記憶の痕は、いずれ過去になる
黒田が普段何をしているのかは知らない。
仕事のために部屋から出て扉を閉めると、お、と声が上から落ちてくる。
「ご苦労なこった」
朝は必ず、黒田は外をぼーっと見つめているようで、通路から身を乗り出すと決まって黒田がいた。雨風を問わず、たとえ朝から酷暑であろうと朝は部屋から出てきていた。服装は決まって黒の上下スウェット姿だった。時折上半身はピッタリとしたシャツ……体格のせいでピッタリしてしまっている可能性はある……を身につけていることはあったが、その名の通り、いつも黒い出で立ちを保っていた。
「おはようございます……」
テオは己の歪んだ律儀さに密かに嫌悪していた。すっかり、外に出るタイミングで虚空に向かって挨拶をするようになってしまった。この前は、夕方に他部署のオフィスに入る際に同じように朝の挨拶をしてしまったくらいだから、またこれも癖になっているようだった。
黒田は、驚くほど自然に、テオの生活に入り込んでいた。季節はずれの夕立に見舞われた時は、なぜか帰宅の道半ばで黒田が立っていて「お前、朝傘持って無かっただろ」と当然のように横に並んで歩いた。黒田は傘まで黒かった。一体なんのつもりかと何度も問いただそうかと思ったが、住宅街から切り離されたアパートの周囲は暗く、途中で通過する誰もいない公園は物騒だという噂もあり、黒田の存在をありがたく思うことが多かった。
「黒田さんって、仕事、何してるんですか」
「日雇い」
つまりアルバイターのようなものだろうかと、テオは解釈した。決まって黒田は朝に顔をみせるから、いつでも会えるような気でいたが、夜通し外にでていることもあるらしかった。黒田はやはりフィジカルを売りにしているようで、土木などの体を酷使する仕事に手をつけているようだった。口の端にできた傷は、そうやって暮らしている内にできたものなのだろうと、テオはやはり勝手に想像していた。
「自衛隊って、スカウトとかすンのか」
別の日の帰り道、コンビニの袋を下げた黒田と出くわしてアパートに返るとき、そんなことを言っていた。確かに、その体格の人間が歩いていたらスカウトしたくなるのだろうと思った。
「人を助けそうな顔では無いけれど」
「あ?」
黒田は、目の下の隈や目つきが鋭いことでキツい印象がある。もう少しケアをすれば、それなりに綺麗な顔をしているだろうとテオが訴えると、黒田は全く興味なさそうに「髭を剃るのだけで限界」と答えるだけだった。
「隈とか凄いし、人を殺してそうな顔をしてるから、怖いんですよ」
「ずっとこの顔で人っこ一人殺さずに生きてきてンだよ。お前、思ったより口が悪いな」
テオも自身の言動に驚くことがあった。黒田を前にすると、いつもの謙遜の口調が出てこない。逆にいつもの抑えが無くなってしまうのか、少々辛口になることが多かった。テオは、自分が誰かと軽口を叩き合うような関係を築くことを想像できていなかった。友人は少ない方だ。
「テオ」
アパートで別れ際、黒田は時折名前を呼ぶ。そしてやはり、背中の傷に手のひらを服の上から触れて、あの黒く光を通さない沈んだ瞳でこちらを見つめる。
言霊というものを、オカルトか何かかとずっとテオは決めつけていた。黒田と出会うまでは。
「腹冷やすなよ」
それだけ言って、黒田はズボンに手を突っ込んでアパートの階段を上っていく。
何故そういう目で自分を見るのか。何故自分のことを知っているのか。テオは何度も問いかけようとして、その度に金縛りにあった。
シャワーを浴びるとき、鏡に背中を映して傷の様子を見る。いつもと変わらない、白く盛り上がった三日月の形。縫ったせいか、形が引きつれている。見た目が良いとは思わないが、人が心配するよりもずっと気にせずに生きてこれている。強いて言うなら、水着のデザインで注意する点が増えるくらいだった。特に裸を見せる相手はいない。
黒田が直接この傷を見たら何て言うのか、テオは何度か想像した。そのいずれも、黒田はやはり真顔で、でもどこかいたわるように、手のひらでその痕に触れてくるのだった。
生産性のない妄想だった。でもどこか、心の安まるような心地になる。この傷のことなど、何も覚えていないくせに。
今までの人生で、この傷をどうにか消せないかと考えた時期もあったが、今はこのままで良いと、シャワーを浴びながら、水の流れが体の凹凸にそって流れていくのを感じながら、テオは天井を見上げながら考えた。
「おはようございます」
「ああ、どうも」
いつも通り、玄関を出た時に口にする挨拶に、そういう明確な返事があるのは初めてだった。
テオは思わず口の中で息を詰まらせる。そこには、赤と緑の幾何学模様の緩いオーバーサイズのシャツをまとった、比較的若い男がいた。グレーのワイドカーゴパンツと黒い厚底のサンダル、センターパートにした前髪が頬の上で風に流される。胸にぶら下げたレンズの暗いサングラスも一緒に揺れる。
