が教師をしていたのは、どうやら過去の話らしかった。黒田曰く、このアパート以外にも管理している物件があるらしく、それで十分な生計が立つから辞めたらしい。この物件を契約した時に本人から聞いたのだと。

 まあ、教師をしていたら、あんな振る舞いはできないか……と、何かが起きているだろう部屋を横目に、テオは一人で杏の部屋の前に立ったという訳だった。

 当然、黒田を連れてくるという選択肢は無かった。あの態度は、恐らく杏に嫌われる。

(私も嫌われちゃっただろうけど……)

 仕事、仕事、と自分のスイッチと一緒に、玄関のチャイムを思い切り押し込んだ。結局この呼び鈴は、接続が悪くてしっかり押し込まないと鳴らないようだった。

「ハスミン?」

 扉を少し開けて律儀に呼び鈴に応じるのは、やはり杏が蓮見に一定の好意を抱いているかららしい。

 第一声にげんなりとした気持ちになりつつ、なるべく表情に出さないようテオは「すみません、佐久野です。この前のことを、謝りたくて」と堅い声で応じた。

 杏は数秒黙った後「何しに?」と問い直した。テオはもう一度同じ事を言うと、ようやくしっかり扉を開けて、杏が姿を現した。

 同じ作業着の姿だった。ただ、髪は幾分整えられ、見える範囲では部屋は清潔な状態だった。とりあえず、前の清掃の成果は残っているらしい。

「佐久野、天生……」

 蓮見じゃないのか、という不満がヒシヒシと伝わってくる。ただ蓮見が「俺は親父がやっていたことの延長にいるだけで、分かるでしょう、理解があるわけでは無いので」と黒田に伝えていたことを知ったら、なんて思うのだろう。もちろん、テオはそんな言葉を杏にわざわざ教えるつもりは無い。

 テオは、持ってきた紙袋を杏に差し出した。ナニコレ、と杏は眉間にしわを寄せる。

「サイトに、好きな物を答えていたインタビュー、ゼリーって載ってたから……」

 どう謝ろうか必死に考えたテオができたのは、情報収集だけだった。その中で、ありとあらゆる情報の味覚が広がる口の中がすっきりする、という理由でゼリーを好むという話が載っていた。だから通販をして取り寄せたのだ。

「ごめんなさい。喘息が酷いようだから、綺麗にしなくちゃって思って、やりすぎてしまって」

 頭も下げる。相手が年下だからなんて関係ない。

 杏は黙っていたが「別にいいですから」とつっけんどんに言った。

「だって、他の人には分かんないですし……佐久野さんって、普通の人ですよね。このアパートの人なのに」

「……どういうこと?」

「このアパートって、ヤバい人しか入居してないんです。除骸みたいにね。ヤバい人ばっかだから、心地よかったのに。いつの間に……」

 杏はテオの差し出した紙袋を一瞥するだけで、受け取ろうとしなかった。足の裏で玄関の床を擦りながら「サイト見たなら知りましたよね。除骸はシナスタジアなんです。例えば、その服に書かれている文字、うっすいガムの味する。だから外に出ると不快なんです」と不機嫌を隠さずこちらを睨みつけた。

 嫌われたとは思っていたが、ここまで明確に敵意を持たれた記憶は今までない。半狂乱になっていないだけで幾分マシだが、だから良いという問題でもない。

 返す言葉を探していると「黒田さんの知り合いってハスミンから聞いたけれど」と杏は呟いた。


「黒田さんの、昔いなくなった人を探してるっていう相手は、佐久野さんなの?」


 昔いなくなった人を探していた?


