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TEO  作者: 染井
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過去の影

 自分さえいなければ、みんな幸せだったのだろうか。

 太陽が一瞬雲に閉ざされるように、ふとそんなことを考える。





 見上げれば、薄い青空の彼方に太陽が白く溶けていた。陽光を遮るような雲は無い。終わりかけている夏と共に分厚い入道雲は姿を消し、空の色を透かす鰯雲ばかりが広がっている。夏の終わりかけた、明るい秋空。

 そんな空の下でも時折、視界が黒く塞がれるような感覚が訪れる。こんな大人になりたくなかったと思う。素直に笑える人間でありたかったと思う。

 すぐ傍を、大きなレンズの付いたカメラを持つ二人組の観光客が通り過ぎていった。向かう先には、『百万本のヒマワリ畑』という看板と、眩しいレモンイエローの庭。

 ギガンティウスと呼ばれるヒマワリが咲き乱れていた。その見た目はヒマワリというより、どちらかというと、コスモスを緑がかった黄色に染めた印象だ。一般に想像するヒマワリはもっと、舌状花の内側、管状花の面積が広いのだが。

 品種改良が進んだヒマワリには、かなりの種類がある。中には、芸術界の巨匠が描くヒマワリをイメージした品種も存在している。モネ、ゴーギャン、ゴッホ、……。

 遠くから見ても眩しいくらいに見頃を迎えている。「ヒマワリにも色々とあるんだね」男か女か分からない声がした。でも、他人の会話というより、こちらに向けて投げかかけられたように感じた。

 背後を振り返るも、ヒマワリ畑しか無かった。ギガンティウスとは異なり、これぞ巨大ヒマワリといった風貌の花が立ち並んでいる。タイタンだ。ただし見頃は終えており、開花しきって乾いていく管状花が重たく首を傾けていた。かろうじて色の残る舌状花も、錆び付いた橙色に朽ちている。

 正直、花は好きじゃない。虫が多いから。でもヒマワリは、もっと別の意味で怖いと思う。

 総じてうつむいたヒマワリの群は、亡霊の葬列とでも言えそうなほど異様な雰囲気を放っている。

 ヒマワリの撮影にきた観光客は、見頃の終わったタイタンの前を通り過ぎる。退廃的な魅力はあると思うが、時折熱心に撮影していく人の姿がポツポツあるばかりで、いずれは眩しく咲き誇る光のエリアへと流れていった。

 同じ方向へと足を踏み出すと「どこに行くの」と声が投げかけられた。もう一度振り返る。やはり、うなだれたタイタンだけが屹立している。顔の大きさ以上ある巨大な頭状花序がこちらを見ている。きめ細かな花の集合体が、総じてこちらを凝視しているような錯覚に陥る。

 ふと、全ての株がこちらを向いて枯れていることに気づいた。

 既に薄い太陽の光に負けてうなだれた陰の群が、こちらを見ているかのような。


「逃げるの?」


 逃げたくて逃げた訳じゃない。

 逃げないと、自分ではいられなくなってしまうだけで。


 こんな人間になりたくは無かった。ただそう思うのだ。




挿絵(By みてみん)



 

 意識の覚醒とすれ違うように、体が横に傾いた。

 態勢を突然立て直すと目立つため、わざとボールペンを床に落とし、それを拾うフリをして、傾いた体をそのまま折り曲げる。その間に、あくびをかみ殺して涙を薄めることを忘れない。

 どんなに飽き飽きしていても、真面目な顔をしていなくてはならないのが社会だ。うたた寝を誤魔化す技術ばかり向上する。今のは誤魔化せたか少し怪しいけれど。

 昨日みた夢が、日中もずっと追いかけてきて止まない。鳥肌の立つ腕を撫でた。夢のくせに、恐怖までリアルだ。

「それでは、キャリアアップに向けたライフスタイルについて、各自でグラフにしてもらったものを発表しましょう。前後左右で、四人くらいのグループを作ってください」

 手のひらの汗を吸ったコピー用紙が柔らかくふやけている。名前の記入忘れに気づき『佐久野 天生』と走り書いた。両親が大のゴッホファンであり、ゴッホの弟であるテオドルスが名付けの由来になっているが、漢字で書いたところで一度も正しく読まれたことが無い。無意識に、名前の上に(サクノ テオ)と仮名を振る。学生時代に染み着いた癖だ。それでも名前だけだと、どうしても男だと思われる点はどうしようもなかった。