こういうのを、韓国風のファッションというのだろうか。テオはお洒落に疎い。
部屋から出れば、そこは外。誰が歩いているかは分からない。それなのにすっかり、黒田しかいないと思いこんでいた。よく今まで周囲を気にせ虚空に向かって挨拶をしていたものだ。今更ながら、テオは猛烈に気恥ずかしくなり、今すぐ家に戻りたい衝動に駆られた。
テオはおもむろに胸の内で言い聞かせる……こういうときは堂々としているに限るのだ。なにせ、悪いことをしたわけでは無いのだから。
手のひらを拳にして、努めて表情を変えずに部屋の鍵を閉めると、「ちょうど俺も挨拶にきたんだ。会えて良かった」と、男がすぐ傍で足を止めた。
馴れ馴れしいな、とテオは眉を寄せる。
「挨拶ですか……?」
「そう。初めまして。新しく俺がここの管理人になったんで。親父の跡継ぎって感じかな。というか、親父は離れに住んでたから、ここの人はあんまり知らないかもだけど」
テオはこの部屋を業者からの紹介で入居している。管理人がいることは知っていたが、顔を知らなかった。
「佐久野さんだよね、佐久野 ──」
「あ、えっと、天に生きるって書いて」
「テオ。あはは、もちろん知ってる。漢字も読み方も」
「あ……ですよね」
テオは下唇を柔らかく噛んだ。アパートの持ち主相手になにをしているんだか。出しゃばったつもりでは無かったが、恥ずかしい。
管理人を自称する男は、人好みしそうな笑顔を浮かべる。「俺はハスミです。ハスミ、セイ。蓮の花に look の見る、セイは聖人君子、って自分で言うとちょっとアレだけど。これで『蓮見聖』」
黒田と同じ名前だと、思わず上を見上げた。恐らく黒田はこの会話を聞いているだろうが、首を突っ込んでくる様子はない。
向こうは星で、こちらは清らかな聖。
「ああ、そういえば、上の黒田さんも、名前がセイだったね」
「そ、そうですね」
心を読まれたみたい。テオは思わず声を裏返した。さすがに黙っていられなくなったのか「俺ンとこに挨拶はいらねぇからな」と声が振ってくる。
「黒田さん、いらっしゃったんですね。おはようございます。下から失礼します」
蓮見は礼儀正しく、姿が完全には見えない黒田に会釈をするような仕草を見せた。どちらかというと、黒田が上から失礼しているような構図だが。
返事が返ってくることは無かったが、蓮見は気にした様子は無く「ひとまずこれ、挨拶に、どうぞ」とテオに向き直った。
差し出されたのは、一升瓶に入ったグレープフルーツジュースだった。ラベリングされたクラフト紙で包まれていて、一見お酒のようにも見える。
高そうなものをどうも、とテオはジュースを受け取った。案外重たく、腕に抱える。
「口に合うものだと良いけれど……佐久野さんの」
「とんでもないです。ありがとうございます」
「そう? それなら、これも」
もう一瓶差し出される。一瓶で足りているからと身を引くと「黒田さんの分だったんで」と蓮見は相変わらずの笑顔で言った。
「挨拶不要のようだし、俺はそこまで甘い飲みのを飲まないから。好きな人に飲んでもらった方がいいだろう、 right?」
「いや……わたしもそこまで」
さすがにテオは躊躇った。こういう時に相手を気分悪くさせずに断るやり方って、本当に知りたい。もちろん、こういう場面に出くわす度に、知りたいと思うだけで実践も何も無い。
そして、若干この男は胡散臭い。本当にこの人はこのアパートの管理人なのだろうか。社員証のようなものは……さすがに無いか。でも笑顔の質が、どうも人を騙そうとしている系統の顔つきにしか見えない。
こういう人に、テオは滅法弱かった。「それじゃあ」と流れに負けて受け取ろうとすると、
「おい、そんな相手にしなくていいだろ」
黒田が一階にまで降りてきていた。管理人を名乗る相手に、相手にしなくていいなどよく言えたものだが、テオにはその黒田のメンタルが羨ましくてたまらない。
どうも、と蓮見はまた会釈をした。
「久しぶりですね。あの時は俺もあまり手続きを知ってなくて、色々と手間取らせました。親父にしかられましたよ、あの後に」
「…………」
黒田はこのアパートに引っ越してきた際に顔を合わせていたらしい。蓮見は、アパートの管理人としては本物ということだ。
持たされた二瓶のジュースを持ち直す。居心地の悪さを誤魔化していると、黒田はため息をついた。
「分かった、挨拶は受け取っておく。だからこいつに変に絡むな」
「なんだ、最初からそうしていただければ良いのに」
黒田はテオの腕の中からジュースを一瓶取り上げた。この男が持つと小さく見える。一気飲みできてしまうのではないか。
余計なことを考えていると、はて、と蓮見は芝居がかった調子で首を傾げる。
「お二人は知り合いなんですね。アパートの住人同士が仲が良いと、管理としては助かります……黒田さん、もっと怖い人かと思っていましたし」