 ぽかんとすると、杏は「ハスミンから聞いた」と付け加えた。やはり、杏は蓮見としかろくにコミュニケーションを取っていないらしい。

「いえ、……分からないです、そうなのかは。そういう話しも、わたしは聞いたこと無いので」

 テオは、黒田の、そういう込み合った事情を知るのに、どことなく罪悪感を感じた。テオにとって黒田は、最近の知り合いでしかなかった。黒田はテオに対して何か思うことはあるらしかったが、今や顔見知りとして……それよりかは多少距離の近い存在として、同じアパートにいるだけだった。

 近く感じるだけで、深くは無いのだ。それをテオは実感した。夜空は近く見えて、どれだけ手を伸ばしても届かない。実体がどこなのか、どこにいけば近いのか、それすら分からない。星こそ実体はあれど、届くことすら考えない場所にある。

 知らないままで、いつも頭上に広がっている。それで良いと思える存在なのだと、テオは理解していた。

 杏は、テオの表情をつぶさに観察しつつ「黒田さんとはどんな関係?」と畳みかけてきた。

 なんだか、よく聞く質問だ。

「別に、なんとも……」

「へぇ。じゃあもう黒田さん、諦めればいいのに。こんな人にまとわりついてたって、価値無い。なんか、フツーだし」

「…………」

「だって、なんともないんですよね?」

 さすがのテオも、いらっとした。こちらがある程度悪いことをしたつもりでいたが、杏の言動にも棘がある。虐めを経験した人は優しいとか、辛い目に遭ってきた人は心が豊かだとか、そういうものはただの偏見なのかもしれない。

(……苦しい)

 一度でも容姿をイジられて傷つけば他人の目に敏感になるし、虐められて孤立すれば他人の存在に敏感になる。

 そうやって人は過去に歪められながら、今ができあがっていく。

 会話が成立しないのも仕方ないか。テオには、シナスタジアというものが何なのかは分からない。

 差し出していた手から力を抜いた。ぶらりと体の横に垂れた腕の先、用事の無くなった紙袋の紐が気まずそうに指先にしがみついている。

「そうかもしれないですね」

 なるべく刺激せずに帰ろうと、少しつま先を帰路に向けた。杏だって、テオの対応が苦痛だろう。

「これ以上迷惑かけるのもだから、そろそろ……」

「…………」

 返事は無かった。それでもいいよね、とテオは床に粘りつくような足を無理矢理動かして、体の向きを変えた。

 でも杏は、話しかけてきた。

「佐久野さんって、優秀って言われません? クラスに一人はいるタイプ。争いごと起こさない、誰の敵にもならない、都合良く立ち回るのがうまい人。教科書に書いてある道徳の延長線にいそうな人……そういう人って、自分を守るの、うまいじゃないですか。教科書なぞってれば正解だからって、誰にも責められない立ち回りばかりする」

 卑怯だよね、と杏は唇を歪ませて笑った。

「自分は正しいですーって看板をずっと掲げて持ってる。存在が嫌味っぽく見えるけれど、誰にも責めさせない。だって、悪くないことをしているから」

 杏のコンプレックスは深い。テオは、人形のような顔つきの彼女を、どこか一歩引いたところで見ていた。

「正しそうなことを目の前にぶら下げると、羽虫みたいに飛びついてくる。この前はハスミンに、助けて欲しいから、みたいな正義感を焚きつけられるようなことを言われて、断れないから来たんじゃないですか? ただ正しいから行動しているだけで、別に相手のことを想ってるわけでも無い。偽善者ぶって、全部自分都合じゃないですか」

「…………」

「今だってゴメンナサイの次に言い訳したじゃないですか。自分は良いことをしたつもりで、ちょっと行き違っちゃったってことですよね。自分のこと、悪かったと思ってないですよね?」

 そんなことは無い、とテオは心の中で言い返した。

 出過ぎたことをしたとは思っている。ちゃんと思いとどまるべき点があった。

 それでもまさか、こんな事になるとは思わなかっただけで。

「だから価値無いんですよ。除骸にとってだけじゃない、黒田さんにとっても、他にとっても、価値が無い」

 価値はある。目で見える場所以外にだって。


(……違う、わたしの、どこに?)