 テオは周囲が緩慢にグループを作り始める動きに合わせて、パイプ椅子から立ち上がる。「お願いします」と笑顔を作り、背後で三人固まっていた集まりに無事合流した。全員年上だ。地方の中小企業の中堅向け社内セミナーというのは、大体こうか。

「若いのにここにいるなんて凄いね」

「女性の管理職を増やすって専務が言ってたからでしょ」

「次世代のリーダーかぁ。君ならできそうだね」

 それほど大きくない企業のため、他部署の人間でも顔くらいは分かる。ここは外せないだろうという、タイトル通り中堅の顔ぶれが揃っていて、その中で自分の存在は浮いていた。

「やめてください。上司に言われちゃったので参加するしか無くって。中堅なんてまだまだだし、リーダー張れるタイプでも無いですし」

 これは謙遜ではなく、本音だった。

 テオは出世に興味がない。女性参画について世間では議論が活発だが、テオ自身、社会で活躍することへの意欲をイマイチ見いだせずにいた。ニートになりたいとか、そういう思想ではなく、社会に属せていて生活できれば良い、という感覚だ。学生の頃からずっとキャリアアップというカタカナに嫌悪感があるのは、向上心の無さが裏目にでているからに違いない。修士の道を教授に勧められたが、学問に邁進する自分の想像が全くできずに卒業を選んだ。強い拘りもなく、当時はそれなりに必死だったが今思えば適当に、現在の就職先を得た。

 一方で、周囲がテオにある程度の期待を抱いていることは、テオ自身も察していた。

「そんなこと言わず……優秀なんだから」

 この言葉が苦手だった。周囲が自分のことを肯定的に見ていることは喜ばしい事なのだが、本気で自分が優秀であった記憶が無いのだ。レッテルを貼られている、とまでは言わない。それでも、優秀であれという一定のストレスを与えられているようで、誉められて浮き足立つというよりも、逆に踏ん張って地面に立っている気分になるというのが現実だった。

「優秀なんて、そんな。周りを見ていると、頑張らなくちゃなと思うことばかりですよ。ほんとに」

 こういう時の洒落た返し方を調べるべきだと、テオはいつも心の内で苦虫を噛み潰す。周囲の空気を乱したくないから、謙遜をモットーとしたお利口さんな返答をするのが常だ。人生において、比較的優秀な人間という立ち位置で扱われることが多かったのは、こういう態度のせいでもあるだろう。

「いやいや、ほんと頑張り屋だなぁ。もう十分だよ。コンピテンシーを受けろと言われる日も近いね」

 コンピテンシーとは、一般的には意味が違うのだが、社内では次期管理者候補が受ける研修をコンピテンシー研修と言う。対象になる社員の年齢は、テオの年齢より一回りか二周りは上だ。この研修を受ければ管理職になるというわけではないが、この研修を受けた社員から管理職が選ばれている為、昇進には必須条件であることは確かだった。

 上の世代の人たちは管理職に選ばれることを名誉と思うかも知れないが、やはりテオには出世欲が無いし、管理職なんて超ド級の面倒事というイメージしか無い。人間というのはナマモノであって、取り扱いには注意が必要だというのがテオの考えだった。管理職というものは、地雷原に突っ込むようなイメージでしかない。

 手に余る責任など負いたくない。高級品を買う趣味は無いし、そこまで浪費癖も無い。彼氏もいないし結婚して子供を生む予定もない。だから、お金はあればあるだけ良いと思うけれど、お金のために出世して管理職になりたいなんて思わない。生活ができれば良い。

「コンピテンシーになんか呼ばれないですよ」

 というか、やめて欲しい。

「いやいや、ご謙遜なさらず。ほらほら、ディスカッションのリーダーもよろしく。タイムキーパーはやるから」

 面倒事を押しつけてくる口実にもされるし。テオはうんざりだった。もちろん悪意ばかりで持ち上げている訳ではなく、本当にある一定の期待をしてくれていることは、有り難いことではあるはずなのだが。でもこうやって、少しずつ面倒事の押しつけが増えてきていて。

「ああ……じゃあ発表順、わたしが決めちゃいますからね」

 そして、押しつけられて終わる。御神輿を担ぐような陽気な依頼を頑固に断れば空気を悪くするだろうし、それなら引き受けてしまった方が早い。テオはそういう諦めで、全て飲み込み続けている。