テオは初めて、蓮見に親近感を覚えた。
「人を殺してそうな顔してますしね」
「ぶは」
うっかり軽口を叩くと、蓮見は盛大に吹き出して、腹を抱えて笑い始めた。お前なあ、と黒田はテオに不満そうな顔をしたが、いつまでたっても蓮見が笑いの底から戻ってこないと、うるせぇ、と苛立ちを口から吐き出した。それを見て蓮見はさすがに笑いを抑えて、それでもわずかに口の端を上向かせながら「じゃあ俺、まだ挨拶周りがあるんで」と露骨に逃げを選ぶ。
アパートは二階建て、全てで六つしか部屋のない、あからさまに使い古された安い物件だ。テオは越してきてからこのかた、黒田以外の住人に会ったことが無い。物音で悩まされることも無かったため、他は全て空き家だと思っていたが。
「それでは──」
すれ違いざま、蓮見が突然こちらを振り返った、と思った。
これは視界の端で、なんとなく蓮見がそんなことをした気がしただけであって、実際にその姿を目にすることは叶わなかった。
黒田の腕が、テオと蓮見の間に割って入った。あれだけ威圧感をまき散らす黒田が、これほど静かに動けることを知らなかった。
間に入られた、とテオが知覚した瞬間には、黒田の体も割って入ってきており、視界は男の黒い背中一色になった。
「……黒田さん?」
背中に向けて呼びかける。同時に、ゴンと鈍い音がして、足下に瓶が転がった。黒田が手放したのだろう。ごろりと一回転する。紙に灰色の擦った痕ができていた。
「なにか?」
蓮見の声。
黒田は何かしら答えたかもしれなかったが、よく聞こえなかった。
ガラスが硬い物の上を転がる音。テオが目を下に向けた瞬間、瓶が足先にぶつかって止まった。包装紙に、じわりと黒い染みが浮き出てきた。紙を浸食していくその色は、徐々に赤くグラデーションし、全体を覆っていく。
テオは慌てて屈み、瓶を拾い上げる。酸味の混じった甘い果実の匂いが鼻を突いた。割れて中身が漏れ出しているのかもしれない。触っても、どこがどう砕けているのかは分からなかった。瓶をどんな向きにしても、どこを押さえても、クラフト紙に広がる色は止まらない。はやく止めなくては……何故?
はっと、テオは自分が何かの衝動に駆られていたことに気付いた。ただ、自覚した瞬間にたちまち衝動は消え失せ、その正体を掴み損なってしまった。
瓶を立ててから二人の方を見上げると、既に蓮見の姿が遠ざかっており、黒田はじっと影のようにその場に佇んでいた。
「気にするな」
黒田はそれだけ言って、すっかり包装紙の濡れた瓶をテオの手から取り上げた。
そのまま黙ってどこかへ歩いていく黒田のことを、テオはつい追いかけた。自分だけがどこかに取り残されそうな心細さと、無視できない異様な雰囲気に背中を押されて、黒田の腕を……テオには掴めない、だから服の裾を掴んだ。
黒田は緩慢に歩みを止めた。その名前の通り黒い瞳には、星の一つ無い空があった。
「なんでもないから、テオ」
テオは動きを止めた、というより、止まった。黒田の言葉に、そして掴みようのない視線に、脳が空回りをする。分からない、と胸の内で呟く。黒田はこうして、時折、いやに穏やかな優しい声をするのだ。戸惑っている間にも、黒田の手がこちらに近づく。
髪が汗ばんでべたついていないか、心配になった。
黒田は指でテオの髪の感触を確かめた後、背中をなぞって、傷跡に手のひらをあてる。
口では人を殺しそうな顔だとか言ってはいるが、だからこそテオは、黒田が実際にそういう暴力を誰かに向けるようには思えなかった。とりわけテオ自身にはそういう仕打ちをしないのだと、根拠のない確信を持つに至っていた。
黒田が触れている間、テオはどこを見るにも居たたまれない気分で、大体は黒田の胸元辺りで目を遊ばせていた。ただこの日は黒田の表情が気になり、つい上を見上げた。
夜が広がっていた。
間違いなく今は朝、おはようの挨拶を交わす時間、太陽が既に高く姿を現しつつある陽の下だった。それでも全身に落ちてくる黒田の影に覆われていた。
(なにも見えない)
テオは黒田の目に吸い寄せられた。そして、暗すぎる夜のことを思い出した。形の無い夜。星の姿も無い。雲が辺り一帯を塞いでしまっているのだろうか? それとも、星も雲も無い、澄み切った本物の虚があるのか……そんなことを思わせる夜。地平線も水平線も解け合って転落していきそうな闇。
昔から、そんな夜が好きだった。
「…………早く行け、仕事だろ」
黒田が離れた。そこでやっと、ぶつかりそうな距離で見つめ合っていたことに気付いた。
黒田が引いたことで、目の前が一瞬白く眩む。視界が元に戻るのを待たず、黒田がテオの背をアパートの外へ押した。同時に、預かっとく、とテオが腕に抱えっぱなしにしていた、割れていないジュースを奪っていった。