 傷痕が、痛い。でも、その傷痕に触れるあの手の感触を覚えると、気持ちが楽になる。

 価値はある……はずだ。人に想われる価値くらい。あの黒田の穏やかな色を、杏は知らないだけで。誰かに尊ばれる権利はあるのだ。だから、こんなところで杏に言い負かされている場合ではない。

 友人が少なくても、大した特技が無くても、それでも自分は会社でそれなりに期待されている方だし、今までそれなりにやってきて。優秀だと言われることは、煩わしく感じることはあれど、それが客観的評価なのだ。

 だから、わたしには。

 テオはゆっくり深呼吸をして「あの」と声を出した。震えていない。大丈夫と言い聞かせる。

「誰にだって親がいて、他にも、その人を大切に思っている人がいる。だから、価値があるとか無いとかは、他の人には簡単に分かる事じゃなくて……」

 ああ、とテオは脳内で嗤った。

 教科書に書いてある道徳の延長線上にいる人。

「除骸ちゃんにも、親とか友達はいるでしょ。親は、もし除骸ちゃんが同じように言われてたら、悲しむだろうし」

 想っているわけでも無いくせに、偽善者ぶって。

「キッモ」

 杏は吐き捨てた。

「教科書読み上げるしか脳味噌のない先生みたい。結局はルール、道徳、倫理、世間。テキトーな綺麗事は間に合ってます。こっちだって馬鹿じゃないんです。人を貶してはいけない建前とか、人の価値は平等だという文化的背景の表向きとか、そのくらい知ってます。佐久野さんみたいな人って、常識から外れた人間のことを、無差別殺人犯みたいな顔をして説教しますよね。でもどこかで聞いたことのあることしか言わない。その先のこと、なんも知らない癖に」

 除骸は知ってる、と、杏は一歩テオの目の前に進み出た。その目は、うっすらグレー色をしている。こんな時にでもやたら綺麗だったが、今はどこか、光を吸い尽くした、のっぺりとした色に映っていた。

「人はみんな頑張ってる? 息吸ってるから偉い? 仕事しているから立派? 生きているだけでいい? みんな幸福になるべき? あるがままでいい? 違う、この世は競争社会。誰が賢くて、誰が強くて、誰が能力で上位に立っているか、競争する上でどんな価値があるか。それで決まる。生物学には、幸福なんて言葉はない。博愛なんて嘘。弱者は虐められる仕組みなの。そんなことから目を逸らすから、そんな薄っぺらい何も無い人間になるんだ。結局は、弱ければ負けなんだ……」

 杏の声は、力を失っていく。

 生ぬるい風が、色の抜けた杏の髪の隙間を通っていく。その毛先には絵の具がくっついていて、固まっている。目も肌も髪も色素の薄い杏には、強すぎる赤色。

「佐久野さんみたいな人が、幸せそうにしていると、傷つくの。人の良さそうな、性格の良さそうな、誠実そうな人が、除骸より明るい場所にいると、やっぱりそれが正しいんだって思うの。正しい人は、除骸みたいな人のことなんか分からない。異物は当然社会から弾かれる。気味悪い人からは離れるでしょ? それってさ、感染症から身を守る本能的なものなんだって。だから除骸は虐められて当然なんだって」

 幼い口調の杏は、さらに背が小さくなったように見える。

 テオは、頬の内側を噛んだ。

「でも、除骸ちゃんは感染症じゃないんでしょ。傷ついたのなら、それは仕方ないものじゃないよね」

 まるで蓮見みたいな口調をしている、とテオは思った。

「自分が傷ついたと思ったら、それを仕方ないなんて思う必要は無いんじゃないかな」

 これも教科書を読み上げるように聞こえるのだろうか。説教が嫌いな杏にこんなこと言ってもどうしようもないと頭では分かっているのに、これ以外に何も気の利いた言葉は出ない。