 こういう人間になりたくは無かったと思う。

 自分は優秀な人間じゃない。それなのに、優秀のお面を被せられ続けている。息が苦しい。競争社会における等身大というものの、なんと難しいことか。

 今はなんとか対応できているが、それでもいつか、自分の実力が追いつかなくなる場面に直撃するだろう。そうしたら自分はどうなってしまうのだろうと、テオは優秀のお面の下で幾度も考えた。

 もちろん、答えは出ない。

 ふと、屹立したヒマワリの巨大な陰を思い出す。うなだれ、人々に振り返られない亡霊の群。

 怖い。本当に、そう思う。

 

 帰り道を辿る間に、太陽が落ちかけていた。住宅街が二ブロック程離れた場所に見える。今いるアパートは、住宅街から人気のない公園を挟んだ場所にある。電柱やポスト、やっているのかも分からない野菜の無人販売所があるばかりで、まるでこのアパートを避けているかのように、周囲に住宅は無かった。

 夏が過ぎつつあるのに飽和した湿度が、モルタル固めのアパートにぎっしりと詰まっていた。日は落ちているはずなのに、露出した肌の表面に刺す熱気をどこからか感じる。

 テオは背中に手を回す。服の上から指を押さえつけ、わずかに盛り上がった三日月の凹凸をなぞった。小学生の頃に大けがをしたらしく(残念ながら、テオは全く覚えていない)、白く肉が盛り上がって残っている。成熟瘢痕というらしい。暑いと、ここに汗がたまって、あとで痒くなるのが悩みだった。

 もうとっくに綴じているはずなのに、暑さで傷口が開いてきそうな、そんな妄想に駆られたりして。

 今となっては過去の話だが、小さい頃はこの傷口からいつか大出血するのではないかと、目を閉じる度に想像してしまい怖くなった。子供というのは、危機に対する想像力が逞しい。考えれば考えるほど泥沼にはまり、息がせり上がっていく感覚はまだ忘れていない。

 妄想の中で傷口が開くと、このまま平気な顔をして学校に行けるかどうかを考えた。ランドセルを背負い、服と皮膚の擦れる感覚を我慢して、先生におはようございますを言う。そこでテオは倒れる。先生はようやく傷口に気づく。でももう遅い。絵の具を垂れ流したような色をした血が広がっていって、テオは先生に「ようやく気付いたの? でももう手遅れだから、良いの、みんなさえ良ければ」と笑ってみせる。力無く階段を滑り落ちていく。点々と赤い飛沫をまき散らしながら。

 もう手遅れだから、ずっと落ちていけば良い。先生だけじゃない、クラスメイトの友達にも、上級生にも下級生にも、見せしめのように。

 落ちていきたいのだ。

(……馬鹿な妄想)

 実際には、傷口は開いたことが無い。こんなの、ただの妄想だ。一人で遊ぶことの好きだった幼少期は、頭の中の妄想が遊び相手だった。火遊びをしているような、そんな戯れにすぎない。

 偽物じみた赤色をした虚構はまだ脳裏に鮮やかに残っている。今年は異常気象と呼ばれる残暑で、懐かしい蜃気楼をコンクリートから立ち上る陽炎の中に見たに違いない。手のひらの内側が、ぬるく湿っていて気持ちが悪い。

 背中に熱線を浴びながら、すっかり火照ったアパートの扉の鍵を開ける。足下に落ちる黒々とした影が、全く知らない人の形を取っているようだ。


 影が、こちらを見上げた。


「え、」 


 全身に感じていた熱が、遙か彼方へ遠ざかった。

 影は立ち上がる……否、それは影では無かった。男だ。途端にテオの背を越して、覆い被さるくらいの背幅になる。

 ほんの一瞬、あの夢に見たヒマワリの朽ちた影と重なって。

 妄想しすぎて幻覚でも見ているのかと疑ってみたが、男が両肩を掴んできたところで、逃避できる現実では無くなった。

「俺のこと、分かるか?」

 テオは、両足の裏を地面にすり合わせた。乾いた唇を舐める。力で勝てないことはとっくに悟っていた。テオはそもそも、学生時代はずっと文化部だった。成績は上位の部類だったが、体育の実技の成績は良くなく、体力測定の順位は下から数えた方が早かった。

 男は、一回りは年上のように見えた。真っ黒の前髪から、不自然に目の下に皺の入った隈が見え隠れしている。大学時代、看護学部に所属していた実習中の友人が、同じような皺の入った隈を浮かべていたことを思い出した。