テオは義務的に走っていつもの道を進んだ。まだ視界にうっすらと影が残り、まだ黒田に見つめられているような気になり、足が速くなった。
結局その日は人生で片手に入るだけの遅刻をした。珍しいね、と周囲に好奇の目を向けられながらデスクに付く。
どこかに染みついたのか、ジュースのむせかえるような甘酸っぱい匂いが鼻先をくすぐった。夏の湿度を吸って重たくなった空気に溶けて消え、そのうちに恋しくなった。
蓮見と再び出会ったのは、休日、なんとなく出かけてみたが取り分け面白くもなく、日も高い内にアパートへ戻ってきたタイミングだった。彼は、一階の隅の部屋から顔を出していた。同時に、顔の知らない女性が出てきて、すれ違った。
蓮見はテオを見つけるなり「どうも」と気怠げに、そして気まずそうな苦い笑みを見せた。いつもしっかり整えている髪が崩れていて、眺めの前髪が鼻先にかかっている。ライブ会場で売っていそうな大きなロゴの入った白いTシャツが、いつもブランド感のあるお洒落な装いをしている姿からはかけ離れており、粗雑な感じがした。
「どうも……えっと。そちらにお住まいだったんですね」
テオはとっさに、どうでも良い話に切り替えた。蓮見はそれでも気まずさを隠しはせずに「お気遣いいただきまして」と、テオ相手にはしない丁寧口調になってみせた。
こうして蓮見と顔を合わせずとも、知らない女性がアパートを出入りしていることには気付いていた。それも、蓮見が挨拶に来た後から始まったことだから、なんとなく察してはいたが。
ただ、今日すれ違った女性は、また顔の知らない人であり、どうやら複数人の女性とよく会っているらしかった。蓮見とテオの部屋の間には、住人のいないらしい空き部屋が一つあったが、わざと空けているのだろうとテオは邪推している。
「今日はお休み? 実は相談があって、近い内に訪ねようとは思っていて……ちょっと、身支度する時間を貰っても?」
嫌ですと言えない自分自身に、テオは辟易した。
蓮見は一時間後と指定して部屋に戻っていった。その間にテオも部屋に戻る。我慢できないほどでもないが気に障る湿度が籠もっており、エアコンのリモコンを手に持ったまま、二分ほど部屋の中で立ち尽くした。結局はスイッチを入れずにサイドテーブルへ戻し、冷蔵庫に入っている飲みかけの瓶ジュースをコップに注いだ。
一升瓶のサイズだったが、中身は既にほぼ無いに等しかった。昨日黒田と朝に喋ったとき、あの量のジュースをどうしたという話になり、その流れで黒田と飲んだのだ。ちなみに、黒田が落として割ったジュースは処分したらしい。
黒田が「ちっせぇ冷蔵庫」と言ったところで、何の躊躇いもなく男を部屋にあげていることにテオは気付いた。が、それだけで、特に何事もなく、黒田はジュースを飲んで適当にくつろいで帰って行った。
ちなみに、黒田を見送ったところで、さっきまであまり乾いていなかった喉が急に干上がり、かなりの量を勢いよく飲んだら腹を緩くしてしまった。
空になった瓶を軽く水で洗って干すと、いよいよやることが無くなった。とりわけ趣味は無く、強いて言うなら目的のない散歩ということしか思いつかなかった。
蓮見は、一時間ピッタリたったところで訪ねてきた。髪までしっかりセットされており、柔らかなシャンプーの匂いがした。きっと数時間前には真っ最中だってであろう行為の影が全くないことにひとまず肩を下ろすと、ちょっとそこらで立ち話でも、と蓮見は外に誘った。
日差しが一向に弱まらない昼下がりは、日陰でも湿気が鬱陶しい。暑いね、と蓮見が胸元の服を掴んで軽く仰いでいるが、汗をかいているようには見えなかった。テオは数分たっただけで肌に汗が滲むのを感じたが、近辺にちょっとしたお茶のできるような洒落た場所は無い。
(部屋に上げた方が、親切なのかな)
昨日黒田も上げたことだし、きっと蓮見もその方がありがたいだろうと、どことなく気まずいながらも「良ければうちにでも」と提案すると、「女性の部屋には上がれないよ、ありがとう」と蓮見は遠慮した。こちらから誘ったくせに思わず安心してしまうのは、テオにはよくあることだ。こういう善人ぶった後を省みない言動をやめないと、と常々思ってはいるが。
ちなみに、蓮見の方が自室に誘うことも無かった。テオもそれだけはどうにか断りたいと思っていたが、ただの杞憂になった。
「相談っていうのは、俺の部屋の真上に住んでいる子なんだけど。このアパートで一番長い人なんだ。でも見たこと無いだろ?」
まず、人が住んでいたことに驚いた。テオは思わずアパートを仰ぎ見た。
「引きこもりのゴミ屋敷……ゴミ部屋っていうのかな? まあ、そういう環境でね。女の子なんだよ」
もう一度テオはアパートを仰ぎ見た。というより、三度見くらいはした。扉の外にゴミが溜まっていることもなく、全く人気も匂いも音もしない部屋だが、ゴミ屋敷状態になっているとは寝耳に水だった。
しかも、女の子?