 それでもどうして、杏は蓮見に懐いているのだろう。蓮見のほうが、テオよりもよほど説教臭くて、実際に教師でもあったのだ。

 杏は、前髪の隙間から、大きな目をテオに向ける。

「でも、除骸を虐めた人は、除骸のことなんかきっと忘れて、普通に明るいところで生きてるんだよ? どうして? 間違っているのがあの人たちだとしたら、どうして除骸はこんなに独りなの? 死んで欲しいって毎晩思うのに、そんな気持ちに毎日させられて除骸は汚くなっていく一方なのに、どうして虐めたやつは全員忘れて、綺麗な心をして生きてるの? 虐めなんか知りませんって顔して。悪いことしてないって、ずっと言い訳して、それがどうして通ったの?」

「…………」

「どうして誰も答えてくれないの? これも虐めじゃないの? ハスミンもね、この話をすると黙っちゃうの。どうして?」

 言葉が、無い。

 でも、何か言わなくちゃ、と気持ちだけが焦る。

「死ねばいいのにね」

 虚しい共感だ。こんなことを言ったって、杏の過去は無くならないし、喜ばないし、何も変わらないのに。

 でも、そういう理不尽が丸ごと死に絶えればいいと思うことはある。

「本当に……」

 死ね、佐久野天生、死ね。その言葉に、テオは不思議と怒りは湧かない。それよりも、意味のない呪詛を吐き続けることしかできない、そうせざるを得ない杏が、あまりにも切ない。

 ドン、と指先から紙袋が落ちた。体が軽くなったはずなのに、妙に重たく感じる指先が宛もなく宙をさまよう。

 その手を、杏が掴んだ。手の皮膚は乾いていた。絵の具を扱う過程で傷んだのかもしれない。見た目の可愛らしさにはそぐわない感触。

 杏はテオの手にしがみつき、その場でしゃがみこんだ。声を枯らして、気道に詰まった息を無理矢理押し出すような音を立ててしゃくりあげる。テオはどうしようもなく、その体を抱きしめるしかなかった。陽の当たる背中が熱い。その下で、やはり傷痕のうずきは続いている。

 扉の閉まる音が、下の階でした。目だけ動かすと、ゆっくり階段を上ってくる姿があった。

 蓮見だ。

 身なりは整っていた。青と赤の、相変わらずコントラストの強い不思議な模様をした色の服をシンプルなグレーのパンツに合わせた姿だった。

 テオ達の姿を見るなり、蓮見は一度立ち止まり、それから唇の前に人差し指を立てる。

 蓮見が来てくれた方が良いだろうと、じっと蓮見を見つめたが、彼は静観のまま階段の半ばで立ち止まるだけだった。蓮見はきっと、杏の気持ちにある程度気づいている。だからこそ、距離を取ろうとしているのかもしれない。

 残酷だと思う。全ては報われるとは限らない。酷い出来事があった分だけ報われるなんて幻想だ。

(弱ければ負ける……)

 そう思うしか、杏は自分の置かれた状況を飲み込めなかったのだろう。実際にそれは、現実的には正しいのかもしれない。だからといって、杏には酷すぎる言葉だった。

 ふと、脳裏に黒田の姿が浮かんだ。テオが杏に激しく拒絶された時、テオを迎えに行くように現れ、部屋に上げてシャワーを浴びさせ、髪を拭いてくれた。

 そんな人が、杏にはいないのかもしれない。嫌いな相手にしがみつくしか無いくらい、孤独なのだ。

(……どうして)

 テオにも分からなかった。どうして杏がこんな目に遭っていても、虐めた人間はのうのうと暮らしているのか。そういう理不尽がどうして罷り通るのか。

 そんな現実が、時折捨ててしまいたくなるくらい恨めしい。

 テオは杏を強く抱き返した。びくりと杏は一瞬体を震わせたが、次はテオの背中に手を回して、声を上げて泣き始めた。次第にその声は小さくなり、テオの腕の中でぐったりとしてしまった。



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