 男はくたびれた顔をしているように見えたが、その反面、体は筋肉の形が浮き出るほど鍛えられており、男が本気を出せば女の体一つくらいねじ切ってしまえるのではないかと思う程だった。口の左端から頬にかけて走る白い傷跡が、自分の背中にある色と同じであることが、妙に目に付いた。

 当然、こんな男に覚えは無い。そもそも、友人に異性はいない。年の離れた知り合いは、職場以外には無い。そもそも職場にだってこんな人はいなかったはずだ。

「すみません、ちょっと、思い出せなくって」

 言ってからテオは後悔した。こういう煮え切らない言動が相手をつけ上がらせる。キッパリ言ってやった方が良いのだろう。でもテオには、そういう切り捨てた言動が難しいことが多かった。

 ただ、予想に反し、男はあっさりと頷いた。諦めの滲む声で「そうだろうな、悪かった」と両手を脇に下ろす。

 強烈な西日が、夏の残り香を強烈に振りかざす。男が眩しそうに目を細めた。まるで遠くを見透かすように、テオの顔を容赦なく見つめた。テオにとって、背後から襲ってくる夕日よりも、男の視線の方が体に深く差し込まれるように感じた。

 男は正面から夕日を浴びているはずなのに、墨が落ちたように瞳ばかりが暗く沈んでいた。こちらを見ているのに、どこを見ているか分からない。そんな不安感が胸の内側で渦巻き、わだかまり、季節はずれの雪のように積もっていく。

「あの、どこかで?」

 沈黙に耐えかねると男は目線を動かさないまま「手術痕はあるだろ、お前」と呟く。

 手術をした記憶は無い。思い当たるとしたら、怪我をしたらしい背中の傷くらいで。これだけ大きな怪我なら、手術で縫うくらいはしただろう。手術痕というより、ただの怪我の痕に過ぎないが。

 無意識に腕を後ろに回すと、男は唇を歪ませた。口の端から走る傷跡も、同じ形に歪む。

「痛みは?」

「え? あの、全然……」

「そうか。体は大事無いンだな」

 一方的にテオのことを知っている様子に、本来なら薄ら寒い警戒を抱いているはずだった。感情の読めない視線から慈愛に似た穏やかさが伝わってこなければ、テオは間違いなく逃げるか、隣の部屋のインターフォンを鳴らして助けを呼んでいるところだった。

 男のことは、知らない。

 それなのに男は、何かを知っている。

 テオはそっと、自分の背中の傷をなぞった。

 過去は過去だ。知ったところで今は変わらない。だから特に詮索しようとなど思ったことは無かったが。

 男はテオの直上の部屋に住んでいるらしく、黒田と名乗った。

 やはり、黒田という名前に思い当たるところは無かった。

「佐久野です」

 名乗り返すと、黒田は「下は」と聞いてきた。そっちは名乗っていない癖に、とテオは唇を内側に巻いた。初対面で根ほり葉ほり聞かれるのは、そこまで気持ちの良いことではない。

「天国の天に、生きるって書きます」

 空中に書いてみせる。テオは物心ついた時から、この漢字の羅列を当然のように読んできた。それを、家族以外の誰もが不思議そうに見るから、この瞬間だけ、自分が他とは違う何か特別な存在になったような気分になる。

 元は、神を意味する言葉だ。


「テオ」


 果たして、黒田は正しく呼称した。そして無表情のままこちらに一歩踏みだし、背中に回したテオの腕を辿り、背中に触れる。

 大きな手だ。手のひら一つでテオの腰は十分支えられる。指ひとつひとつがカッチリしていて、爪は短い。肌が硬い。

 テオは、不思議な緊張感に縛られて、止まっていた。

 黒田は服越しでも分かるだろう大きな痕をすぐに見つけ、触っても痛くないだろうな、と今更なつぶやきをこぼす。さすがの黒田も、傷跡の大きさに気が引けたのだろう。ただそれは、実際に目にするとかなり痛々しいだけであり、自分にとっては体の凹凸の一つに過ぎない。こうやって他人に触らせたことは無かったが。ましてや異性に、知らない人に触らせていいわけが無い。

「テオ」

「…………」

 言葉に縛り付けられている、という非現実的な想像が頭を過ぎった。でも事実、テオは動けなかった。間近に迫った黒田が怖かったからではない。手のひらがおぞましかったからではない。

 なぜ、とテオは、黒田の腕を見つめながら、己に疑問を投げかけた。

 黒田の声は、聞いていて安心する。



Xアカウントにて、「TEO」MV公開中。(@1920kiritanpo)

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