「管理人としては、ほら、虫とか湧いちゃったら困るし、かといって無理に押し入るのも気が引けるだろ。ちょっと手伝って欲しくって」
「手伝いって……」
「まずは生存確認かな。家賃は振り込まれているけれど、あの状態だと干からびていたって誰も気づかないしね……はは、冗談だよ。死んじゃいないさ。昨日も上から物音がしてたし」
「はあ……」
「でもほっておけないだろ? 大学生なんだ。大人の区分だけど、俺らにとっては子供みたいなものだ。この感じ、親からの支援もろくにないんだろうね。だから」
「ああ……ちなみに、どうしてわたしに?」
テオは嫌な汗が背中に滲むのを感じた。大体こういう時の予感というものは、よく当たる。
「ほら、君は優秀そうだから。生活がきちんとしていそうだし。ちゃんとした大人として、ちょっと助けてあげて欲しいんだ」
(ああ、やっぱり)
こういうことを言う人は、自分の一体何を見てそう判断しているのだろう。
テオは心の中でげんなりした。自分だって楽じゃない。家事は面倒だし仕事はしたくないし、基本的には怠けている方が好きだ。でも人としてやらなくてはいけないことがある。だからやっているのに、まるで他には無い優位性を持ち上げるかのような受け取られ方に、嫌悪に近い拒否感があった。
まあ、よく部屋に女の人を連れ込んでいる人よりはマトモかもしれませんけど、とテオは心の中で毒を吐いた。相手が黒田だったら、きっと口に出ていた。
「大した助けにはなりませんよ」
「良いから。ありがとう、いてくれるだけで助かるよ」
そしてこうやって、断れない雰囲気に流される。いつもと何も変わらない日常というのは、仕事でもプライベートでも同じだ。
そういう扱いをしないのは、黒田だけかもしれない。
(わたしの事を、よく知っているから?)
疑問はずっと疑問のままだ。黒田がどうしてテオのことを、そしていつから知っているのか、まだ聞けずにいた。本能的に黒田を受け入れている自分に、それでいいと納得してしまっているということもあった。
蓮見はテオを連れて階段をあがり、すぐの部屋のチャイムを一度押した。すぐに蓮見は表情を曇らせる。テオも首を傾げた。このアパートに備え付けられた安っぽいチャイムは、それなりの音量がする。少なくとも、扉を微かに貫通してくるくらいには。
切られたかな、と蓮見は物騒な呟きをこぼし、見るからに力一杯チャイムを押し込んだ。繰り返し、繰り返し、繰り返し……いや、怖っ!
思わずテオが「ちょっと、そんなにやらなくたって」と制止しようとしたところで、扉の内側で金属の回転した音がした。
その瞬間、目にも留まらない早さで蓮見がドアノブを引き、「Hi! ほらいつまで引きこもっているんだ、元気にしているか?」と強引に中に入った。さっきまで女性の部屋には入れないとか言ってなかったかコイツは? テオは脳内で突っ込みつつ、かといって止めることもできず、両手を空中にさまよわせながらその場で棒立ちになる。
「ちょっ、ちょっとヘンタイ、勝手に入ってこないで!」
気の強そうな、低めの女の子の声。
「全く、前よりゴミが増えているじゃないか! それに玄関にまで脱ぎっぱなしの下着まである! 変態はどっちなんだか」
「乙女の部屋にドカドカ入ってくる男の方がどうかしてる! 出てって!」
「人らしい生活を取り戻すんだ、今すぐ、ASAP!」
「えーえすえーぴーって何!」
「As soon as possible! 分かるだろう、さっさとするんだ、ほら早く」
「おじいさんはどうしたの! どうしてハスミンが来るの!」
「管理人は俺になったって、前言っただろ? ご自慢の記憶力はどうしたんだ」
「そんな酷い話を覚えておく理由も無い」
テオは猛烈に後悔を繰り返していた。目の前で喧嘩が繰り広げられている。仲裁をすればいいのか、できれば首を突っ込まない方が良いのか……そんなことを考えている時間が良くないのか。考えれば考えるほど、蓮見の頼みをきっぱり断っていたら、という方向へ流れていく。
「ねえ、そこの女の人は? 新しい彼女?」
「馬鹿。スケットだよ。佐久野テオさん。下の階の人」
話題の矛先が自分に向いたところで、テオは思い切って扉の内側へ足を踏み入れた。
新築に似た、それにしてもキツい塗料のような臭いがした。
「こんにちは。あの、蓮見さんに呼ばれて来ました」
これは仕事と同じ、とビジネススイッチを気合いで押し込んだテオは、そこでようやく相手の姿を目にした。
まだら模様の作業服を着ている、色の抜けた長い髪を散らかしっぱなしにした女の子だった。どことなく顔立ちが日本人離れしている。暗くてよく見えないが、目の色も日本人によくあるそれとは異なる気がする。
テオより背が小さい。それでも、顔つきのせいか、大人びて見える。
そして、部屋の中は真っ暗だった。テオの部屋とは構造の左右が異なるだけで同じ構成ではあったが、他人の部屋となると、かなり印象が違う。
なにせ、蓮見の言うとおり、そこは物の多いゴミ屋敷だった。
「スケットって、別に助けて貰う事なんてないですけど……」
「えっと……」
「そういうことを言わない。杏だって分かっているだろ、このままじゃいけないって」
「その名前で呼ばないでって言ってるよね。ジョガイだって」
「……ジョガイ?」
彼女はその言葉を『ご飯』と同じイントネーションで名乗る。蓮見は聞き慣れているらしく「ハイハイ」と適当に流し、玄関にあふれかえった靴やその他諸々を足で避けていた。
話に付いていけずにいると、彼女は不機嫌そうに「知らないの?」と口を曲げた。
「除外の除に、骸骨の骸。除骸」
凄い厨二病的なニックネームだな、という感想を、テオは当然喉の奥に隠した。年がもの凄く離れている訳ではないが、少しでも世代が違うと、センスも変わってくる。そういうことだ、多分。
「すみません、わたし結構疎くって」
あくまでも差し障りの無い言葉で取り繕うと、途端に杏は(もとい除骸は)、はっとしたように半歩後ろに下がり、片腕を自分の体に巻き付けた。
「…………いえ、こっちもすみません。つい、ハスミンと同じような態度にしてしまって」
テオはホッとした。ファーストインパクトが規格外だっただけで、思ったより話は通じるタイプのようだった。視界の隅で、呆れ顔の蓮見が、ハスミンってもうやめろよ、と声で文句を言う。既に諦めているようでもあった。
杏の態度が多少軟化したところで、少し話でもしようか、と蓮見は勝手知ったる様子で部屋に入っていった。
やはりどこもゴミだらけという状況だったが、メインの部屋だけはテオが想像していたものとは違った。
床には新聞紙が敷き詰められており、どこからもツンとした薬品のような匂いがしている。売っているのを見たことのない太い筆やハケがあちらこちらに転がり、外国語のラベルが貼られた茶色の瓶や絵の具チューブがその間を埋めている。杏が身につけているまだら模様の作業服は、よく見たら、デニム生地に夥しい量の絵の具がこびりついてできているようだった。
もちろんゴミもあった。食べかけの総菜パン、箱だけ残った栄養ブロックの残骸、もはやゴミが中に詰まったカップ麺の容器。ぱっとみただけでも三つはある電子たばこ。紙煙草も吸うらしく、吸い殻はさすがに落ちていなかったが、同じ銘柄のパックがいくつも見あたる。
部屋にいるだけで目眩のしそうな臭いが充満していた。物が腐った系統ではないが、化学的に害がありそうな、煙と油の入り交じった臭いだ。
蓮見が無断で窓を開け放った。遮光一級相当の紺色のカーテンが翻ると、いつもの昼の光がやたら輝いて見え、杏が「眩しい」と顔を覆った。そこではっきり見えた彼女の顔は真っ白で、それなりに化粧をすればアイドルも出来そうなほど可愛らしい様相だった。
彼女の本名は、赤井杏。除骸というのは活動ネームであり、ネットを通してデザイン画の作品を発表している。現在は大学三年生。電車で三つ隣の駅にある私立大学のデザイン科を専攻していた。
「除骸は、……」
杏は、どことなく子供っぽい舌使いをする。そして、自分のことを名前で呼ぶ。見た目の愛らしさに合っているような、それにしても年齢にそぐわない、歪な印象があった。
「ほぼ大学行ってないんですけど。入学式は忘れていたし、一応シラバス見て授業は登録して、教授とメール連絡してる程度。だからずっと部屋にいます」
「でも、進級はできてるの?」
年下だからとテオは口調を崩したが、杏は特に気にしていないようだった。
「座学でどうしても学校でテスト受けないといけないのは、行ってます。その他はレポートとか、作品提出で割となんとかなってるっていうか」
芸術系の大学は授業への出席率は関係ないのか?そんなことも無いだろうが……、 とテオは首を傾げる。その辺りは蓮見も詳しくないらしく「でも進級ができているのは事実らしいよ」という噂話をするだけだった。
「サクノテオさん……どういう字、書くんですか? へえ……。テオって、ゴッホの弟みたいで格好いいですね。女の人でもテオってつけるんだ。天に生きるっていうのは当て字?」
「杏、テオは男性名だけじゃない。女性名なら、テオドラっていう……」
「ハスミンは黙って。あと、除骸って呼んで」
杏は床に落ちていたチラシの裏側に『佐久野天生』と書いて、「良い名前」とにっこり笑った。同性のテオでもドキリとするくらい可愛い。ぼさぼさに絡まった髪も、なんとなく神秘的な気がしてくるから、美人はいいよなとテオは思わず唇を噛みしめた。
いいカンジだから貼っとこ、とテオの名前の書かれた紙を壁に貼り付け始めたところで、いやそれは、とテオは杏を止めた。
杏がどことなく変わった行動をするのは察していたが、その異様さがむき出しになっているのは、部屋一面に広がったゴミ(とその他)ではなく、壁に無数に張り付けられた紙だった。どの紙にも文字が書かれており、ごく一般的な名詞から、誰かの名前と思われるもの、外国語などと、脈絡が無い。紙の上から紙が重ねられ、もはや壁が分厚い松ぼっくりのようになっていた。下の方の紙は茶色く劣化しているものもあった。
「これって……」
「煙草なんかで火事になったらどうするんだって」
そこなのかとテオは横目で蓮見を見たが、アパートの管理人らしい視点だろうと思い直した。
杏は基本的に、テオには友好的な態度を見せた。相反して、蓮見には当たりが強い。だから助けを呼んだのだと蓮見は言うが、テオには杏と蓮見の間には一定の信頼関係が十分築けているように見える。
喧嘩するほど仲が良いってね、とテオは一人ごちる。テオは基本的に争い事は避ける性格であり、誰かとそれらしい喧嘩をしたことがなかった。それでも杏と蓮見を見ていれば、喧嘩するほど仲が良いという言葉も正しいのだろうと実感する。
杏が突然咳き込み始めた。喘息に似た音が彼女の喉の奥からしている。「ちょっと最近また喘息っぽくて」と言い置いて、シンクの方へと向かっていった。
「こんな部屋にいるから、良くなる病気も良くならない。杏は、元はね、親父の友人の子らしくて。その縁で入所したらしいんだ。親父がたまに顔を出して面倒を見ていたらしいんだけど、こんなに生活力が無いとは思わなかった。最近見る度に汚れていくね」
蓮見は、木製の丸椅子の上に重ねていた本を勝手にどかし、窓の傍に移動して腰掛けている。
テオは、窓から吹き込む風の感じる範囲にいながら(そうでもしていないと、喘息でなくても咽せてしまいそうだ)、部屋の様子を観察した。正直、異世界に紛れ込んだと言っても過言ではない。
壁に分厚く貼られた紙。歩くと、スリッパに時折何か分からない物が貼り付く。床に敷かれた新聞紙の下にはまだ新聞紙があるようで、これは床を汚さないように蓮見が繰り返し忠告して敷かせたものらしい。
そして、部屋の一角には、いくつかの動物のぬいぐるみが山になっていた。蓮見いわく、そこが寝床になっているらしい。ただの新聞紙が敷かれた床にぬいぐるみがあるようにしか見えなかったが、さわってみると、新聞紙の下にはちゃんと敷き布団があるらしかった。
あの作業着のまま横になっているのだろうなと思った。ただ、ぬいぐるみには絵の具がついておらず、それなりに大切にされているようだった。
杏はなかなか戻ってこない。苦しそうな咳が続いているようだった。
「大丈夫……でしょうか」
「いや全然だめだろう。だから部屋の片づけしなくちゃいけないな」
テオは、目に付いた処方箋の紙袋を杏に持って行った。中には丸みを帯びた紫色のカートリッジが入っており、口にくわえて使うようだった。「これが薬なんです」となお苦しそうに教えてくれるが、テオに喘息の病歴は無く、その薬がどのくらいの速度で効いてくるのかは分からない。
杏の親はどうしているのだろうかと気になった。でも杏の様子を見ていると、あまり干渉してくるタイプではない、もしくは杏が干渉を拒んでいる可能性が高く、あまり気軽に聞けない。
「杏、酷いようだし、一回俺の部屋のベッド使って良いから寝てな。俺たちは掃除するから。これ鍵」
「……嫌」
「はいはい。除骸ね、いいから」
「…………嫌」
「親父の時はそうしてたって聞いたけど? 困ったなぁ」
「ハスミンのベッドは嫌」
テオは思わず、自分の部屋の鍵を差し出した。杏の嫌がり方は、どこか子供がぐずっているように見えた。根拠のない勘だったが、杏は蓮見に対して、なにかしらの感情を拗らせている。だからこそ素直に受け入れられないこともあるのだろう。
杏はちらりとテオを見上げてから、「スミマセン、汚さないようにするので」とテオの鍵は受け取った。知り合ったばかりの他人を一人で部屋に上げたくない気持ちもあったが、もうどうにでもなれ、とテオは言いたいことをぐっと飲み込む。相手は大学生と言えど子供みたいなものだから、こうして助けてあげた方が……ああ、またこうやって、わたしは。
杏が薬の袋と一緒に出て行ったのを見届けてから(電子煙草を持って行こうとしていたが、蓮見が取り上げた)、主のいない部屋を見回す。
正直、ゴミかどうか分からないラインのものが多い。
「新聞紙を一回全部はがして、あとは床に転がってる物はそこのダンボールに集めておけば良いかな。明らかにゴミっていうのがあれば捨てるくらい。換えの新聞紙は確か押入に……」
蓮見は既に遠慮無く掃除を始めていた。テオは恐る恐る新聞紙をはがしつつ、部屋の隅にかたまっているぬいぐるみを見た。
きれいそうに見えるが、ああいうものが埃やダニの原因になって、喘息を引き起こすと聞いたことがある。それは小児喘息の話だったかもしれないが。
ただ、布団はコインランドリーに出せても、ぬいぐるみは流石に良くない気がする。蓮見は「良いんじゃない?」と言うが、さすがに気がとがめ、シャワー室で手洗いをした。にじみ出てくる水の色が濁っている。途中で蓮見がマスクと使い捨ての手袋を差し入れてくれた。
テオがぬいぐるみと格闘している間に、蓮見はあらかた床の新聞紙を剥がし終えて、布団をコインランドリーへ運んでいった。蓮見の戻りを待つ間に手持ちぶさたになり、ふと、壁に分厚く貼られた壁を見た。
めくってみると、ぼろぼろに劣化した紙の屑が落ちてきた。床を掃除しても、この壁を放置していてはダメだろう。
自由に使って良いと言われたダンボールを見繕って、中にビニール袋を入れ、壁に貼られた紙を一枚ずつ丁寧に剥がした。人様の飾りに手を付けることに勇気が必要だったが、蓮見がかなり豪快に床を掃除していたことを見る限り、本当に遠慮なくやってしまって良いのだろうと、躊躇を脇に押しやった。
捨てないから、と心の中で杏に言い訳しつつ、紙を剥がしていく。
書かれている文字には、本当に関連性が見られない。『牛肉』『双子のヒヨコ』』神は死んだ』『雨の降りしきる路地裏で、私たちは相対していた。』……これは何かの小説の一節?
いくつか剥がしていくと、突然複数枚の『蓮見聖』に出会うことになった。ああやっぱり、とテオは多少気まずさを感じながらも、それを丁寧に、破けないように剥がしていく。マスキングテープで貼られているため、剥がすことに苦労はしなかった。ただ、貼られてから時間が経過しているものは、少し紙がテープの方に貼り付いてしまう物もあった。
ごめん、と謝りつつ、劣化のひどいものは別のビニール袋へ分けていくと、スーパーの袋が五つ出来上がり、ようやく八割が片づいたところだった。
「Excellent!! 良いじゃないか」
蓮見が戻ってくる。やはり壁のことは気になっていたらしく「やらなくちゃいけないとは思ってたんだけど、床で精一杯で」と興奮気味に喜んだ。その様子を横目に、テオは『蓮見聖』と書かれた紙の入った袋の口を軽く結わえて隠した。
「人手が無いなら、黒田さんに頼めば良いじゃないですか」
黒田は、日雇い以外は基本的にアパートにいるはずだ。
「それは考えたけど、杏がおびえそうだし」
確かに、とテオはつい真顔でうなずいた。その様子がおかしかったのか、ぶは、と蓮見は盛大に吹き出してひとしきり笑った。どうやら笑いのツボに入ると長く戻ってこられないらしい。
「気になっていたんだけど。君と黒田さんは、昔の知り合いなんだろ? 仲も良さそうだし、そういう関係?」
「え……それは……」
剥がしかけていた紙が少し破れてしまった。いけない、とすぐに手で押さえて、それ以上破れないように剥がす。その紙には『Rose of loser』と書かれていた。
意味が分からない。
「黒田さんから聞いたんだ。君とは、小さい頃に学校が同じだったって。君たちを見ていると思うんだけど、黒田さん、結構君を大事にしてるよね」
蓮見は絡まったUSBコードをほどいている。その手の動きに淀みは無い。何の気無しの雑談をしているつもりなのだろうと、テオは自分を落ち着ける。
「わたしのことを知っているらしいんですけど、全然覚えが無くって」
「そうなの? 昔……幼稚園とか小学校とか、その時代の知り合い?」
「黒田さんとわたし、結構年離れてますよね? 同じタイミングでそういうところにいるなんて考えにくいですけど」
「それは確かに。学校のOBとか、そういう意味だったのかな。俺びっくりしたんだよ。あの黒田さんが、あんな風に人と接するなんて……」
あんなふうに、とテオは口の中で復唱した。無意識に手が背中に触れる。服の下の傷など知らないだろう蓮見は「腰痛い?」と気遣う。
テオ自身も、黒田の接触に未だに戸惑っていた。でも拒むにも、黒田はいつの間にかテオの距離感に馴染み、それがテオにとっても心地よかった。
この状態に名前はあるのだろうか。
「小さい頃に……とはいっても小学生のとき、大きな怪我をしたみたいで、ココに傷痕あるんですけど。黒田さんはそれを知ってるみたいなんです」
「怪我をしたみたいって。君はその時のこと、覚えてないの?」
「そうなんです。別にもうそこまで痛まないですし、服着てれば目立たないから特に気にしてなかったんですけど、黒田さんは気にしているみたいで」
「その傷に黒田さんも関係あるってこと? そういえば黒田さんも顔に傷あるよね」
「ああ、ちょっとヤクザっぽい」
「気持ちは分かるけれど、それ黒田さんに正直に言えるの、君だけだよ」
そうかもしれませんね、とテオは少し笑った。むずがゆい気がしてしまう。
最後の紙を貼がした。かなり黄ばみ、上に重ねて貼られていた紙の痕がうっすら残っている。筆記体で書かれており、読めそうで読めない。
じっと見ていると、蓮見が後ろから「『Memory』だね」と読み上げた。
記憶か、とテオは天井を見上げた。自分のアパートと同じ。でもそこにまで、絵の具らしい飛沫があがっていた。
「覚えていないことは仕方ない、残念だけど」
蓮見がその紙を見ながらつぶやいた。
「忘れるというのも、必要な脳の機能だよ」
「そうですね」
でも、残念だと思う。
テオは、その紙がビニール袋に入れられるのを見つつ、本当に、と心の中で繰り返した。
覚えていられれば良かった。こんな、体に痕が付くくらいのことなら、記憶にも痕が残ってしまえば良かった。
そうしたら、自分も黒田のことを、もっと理解できるのかもしれないのだから……いや、自分は黒田に対して何を知りたいというんだ?
テオは頭を振って、思考を追い出す。
その瞬間、突然後ろから思い切り突き飛ばされた。